トップ ひろば一覧表 ひろば180号目次 

平和教育42
平和の語り部としての歩み
−国際平和ミュージアムにて−


   布川 庸子(立命館大学国際平和ミュージアム ボランティアガイド)
 

 一九五五年、新卒で赴任したのは、桃山小学校だった。私にとっては母校である。丹波橋の女子師範附属国民学校に通っていたが、五年生の四月から集団疎開に行くことに決まっていたので、疎開を実施しない地元の桃山に転校したのだ。母校というと嫌でも、そこで体験した国民学校教育のことが思い出される。

 門を入って左にあった奉安殿。職員室に入る時は挙手の礼をして、「第五中隊、原田小隊多田庸子、日直当番参りました」と大きい声で呼ばわらねばならなかったこと。警戒警報のサイレンが鳴ると集団下校で、校舎の北側の坂道をころげるように走って帰ったこと。

 五年生で敗戦を迎えたが、墨塗り教科書を体験したのもこの学校である。

 それらの戦中、戦後のくり返したくない体験がガイド活動をしている根底にある。

 学校に勤めてからのことを振り返ってみる。もう最初の桃山小学校で謹評闘争があった。道徳教育が言われ出したときは、修身の復活はごめんだと思った。先生の仕事は忙しい。体制がどのように動いているのかということなど考える暇もなく毎日に追われていた。

 入学式や卒業式に、「日の丸」「君が代」が学校長の口から出だしたとき、戦争で夫を亡くされた先生が「口をこじ開けられても歌いません」と言われた事が心に残る。

 年がたち職場で私が一番年上になるということは、そのような体験をした人が現場からいなくなることだ。

 五十歳後半に入って、年々厳しくなる「君が代」問題や、上意下達でやらされる提出物や雑務で、本当の教育がやれていないという焦燥感に駆られ、気持ちがずたずたになってきていた。

 そんなことで、身体的には故障もなかったが五十八歳で退職してしまった。

 複雑な気持ちで辞めたから、四月からの解放感は例えようもないほど嬉しかった。

 しかし、このまま老いていくのかという虚しさを感じ出した五月末、新聞の記事が目にとまった。

 「平和ミュージアムで平和の語り部になりませんか」

 という安斉先生の呼びかけだ。

 平和ミュージアムがどういうものかという知識もないまま応募した。

 そしてガイド養成講座を受けることになった。そこで、このミュージアムが市民の戦争展運動と立命館大学の教学理念である「平和と民主主義」がタイアップして出来たものと知った。

 戦争を風化させてはならないと夏に開かれていた戦争展には大釈先生に誘われ見学に行った。中村先生に言われ、入口の看板を切り絵でしたこともあった。しかし私は主体的に関わろうとしたことはなかった。

 私は戦争を体験したと思っていたが、養成講座でそれは打ち砕かれた。その時代に生きていたことは事実だが、私は戦争のことを何も考えたり、知ろうとさえしていなかったではないか。

 高校の日本史の授業だって現代は「読んでおきなさい」で終っている。忍従してきたことへの疑問も、大きな犠牲が出たことへの事実も考えないままに過ごしてきていた。

 養成講座では私の不勉強であったことが突きつけられた。初めて展示室に入り、内容に圧倒された。ぼんやり過ごしている間に、こんなことを研究し資料を集め、ミュージアムを作り上げてこられた人々の存在に先ず敬服した。

 とりわけ「花岡事件」のビデオは衝撃を受けた。閣議決定で拉致状態で連行されてきた中国人たちが花岡の地で暴動を起こしたことが映像になっていた。その最後の字幕に、

「私達は過去の事実に無知であってはならない。無知はそれ自身、一つの犯罪である」というのが出ていた。

 無知は犯罪。これは厳しい。私は無知のまま三十八年間教師という仕事をやってきた。良心に従い、子どもを大切にやってきたという自負はあったにしても、あの多くの人を犠牲にした戦争とどこまで真剣に向き合ってきたのだろうか。人間として平和な世の中を考えることが一番大切なことではなかろうか。

 養成講座修了生で結成した「平和友の会」は、より良いガイドをするためにいろいろ見聞を広めなければならないと、学習部、広報部、など作り活動を開始した。

 初めての来館者へのガイドは、一九九四年一月だった。

 おずおずと来館者に近づき、「これは○○です」と言うぐらいが関の山だった。知識の方が追いついていないのだから。

 六月に、宮城県からの高校生の来館があった。中に一人小柄な男子生徒が、町屋の入口に立っていた私に話しかけてきた。

「こんなミュージアムは、各都道府県に要りますね」

 それからの彼の話は驚くほどで、加害の事実も知っていて、私はたじたじしながら聞いていた。引率の先生に話すと、彼は八月十五日が誕生日で、何故高校野球を中断して、黙祷があるのかということから戦争に詳しくなったのだとのこと。その先生は加害の事実を知るための冊子を送って下さったりした。今もメールで繋がっている。

「僕は立命出身なんです」と、六年生を連れて来られた寝屋川からの先生の話がきっかけで、小中学校への呼びかけをしていくことが大切だと、出来るところから誘いかけをやることにした。

 三重県からの来館は、いつ頃からどういうことがきっかけだったのか思い出せない。

 歴教協大会が一九九二年京都で開催され、ミュージアムの見学をされた先生が修学旅行でここに連れて来るという先鞭をつけて下さったのかもしれない。

 ある日、見学が終っての帰りがけに、校長先生が

「ここはよろしいわ。ガイドさんがついてくれはるし。私は校長会で宣伝してますね」

と言って下さった。

 校長先生が宣伝。これは効果的だろう。もちろん先生方も意識を持って連れて来て下さっているのを実感する。三重からの校長先生とは、心に残る出会いが何人もあった。

 広島県府中市からの来館もずっと続いていたが「君が代」問題で、高校の校長先生の自殺があってから、ぷっつり途絶えてしまった。

 宮崎県から中学生が来るようになったのは、飛行機が利用できるようになったことと、修学旅行で平和学習を入れることになっているからだと聞いた。

 宮崎からの来館で心に残ったことは、ある中学で、しみ入るように話が入るので、どのような事前学習をしてきたのか聞いてみた。

 ミュージアムから送ってもらったガイドブックを朝の会で読み合わせをしてきたとの返事。こうして事前学習をして来られると、見学が実りあるものになる。

 特に小学校は一学期は、歴史学習が現代まで進んでいない。「社会科で、現代のところになったら今日のお話を思い出すのよ」とつけ加えている。

 以前は、一般の見学者の中に私より年上の人が居られて教えてもらうことが多かった。

 とりわけ二〇〇六年五月、大阪の自治会から来られた男性の話は、それからのガイドを変えてしまうものになった。

 町屋の縁側の所に立っていたら、

「あんた。この畳の下に防空壕を掘っていたのを知ってますか」と聞かれた。

 私のうちには四畳半の部屋に掘ってあった。

「私は中学二年のときに大阪空襲にあいましてな。さいわいうちは燃え残りました。次の日、学校へ行ったら、今日は焼け跡の後始末をしてもらうといって町に行かされました。あんた何をさせられたと思いますか」

 私には想像もつかなかった。

「畳の下の防空壕に入っていた人は、みんな蒸し焼き状態で折り重なって亡くなってました。トタンを持って来て、死体を引っぱり上げて焼き場に運ばされたのです。私は、この年になっても時々死体を持ったときの手の感覚が甦りますのや。子どもにあんな仕事をさせたらあきません。戦争はしたらあきません」

 そう言い残してすたすたと向こうへ行ってしまわれた。

 戦争が終って六十一年もたっているではないか。京都で育った私は絵日記に「けふ、わたしのうちは防空ごうをほられました。・・・・。私はうれしいうれしいといいました」

と書き残しているままで、防空壕は役に立つかどうかは何も知らないままでいた。

 ガイドするに当たり町屋のところで、

「この畳の下に、大きな穴が掘ってあったの」

と話して、あの防空壕がイメージ出来るだろうか。絵にしてみようと思いついて、先ず畳の下の防空壕に家族五人が入っている絵を描いた。そういえばこれは私の二年生の出来事である。絵日記には防空頭巾をかぶり、もんぺをはいて、「けふ、学校で防空えんしゅうがありました。わたしはこんなかっこうになりました」との記述もある。

 二年といえば一九四二年。ミッドウェィ海戦で日本海軍が大敗した年である。戦況はひた隠しにされ、国民は虚偽の報道をされ続けていたのだと、ガイドをしてからの勉強で知った。

「備えあれば憂いなし」

 その備えが防空壕で解るように非科学的で命を守ることに繋がらなかった。

 バケツリレー然り。灯火管制然り。

 隣り組の監視体制のもと、市民はその備えに一生懸命労力を使い時間を使わされたのだ。

 それがかえって市民の犠牲を増やしたことを話している。

 折から秘密保護法が通り集団的自衛権が閣議決定された。

 民主主義と言いながら、そこには市民を守る立場はない。ミッドウェイ敗退後の政府の対応を思い出し、これは戦争の前夜に違いないと思ってしまう。

 原発の安全神話を振り撒いて、五十四基も建ててしまったことは、神国日本は強いのだと神風を信じさせられたのと同じ構図だと思う。ましては秘密保護というと、原発の中で何が起こっていても、放射能汚染の本当のことも、市民には知らせず、再稼動したり、汚染土をどう処理するかも秘密のベールをかけてしまうのだと疑いたくなる。

 戦争は嘘でも始まるが、一旦やってしまえば終結するのが難しい。十五年戦争もイラク戦争もそうだ。

 ただ、ひどい目にあったというだけでなく社会の仕組みを考えたり、知ったりすることが戦争を防ぐ力になると思う。

 お礼の感想文などでは

「平和がよいと思います」

「平和が続いてほしいと思います」

というのがよくある。

 平和な世の中であるために、私たちはどうしていけばよいのかを考え、行動していくことが大切で、そういう方向性を持ったガイドをしていきたいと思っている。

 体験者がどんどん減っていく。人として、生きることを踏みにじる戦争の罰を今少しは訴え続けていきたい。

 
「ひろば 京都の教育180号」お申込の方は、こちらをごらんください。
トップ ひろば一覧表 ひろば180号目次