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京都教育センター第36回夏季研究集会
               第一分科会 記録(要旨)

人間発達の源泉としての学校と社会の現代を問う

−−思春期の発達課題と環境の視点から−−

                 (2005年8月28日(日)於:京都教育文化センターにて)

 ここに掲載した記録は、2005年8月27・28日に開催された「京都教育センター第36回夏季研究集会」の中で行われた分科会・分散会の内容を当日の記録にもとづいて京都教育センター事務局の責任でその要旨を編集したものです。文責は、京都教育センター事務局にあります。
 

◆◆ 思春期の子どもの発達上の現代的困難や可能性について、子どもたちがおかれている学校・地域社会という「環境」の視点から、実践・実態報告にもとづいて議論した。 ◆◆


 はじめに司会者から「思春期を取り巻く現代の発達上の課題を探りたい。」として話があり、発達問題研究会事務局から基調報告がありました。

(1) 基調報告

 ここ5年間の発達研究会夏季研での討議ををもとに今日の分科会テーマがある。子どもをめぐる「環境」について、たとえば「少年事件」「小学校のセキュリティ」などについても議論をしてきた。最近でも少年事件はなくならない。14才から19才の「犯罪率」かなり上昇しているのがわかる。成人より何倍も犯罪を犯している。この背景には、「モラトリアム心理の変化」や「無職者比率の増大」などがある。

 プレ企画を踏まえて、今回のテーマを設定している。1つは、学校で事件が起きているし、今までなかったような事件が起きている。そして、傷つける・傷つけられるという関係の中で子どもたちが過ごしている状況がある。また地域の中でも、傷つけ、傷つけられる関係の中で生きている。

 対策として、「学校のセキュリティの強化」「登下校時の監視」などが行われているが、「つねに大人の監視の中で」というのが良いのかどうか。子どもの発達環境が守られるのか。反面、そうでなかったら子どもの安全が守られるのか、と言う問題がある。その加害者は「大人」である場合が多いが、その「大人」がどのような筋道を通って成長してきたのか、という検討課題もある。今日の一日、充実した分科会にしてほしい。

 続いて、府下の市立中学校の先生から レポート報告がありました。


(2)府下の市立中学校の先生から レポート報告

 A中学は僻地を含むマンモス校で、保護者はさまざまだが、教育熱心である。中学1年を担任している。子どもたちの一部は、授業妨害とエスケープ、たえまない不規則発言、たち歩き。注意すると「俺ばっかり」とむくれる。また、そうじをまったくしない生徒もいる。

 課題を抱えた三人の男子生徒について報告する。(略)

 1学期の取り組みは、学級通信の発行(1〜40号)や、学級での生徒たちへの語り込みとリーダー育成、学級懇談会の開催(2回)と個別懇談会(「3人集まれば行きますよ。」と言って3回実施)をしてきた。

 三人の男子の悩みと学級の生徒たちの思いをどう受け止めるか。彼らはつながることが可能なのか。1年生の教職員集団として事態を分析して方針を出している。A君、B君、C君がこれからどうなっていくか、学年の課題。「勉強がわかりたい」と思っているのではないか。

 小学校では「100マス計算」をしてきたが、しかし中学校でやってみて「意味あるのかな」と思った。中学生は「引き算」でつまづくことがわかった。「マイナス」ということへの理解が必要だった。自分自身が小学校で受けてきた「量の概念」の形成が大切。100マス計算のように機械的に繰り返すことが本当に大切なのか。また、少人数授業は混合グループなので、お互いの高まりがない。これなら「TT授業」の方が良かった。


(2)講演 関谷健先生(発達問題研究会) 子どもの歯車と合う教科教育への改革
−−生態的学年を組み替える中での自己評価を基礎に−−


 遊びが発達の基礎であることを理論づけたい。小学校2年生の終わりから卒業まで年二回の追跡調査をして「子どもの自然についての考え方」についてまとめた。「子どもが主人公の教育を」と言いながら、子ども研究は行われたのか。そして、子どもが判らなくなった。社会的には、小・中・高校の「いじめ」や「学級崩壊」・・・・そして初めての子どもの人間関係の研究や対策にある程度の成果が見られる。学校では授業時間や学習内容の削減が進み、子どもには学習意欲の低下や学習時間の減少が見られる。ここでは、自然の理解の仕方の研究から子どもの知識の実態を明らかにし、科学の知識との間のズレを考慮に入れた、判りやすい教育への改革を展望する。

 子どもの「自然好き」はなぜなのか、それはヒトが進化の過程で環境との関係で獲得した能力と考えられる。伝統的な子ども観は、子どもを「受動的で有能でない」存在とみなしていたが、新たな構成主義の子ども観では「モノやヒトを媒介として子ども自身が意味と関係を構成していく」存在とみている。私の力学的な問題での子どもの調査によれば、9歳から10歳にかけての子どもたちは、多彩な意味の「力」を感じている。また8歳から12歳の児童期全期を通じては、身体の世界から大地と重力の世界へと生態的力概念の発達が見られる。また、11歳から12歳には、構造物に対する工学的知識が加わる。「子どもの力学」と「科学の力学」の基本的相違性については「子どもの力学」が、生物としてのヒトの子どもたちが、進化の過程で獲得した能力を基礎に、物的環境との関わりの意味として構成した知識であり、心身一元的で実用的な知識として個別・生態的に形成した、ヒト・サイズ(km〜mm単位)の世界の力学であるのに対し、「科学の力学」は、生物としての感覚的性質をすべて排除、即ち心の世界と分離し、心身二元論的で抽象的に構成されてきた。また、実験、研究を通じて組織的に抽象化・法則化され、ミクロからマクロの世界の力学を広く包含する体系を持っている。この子どもの力学における生態的概念と学習成績との間にはかなりの相関があると言え、特に青年期に入ってから影響を発揮している。

 それではなぜ「勉強嫌い」といった「学びからの逃走」が進んでいるのか。今日のヒトの知識は「概念的知識」「手続的知識」「メタ認知的知識」の3種類の知識からできているとされている。しかし、自然の事物と遊ばない→自然を知らない→テストでは暗記→面白くない。教育内容・方法の官僚統制と受験競争→児童後期からの教育圧力→仲間・自然と交わらない→自分がわからない→なぜ学ぶのかわからない。この二つと共に「教科学習での具体による概念教育の軽視・「科学」の押しつけ」→「わかり難い」というものを生み出しているのではないか。進化の過程で構成した生態的知識と、それを排除した科学的知識との距離がある中で、学習の中での子ども自身の組み替えを通して科学概念を形成し、自己評価(メタ認知)を発達させる必要がある。


(3)府下の公立高校の先生から レポート報告
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思春期の子どもを取り巻く状況と発達課題 −−最近の高校生の学校生活−−

 公立高校の実態については、高校三原則がなくなり、高校入試制度が2年前から普通科総合選抜方式をやめたためB高校に回し合格者が多数出るようになった。推薦枠で定員の7割をとってしまうから、推薦入試は非常にたくさん受けにくる。

 入学当初から問題が起こる。どこからくる子であってもしんどい子が多い。生徒指導は大変厳しいし、また難しい。

 授業の様子は、ノート・教科書を持ってこない、テストの時であってもシャーペン1本しか持ってこない。机の上を片付けて、授業を受けられる体制にするのに5〜10分はかかってしまう。具体的数字で説明していかないといけない(例:二次関数の数式=文字ばかりでなく具体的数字を当てはめて説明すると食いついてくる)、プリント中心の授業になる。三平方の定理でも、ピンとくる子でないとルート(√)はわからない。また、私語が多い=わからなかったら聞いたらいい・しゃべっていい授業にしている(授業と関係のない話については注意する)。机間巡視が授業時間の3分の2になる。「友達の方が教師に聞くよりも聞きやすい」という声もあり、教える側は理解が深まっていい。

 クラブ活動の様子は、クラブ活動がどれくらいかを学校選びの基準にする子が多い中で、大体18時過ぎまでは活動するため、電車・バスなどを使って1時間ほどかけて通学する子にとっては大変だ。クラブに入らない子が多い(特に専門学科に在籍する生徒)。すると、暇で仕方がない、帰宅するには早いという理由でクラスの仲の良い子と一緒に中庭でサッカーボールを蹴る・キャッチボールなどをするが、運動するべきでない場所(廊下・中庭など)で行うことで追い出されるということになる。体を動かしたいが、体育館・グランドでは必ず人(正式なクラブ活動をしている人)がいてできないという状況になっている。

 友だち関係の様子は、女子に多いが問題が起こった時に集団エスケープをするとかがある。集まって一緒に悩んだかたちにしないとグループの中でういてしまうからというのが理由である。


(4)府下の市立小学校の先生から レポート報告−− 思春期の入り口に立つ子どもたちと「何を学び合い」「どうわかりあう」か…−−

 「子どもの実態をどうとらえるのか」ということと「学校現場の状況をどうとらえるのか」ということの2つを絶えず意識している。職場の仲間が基本だが、組合の仲間・一緒にサークルをしている仲間と話し合い、深め合うことを1回だけでなく、続けていくことが大切だと思っている。

 しかし、話し合い・深め合いを続けていくと忙しくなって疲れてくるという面もあるが、これだけいろいろな意味で大変な状況(子どもをめぐる状況・教育改革という点のいうかたちで現場に下ろされてこようとしている状況など)があればあるほど、エネルギーを出していくためにはそれをやらないことにはなかなか向き合っていくことができないと思っている。

 子どもの実態をどうとらえるかについて言えば、現代のメディア社会の影響を受けながらも育つ子どもたちの姿がある。5年生・社会科で『情報』を扱う単元では、テレビ局・新聞社などの仕事について教科書に書かれているがそれだけではおもしろくないので、アニメの『クレヨンしんちゃん』(=子どもたちの心をつかんでいるため、高学年であっても結構見ている子どもが多い感じがあった)を用いた。

  『視聴調べ』=1週間の番組表を印刷して@子ども自身に自分が見る予定の番組を枠で囲わせる、A実際に見れば色を塗らせる、B見た番組に対する一言感想を書かせる、に取り組んで、番組の間に放映されているCMに注目させて、『どういう商品の』『どんなCMだったのか』という点を調べさせる→例:教師側が意図的に準備して、『クレヨンしんちゃん』という30分のテレビ番組(アニメ)中にCMは大きく時間を充てられている=始め・真ん中・後(30分番組であったら機能的に3つぐらいに分けられている)。そして、これらに基づきテレビ(番組の中身そのもの・CM)は、意図的に見ている視聴者に対して流されていることを授業で取り上げ学習を深めていった。実践を通して、子どもたちのメディアリテラシーを育てていくことは思春期に入る小学校高学年には大切だと思っている。雑誌・パソコン・テレビなどを含めたのマスメディアから受ける影響をどう見るのか?子どもたちを見ていて大切に考えていかなければならないのではないか。

 学力と学習意欲の面については、「教育産業」の荒波の中を「泳ぐ子どもたち」と「泳げない子どもたち」がいる。卒業させた36人クラスの卒業生のうち10人が私立中学校(国立も含む)へ進学し、市立中学校に進学していない。その子どもたちは、毎日のように21〜22時くらいまで塾に行っているのが当たり前の生活をしている。

 教育産業の中で習熟度的な発想で、テストの結果『良いクラス』にいる(クラスが落ちる・上がる)ことを気にするのが当たり前の子どもたちの姿があり、それは日常的な学校の中でも出てくる。一方で、家庭的な状況でその世界を泳げない子どもがおり、家庭的にはお尻を叩かれてがんばって行っているがその雰囲気に合わない子どももいる。子どものストレスや能力主義的な価値観が小学校高学年の子どもたちの中では当たり前のように浸透してきていると実感している。その子どもたちに教えていくために意識して常に丁寧に授業づくりをしていかねばならないという問題意識を持っている。

 学校現場の状況については、学校現場はしんどい状態にある。小学校の中でも上からの教育改革のおしつけに対して一部教職員の中でも「何だかんだ言っていても『どうせやらさせるのだから』『早めにやってしまおう』」というような雰囲気で過剰適応的に実施してしまっている。また、教師根性というか「どうせするのであれば子どものためにしっかりやってやりたい」という思いも含まれている。多くのところで業者テストを導入し、そのことによって教科書・指導書だけではなく業者テストにまでしばられながらの授業づくりが進行している。

 京都府実施の基礎学力学力診断テスト(4・6年生で実施)・CRT・ORT(民間が実施する学力テスト・全学年で実施)を必ず行い、その結果(学校・クラスの成績)が悪いと教育委員会から管理職が呼び出されてすぐに指摘される。『学力』に振り回され、総合的な学習の年間計画・学習のゆとりをつくらねばならない現状がある。

 また、父母・地域からの「要求」、子どもからの「要求」については、父母・地域・子どもからの要求は、大切と思える側面もたくさんあるが『能力主義的な影響』を大いに受けている。「先生、プリント(頂戴)!」と多くのプリントをこなすことができることの象徴のようにして、プリントだけを要求する『できるコース(習熟度の高い子どもが集まる)』の学習になってしまう。『できないところは丁寧に』と言いながら、結局はわからない子どもばかりを集めて「どうせ自分たちはわからないクラスだし(仕方ない)」という諦めを子どもたち(保護者も含めて)が(直接言葉にしなくても)思いを積み重ねている。教職員もそれを巡ってギクシャクした雰囲気がある。事態を切り開くべき視点を考えたいと思っている。


(5)第一分科会の報告と議論のまとめ

 第1分科会は「人間発達の源泉としての学校と社会の現代を問う−−思春期の発達課題と環境の視点から−−」をテーマに、思春期の子どもの発達上の現代的困難や可能性について、子どもたちがおかれている学校・地域社会という「環境」の視点から、実践・実態報告にもとづいて議論した。

 発達問題研究会での日常的な研究の成果をもとに「基調報告」が行われ、それに沿った形で小学校・中学校・高等学校からの実践報告が行われた。「教育改革」の渦の中にある学校現場の様子や、子どもたちの発達上の「ゆがみ」などが具体的に出された。

 小学校では「習熟度別授業」と共に学習についての二極化する子どもたちの実態が出され、中学校では課題を抱えた三人の男子生徒の具体的な様子が報告された。また高等学校では高校入試制度の変更に伴い、学力をはじめとして多くの課題を持った子どもたちの入学の様子などが報告された。しかし、それと共にそれを克服するための豊かな実践の報告がされたのも特徴であった。小学校でメディアリテラシーを育てていく実践、中学校での「四コマ漫画」を取りいれた「学級通信」が「学年通信」にまで広がっているという報告、さらに高等学校での、体育祭や文化祭を「クラス単位」で取り組み、子どもたちの意欲を盛り上げていった取り組みなど、貴重な内容が報告された。

 最後に、発達問題研究会の関谷健先生の長年の研究成果である「子どもの歯車と合う教科教育への改革−−生態的学年を組み替える中での自己評価を基礎に−−」は時間の都合で十分な議論ができなかったが、本分科会を深める上での大きな研究的貢献であったことに触れておきたい。(終)
 
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