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京都教育センター第35回夏季研究集会
第2分科会(生活指導研究会)概要
2004年8月29日(日)午前10時30分〜午後4時
場所 京都教育文化センター 204号室
司会:築山 崇(京都府立大学)
記録:浅井定雄(京都教育センター)
テーマ
「生活指導における自己と他者の問題」パート2
T.学習討議 自己認識・他者認識の問題を考える
U.「子どもたちの今」が求める生活指導実践を問う
1.自治的・文化的活動による「荒れ」の克服(小学校高学年の実践から)
2.生活指導実践(研究)の今日的課題(総括討議)
 
日程
午前(10:30〜12:30)
T.学習討議 自己認識・他者認識の問題を考える
(報告提案:生活指導研 築山 崇)
1.昨年度分科会の概要
2.生活指導研究会2004春合宿の議論から(出版構想を踏まえて)
3.生活指導実践の全国的動向について(2003年度全国教研生活指導分科会から)
4.関心を集める「コミュニケーション能力」と自他認識の問題
 
午後(13:30〜16:00)
U.「子どもたちの今」が求める生活指導実践を問う
1.自治的・文化的活動による「荒れ」の克服(小学校高学年の実践から)
 
高学年の荒れを克服する取り組み−−児童会行事等を通して−−
実践報告 京都市立小学校 A教諭
(2003年度京都教研レポートをもとに)
 
2.生活指導実践(研究)の今日的課題(総括討議)


討論の概要
 
(1)自己認識・他者認識の問題を考える(築山報告)レジメ参照
1.昨年度分科会の概要
  1 学習・討論
  2 ミニシンポジウム
2.生活指導研究会2004春合宿の議論から
3.生活指導実践の全国的動向について
4.関心を集める「コミュニケーション能力」と自他認識の問題

 
(2)築山報告を受けての討論の概要

 
○寄り添うということと自立を促すということの両立が難しい。果たして子どもがこれで成長するのか、「こうすべきだ」と言ったほうが早いのか、悩みもある。自分の意図は、子どもが自分で課題を気づいて乗り越えてほしい。実践的には、「聞く」ということであり、書かせて、それを(クラス)新聞に書く。フランクにつきあっていきたい。現在起こっていることから歴史を振り返ると、それはまた生き方にも繋がっている。またいろいろ聞きに行って、他人の生き方を学ぶ中から、自分の生き方を考えると言うこともしたい。

○朝の読書運動は、ともかく本を読ませようと言うことで全国的に実践させようと言うこともある。読書運動は2つの流れがあり、一つは「ともかく本を読ませたい」というのと、一つは生活指導的に「落ち着かせたい」というところから、やっているものもある。学力やさまざまな背景によって効果があるかどうかも分かれる。自分は、子どもと話をする時間として活用している。

○朝の読書運動にはいくつかの「約束」がある。読書運動にはTPOの生かし方で教育効果は大きく異なる。K先生の実践としての生徒とのコミュニケーションの場などとして捉えなければならない。また「寄り添う」については、二人三脚的な「添う」ではなく、一定の距離を置き、対話しつつ見守っていくという「沿う」ではないのか。

○午後の議論にもふれて北海道のR高校の実践の報告があったが、教職員組織がきわめて自治的であった。そういった努力をしなければ、本当の意味で実践から学ぶということができないのではないか。またR高校を支えているのは地域であって、地域の教育力からまなぶということが大切である。大事な点は、教職員が完全な自治的組織であると言う点で、もう一つは地域の教育力、もう一つは、10月に教育基本法の連続学習会のなかで世界の宗教教育を調べているが、ドイツの小学校「倫理科」があり最初のカリキュラムでは、「私は私」と書いている。そういう自己認識を教えている。日本では先に集団があって、その中の一員として教えている。自己認識と他者認識という場合、「私は私」というところから始めないで、「集団があっての自分」という形で良いのか。「関係性」という場合、生徒の自立を前提としているかどうか、そこも明らかにしたい点である。

○教育基本法の男女平等教育に関して、今改悪の矛先が向けられているが、H先生の実践に関して、さっき「化粧する女子高校生とか・・・」私もそこらで見るが、しかし女性として将来子育てにも関わらなければならない、小学校高学年でも荒れている学校ほど、男女差別や女性蔑視がひどいが、高校でもそういう悩みを抱えている生徒への関わりはどうなのか?


○中学校の先生と交流する機会が多いが、先生の話では「この地域の女生徒の特徴として、自立した女性としての気持ちが弱いから、生き方についても自立した生き方を指向するようにはなっていない」と言われて驚いた。女生徒としても「当面なんとかできたらいい」というような生き方であって、就職指導でも心配だなあというのはある。高校ではむしろ女子が元気で、男子に元気がない。性の問題については強い関心を持っている。「さらば悲しみの性」という本を1時間集中して学ぶ。関心があり、食いつきが良い。

 
 
(3)高学年の荒れを克服する取り組み−−児童会行事等を通して−−

実践報告 京都市立小学校 A教諭(現6年担任)
(2003年度京都教研レポートをもとに実践報告された)
 
■高学年のすさまじい荒れ
■子どもに寄り添う指導−−担任も変わる−−
■値打ちのある行事に取り組ませる
■再生への道−−5年生の子どもたちと−−
■代表委員会ー変化の兆し−−
■新しい歴史を刻む−−「最強の6年」を合い言葉に−−
■最期に


 
(4)A先生の報告を受けての討論概要

 
○通常は荒れの克服と行事の取り組みは別に語られる事が多いが、A先生の実践は荒れの克服の中に児童会行事がきちんと位置づけられていて感銘深い。

○京都市の周辺地域には、伝統的に荒れがある所もある。家庭環境が大きい。荒れた時期に学校にいった。自分の指導の一貫性がなかったことが大きい。シャーペンなど、あいまいな対応があった。他の先生との(指導の)違いもあった。今もしんどい子を持っている。正直、親に対してはあきらめている。親は変えようがない。子どもを変えていく。

○5年、6年担任とよく話し合いをした。もう一人しっかりとした人がいる。危機意識があるが、すぐ先生が動いてくれる。対応できる、結束しなかったらやれない。荒れたら教師も結束する。

○中学校教師、できない子はいろいろなことができない。中学にいっても「荒れる」か「逃げる」しかできない。「やったらできる」という体験をしていない。どこかで「やればできる」という経験をつくりたい。**君、親は懇談を拒否、どちみち悪いことを言われる。漢字徹底してやっていくうちに、漢字やったらできる。100点とったら、ほめられる。辞書も引けるようになってきた。

○子どもの荒れを、「育ちのゆがみ」と「育ちそびれ」の二つの側面として捉えて良いか。

○「荒れ」の裏側にある子どもの心をどう読み解いていくのか。また子ども同士の関係性、子どもの社会づくりの力の形成はどのようになされるのか、コミュニケーション能力と自己認識・他者認識との関係についても深めたい。

○A先生の実践の初期の頃と、後半の頃では教育情勢の変化があると思う。左側は、学習指導要領の移行時期にあたる。右側は、完全実施の時代である。管理の強化が強まった時期である。そうした背景の中での実践であることも理解しなければならない。

○高校教師、高校で荒れたこともあったが、荒れ方の中味が小学校と同じだなと思った。いじめが始まる、すぐに切れる、・・・・学校は「とりあえず生徒と話そう」ということで面談した。不思議と面談すると、案外、自然に来てくれて話ができて、そういった所から話ができてきた。まず彼らの思いを受容する、思いに寄り添うということが大切。同時に「居場所」をどうつくってやるのか。そのときに、クラス集団の持っている、文化・というものが問われて、「これでやれるのだな・・・」という思い。文化の中で、子ども同士の関係性も作れるのではないか。

○小学校教師、児童会行事を自分たちでつくっていく力・・・良いものを経験する積み重ねの中で「見方」が変わってきていく。文化の質が問われる。しかし5日制度になってきたら、そういう時間もなくなってしまっている。私は太鼓をたたいた経験の中で、「すばらしいものができるんだ」という見方を育てていくことができた。平和教育がまだされているという実践が大きい。

 
文化の「質」、成功の「経験」

 
○文化という面で言えば、小学校低学年で「プリント回して」と言うと、プリントを持ってくるくると回したり、「ゴミ箱捨ててきて」というとゴミ箱自身を捨てようとしたり、「きりつ(起立)・れい(礼)・ちゃくりく(着陸)」と言ったり、コミュニケーションで意味そのものが通じないと言うこともある。広島の修学旅行は実践として値打ちがある。子どもたちもレポートをたくさん書いてくれた。大事にしたいが、管理職は「予算の関係」として広島への修学旅行を打ち切ろうとしてきている。今回も「ギリギリ」で取り組んでいる。

○子どもはたしかに変化している、しかも早いサイクルで。全国教研で「教師の先走り」「指導に従順な子ども」・・・という姿がでているが、子どもがそういう姿になってきているために、子どもとの衝突が起こりにくくなってきているために、・・・子どもが本当に求めるものに応える実践になっているかどうかは、検討する必要がある。

○今の子どもの「おとなしい姿」というのは、ほかでも言える。教師とのコミュニケーションがなくなってきているのではないか。かえって「管理主義的」になってきていて怖い面もある。

○学校の教育実践の中だけでは子どもたちの思いを背負い切れていない面もある。違う面で言うと、荒れている子どもたちを要求主体として見ると、「率直だなあ」とも思った。そんな子どもたちから「先生がんばって」という言葉が、早く言ってもらって良かった。辞めていく教師たちは子どもからこうした言葉をもらえなかった。子どもからこの言葉をもらえなかった教師はつぶれていく。この側面は、今もそうであると言える。

○ただ、教師が子どもたちを勇気づける言葉が、ハイスピードで高度になってきている。教師の要求が、子どもが受け入れるスピードには、ある意味では「かけ」に出たと言える。子ども自身にとっても新鮮なのではないか。「やればできる」、という自信を、教師と子どもとが共有できたのではないか。その後から、{・・・一番になろう}という教師らしさがでてきている。同時に{基本的なことはゆずらない}という姿勢が安定し、安心感が生まれて、そのことによって、子どもが「自分を守る」という所から、周りの子どもたちへの関心や目を開いていくことができてきている。そこに教師の鼓舞などが入ってきている。・・・しかし、これこそが一番の「危うさ」を感じるところである。危うさと紙一重のすばらしさである。

○今の子どもたちは「おとなしい」のか。そうではなくて「傷つける」とか「傷つけられる」という場合の言葉遣いの使い分けがわからないまま使っていて、それが普通になっていて、ある時それに気づいたとき、子どもたちは爆発するのはないか。相手に「その言葉はなあ・・(人を傷つけているんやで)」ということが通じないというようになってきているのではないか。

○小学校教師。先生が競わされているなあ、と思う。大文字駅伝というのがあるが、朝練習7時半から、放課後も練習して、あれで本来の仕事ができるのかと思う。その中で、5年で荒れて、6年で担任が変わって、持ち直したという(実践)があったが、そうでなく(A先生は)持ち上がりの実践だというので良かった。また、小学校はある意味では、掃除や給食など、子どもが従順でないとやっていけない部分があるので、仕方がない面もある。荒れる学年とそうでない学年がある。昨年6年が荒れたが、全体におとなしい中で突出した子どもが出たときは、大変しんどい。全体に活発な中で突出した子どもが出てもやっていけるのだが・・・・。

 
●まとめ

 
○H先生・A先生などのすばらしい実践を議論する中で、

1 子どもたちの置かれている状況の中で、子どもの思いや課題をを明らかにしていく

2 文化的取り組みなど経験を通して、創造的に何かを創り出す、目標が明確で、成果が見えて、評価もされる、そういった取り組み

3 今の日本全体が向いている方向の中で、日本の不気味な姿がある。巧妙な管理社会・競争社会・排他的、抑圧的・競争の下位に置かれる人たちに対する排他的・抑圧的な動き、その中に子どもたちが置かれている。

4そんな中でも、子どもたちが育っていく、そのための経験や活動は何か。また結果的なゆがみや育ち切れていない面、子どもたちが背負われている課題、そのあたりももう少し理論的にも詰めていかなければならない。

 今後、研究会10月に今回のまとめをしたい。また冊子の発行にも取り組んでいく。
 
 
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