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特集テーマ1 地域で育つ子どもたち

子どもが育つ環境と遊びの再生のために〜子ども時代の危機をどう切り開くか〜



   山下 雅彦(東海大学教授)

 

1 子どもの声は「騒音」になったのか?

子どもに不寛容な社会

 もうかなり前から、路地や公園で子どもたちが遊ぶ姿を見ることは少なくなりました。たまにそんな場面に遭遇しうれしくなって近づこうものなら、「不審者」と疑われかねません。「遊びをせんとや生まれけむ、戯(たはぶ)れせんとや生れけん、遊ぶ子供の声聞けば、我が身さへこそ動(ゆる)がるれ」(『梁塵秘抄』、1180年前後)…?子どもというのは遊ぶため、じゃれ合うために生まれてきたのだろうか。その声を聞いていると、大人である私までウキウキしてくるよ”という光景と感覚は過去のものになってしまったのでしょうか。

 最近、あるテーマがモーニングショーで取り上げられていました。住まいに関する総合情報サイト「SUUMO」によるネット調査(2015年)で、近隣トラブルの上位に?子ども関係の騒音”がランクインしていたのです。すなわち、1位「子どもを叱りつける親の声」(21.0%)に続き2位・3位・5位が、それぞれ子どもの「騒がしい声」「泣き声」「足音」でした。ちなみに、第4位は「ペットの鳴き声」でした。 裁判で子どもの声が「騒音」と認定されたこともあります(東京地裁八王子支部、2007年10月)。保育園や児童公園の設置に住民の反対運動が起きることも珍しくありません。子どもに不寛容な社会がひろがっています。

まちに子どもがあふれていた

 「道路族」という言葉をご存じですか?公共事業にからむ?族議員”のことではありません。道路で大騒ぎして遊ぶ子どもたちとその親をこう呼ぶのだそうです。とんでもない迷惑・非常識として非難の対象になります。しかし、高度経済成長のもと、クルマ社会が浸透した1960年代のピークであっても、道路で子どもたちが遊びじゃれ合う姿は、全国各地で見られました。それは、熊本県山鹿(やまが)市の榊建盛さんが描いたイラストによくあらわれています(図参照)。「まちには子どもの声があふれていた。笑い声・泣き声・叫び声がBGMのようだった」「路地から大通りに飛び出すと、おじさんに『こらー、あぶない!人(・)に(・)ぶつかる(・・・・)ぞ』と、よく怒られた」と榊さんは述懐しています(傍点は山下)。

 そうした様子を克明に記録した当時の映画を紹介したのがNHKのTV番組「街に子どもがあふれていた−昭和39年・東京荒川区」(2006年)です。路上が野球や鬼ごっこ、お絵かきに興じる子どもたちで埋め尽くされている様子は、今日の大人と子どもを仰天させるでしょう。クルマはむしろ遠慮がちに進入してきます。やたら塀によじのぼって集団で移動する男の子たちの目は野猿そのものです。筆者はある新聞連載でこの番組を取り上げ、そこに「子ども再生のカギ」があるのではないかと書きました(「みんなで子育て」第22回、『新婦人新聞』2007年2月15日)。

 ※この番組は、子どもの環境や遊び、教育のあり方を考え直したい人?必見”です。山下所有の録画DVDをお貸しできます。

 その映画は、子どもの交通事故の増加に警鐘を鳴らすとともに、安全な遊び場の必要を訴えるものでした。以後、全国で公園はつくられ学童保育や児童館も増設されました。しかし、あれから半世紀たった今、少子化と子どものライフスタイルの変化(塾・おけいこごと通いやコンピューター・ゲームの普及など)により、子どもが群れて遊ぶ姿はほとんど見かけません。3年前、筆者は映画に出てくる「小鳩遊園」に行ってみましたが、そこもまた例外ではなく、閑古鳥が鳴いていました。一方、学童保育に待機児童があふれているのはご承知のとおりです。こうした問題を、私たちはどう考えればよいのでしょうか。


2 遊びを知らない子どもたち

遊びが成立しない

 今や、「戦争を知らない子どもたち」(1970年代のフォークソング)になぞらえて「遊びを知らない子どもたち」の時代が到来したのを実感します。たとえば、鬼ごっこでも「1位になれないと(勝てないと)しない」「できないことはしない」「負けたらパニックになって暴れる」「失敗や過ちを許せない」「すぐにあきらめる」など、最初から遊びが成立しない現状を学童保育指導員・鍋倉功さん(福岡・よりどりちどり館)から聞きました。また、そうしたトラブルが次々と発生するので、クラスで子どもたちが「レクリエーション係」になりたがらないという小学校教師・中野譲さん(佐賀県)の報告もショックです。

 そのままでは遊べない?不自由な”子どもたちですが、ちゃんとした〈環境〉と〈心ある大人〉の存在があれば、彼らは昔と何ら変わらぬ姿を見せます。よりどりちどり館では「博多ごま」「お手玉」「ゴムとび」などの伝承遊びはもとより、ファンタジックな「魔法のおばさんごっこ」から「音楽で踊る掃除」「道路横断テスト」など仕事や交通安全の取り組みまで、遊び世界が縦横無尽にひろがるのです。今日も明日も続く日常的(安定的)な時間と、気のおけない異年齢の仲間集団がそれを生み出しています(楠凡之・岡花祈一郎・学童保育協会編『遊びをつくる、生活をつくる。−学童保育にできること−』かもがわ出版、2017年)。

 また、中野先生は荒れる子どもたちを前に、草ぼうぼうの土地を開墾し「畑で野菜をつくらないか」と提案しました。意外にも、子どもたちは「なんだかおもしろそー。やろうやろう」と反応します。先生の提案は?変化球“のように見えて、実は子どもたちのツボにはまる?直球”だったのです。ポイントは〈やらせ〉〈勉強くささ〉を排した〈遊び半分〉〈モノや自然、人とのかかわり〉です(中野譲「畑で野菜をつくらないか」、『教育』2017年1月)。

 さきほどご紹介した番組でも、2人の大人に誘われて公園で「カンけり」を始める子どもたちが登場します。興味深いのは、彼らがそれに飽き足りず、自分たちだけで「リレーごっこ」を始めたことです。きっかけさえあれば、いつだって子どもの心に火はつきます。

子どもの時間が奪われてゆく

 2020年度に導入される小学校の学習指導要領のもとで、授業時数の増加とあいまって、子どもたちの学校生活から休息や遊び、自由時間が奪われようとしています。移行期の今すでに、授業と授業の間の10分休みが5分に減らされたり(中には、なくしたり!)、昼休みを45分から15分にしたりという信じられない事態が進行し、あちこちから子どもの悲鳴が聞こえてきます。静岡県のある町が来年度の夏休みを16日間に短縮する方針を発表し、ニュースになりました。新指導要領の学力中心路線が背景にあります。これらは人権問題そのものであり、子ども時代の危機を招いているといえないでしょうか。労働基準法のような「学習制限法」が必要ではないかとさえ思えます。

 ※この問題については、拙稿「〈子どもの自由と遊び〉が奪われる新たな段階の危機−今こそ『子どもの権利条約第31条』の出番−」(『クレスコ』2016年11月、大月書店)、および「子ども時代を奪わないで−『子どもの権利条約』第31条の今日的意義−」(『教育』2017年1月、かもがわ出版)を参照していただければ幸いです。

 こうした動きを量的管理とするならば、「道徳」の教科化や学校ルールのスタンダード化(大阪市の「学校安心ルール」など)は、子どもをタテマエでしばる質的管理と呼ぶことができるでしょう。学校外でも「きまり」や「禁止事項」がふえているのは大変問題です。

権利条約31条から考える

 基本に立ち返りましょう。日本が批准して23年たつ国連「子どもの権利条約」第31条は、子どもにとって「休息・余暇、遊び・レクリエーション、文化・芸術」が権利であると明記しています。2010年、この条文にかかわって、「子どもの遊びの時間およびその他の自発的に組織された活動」を進めている「先導的取り組み」を「支援する」よう、日本政府は勧告されました。さらに、2013年に発表された国連「ジェネラル・コメント(総合的解説)」No.17は、この条文の意義について、以下のように力説しています。

 「十分な休息を与えられないと、子どもたちは、有意義な参加や、学習(・・)に(・)対する(・・・)気力(・・)、やる(・・)気(・)、身体的(・・・)・精神的(・・・)能力(・・)を失ってしまう」

 「子どもたちはその余暇を自分たちの思うままに、活動的に過ごしたり、何(・)も(・)しないで(・・・・)過ごしたり(・・・・・)できる」
 「遊びはしばしば重要なことではないと見なされるが…子ども(・・・)時代(・・)の(・)楽しみ(・・・)の(・)基本的(・・・)で(・)欠く(・・)こと(・・)の(・)できない(・・・・)(vital)側面(・・)であり、身体的・社会的・認知的・感情的・精神的発達の本質的な構成要素である」(傍点は山下)

 人間は遊ぶ存在(ホモ・ルーデンス)だとホイジンガは唱えましたが、彼を批判的に受け継いだカイヨワの《エネルギーの無駄使いから遊びが生まれた》という説は、ほんとうに興味深いと思いませんか?遊びは「重要なことではない」どころか「無駄」なのに「必要」だという究極のパラドックス!子どもにとって、「遊び」は睡眠や休息と同様に、なくてはならない「権利」なのです。

 筆者もそのメンバーである「31条の会」(「子どもの権利条約 市民・NGO報告書つくる会」の「子どもの生活部会」)は、国連の日本政府報告書審査(1998年・2004年・2010年)に合わせて過去3回、レポートを提出してきました。今年の11月には、第4/5回のレポートを送付予定です。

 「31条の会」は、この条文の意義を確かめ実践に生かすべく、今年、2冊のブックレットを相次いで出版しました。増山均著『「あそび・遊び」は子どもの主食です!−子どもの権利条約31条と子どもの生活の見直し−』と、北島尚志著『子どの育ちとあそびの力−あそびが主食となるために−』です(子どもと文化のNPO Art.31発行)。前者は〈余暇や気晴らし〉を、車のハンドルやブレーキの“ゆとり”にたとえて、ひらがなの「あそび」と表記した上で、「あそび」あっての「遊び」がもつ「8つの役割」をあげています。一方、後者では、遊びを妨げる/励ますさまざまな具体例を紹介しながら、「あそび世界」で育つ「子どもの4つの力」とは何かをまとめています。ぜひ読んで、深めていただきたいものです。

 また、遊びは子どもが被虐待体験や自然災害といった生命の危機、あるいは不登校などの困難な状況に直面したとき、そこを乗り越える?突破力”になることも指摘しておきたいと思います。2016年4月の熊本地震での教訓は『子どもの権利手帳 パートU』(「いのち・そだち・まなび」京都子どもネット編著)に取り上げられていますし、山下も『子ども白書2016年版』や『子どものからだと心 白書2016』などで現地から発信しました。


3 日常の中に子どもの居場所と活動拠点を

 私は、クルマの往来の激しい道路で子どもたちの遊びを復活させろと言いたいのではありません。歴史的にそこから?排除”された彼らのエネルギーをちゃんと保障する環境と条件を、子どもの権利として整える必要があります。熊本の仮設団地には遊び場が計画段階から欠落していました。

 本稿の最後に、3つのことを提案したいと思います。1つ目に、それぞれの地域で子どもたちの生活と環境、遊びの実態がどうなっているかをみんなで把握しましょう。“わがまちの子ども白書”づくりの一環です。東京世田谷区太子堂地区では、かつて「三世代(四世代)遊び場マップ」づくりの取り組みがありました。(ここは、1987年から3年間、筆者が暮らした地域です。)

 2つ目は、権利条約31条がいう子どもの権利としての〈ゆとり〉や〈遊び〉の意義を学び合い、身につけることです。2016年に改正された「児童福祉法」に権利条約が明記されたことにも確信をもち、これを活かしましょう。

 3つ目に、少人数でも「遊びの会」をもち、続けること、ひろげることです。子どもも、力を借りたい青年・学生も放課後や休日が忙しく(短く)なり、遊ぶ活動が困難を極めている中でも、多くの学童保育や子ども劇場、子ども会・少年団などでは、短時間(すきま時間)でもとにかく集団で遊び、「あー、楽しかった!」と言える時間を増やそうと取り組んでいます。筆者も執筆に参加した『遊びをつくる、生活をつくる。−学童保育にできること−』(前出)には、そのためのヒントがいっぱいです。

 子どもと私たちの日常・生活圏の中に、ホッと一息つけ、集まれば楽しい何かが始まる−そんな〈居場所〉と〈活動拠点〉を築きましょう。

      (やました まさひこ)
 
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