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歴史の中の教育基本法
−−資料紹介と論点
           京都教育センター 市川 哲



1 国民の精神を支配した教育勅語
 
 
 戦前、日本は永遠に系統が続くとされた天皇の治める国でした(「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」/「大日本帝国憲法」第一条、一八八九年)。教育は「臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ」天皇の「命令(「天皇大権」九条)」で行われ、憲法の明記する兵役や納税と並ぶ「臣民」(君主に支配される人民)の「三大義務」の一つでした。「臣民」は教育を天皇、すなわち国のために受けていたことになります。
 
 国を統治する政治上の天皇主権をおぎない、教育上も道徳上も天皇が主権者であることを宣言したのが「教育二関スル勅語」(一人九〇年)です。
 
「朕惟(ちんおも)フニ」=天皇自らが考えてみたところ、と天皇を主語にして始まる難解な文語調の教育勅語は、道徳の源を天皇の祖先とされる天照大神(あまてらすおおみかみ)以来の天皇に求めました。そして、孝行や友情、遵法などを説いた上で、「一旦緩急(いったんかんきゆう)アレハ義勇公二奉シ以テ天壌無窮(てんじょうむきゅう)ノ皇運ヲ扶翼(ふよく)スヘシ」と、国家危急のおりには(戦争にあたっては)義勇の精神をもって永遠に滅びることのない皇室のご盛運を助けなさい、と述べています(参考/塚本哲三『国体の本義解釈』一九三九年)。教育の根本とされた教育勅語は、学校の儀式やその他の機会にうやうやしく読まれ、趣旨の徹底をはかり、実際の教育にも具体化されて国民精神を支配しました。
 
 「私タチノソセンハ、ダイダイノ 天皇ニ チユウギヲ ツクシマシタ。私タチモ、ミンナ 天皇陛下ニチユウギヲ ツクサナケレバ ナリマセン」(昭和一六年からの国民学校(小学校)二年生の教科書『ヨイコドモ下』)とする教育内容が柔らかい頭に刷り込まれたのです(参照/入江曜子『日本が「神の国」だった時代−国民学校の教科書をよむ−』、岩波新書、二〇〇一年)。
 
 
2 日本人の手による教育基本法の制定
 
 
 日本軍の無条件降伏と日本の民主化、領土を日本固有の土地に限ることなどを求める「ポツダム宣言」を受諾し、一九四五年(昭和二〇年)八月一五日、日本は戦争に負けました。占領軍の最高司令官はアメリカのマッカーサーで、主力もアメリカ軍でした。敗戦直後の文部省の見識は「教育の大本は勿論教育勅語をはじめ戦争終結の際に賜うた詔書を具体化していく以外にあり得ない」(前田文部大臣就任記者会見、八月一八日)というもので、日本の民主化を進める教育を担えるものではありませんでした。結局、平和と民主主義、国民主権をうたう日本国憲法ができた後、四八年六月一九日の「教育勅語等排除に関する決議」(衆議院)、「教育勅語の失効確認に関する決議」(参議院)まで教育勅語そのものは生き残ります。
 
 今日、教育勅語にも良いところがあったとする見解もありますが、教育勅語等が「今日もなお国民道徳の指導原理としての性格を持続しているかの如く誤解されるのは従来の行政上の措置が不十分であったがため」であり、、「根本理念が主権在君並びに神話的国体観に基づいている事実は明らかに基本的人権を損い且つ国際信義に対して疑点を残す」と衆議院の決議は明快に述べています。
 
 日本国憲法の審議にあたって教育条項を増やそうという意見に対して、当時の田中耕太郎文部大臣は「教育二関スル根本法」を考えていると答弁しています。そのためもあって四六年八月に「教育刷新委員会」が設けられました。そして委員会の審議と文部省の作業をとおして教育基本法案が作られ、最後の帝国議会が教育基本法を制定しました(四七年三月三一日)。
 
 「教育二関スル根本法」であり、前文で憲法との不離一体性をうたう教育基本法は、制定過程でも「教育の憲法とも称すべきもの」と述べられ(高橋文部大臣)、いわば「準憲法的」性格をもっています。また、制定に直接関与した田中二郎元最高裁判事・東大名誉教授は「教育基本法の構想が田中耕太郎文部大臣の創意に基づくもので、連合軍総司令部と直接関わりのないことは、一般に知られているところである」と、アメリカの押しつけ説をきっぱりと否定しています(『季刊教育法』二三号)。
 
 以上のことから教育勅語の理念や趣旨、内容が日本国憲法と相いれないから排除され、かわって教育基本法が憲法と一体の法律として、日本人の手によって作られたことがわかります。
 
 なお憲法との不離一体性については、「教基法は、憲法において教育のあり方の基本を定めることに代えて、わが国の教育及び教育制度全体を通じる基本理念と基本原理を宣明することを目的として制定されたもの」であると最高裁も認めています(旭川事件判決)。
 
 
3 見直し論議の始まり
 
 
 ところが教育を含む日本の民主化が徹底されないまま、「米ソの冷戦構造」のなか、日本はアメリカの主導下で「サンフランシスコ講和条約」と米軍に基地を提供する日米安保条約を結び(五一年)、「極東におけるアメリカの浮沈空母」の役割をアメリカのアジア戦略に沿って担うことになります。
 
 そして、もはや戦後ではないとして、戦後教育改革の見直しも始まります。朝鮮戦争(五〇年六月)直前に就任した天野文部大臣は、学校の祝日行事の「日の丸」掲揚と「君が代」斉唱を提唱し、五一年には「国民の道徳的中心は天皇にある」とする国民道徳の基準(「国民実践要領」)を教育勅語にかわるものとして個人名で発表しました。
 
 また五三年には吉田首相の特使・池田自由党(自民党の前身)政調会長が、日本の防衛力増強と再軍備のために、憲法九条の改正と教育を通じて国民に愛国心や国防意識をもたせることをアメリカに約束しました(池田・ロバートソン会談)。
 
 五六年には当時の清瀬文部大臣が「わが日本国にたいする忠誠」が教育基本法に入っていないことが問題だと衆議院で発言しています。これらは日本再軍備の布石の一つとみることができます。
 
 五〇年代末から六〇年にかけ全国を揺るがす反対運動が起きた日米新安保条約の成立後、池田内閣ができます。就任直後、荒木文部大臣は教育基本法には「日本人としてりつぱな人を育てる」うえで「いささか足りない」ところがあると発言し(六〇年八月)、憲法も教育基本法も押しつけられたものであり、教育基本法についても再検討に取りかかりたいと述べました(同年一〇月参議院文教委員会)。
 
 同大臣の諮問(六三年)に応えて「天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通ずる」とする『期待される人間像』(中教審答申、六六年)が出ています。そこでは経済界が希望する「能力」に応じた高校教育の多様化とともに、国家を中心とする国民のまとまりが求められ、帰属社会への忠誠心や仕事に打ち込む労働意欲が強調されています。戦前同様、国民道徳の中心に国を置いて家庭のあり方や個人の生き方、愛国心などを説いており、国民主権、基本的人権の尊重、平和主義という憲法の原則と教育基本法の趣旨や理念に反する内容です。
 
 八〇年代にはいると、自民党の肝いりで地方議会を通じた「教基法改正要望」運動が進められ、教育基本法「改正」の世論づくりが行われました。たとえば岐阜県議会は、教育基本法は占領時代に制定された法律であり、「今日の独立国家の国民を教育する基本法として」適切でなく、「伝統の尊重」、「愛国心の育成」などの理念を「法律に盛りこむことが要請される」とする決議をあげています(八〇年一〇月)。
 
 
4 見直し論議の「本格化」−−「教育改革国民会議」
 
 
 地方に呼応して、教育基本法そのものを変える動きが本格化するのは「戦後教育の見直し」をうたった中曽根内閣の時です。当初、教育基本法「改正」を提起する「臨時教育審議会」を発足させたかったのですが、法律にもとづく内閣直属の審議会として設置する際、国会の議論を通じて「教育基本法の精神にのっとり」活動するものとなりました(同審議会設置法、八四年八月)。審議会の議論をリードした香山委員は「精袖の尊重ということは必ずしも個々の条文を改定するということを排除するものではない」と発言していますが(『現代のエスプリ別冊・臨教審と教育基本法』八六年)、法案の審議過程で森文部大臣が日本共産党の議員の追求にあって「一言一句手をつけない」ことを認めました(衆議院内閣委員会八四年七月三日)。そのため臨教審は結局、教育基本法の「改正」を提起できませんでした。
 
 審議会関係者が「(明治初期の学制、戦後改革に継ぐ)第三の教育改革」と位置づける改革は、学校選択の自由化や中高一貫校の設置など、規制緩和と選択を基調とする新自由主義的な内容の改革を多く提案しました。当時施策化されなかったものも九〇年代から今日にかけて実現され、また具体化されています。こうした新自由主義的な教育改革を加速させ、今日の状況に合わせて総仕上げするための道具立てが二〇〇〇年三月に設置された「教育改革国民会議」です。これは国会の審議で「教育基本法の精神にのっとり」という字句が入った臨教審の経験をふまえて、国会の論議なしに、首相の私的諮問機関として発足させたもので、当時の小渕首相が委員を委嘱しました。したがって、国民の意思を代表する国会の審議を経ていないという点で権威も低く、またその「提言」が改革をリードする正当性をもちうるかどうかも疑問のあるところです。また議論も根拠に乏しく、「飲み屋談義の水準」だったとする意見もあります(佐藤東大教授、「朝日新聞」八月一三日)。
 
 会議には首相特別補佐官として自民党の町田議員(後に文部大臣)が出席し、強固な改正論者もいた第一分科会に論議を政治的に持ち込みました。小渕首相の急逝後に登場した森前首相は、衆議院の所信表明演説で「思いやりの心、奉仕の精神、日本の文化、伝統の尊重など日本人として持つべき豊かな心や倫理性、道徳心をはぐくむという視点からは(戦後教育は)必ずしも十分ではない」と発言し、国民会議の総会で「教育基本法の見直しが必要」だと述べました。そして「見直しの観点」に「@わが国の文化や伝統を尊重する気持ちを養う必要があるのではないか、A生涯学習時代を迎えて基本法は十分なものであるかどうか、B家庭や地域が果たすべき役割が十分規定されているかどうか」を上げました。第一分科会では「改正」を求める声もありましたが、他の第二、第三分科会の委員も交えた全体会議では異論が出され、「中間報告」(九月)は「具体的にどのように直すべきかについては意見の集約は見られていない」と書かれざるをえませんでした。しかし、同年一二月の最終報告は、教育基本法の「見直し」を打ち出しています。その間に相当の政治的「テコ入れ」があったことが予想されます。
 
 
5 教育基本法の拙速な見直しに反対します
 
 
 私的諮問機関にすぎない「教育改革国民会議」の報告を文部科学省はほとんどそのまま「二一世紀教育新生プラン」(〇一年一月)で具体化し、教育基本法「改正」に向けた諮問を中央教育審議会に行っています(〇一年一一月)。もちろん、「改正」の動きを危惧する国民各層の運動も起き、京都教育センターも鯵坂二夫氏(京都大学名誉教授)や茂山千之丞氏(狂言師)、はしだのりひこ氏(フォークシンガー)、小林幸男氏(京都教育センター代表、立命館大学名誉教授)など一六氏を呼びかけ人に「拙速な教育基本法見直しではなく、『百年の大計』にふさわしい、深い教育論議を望みます」とする声明を発表しました(〇一年四月)。
 
 憲法と教育基本法はアジアの人々二千万人と日本人三二〇万人の犠牲者をうんだ侵略戦争の反省にたって制定されたものです。しかし、教育基本法の歴史は日本を「戦う国」にするために「見直し」がはかられてきた歴史でした。〇二年四月にはアメリカがアジアに軍事的介入したとき、日本が自動的に参戦する「有事法案(戦争国家法案)」が国会に上程されています。そこでは戦争協力は国民の「努力」義務とされ、自衛隊法の「業務従事命令」による強制動員や物資の確保・供出等もあり、それに反する国民には刑罰が加えられます。戦争に協力し、危険な業務に従う人づくりのためにも教育基本法の「改正」が求められているといえます。もちろん、教育基本法「改正」がそれと不離一体の憲法「改正」の「突破口」になることも考えられます。
 
 
6「見直し」の論点
 
 
 最後に森前首相の「見直しの観点」を検討しておきます。
 
@森前首相は「教育改革国民会議」で「国家や郷土、伝統の尊重」をかかげて「見直し」を主張しました。「改正」を唱える「全国教育問題協議会」(文部科学省所管公益法人)が出した「教育基本法改正案」(九九年四月)は「日本の伝統と文化を尊び、国を愛し、国を守る国民」をうたっています。結局「日本の伝統」や「文化」の尊重を軸に「愛国心」をもち、「国防」に努める国民の育成に結びつく主張だと考えられます。
 
 憲法は文化と国家や国民との関係に直接ふれていませんが、思想・良心の自由(一九条)、信教の自由(二〇条)、表現の自由(二一条)、学問の自由(二三条)など、広く文化とかかわる個人の精神的活動の自由を保障しています。これらの自由が保障されてこそ、文化の創造と発展が可能です。もちろん教育も文化の重要な一分野であり、教育を受ける権利(二六条)は文化の創造と発展に参加する国民の権利です。
 
 憲法はこれらの精神的活動の自由を制約なしに保障し、国民個人が文化の創造と発展の担い手であることを確認しています。したがって国家は個人の精神的な営みとしての文化の形成に対して干渉や介入を加えてはならず、また文化に対して特定の価値を押しっけないことが求められます。国家の価値中立性の理念は何よりも内心の自由の不可侵を定めた一九条に表れています。
 
 したがって「愛国心」や「国防」意識をもつ人間の育成に直結する特定の「文化」や「伝統」を教育の前提にすることは、国民の内心の自由を踏みにじるものであり、許されるものではありません。
 
A現代は「生涯学習」の段階であり、それが教育基本法に言葉として書かれていないことが「改正」の論拠にされます。しかし、「教育の目的は、あらゆる機会にあらゆる場所において実現されなければならない」とする二条(教育の方針)をベースに教育基本法を読めば、教育基本法は「いつでも、どこでも、だれでも」学ぶことができる生涯学習社会をリードする豊かな内容をもつことがわかります。
 
 「生涯学習」に限らず、制定後五〇年たって理念や内容が社会と合わなくなったとする「改正」論がありますが、それは教育基本法を硬直的にとらえるもの、発展的・総合的に理解する創造性に欠けた考えです。
 
B「家庭教育」の問題です。神戸の連続児童殺傷事件以後、「心の教育」の必要性が説かれています。しかし、それぞれの家庭が子どものしつけや宗教、教育などの文化的働きかけに責任をもつことが自然のあり方です。教育基本法もそのことを前提に、家庭教育を担う人々への教育を奨励する義務を、国や地方公共団体に課しているのであり、国等が家庭教育の指南役や主宰者として登場することは誤りです。奨励策も受けて、私たち国民が子育てを問い直し、共に手をつないでよりよい子育てをおこなう責任をもつことが求められます。子どもと接する時間的・精神的余裕を奪う労働環境や社会状況の改善に私たちの取り組みが向かうことも必要です。
 
 もちろん地域が果たす役割も大きいといえます。大人が日々の労働や家事、介護などの忙しさに追われることなく、余裕をもって生活し、地域の人々とのコミュニティづくりに時間もエネルギーも使える社会づくりが求められます。そうでないと地域で活動できるのは一部の人たちだけになってしまうのではないでしょうか。「地域の子は地域全体で育てる」という言葉が心がけやスローガンにおわらない環境づくりが求められます。
 
 
・参考文献(教育の歴史に関するもの)
 
 五十嵐顕・伊ケ崎暁生編著『戦後教育の歴史』(青木書店、一九七〇年)
 大田尭編著『戦後日本教育史』(岩波書店、一九七八年)
 山住正巳『日本教育小史』(岩波新書、一九八七年)
 
  なお、教育基本法の論点に関しては、本書および『ひろば』一二九号(二〇〇二年二月)の市川「教育基本法『改正』について考える−論点の検討−」も参照してください。
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