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早川幸生の 京都歴史7教材たまて箱80
蘭学(日蘭貿易とカピタンの江戸参府)



              早川 幸生
   「ひろば 京都の教育」180号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」180号をごらんください。  
 

――洋学と蘭学

 蘭学と呼ばれるようになるのは江戸元禄期(一六八八〜一七〇四)から八代将軍吉宗の享保期(一七一六〜一七三六)の頃と考えられています。それまでは洋学と呼ばれ、始まりはキリシタン時代でポルトガルやスペインなど南蛮国から渡来した学術という意味も含め「南蛮学(または蛮学)」といわれました。

 鎖国後、スペイン・ポルトガルに代ってオランダ系の学術が伝来し研究されることになったのですが、十七世紀を通じては本格的な研究をされることはありませんでした。

 その糸口を開いたのは享保期(一七一六〜一七三六)の将軍吉宗の「実学奨励」でした。禁書制度を緩和して漢籍系西洋科学書の輸入を容易にしたのです。青木昆陽に蘭語学習を命じるなどして西洋学習育成に努めました。田沼時代にさらに関心が高まり『解体新書』の刊行となり実を結びます。この実績を持ち新学問の創出と考え「蘭学」とよびました。医学を中心に、草本学・天文学・暦学・航海術・地理学にも及びました。


蘭学遺跡

@ ――都の南蛮寺と南蛮医学(蛸薬師室町西入)――

 狩野元秀の描いた扇面図にある三層の南蛮寺は、蛸薬師室町西入ル織物問屋の真只中にあったようです。「此付近南蛮寺跡」の高札には、「織田信長の時代に耶蘇(やそ)会(イエズス会)によって建てられ(永禄四年・一五六一)、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった『南蛮寺』はこの北側姥(うば)柳町(やなぎちょう)の辺り・・・(中略)しかし天正十五年(一五八七)豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教を弾圧(後略)」南蛮寺もその時破壊されました。宣教師たちの行った医療活動は人々の心を動かし、わが国に新たな影響を与えるとともに、後の蘭学医学へと続くことになりました。

A ――伊藤仁斎の古義堂跡(東堀川通下立売上ル)――

 東堀川通下立売上ルを歩くと、突然土塀越しの白壁と老松が目に入ります。古義堂跡です。高札に「伊藤仁斎は寛永四年(一六二七)ここに生まれた。仁斎は初め朱子学を修めたが彼にはこれを排し・・・(中略)七十九才で没するまで約四十年間私塾を開き教授に務め、その門下生は三千人を数えた」とあります。

 三千人の中には、高級医師や草本家、近代医学の創始者と言われた青木昆陽等、初期蘭学者も多く含まれています。子孫は永く学業を伝え、学塾は寛文二年(一六六二)から明治三十九年(一九〇六)までの二百四十四年間に及んだのでした。

B ――山脇東洋観臓記念碑(六角通大宮西入ル)――

 江戸時代の京都牢屋敷跡(六角獄舎)を探し出すことはなかなか大変なことです。その跡地には京都感化保護院が建てられ、正門前には「近代医学発祥之地」と刻んだ石標があります。門内左一画にある記念碑には「日本近代医学のあけぼの山脇東洋観臓の地 一七五四(宝暦四年閏三月七日)」と刻まれています。

 杉田玄白らの『解体新書』出版のきっかけになった、京在住の山脇東洋が日本で初の「腑(ふ)分け(人体解剖)」を行った地なのです。術後実験記録『蔵誌』を出版したのでした。杉田玄白らの「小塚ヶ原腑分け」に先がけること十七年前のことです。

C ――山脇社中解剖供養碑(新京極三条下ル誓願寺)――

 新京極を三条通から五十メートルほど南に下り、左に折れ細い道を東に進むと誓願寺墓地に続きます。入口には「山脇東洋先生の墓」という標識があり、傍らの石碑には「山脇東洋解剖碑所在地」と刻まれています。
山脇東洋は罪人の死体を解剖して一ヵ月後に、誓願寺塔頭の随心庵で慰霊の法要を行いました。碑には十四名の戒名が刻まれています。山脇東洋以後も、京都の医家は解剖の前後に誓願寺か金戎光明寺で慰霊祭を行っています。これが今日、全国の医科大学において行われている解剖体慰霊祭のおこりと考えられています。


――カピタンの江戸上り――

 日本のオランダ商館長(カピタン)はオランダ連合東インド会社の日本支店の責任者でした。江戸期歴代のオランダ商館長は、徳川家からの通商免許に対する礼として江戸に上り、将軍に謁見して貿易の礼を言上して贈物を献上しました。

 オランダ人が江戸に行き将軍に謁見することが許されたのは、慶長十四年(一六〇九)のことです。駿河の徳川家康に謁見した使節は、ネーデルランド共和国総督からの書翰と贈物を渡しました。それに対し徳川家は通商免許の朱印状を渡し、平戸でのオランダ商館の開設を認めたのです。それ以来オランダ人の将軍謁見が始まったのですが、毎年江戸参府を行うようになったのは寛永十年(一六三三)からで、寛永十八年(一六四一)にオランダ商館が平戸から長崎の出島に移されてからも継続されました。途中に中断された時期もありましたが、寛政二年(一七九〇)からは五年目ごと四年に一度と改定されましたが、鎖国時代を通じて継続されました。そして開国前の嘉永三年(一八五〇)実施分まで、その総数は実に一六六回を数えます。

 カピタンは、江戸参府の時に幕府要人に会い貿易上の誓願を行うことを常としました。また随員も、出島以外で日本および日本人を知る唯一の機会として、意欲的に日本人との接触の機会を持ち行動しました。医師のシーベルトなどはその典型ということが言えます。帰路の京都でシーボルトは、一日でも長く京都に滞在し見聞を広め日本文化の資料を収集したく、カピタンの足の捻挫の仮病を画策したほどでした。日本人もまた同様に、鎖国の時代唯一の西洋人として彼達に接し、将軍・幕府高官らは海外事情を聴取し、学者らは定宿に出向き知的面談に臨んだのでした。もちろん各町の庶民も好奇心一杯の眼差しで彼達を眺め、細やかに記録し残しました。江戸での「長崎屋表口」の図や、京都の名所図会にその一端を垣間見ることができます。

 帰路のカピタン一行は、京都で往路の一宿一泊とは異り二泊三日滞在しました。阿蘭陀人洛東通行とよばれた東山界隈の見学先は、知恩院、祇園社、二軒茶屋中村楼、高台寺、清水寺、京都大仏、三十三間堂等でした。カピタン一行の京都東山見物の様子は、『拾遺都名所図会』(江戸期天明七・一七八七年出版)の木版挿画「祇園二軒茶屋の豆腐切りを見学する阿蘭陀人」と、もう一枚の「耳塚・阿蘭陀人耳塚を観る」図によく表現されています。


――京の阿蘭陀宿「海老屋」――

 京の阿蘭陀宿「海老屋」のことを知ったのは、新規採用教員として着任した、中京区蛸薬師木屋町の「立誠小学校」でした。明治初期に文部省の小学校設置に先立つ、京都独自の番組小学校(上京区・下京区合計六四校)の中の下京第六番小学校が前身でした。生徒と学校の歴史を調べている時、番組小学校時代は現在地ではないことがわかりました。旧校舎は、三条河原町下ル西側の大黒町南町と記されていました。その当時は「三川小学校」と呼ばれ火事で消失したための移転でした。その前の下京第六番小学校は、江戸時代、阿蘭陀宿「海老屋」が明治時代になり、使われなくなった宿の南奥のかなりの部分が「小学校」に提供されたことが記録されています。

 『角川日本地名大辞典』によると、「明治七年、三条と河原町の頭文字をとり三川小学校とし、同十年立誠と改称した」と記されています。立誠小学校の前身敷地であり、位置であったと理解することができます。また、三川小学校となる以前から、寺子屋式の教育場として阿蘭陀宿が一部使用されていたともいわれています。

 当時の大黒町付近の地図によると、京の阿蘭陀宿「海老屋」村上氏は、高瀬川の西側を入る「五の舟入」と至近距離(近くて二・三分)に位置しており、献上・進物品等の沢山の荷物の上げ浜・倉庫に最短で、高瀬舟の恩恵を十分に享受していたことが考えられます。

 「海老屋」と同じ町内に、幕末に活躍した坂本龍馬が結成した「海援隊」の京都営業所がおかれた材木商「酢屋」が現在も残されています。京都の阿蘭陀宿「海老屋」の厳密な位置や町内・屋敷の配置が判明したのは、現在の酢屋嘉兵衛氏宅に所蔵された安永八年(一七七九)の「大黒町絵地図」等の町内の絵地図類の存在のたまものといわれています。「酢屋」は幕末明治維新に活躍した「薩長土肥」の一つ土佐藩の材木商でした。同じ町内にあった阿蘭陀宿「海老屋」とは商売上のつき合いからだけでも、当時の他藩以上に西洋事情や情報を得ていたことが考えられます。坂本龍馬も影響を受けた可能性があります。

 オランダ商館長(カピタン)の江戸参府において、目的地の江戸をはじめとして、往路復路ともに幾日か滞在・宿泊した京・大阪・下関・小倉の定宿を特に「阿蘭陀宿」といいました。ポルトガルと貿易をしていた時は、「海老屋」は「ポルトガル宿」と呼ばれ、ポルトガル人を泊めた宿で、鎖国体制完成後頃から村上文蔵家が幕末まで勤めました。


――おらんだ練りやく(平井常栄堂)――

 京都の町の二条通りには多くの薬問屋や薬屋が今でも見られます。二条烏丸西入ルには薬祖神も祀られており、昔の繁栄を今に伝えています。この二条通の鴨川を渡った川端通に「平井常栄堂」があります。近くで育った僕は、この店のショーウィンドウを何回覗いたかわからないくらい見ていました。

 その理由は、小さなショーウィンドウの中は、世界中から集ったミニ動物園でした。ワニの頭骨、センザンコウの剥(はく)製、猿の剥製と頭骨、水牛の角、鹿の袋角、大サンショウウオ、マムシ等々。怖いのについつい覗く漢方薬の店でした。

 教員になって看板調べをした時、二条川端下ル「平井常栄堂」に屋根看板があったのを思い出し、カメラを持って出かけました。年季の入った屋根看板を望遠レンズで覗いてみると「懐中良薬万能『紫金錠』・たんせき『おらんだ練りやく』の文字が読み取れました。大人になるまで店の中に入ったことがなかったので気がつかなかったのですが、注意深く見てみると、立派な軒先に下げる「下げ看板」や店先につい立のように置く「立て看板」もあるのでした。下げ看板には「おらんだ練りやく・苛烏憐(へうれん)・BOST・MIGEL・御免」の文字が彫られていました。オランダ語のようです。

 「平井常栄堂」の八代目平井正一郎さんに「おらんだ練りやく」のことを尋ねてみると、やはり店一番の人気商品だったそうで、咳や喉の痛み用の蜂蜜で練った、咽喉への塗り薬だったそうです。名前は「苛烏憐(へうれん)」。名の刻まれた立派な下げ看板が今も店に残っています。

 「平井常栄堂」は、元禄十四年(一七〇二)に創業した和漢薬店で、もともとは幕府や大名につかえる医者として、御所や本能寺に出入りし薬の処方もしていたことが、和漢薬品店を開くきっかけになったそうです。

 京都や大阪では江戸時代に、盛んに「おらんだ○○」という名の薬が売られていたようで、オランダ医学との関連を連想させます。店内には、安政五年の銘のある、当時では珍しい銅版画の「鴨川二条川端常栄堂図」も見ることができます。

 
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