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「教育基本法違反は憲法違反」を証明しつづける
−−教育行政の軌跡−−
京都教育センター 藤原 義隆
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私が教職に就いたのは朝鮮戦争の始まつた一九五〇年、教育も急速に反動化、そのトツプを切ったのが京都市教育委員会、それは半世紀経ったいまも変わりません。教育基本法違反の京都市における軌跡を報告したいと思います。
「ひどすぎる、人間のすることではない!」と仲間の怒りの声
−人事を支配の道具に
今年度、組合の執行委員になつたAさんを市教委(京都市教育委員会)は別の行政区へ配転、もちろん異議申請。そうしたら元の行政区へ戻すどころか、初めよりうんと遠いところへ再配転。仲間から「人間のすることでない!」と激しい怒りの声が上がっています。教育基本法六条を真っ向から否定する暴挙と言わざるをえません。
市教委は人事を支配の道具として、「アメとムチ」に使い分け続けています。私も六回の転任を命じられたが、すべて希望無視、だからこういう例はわんさとあるのですが、もう一例だけ紹介します。
二年前、Kさんは家から三〇キロ離れた学校へ飛ばされ、通勤に自家用車で毎日三時間(!)かけています。公共輸送機関を使えば、始発に乗っても遅刻する距離です。Kさんは病気を抱えながら、毎日峠を二つ越えて通って、います。
このように人事が公正でなく「アメとムチ」に使われ、とくにムチとなる事例を私はたくさん見てきました。そして「市教委は対象者をよう知っとるなあ」と変なところで感心していましたが、その謎が解けた事件がありました。校長に「思想調査まがい」のことを長年にわたってしていたことが公になったのです。
私も調査表のコピーを見せてもらいましたが「校長に協力的な者の氏名」などの欄がありました。それを見て私は、教育基本法違反は、同時に憲法も踏みにじらないとできないものだという大変な教訓を得たと思つています。
ある勤務校の校長が「市教委の総務課に行ったらあんたの学級通信がみんな揃っているのや。びっくりしたわ」と教えてくれたことがありましたが、これも思想調査の一環でしょうか。
結局、この事件は市教委が謝罪したわけですが、それで体質が変わったとは思えません。
「骨は拾うからがんばれ」 という“激励”を受けながら
今年度の「ムチ」の例ばかり挙げましたが、「アメ」の効用もよく心得ています。主として管理職登用です。私も一度だけ最終校の枚長から、「教頭試験を受けるのなら、主任手当を組合へ拠出しない誓約書を書いてもらわんならんのやけどどうする?」と聞かれました。
もちろん断わりましたが、管理職登用の最初の関門が、思想信条の自由と引き換えとは一体どういうことでしょう。こうして少しずつ人権を制限されながらでないと管理職に到達しないというのは不幸なことではないでしょうか。京都市の教育にとって、京都市の子どもたちにとって。
ある教育長は、ある管理職を前にして「骨は拾うからがんばれ」という“激励”をしましたが、“骨を拾う”というのは退職後の再就職のことです。「もう辞めるのやさかい、最後の年ぐらい人間らしくしはったらええのに・・・」とみんなが思うぐらい管理職が「がんばる」原因はここにあるのです。良心的な管理職なら、きっとこころの痛みに耐えかねることもあるでしょう。
管理職が変われば学校は変わるし、日本の教育は変わるというぐらいに私は思っていますが、京都市の実態は逆方向に進んでいます。こうした実態を見るならば「教育は不当な支配に服することなく、国民全体に対し直接に責任を負って行われるべきものである」(教育基本法一〇条)という、胸の震えるような内容は、手の届かぬ遠いところにあるように思えてなりません。
その一方で教育行政は「必要な諸条件の整備確立」(一〇条)以外のことに熱心なように見えます。
なお、これは大きな問題だと思われますが、聞くところによると、管理職になるのとならないのでは退職後の年金も含めると、寿命によっては数千万円の開きがあるということです。こういう事情も含めて親類縁者からの働きかけもあって「組合を辞めて管理職コースヘ」という詰も聞くので、はっきりさせるべき課題だと思います。
教育内容への干渉
−「水道方式」を通達で禁止
「水道方式」は数学教育協議会が一九五〇年後半から六〇年代にかけて開発したすぐれた計算の教授法です。「日教組十次数研」を機に各地に急速に広がり、私も早速実践しました。公開授業を講堂でしたときは三〇〇名が集まり、校長と組合の執行委員長が挨拶をするという和やかさがあったのです。
ところが市教委はこの水道方式を「新薬のようなもので子どもに害があるといけないから」という内容の通達で禁止したのです。この通達に限り、一人ひとり署名、捺印させられたことを覚えています。
これは行政による教育内容への公然たる介入です。新聞も大きく取り上げました。しかし、これ以来、研究の自由は恐ろしく制限され、校内研修の講師は指導主事以外はダメという線がほぼ貫かれることとなりました。
私はときどき、校内研修やPTAの講演を頼まれますが、みんな他府県ばかりで、京都市内では校長から頼まれても、数日後にはその話は潰れるというのが実態でした。
水道方式を通達で禁止するというのは、もちろん京都市だけです。ですからさすがに世論は賛成しません。しかし、そうかといって教育委員会は撤回もならず、「凍結」ということで今日に至っています。
母親大会やサークルの催しものなどには、学校を貸さないことも、京都市ほど徹底しているところはありません。これほど教育行政の姿勢によって、教育研究、教育実践、教育運動の自由に大幅な制限が加えられている実態。これをはね返す力は、いったいどこにあるのでしょうか。
任命制教育委員会は違反ではないのか
教育委員はもともと住民が選べる公選だったことをご存じでしょうか。この公選制は一九五六年、警官隊を国会議場に導入して潰され、現在の任命制になりました。それから四六年間という半世紀近くにわたって、日本国民は教育に対する意思を表明する手段を失ったままなのです。教育の地方自治は瀕死の重傷を負ったまま、息も絶え絶えというのが現状だと言えます。
市教委の理不尽で強引な教育行政のやり方がまかり通る根拠は、ここにあると私は思っています。だから最大の教育基本法違反は「任命制教育委員会法」(地方教育行政の組織及び運営に関する法律、一九五六年制定)だと思うのですがどうでしょうか。「開かれた教育」が求められる今日、一刻も早く「公選制」復活を掲げる必要があるのではないでしょうか。
いま、学力問題でも、親の心配は極度に高まり、受験塾からは「学校だけに任せておくと大変なことになりますよ」式の勧誘がしっこく繰り返されています。それほど完全学校五日制による学力不足は大きく、指導要領、とくに「総合的な学習の時間」の評判は悪いと言えます。ある学習会では「総合」の問題点が次々と出される中で、一人の学生から「先生方も親も、文部省の中でも賛成しない人がいるのにどうして実施されるのですか」という質問が出され、ハッとしたことがあります。
原発誘致が住民投票でやめになる。そういう流れがあるのに、なぜ教育だけが例外なのでしょうか。それは、住民の意思表明のしくみがないからではないか。教育基本法の精神を現実のものにするためには「公選制復活」がどうしても必要だと私は思います。
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