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京都教育センター夏季研究集会 第6分科会

「京都市の『教育改革』から見える『未来の学校』」
市川 哲(京都教育センター)
 


 「教育改革が三年目を迎えた。『学力』や『学習指導要領』をめぐる議論のなか、学習指導要領が一部改正され、今次教育改革のねらいや取り組むべき内容が一層明確化されたが、それらは、移行期を含め、本市で取り組んできた内容と軌を一にするものである」。これは京都市教育委員会の『平成十六年度指導の重点』の文章である。国の進める「教育改革」に無批判に追随してきた市教委は「二期制の実施」、「養護学校再編」、「中高一貫校」などを「全国を牽引する取組」と誇示し、「教育改革」を先導してきたと自賛してやまない。

  『京都市の教育改革−市民とともに進める教育のまちづくり−』(京都市教育改革推進会議・市教委)は「確かな学力の育成と特色ある学校づくり:新学力向上アクションプラン、わかる授業の充実、カリキュラム開発支援センター、35 人学級、小中一貫教育、ニ学期制、学校裁量の拡大など」、「開かれた学校づくり−説明責任と参画−:自由参観・学校評議員、学校評価システム、地域学校協議会、学校だよりの地域回覧、全校でのホームページ開設、学校支援ボランティアなど」、「多彩な生涯学習活動の推進:みやこ子ども土曜塾、家庭の教育力向上サポート事業、学校ふれあいサロン、生涯学習コーディネーター、図書館の夜間・祝日開館など」と実に雑多な内容を掲げる。これらが学校と地域に雪崩のように入りこむ。現場の混乱と多忙化の最大の要因はこうした「教育改革」であることは間違いない。

 従来と異なる取り組みを行う場合、それに必要な人員配置や時間の配慮が求められる。しかし京都市の「教育改革」は教職員の絶対的な負担超過の下でこなされているところに特徴がある。02年の京都市教組調査によれば、1週間あたりの実労働時間は平均で58時間03分である。完全5日制が導入され、週あたりの労働時間が減少したにもかかわらず、00年の調査(57時間07分)よりも約1時間増加している。また、1週間の超勤時間の平均は18時間30分で、これは同じく2時間44分も増加し、1ヵ月あたりになおすと、超勤時間の平均は74時間である。

 
(1)「『教育改革』推進する京都市教育行政」

@ 国の「教育改革」の先導と徹底した管理体制
 教育長出身の市長が文科相の諮問機関である『これからの教育を語る懇談会』の委員に指名され、現教育長も中教審の委員になるほど京都市の教育行政は国から評価されている。他都市と比べようもないほど多数の「依頼退職者」を出し、「指導力不足教員」のレッテルを貼って辞めさせる手法がまかり通る教職員管理。授業時間数確保を理由にした「二学期制」も、昨年は導入しない理由を示すことを求めるなど強引なやり方で導入を迫り、03年60校だったのが今年は160校、次年度は全校実施の運びである。これは「学力重視」の補習実施と相まって実質的に夏休みを変質させ、短縮させることにつながっている。

A「選択と集中」:予算の中身は徹底的な格差教育

 
TT教員が5人おり、エレベーターや台車で給食を運ぶ御所南小は室内プール付きで市教委の宣伝塔の役割を果たしており、周辺のマンションの価格が上がるほどの「注目」を浴びている。しかし子ども達の多数が通塾しており、学力を塾で補う経済的な余裕のある層が選択する学校になっている。

  市長の母校である西京高校に中高一貫化のため99億円がかけられた。市内公立小学生一学年約1万2千人に対して西京高附属中学は120人である。1%の子どものための99億円である。これだけあれば新設養護学校を1校建設し、他の学校も改修ができる。小学校1年生の35人学級化に要したのは1億7千万円だが、全小学校の全学年を30人学級にしても31億円弱であり、60億円以上余る勘定である。

 
他にも西京高校「エンタープライジング科」や堀川高校、特色ある高校づくりに莫大な金をかける一方で、1校あたり300万円程度の学校予算が一律に削減され、プール使用期間の短縮や設置したクーラーを使わせない、等の影響が出ている。

B 全国一の「異常」さ

 『指導の重点』では時代錯誤の「同和教育」にすがりつき、また新しい「修身」である『心のノート』作成の中心人物、河合隼雄氏を天まで持ち上げる。真理と正義を愛する国民の育成を期して行われるべき教育の場で、非科学的な実践報告が取り上げられ(「道徳教育研究大会」03年)、講演者が「神武天皇以来、日本の国は2600年以上続いてきました」と述べる講演を市教委が後援する事態も生じている。

C京都市の「教育改革」とは

 今次の「教育改革」はグローバリゼーションのもとで多国籍化した企業が世界に伍して戦っていくための人材(一部のエリート)養成を、競争を新たに組織し、広く薄くではなく、狭く厚くした効率的な投資の下で行っていくことを目指している。それは「できん者はできんままで結構。戦後五〇年、落ちこぼれの底辺を上げることばかりに注いできた労力を、できる者を限りなく伸ばすことに振り向ける。限りなくできない非才・無才には、せめて実直な精神だけを養っておいてもらえばいい」(三浦朱門・元文化庁長官・文科省の教育課程審議会前会長)とする意見に端的に表れている。京都市の「教育改革」はこうした路線にずっぷりとはまり込み、その先導の役割さえしている。「できる者を限りなく伸ばすこと」に、また「非才・無才には、せめて実直な精神だけを養」わせるために教職員自身が「身を粉にして」働かされているのが実態である。


(2)「京都市立高校の『教育改革』と市高教組の取り組み」

@ 京都市高とは

 京都市立高校は全12校、生徒数7千人、教職員数750名からなる学校群である。全日制が9校(普通科3校、工業科2校、芸術の専門学科2校、進学に特化された学科2校)、定時制が3校(普通科1校、工業科2校)ある。全日制の内4校は戦後の誕生である。

A京都市高の概史

 戦前の中等教育制度において府市の間に役割分担があり、旧制中学は府が、実業学校は市が、女学校は府市ともに設置していた。48年に新制高校が発足し、「高校三原則」のもとで、例えば今日は工業科単独校である伏見高校や洛陽高校も普通科を含む複数学科をもつ学校として再編された。

  しかし63年には市教委により「高校三原則」のうちの「総合制」つぶしが行われ、上記2校を工業高校に、また西京商業高校として単独校化し、同時に普通科単独校として塔南高校が新設された。79年には現場や組合との検討委員会を経て堀川専修夜間部が本校と統合され、80年には堀川高校の音楽科のみが移転、日吉ヶ丘高美術科が銅駝美術工芸高校として独立した。単独校化の第二の時期といえる。

 
85年には府と踵を合わせ「高校三原則」つぶしが行われ、普通科に類型制を置き、4〜5校を通学圏に設定するとともに、日吉ヶ丘、堀川、塔南にT・U類、紫野にT・U・V類が置かれた。

A90年代の市高の教育改革

 90年には現場も入る「工業教育調査検討委員会」の議論を経て、洛陽と伏見で学科が再編された。またこれら2校と西京(商業)、銅駝(美術工芸)で推薦入試が導入された。91年には紫野で「2期制」が導入され、93年にはV類体育系が英文系へと進学コース化された。95年には日吉ヶ丘で英語系が新設され、97年には再度、洛陽と伏見で学科改編が行われた。97年には音楽高校が単独校化し、97年には生徒や親、府民の願いを踏みにじって堀川定時制が募集停止された(府立高校でも山城、洛北の定時制の募集停止が強行される)。洛陽定時制では工業化学科を廃止してコンピューター科を、伏見定時制では都市建設科に再編統合(98年)が行われた。堀川では新校舎が改築され、「市立高校21世紀構想検討委員会」の答申に基づき、新学科(「探究科」)を設置(99年)している。

B西京高校の教育改革

 西京では商業教育を廃止し、校舎改築と合わせて03年に全日制に専門学科として「エンタープライジング科」が新設された。定時制でも商業科が廃止され、2コースからなる普通科に再編されるとともに、3年卒業制が導入された。04年には府立洛北高校附属中学校とならんで同時に附属中学校が新設されている。これはもともと05年度発足の計画だったが、府教委との競合の結果、同時開設に踏み切ったものであり、内部の議論はもちろん、諸準備も不十分な中での見切り発車である。

C「教育改革」に対しての市高教組の取り組み

 90年代後半以降、基本的には国の進める枠組みの中で矢継ぎ早に展開する「教育改革」に対して、学校現場の自主性と民主的運営を守る取り組みに力を注いできた。その背景には80年代の2つの闘いが前提にある。

(@)高校三原則を守る闘いと教育課程の自主編成の取り組み:a)高校三原則を守る校内と地域での取り組み(全校の職員会議で類型制反対の職員会議決議と地域での教育運動に取り組む)。b)類型制に基づく教育課程の自主編成の取り組み(類型制の導入により現場には一方的なカリキュラム=類型ごとの差が大きく、選択幅が狭いカリキュラムが押しつけられた。しかし、その後数年がかりでねばり強く取り組み、現場の教育課程編成権を回復した)。

(A)任命主任制反対、管理運営規則に反対する闘い:80年に任命主任制が導入されたが従来の民主的な選出方法が守られた。87年末の管理運営規則強行後の校長を通じた攻撃に対しては学校の民主的運営を守り抜くという方針を掲げて闘い、教職員の合意形成をもとにした民主的な学校運営を守った。

D今後の取り組み

 職員会議での議論を、子ども達をどのように成長させていくのかという長期的な展望に立つ民主教育の論理に沿ったものに深化させていく必要がある。子どもの権利条約に基づいて生徒の意見をどのように学校運営と教育活動に反映させていくのか、そして父母との連帯をどう創っていくのかが大きな課題である。さらには常態化し、際限なく拡大している超過勤務を解消することが強く求められている。


(3)中教審答申『今後の学校の管理運営の在り方について』と御所南小学校

@学校の「ほころび」?

 「イジメ」や「不登校」、「学級崩壊」、「少年犯罪」、果ては「問題教師」に至るまで、ありとあらゆるものが学校と学校教育の「ほころび」として連日、マスコミをにぎわす。学校教育不信と教師バッシングは、思い起こせば憲法と教育基本法の改悪に執念を燃やす中曽根首相の下で設けられた「臨時教育審議会」(84年)以来、営々と続けられてきたものである。それが功を奏したのか、学校と学校教育を変えなければならない(そのことは正しい)が改革にあたって学校と教職員は信頼できない、ということがほぼ国民の「常識」になってしまったようだ。

  しかしこうした「常識」は権力とマスコミが作ったものであり、センセーショナルな少数の事件に目を引き付けられて、その他の、時には基底をなす多くの事実を無視、ないしは軽視してはならない。例えば、佐藤学は、イジメによる自殺を決して軽視するべきではないが、それは子ども達の自殺の1%程度であり、その大々的な報道の裏側で青少年を自殺に追い込んでいる苦悩の99%が無視されている、と警句を発する(『「学び」から逃走する子ども達』岩波ブックレット)。

Aイメージが先行する「教育改革」

 佐藤は「不登校」や「学級崩壊」等についても同様だとする。そうであれば重篤な状況で機能不全に陥っているかのように描かれる学校(教育)そのものも、本当にそうなのか、どこが問題なのか、どこをどうすればよいのか、などなど改めて捉え直す必要があろう。しかし規制緩和と「愛国心」を強調する新自由主義と国家主義による「教育改革」は「機能不全」の学校を建て直す救世主の如く振る舞い、ムードのように社会に蔓延し、親や住民の「期待」もある程度集めている。

 改革にあたっては従来の何が問題なのかをリアルに分析することが少なくとも必要だが、文部省・文部科学省に間違いはないとする「改革」は結局、現実をリアルにとらえる前提を欠くために正しい方向や内容を示せず、ムードや言葉で「改革」を煽り、推進しようとする。今年3月の中教審答申『今後の学校の管理運営の在り方について』にもこのことは当てはまる。

  「社会の中で人が幸福に生きていく上で、教育は不可欠のものである。我々を取り巻く万物は、自然から与えられるもの以外は、人類の歴史の中で、教育の営みを媒介として生み出されてきたものである。また、教育は、我々に、自然との調和を図り、また自らを制御する知恵を与えるとともに、争いを排して平和を生み出す力の源泉ともなる。教育の中核ともいうべき学校教育は、一人一人の生涯にとってかけがえのないものであり、また、我が国社会にとってもその存立基盤というべき重要性を持っている」。これは答申の「はじめに」にある文章である。高邁な理想や哲学に依拠したかのような言辞は読む人を驚かせ、「思考停止」に陥れる効果を期待し、現実をふまえない改革をカモフラージュする(煙に巻く)ための手法であろうか。教育が「争いを排して平和を生み出す力の源泉」であるというならば、何故、平和主義の理想の実現を教育に託した憲法、および憲法と不離一体の教育基本法を、いま変えようとするのか?

 
答申は、その上で「公教育の基本原則である公共性、継続性、安定性の確保や、公立学校における教育としての公平性、中立性の確保を前提としつつ、近年の改革の流れを加速し、各学校が、国民の期待に応えて、地域の創意工夫を生かしつつ、自主的・自発的な取組を進め、その担うべき役割を十分に果たすことができるよう、学校の管理運営の在り方をより柔軟で弾力的なものとするためにはどのような改革が必要かという視点から検討を行」い、「様々な学校の運営形態」を考察する。

 
第一は、「構造改革特別区域における株式会社立またはNPO法人立学校」であり、第二は「構造改革特別区域における包括的委託学校」、第三は「地域運営学校」であり、これらの構想の基底に流れるのは構造改革が求める「規制緩和」である。なお第二のものは一般行政サービス領域で導入が図られている「指定者管理制度」である。学校の管理権限や管理責任を含めて「指定管理者」(株式会社も可)に委託するもので、図書館や資料館・博物館等の社会教育施設の管理に導入される可能性があり、学校教育の場合も学校教育法第5条の「設置者管理主義」を外せば可能である。

B「地域運営学校」のモデルケースとしての御所南小学校

 「地域運営学校」は公立学校の中に地域代表や保護者らから構成される「学校運営協議会」を設置することにより、地域が権限と責任を持って、学校運営に参画する公立学校、とされている。校長と保護者や地域住民等からなる学校運営協議会は教育委員会が委嘱するが、同協議会は校長候補者の選定にあたって関与し、保護者や地域住民等に方針表明・説明責任をもつ。保護者や地域住民等は同協議会に参画し、意見を集約し、要望を出す。また協議会は学校(校長や教職員)の基本方針の承認等を行い、また学校にニーズを反映したり、学校を点検・評価する役割も担う。

 こうした「地域運営学校」を先取りする形で御所南小学校は02年度より文科省の「新しいタイプの学校運営の在り方に関する実践研究」指定(3年間)を受けている。同小HP上の03年度の『御所南だより』によると、「学びコミュニティ」「町づくりコミュニティ」「福祉コミュニティ」等12の「コミュニティ」からなる「御所南コミュニティ」(03年度は58名の委員)が立ち上げられた。詳しく見る余裕はないが、それぞれの「コミュニティ」が土曜日や日曜日に子どもと一緒に地域に出て取り組みをしたり、時には地域団体とともに活動し、平日に著名人やスポーツ選手を学校に招いて授業させたりしている。

 
圧巻は7月から8月にかけてである。二期制をひく同校では遅く始まった夏休みの7月末からお盆休み前の8月8日までの「夏休み」のほぼすべてがクラブ活動と「コミュニティ」の活動で埋まる状況である。参加する子どもらも大変だが、親や地域住民が係わる取り組み故に参加せざるを得ない教職員は、ゆっくり研修時間をとったり、身体を休めたりできない状況にあることは想像に難くない。

 
 04年1月に市教組組合員9名が、京都市を相手に超過勤務を放置してきたことに対する慰謝料と超過勤務手当の支払いを求めて、京都地裁に提訴した。その背景には「過労死」が多くの教職員にとって他人事ではなくなっているという事実がある。教職員の犠牲の上に「一将功なり万骨枯る」「教育改革」が進行しているのが京都市の「教育改革」であるといえよう。教職員評価に目標管理の手法と「成果主義」が持ち込まれようとしている。学校現場で目標管理と「成果主義」が常態化する時、教職員の労働時間や健康を省みずに「成果」を追求する管理職が続出するのではないかと恐れは杞憂であろうか。

 
 本稿は、得丸浩一(京都市教職員組合)、秋山吉則(市高教組)、市川哲、がそれぞれ報告した「『教育改革』推進する京都市教育行政」、「京都市立高校の『教育改革』と市高教組の取り組み」、「中教審答申『今後の学校の管理運営の在り方について』と御所南小学校」をもとに市川がまとめた。

 
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