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  墓誌で探る旧伊勢田村の戦争


                  憲法第9条を守る伊勢田の会 岩田行平 
    「ひろば 京都の教育」170号では、本文の他に写真・絵図などが掲載されていますが、本ホームページではすべて割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」170号をごらんください。
 
はじめに

 二十年以上も前のことになりますが、ある教育誌に掲載された実践報告に目をみはりました。それは地域の戦没者のお墓を子供たちと調べ、戦没地を地図で確かめ戦争と平和について考えるという夏休みを利用したとりくみでした。この活動は地域でも反響を呼び、大人たちもまき込んだ戦争と平和を考えるとりくみになっていったというものです。

 定年退職を機に伊勢田9条の会に参加しつつ思い出されたのが先のとりくみでした。会として一度共同墓地の戦没者のお墓を調べ、遺族の方のお話もうかがおうということになりました。一昨年(二〇一〇)三月に墓誌の記録をはじめ、その後遺族の方を訪ねて聞きとり調査をいたしました。昨年(二〇一一)八月の伊勢田平和のつどいで報告をいたしましたが、以下はその概略と感想です。なお紙幅の都合上、墓誌および聞き書き等はすべて割愛しています。関心がおありの方は、左記伊勢田9条の会宛、照会下さい。


 一、伊勢田墓地の概要と戦死墓

 伊勢田墓地(面積一八七一u)には、近世以来と推定される約七〇〇基のお墓があり、うち戦没者のお墓は四〇基(被祭祀者四十三柱)です。

 日露戦争の戦死墓(写真1、@〜B)日中戦争初期(支那事変)(写真2、C〜E)アジア・太平洋戦争期(日中戦争期を含む)(写真3、F〜43)となっています。

 なお、戦没者のお墓は一般に軍人墓と呼ばれますが、兵士たちの生活意識(註1)とその死の特異性を考え合わせ、ここでは敢て戦死墓と称します。


 二、被葬者はいつ、どこで戦死したのか

 被葬者がいつ、どこで戦死したかを墓誌から読みとり、表(1)・(2)と図(1)に表しました。なお図(1)では、戦死した西暦年月日順に番号を付して地図上に記し、戦死地域の全体像を示しました。

(表1)戦死時の年齢(行年)と戦死者数
    年 齢
戦死年
〜19
 
20〜22
 
23〜27
 
28〜37
 
38〜
 

 
1937年        
1938年        
1939年        
1940年        
1941年          
1942年          
1943年        
1944年     18
1945年 15
1946年        
18 13 40

 
表は、1937年当時の兵役区分と年限によって分類しました。当時、現役は満20歳から2年間(海軍は3年)、予備役は5年4ヶ月間(海軍4年)、後備役10年間(海軍は5年)とされていました。なお、伊勢田墓地に祀られている戦死者の墓石に刻まれている最年少は18歳、最高齢は43歳となっています。
ただし、日露戦争に関る墓石には戦死時の年齢が誌されていないため、それをはぶいています。

(表2)戦死西暦年と戦死地域
      
 地 域
1904
 
1905
 
1906
 
1937
 
1938
 
1939
 
1940
 
1943
 
1944
 
1945
 
1946
 

 
中 国
 
戦死 1 1   1 1       2 1   7
傷病     1   1 1     3 1   7
フィリピン
*注1
戦死                 5 3   8
傷病                        
ビルマ

 
戦死
 

 

 

 

 

 

 

 

 
2
 
1
 
1
*注2
4
 
傷病                   1   1
ニューギニア
   
*注3
戦死                 2     2
傷病                 1 1   2
太平洋
 
戦死               1 3 1   5
傷病                        
沖 縄
 
戦死                   4   4
傷病                        
本 土
 
戦死                   1   1
傷病             1     1   2
不 明
 
戦死                        
傷病                        

 
戦死 1 1     1     1 14 11 1 31
傷病     1   1 1 1   4 4   12
総 計 1 1 1 1 2 1 1 1 18 15 1 43
表は、戦死者の戦死または戦病死された年と、その地域を区分し、一覧表にしたものです。フィリピンでの戦死者(*注1)8人中の7人は、レイテ島に於けるものであり、ビルマでの戦死者4人中、1人(*注2)は、シンガポールに於けるものです。また、ニューギニア(*注3)と区分した中には、ビスマーク諸島(ニューアイルランド島)、ソロモン諸島(ブーゲンビル島)が入っています。


 三、戦死墓の調査結果が教えてくれること

 日露戦争の被葬者の戦死地(写真1、図1の@〜B)は、いずれも中国(当時は清国)です。日露戦争は、祖国防衛戦争すなわちロシアに対する自衛のための戦争であったという考えもあるようです。しかし、他国へ軍事侵出して彼の地で軍事行動を展開するというのは、どう考えても自衛とは言えないと思います。

 仮に日本の領土・領空・領海にAなる他国の軍隊が侵出してきて軍事行動をとりつつ、これは我がA国の自衛のための戦争であると主張して果たして通るでしょうか。ありえない話です。

 ついでに言えば、日露戦争では日本軍の一部は、当時中立宣言をしていた大韓帝国・仁川に上陸、制圧後、日韓議定書を調印させ、日本軍の軍事行動に必要な便宜をはかることを認めさせたうえで、朝鮮半島を北上、鴨緑江を渡り中国へと侵出しました(註2)。日露戦争は先ず朝鮮侵略を果たしたうえで、中国へ侵略の駒を進めた戦争であったことがわかります。にもかかわらず、日露戦争は自衛のための戦争であったというのであれば、それは一種特別の自衛観からするものというほかありません。

 <支那事変>(写真2)のお墓は規模も大きく、葬儀も村を挙げて営まれ(写真2のDE)その様子は当時の郷土紙でも大きくとりあげられています(註3)。戦死は名誉と称えられ、戦死者の事蹟や軍歴・戦歴が墓石に刻され、後世に永く語りつぐものとして祀られたと思われます。戦死墓は、死者のお墓であるだけでなく、顕彰碑であったことがうかがわれます。

 アジア・太平洋戦争期の戦死墓(写真3)には、一基二柱連名で祀られている墓石が三基(JN・O22・2535)あります。兄弟で出征し、ともに亡くなった遺族が少なくとも三家族あったということになります。昭和初期の字伊勢田は一二〇戸程の集落だったそうです。

 アジア・太平洋戦争における戦死には餓死・海没死・特攻死という三つの特徴的な死があるといわれます(註4)。私はこれに空襲死を加えてもよいのではと思っています。伊勢田の戦死者にもこれらの死を体現している方がいます。餓死M、海没死I、特攻死K29、空襲死41です。また、根こそぎ動員の例として学徒出陣や少年兵、老兵病兵弱兵の召集、学徒動員に挺身隊などが指摘されますが、伊勢田でもそれらの例にもれぬ動員の行われたことがわかります。JKS2729313335404143等です。

 表1を見ますと、一九四四年以降伊勢田出身兵士の戦死者は激増し、全戦死者四〇人中三五人、実に八五%の方が一九四四年以降に戦死しています。この激増する戦死の背景には何があったのでしょうか。一九四三年九月、御前会議で絶対国防圏が決定されますが、翌‘四四年六月、マリアナ沖海戦を機に戦線は崩壊します。以後の戦争継続は誰がどうみても一〇〇%勝ち目のない政策となりました。この絶望的抗戦期に兵士の大量動員が行われ、圧倒的多数の兵士たちの生命が失われたのです。戦死者の年齢が高くなっていること、少年兵の戦死も目にとまります。動員はすでに限界を超え、戦時召集の現役・予備役のみならず後備役や少年にまで及びました。

 表2・図1を見ますと、伊勢田出身の兵士たちは、日本軍が展開したアジア・太平洋のほぼ全域にわたって送り込まれていたことがわかります。京都を中心に編成された兵団が派遣軍の主力として扱われていたということでしょう。そういう視点であらためて表2をみますと、中国大陸での戦死者が多いことに気づきます。アジア・太平洋戦争の主戦場が中国大陸にあったことを示すものと思われます。アジア・太平洋戦争というと、目はつい東南アジアや太平洋地域に向きがちですが、戦争目的は一貫して中国大陸を支配下に置くことにあったといえます。「暴支庸懲」のための<支那事変>は「ABCD包囲網に対する自存自衛」のための<大東亜戦争>を必然たらしめたということになるでしょう(註5)。この点は当時の伊勢田の人たちのあいだでも共通に意識されていたのでしょうか。日中戦争期の戦死者はアジア・太平洋戦争期の戦死者とともに共同の墓域に葬られています。(写真3)

 旧伊勢田村出身兵士の戦死は日露戦争からアジア・太平洋戦争にいたる戦死者の縮図であっただけでなく、国の戦争政策からさらには戦前・戦中の日本という国の姿・形までも映す鏡であったと思います。絶望的抗戦期の大量動員・大量戦死にみられるように、人間の生命は「公」のために文字通り鴻毛よりも軽く、塵芥の如く戦場に投げ棄てられました。まったく無意味に膨大な量の人間の血が流されたのです。このように非人間的に扱われ、人間性を否定された兵士たちが、その送り込まれた先でどのように振る舞うことになるのか、想像に難くありません。日本軍による加害の数々はその当然の結果でもあったと思います。


 あとがきにかえて

 一昨年(二〇一〇)六月、沖縄県南風原町において第一四回戦争遺跡保存全国シンポジウムが開かれました。メインテーマは「人からモノへ」です。戦争体験者の高齢化とともに、次の世代さらに次の次の世代へ、戦争の悲惨と平和の尊さをどう語りつぎ、受けついで行くことができるのか、戦争遺跡すなわちモノを介して戦争と平和を語らしめようというものでした。

 戦死墓は戦争遺跡ではありませんが、戦争の実相を明らかにし、平和の尊さを確かめるための貴重な歴史的“生き証人”ではないかと思います。戦死墓を訪ね、記録し記憶し語りつぐ、そして戦争と平和を考える。かつて戦争を支えた草の根ファシズムに対抗する我が郷土からの、いわば草の根平和運動・民主主義運動の一助となり得るのではないかと思ったところです。ぜひとも一度ご自身の近くの墓地やお寺の戦死墓を訪ねてみて下さい。それが、無念・非業の死を遂げざるを得なかった人びとへの弔いにもなろうかと思います。


脚註

註1 藤井忠俊『兵たちの戦争−手紙・日記・体験記を読み解く−』朝日選書
註2 山室信一『日露戦争の世紀−連鎖視点から見る日本と世界−』岩波新書
註3 『郷土』昭和二年四月十五日付、第一号創刊、昭和十七年三月三十一日付、第一七七号最終刊、旧小倉村(字伊勢田を含む)の郷土紙、編集兼発行人池本文次、印刷人森下茂、発行所郷土会
・ 「戦病死者村葬規定」の記事、昭和十三年二月十五日付、第一二八号
・ 写真2Dの記事、同年五月十五日付、第一二九号
・ 写真2Eの記事、昭和十四年一月十五日付、第一三九号
註4 吉田裕『シリーズ日本近現代史Eアジア・太平洋戦争』岩波新書
註5 吉田裕 前掲書
   家永三郎『太平洋戦争』岩波書店
  




 
 
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