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【緊急アピール】

いじめ・体罰・学校統廃合などによる自殺問題から
 「未来ある子どもが自ら命を絶つことを根絶する」ための教育議論を深めよう


                           −−京都教育センター−−

 

1.自ら命を絶つ子どもが相次ぐことは痛恨の極み

 「人のいのち」は何よりも大切にされるべき、かけがえのないものであることは万人が認めることです。まして、未来ある子どもや若者が自らの手で命を絶つことは絶対にあってはならないことであり、昨今のいじめや体罰、学校統廃合などを理由にした自殺が相次いでいることは痛恨の極みです。文科省の調査では、平成23年度の小中高生の自殺者数が25年ぶりに200人を超え、警察庁などの調査でも、日本の若者(15歳〜34歳)の死因の第一位は「自殺」であり、そうした実態はG7諸国では日本だけに見られる悲しい実態です。また、小学校高学年から「死にたい」と思う子どもが増え始め、中高生では2〜3割に達するという調査もあります。大人にとっても普通に生きていくことが容易ならざる状況にありますが、なぜ未来に夢を託して学び、生きるべき子どもや若者が「死」を選んでしまうのか。これほど深刻な社会問題はありません。

 一昨年の大津市での中学生「いじめ自殺」、昨年末の大阪市での高校生「体罰自殺」、そしてこの2月の学校統廃合を悲しんでの大阪府内の小学生「自殺」などは、他者による威圧的行為が何の非もない児童生徒を死に追い込んだ事件であり、そこには個別の事情や背景があるものの、今日の日本の学校と社会が抱える構造的な問題があることが伺え、そのことを検証しなければなりません。

 私たちは、未来ある子どもを死に導くような「いじめ」「体罰」や「学校統廃合」などは絶対にあってはならないことで、総力あげて根絶していくために幅広い教育関係者や父母・府民の間で突っ込んだ議論が深められることを切望するものです。


2.それぞれの自殺事件から考えること

(1)「いじめ自殺」問題

 30年ほど前から注目されだした「いじめ問題」は、それまでの「弱い者いじめ」とは様相を異にしたことで、閉鎖的な「横並び集団」の「仲間内」での出来事であり、第三者からは見えにくい陰険さが見られるのが特徴です。この間のいじめ自殺事件は、東京富士見中の鹿川裕史君(1986年)、愛知西尾市の大河内清輝君(1994年)をはじめとしてくり返し起こり、最近では大津の他に桐生市の小6生、品川や札幌での中学生、兵庫県川西市の高校生など相次いで大きく報道され、連鎖的な出来事となっています。そして、こうした事件が起こるたびに該当する教育委員会や文科省などは「再発防止」を掲げての実態調査や教職員研修を試みていますが、ほとんど実効性がないままに推移してきているのが実状です。いじめの実態調査を見ても、文科省の定義の変遷で変化はあるが、この数年は7万件から10万件で減少していない。各県でのバラツキも大きく、「いじめ減少」の数値目標を掲げると実数報告が抑制されるなどのまやかしもみられます。大津事件以降、昨年10月の文科省調査では半年で前年の一年間分に相当する7万5千件(うち重大ケースが250件)が集約されていることを見ても、行政サイドの実態調査が実態と乖離していたことが指摘できよう。

 そうした中で、この1月末に出された「大津市の第三者調査委員会報告書」は、半年近く生徒や関係者からの丁寧な「聞き取り」から事実を考察し、いじめと自殺の因果関係を導き出しています。また、「問題点」や「提言」では学校や市教委の事後対応の拙さやマスコミ報道のあり方、カウンセラーのあり方、学校規模の適正化や教職員の多忙化、校内研修などにも言及していることは、形式的で本質に踏み込まない「品川の報告書」などに比べて教訓と示唆を与える報告です。

(2)「体罰自殺」問題

 教職員や部活コーチによる「体罰問題」も桜宮高校での自殺問題以降、堰を切ったように噴出し、京都でも北部府立高校や市内山科の中学校、私学高校などでの「体罰」が報道され、他人事ではない身近で深刻な教育問題として取り上げられています。

 教師による「体罰」は加害側に教師がいる点で教育のありようが問われるより深刻さの根深い問題と言えよう。学校教育法第11条で「殴る、蹴る、正座」などの「体罰」は禁じられているものの、闇で横行する古くて新しい教育問題です。体罰による歪んだ教育実態は戦前の軍国主義教育に根を張るものであるが、1989年に国連が採択した「子どもの権利条約」での「子どもの意見表明権」等の啓蒙で体罰は一時減少傾向にあると言われたが、この10年近く、管理と競争の教育が公然化するもとで体罰が温存される教育事情が横たわっています。それは、ゼロトレランスに象徴される管理的な生徒指導の蔓延や勝利至上主義の部活指導の反映だといえます。橋下大阪市長が言明した「体罰はダメだが、有形力の行使は必要」とか「愛のムチ」論は今も根強く肯定される風潮があります。暴力的な生徒がいる荒れた学校では、体を張って立ち向かう教師らが有形力による「歯止め」をかけることが「期待」される実態もあり、体罰を目撃した同僚や学校長でさえ、公然と「やめろ」とは言いにくい苦渋が伺えます。そこには大会結果や生徒指導上の「成果」にたてつけない深刻な背景があり、体罰に走る教師は体罰はよくないことを知っていても「結果がすべて」、「自分に変わる者はない」などという自負心が先行する一面があります。また、桜宮高校の場合でも言われたが、大会結果の実績によって生徒の上級学校への進路が保障されるという歪んだ実態が横行していることも由々しきことです。

また、学習指導要領にきちんと位置づいていない「部活指導」については、学校教育の位置づけを明確にするもとで、専門的指導のあり方や顧問の過重な勤務問題については外部指導者の招聘なども検討を深めなければなりません。

(3)「学校統廃合自殺」問題

 この問題は、先の二つを背景とした自殺問題に比して、まさに今日の教育政策の無謀さが幼気ない小学生を死に追い込んだ事件として大人の責任を痛感させられる事件です。

 小中高校の統廃合問題は財政問題を背景にして今日、全国的に強行されている教育リストラであり、当事者の意向に耳を傾けず、アメとムチによる手法で強行されている実態は、昨年末に京都で開かれた「第3回小中一貫・学校統廃合全国交流集会」でも明らかにされました。歴史ある地域の学校の灯が消えることは歓迎しないが、小規模になっては切磋琢磨する教育での競争が出来ないとする一部の父母の声に乗じて「住民意向」を反映した手口で進められているのが共通した特徴です。京都でも市内での小中一貫校とリンクした統廃合で6年生だけを切り離すことや隣接校への併合、府内中・北部での「複式」回避の名による統廃合などが「財政削減」の本質を隠蔽するもとで住民への説明抜きで強行されようとしています。小中一貫教育を全ての学校で推進する品川区でも小中学生の自殺が相次いでいるとの報道もあり、大阪の小5生がこの4月からクラス仲間の二つに分かれることを悲しんで自殺したことは、大人の推測を越える出来事といえよう。学校のあり方はその主人公である子どもの声にこそまず耳を傾けるべきであり、京都でもそのことが全く放置されているのが実態であり、今度の事件は教育行政による非教育的な施策に歯止めをかけられなかった私たち大人の責任の重さを示唆するショッキングな重大事件といえよう。


3.こうしたことを二度とくり返さないために私たちは何をなすべきか

(1)行政主導の「応急的」な対応をどう見るか

 こうした一連の出来事を受けて各教育委員会や文科省は矢継ぎ早にとり組むべき課題を提示しています。しかし、その内容はこのような事件を根絶することの本質に迫るものではなく、従来からくり返しやってきた実態調査やアンケート実施、上からの教職員研修の強化などの「お座なり」的なものの域を出ないものです。加えてそれどころか、安倍内閣のもとでこの2月に発足した「教育再生実行会議」がこうした事件を逆手にとって教職員への更なる統制管理を目論んでいることや、橋下大阪市長指示による桜宮高校体育科の「生徒募集停止」措置や越大津市長主導による「いじめ防止条例」の制定などは本質的な解決を遠ざけるもので、こうした出来事からの課題や教訓を引き出し切らないやり方と言えます。京都府教委でも、体罰問題で記名式の児童生徒アンケートや、顧問教職員などの一括研修を行い、いじめを防ぐための「対策専門指導員」の派遣などの事業を提示しています。

 こうした、行政主導による「責任の所在」だけを意識した施策は応急的に一時的な「効果」があるかも知れませんが、以下に提起する抜本的な検証と改革をすすめる上では新たな障壁となることさえ危惧される施策と指摘せざるを得ません。

(2)私たちの提起

―根本にある管理と競争による歪んだ教育施策の抜本的検証と現場からの改革を
     〜「人材養成の教育」から「人格の完成をめざす教育」への回帰を〜

 戦後教育は一貫して保守反動勢力による教育支配が行われたが、地域事情や学校課題を勘案した学校裁量による教育活動が可能でした。それがそうでなくなったのは、1980年代後半からバブル経済が破綻して日本の経済産業界がグローバルな競争に組み込まれる中で、優秀なエリート養成と物言わぬ労働者育成に区別した「人材」として養成することを教育に求めるようになってからです。そしてそのシフトは2006年末の教育基本法の「改変」以降、新自由主義教育の名の下に競争と管理統制の教育が大手を振って暴走し、首相直轄の「教育国民会議」や「教育再生会議」などでの形式的な議論を経て、子どもたちや学校現場にダイレクトな影響を及ぼす「学力テスト」や「教職員評価」などの施策をトップダウンで押しつけるようになったのです。新教育基本法で「教育振興基本計画」が各自治体の首長の指揮の下で決められるようになってからは、教育行政の独立性も突破され、政治の動向に教育が左右され振りまわされる事態が進行したのです。

 その結果、管理・競争のレールを走ることを余儀なくされた学校や教職員が子どもたちにも同じレールの上を走らせる教育を余儀なくされるようになったのです。そうしたもとでこれまでには見られなかった歪んだ状況が広がり、未来ある子どもが自ら命を絶つような事態を招くようになったと言えます。こうした事態の根本的な打開と解決を見通すには、大津市の「第三者調査委員会」が試みたように子どもの声に耳を傾けての現状分析からはじめて、トップダウンの教育シフトを足元からの「教育改革」に道を開くシステムに180度転換する必要があります。そして今では一部の学校でしか見いだせなくなっていますが、かつては当たり前のように行われていた「子どもをまん中にした学校づくり」を再構築していかなければなりません。

 そのために教育の場にあっては、管理・競争の閉塞したステージを抜け出し、自由な教育論議が闊達にできる場を持たなければなりません。

私たちは、「子どもが絶望することのない、風通しの良い教育環境」をめざして次の5つのつながりを大事にするための教育活動や教育実践の探求をよびかけるものです。

1.子ども同士の「友情」の風通しをよくしましょう。

 クラスメイトはライバルでも競争の対象でもありません。友達のよしみからの情愛を深め、お互いの成長を喜ぶ「切磋琢磨」こそが育まれなければなりません。

2.子どもと先生の「信頼」の風通しをよくしましょう。

 命令や統制で子どもを管理することと決別し、どの子どもも発達成長することを信じて子どもも先生も居心地の良い教室・学校を。

3.教職員同士の「連帯」の風通しをよくしましょう。

 人事考課や差別的職階制などでの分断化をやめ、何でも語れる自由な専門家としての学び合いを広げ、「職員室」を子どものようすや実践を語り交流する場に。

4.父母同士の「共育」の風通しをよくしましょう。

 わが子だけが競争の勝者になれば良しとする子育て観を脱し、どの子も地域で人間らしく成長することを願う立場での繋がりを。

5.父母と教職員の「共同」の風通しをよくしましょう。

 「モンスターペアレント」や「問題教師」などのレッテル張りをやめ、教育権をもつ父母と父母から委託された教育権限を有する教職員が力を合わせて、子ども不在の不当な教育支配をやめさせること。

 私たちは、こうした痛恨の事態を二度とくり返さないことを願う立場から、憲法や子どもの権利条約などで謳われている教育条理に依拠し、すべての子どもたちの豊かな発達とそれを見とどける民主的な教育の広がりを求めて、教育関係者や父母・府民の間で「未来ある子どもが自ら命を絶つことを根絶する」ための教育議論が展開されることをよびかけ、ここに緊急アピールを発するものです。


                                             2013年3月

 
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