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早川幸生の

京都歴史教材 たまて箱(58) -笠と傘-

――人を雨雪・太陽から守り続けて

                  早川 幸生


 ひろば 京都の教育」158号では、本文の他に写真9枚が掲載されていますが、本ホームページでは割愛しています。くわしくは、「ひろば 京都の教育」158号をごらんください。


 「かさ」「かさ」と一言で言いますが、調べて見ると二つの種類に分けられることが判りました。漢字で書くと「笠」と「傘」です。

 一つ目の「笠」は、い・すげ・竹などの植物性の材料で低円錐形に編み、ひもを付けてかぶったもので、雨・雪・日ざし時には顔を隠すために用い、日本だけでなく、中国、韓国、東南アジアの各地に広く分布しました。江戸時代になり女性の髪型が笠ではくずれやすく、手にさす傘が流行し始めたとも言われています。

 傘は、直接頭にかぶる笠と区別するため、「さしがさ」とも言われます。傘と笠とは関係が深く、仏像の上にかざされるてんがい天蓋や、宮廷の儀式に用いた「きぬかさ」とも共通する面があると言われています。唐傘とは、唐・韓から伝来したもの、こうもり傘は江戸末期にイギリス商人によって伝えられたという、海外から伝来した品物の一面も持っているようです。


――すげ笠――

                          ※写真  @A(略)

 「夏も近づく八十八夜
  野にも山にも若葉が茂る
  あれに見えるは茶つみじゃないか
  あかねだすきに すげの笠」

 音楽の教科書でおなじみの「茶つみ」の一節です。歌いながら二人で手遊びもしますね。

 伏見区にある向島小学校には、創立百周年記念に作られた郷土資料室があります。三・四年生の地域学習や昔の道具、六年生の歴史学習の際、近隣の新設校からも見学者があり、地域学習には大切な学習の場となっています。

 向島小学校に着任してさっそく郷土資料室を覗いたのでした。すると、展示物は大別すると三つの分野に分けられることに気がつきました。  一つは、郷土資料室のあるどの小学校にも見られる、昔の農業道具や生活道具です。

 二つ目は、さすが向島と思った「お巨ぐら椋池」干拓前の、淡水産業の際に使用されたと思われる、和船のかい櫂や、打ち網、取れた魚を入れるびくや、魚を生かしたままい生けす簀がわりに使われたという大きなだるま籠などでした。  そして、三つ目がなかなかわからなかったのですが、百五十年位前からの歴史のある、向島地域での宇治茶作りに使われた、いろいろな茶の栽培や製茶の際に使われた道具の数々でした。茶つみ籠、すげ笠、茶樽、芽ぞろえ、さまし籠、選別机、返し、天秤計り等です。

 五年ほど前から、四年生の総合的な学習で「地域の魅力をさぐる」というテーマで「宇治茶」に取り組んでいます。地域の中西茶園さんや、京都市東部農業指導所の、指導や助言、援助をいただき、一年を通し体験学習と創作活動に取り組みます。体験学習をちょっと紹介すると、五月の茶摘みと工場見学、六月の手もみ製茶と試飲会、九月の茶の苗木の植樹、一月の茶臼を使った抹茶作りと、その抹茶を使った茶菓子作り(今年は抹茶ケーキとクッキー作り)、そして二月の茶香服(ちゃかぶきと呼ばれる、お茶を飲み比べてお茶の種類を当てる、全国のお茶の産地に伝わるゲームのような行事)の体験と三月の茶畑の草引き等です。

 去年の四年生は、特に一年を通して取り組んだことや、初の茶の木の植樹や茶香服を体験したこともあり、「ぜひより多くの友達や地域の人に伝えたい」という意見が高まり、学習発表会で総合学習の学年の取り組みを発表することになりました。歌「茶つみ」の紹介や、中国から日本に茶の栽培が伝わったこと。右京区高雄で始まった茶が、向島や宇治にどのように広がったのかは寸劇で、という具合の内容でした。  その中で、郷土資料室の茶作りに使う道具の紹介の案が持ち上がりました。担当の希望をとると、男子ばかりのグループが道具の係になりました。写真がその時の様子です。すげ笠を実際にかぶって見せるなどし、低学年の児童も楽しく集中して鑑賞しました。  地域の皆さんが、寄付して下さった道具の使い方や、名前が判り、活用できたことが一番の収穫であったと考えています。


――ばっちょ笠――

                         ※ BCD(略)

 山科区の山階南小学区に「妙見道」という旧道があります。都名所図絵にある妙見堂に続く道です。旧醍醐街道と三ノ宮神社近くまでの間だけ、道幅が三メートルと一定になり写真のような旧家が続きます。

 家庭訪問の時、その街並の中でも一段と古い土壁のお宅がクラスの広瀬君のお家でした。一通りのお話の後、おじいちゃんのお話と、屋内の案内が始まりました。僕の目は、なげしにかかった槍やさす又等に釘付けでした。

 土壁は江戸末期の建造物とのこと、屋敷のいたみもひどく近々改築の予定とのことで、説明にも熱が入ります。話の中で判ったのですが、広瀬君宅は、山科の代官・つち?はし橋家の屋敷だったのです。そして、玄関を入った正面にかかっていた大きな笠は、明治になり天皇が東京に行く際、随行した?橋代官がかぶったものとのことでした。社会の教科書や資料集でしか目にふれなかった「東京遷都」が歴史上の文字だけでなく、具体的に山科に生きた一人の人を通して感じることができた一時でした。

 昔、武士は普通旅や行列などでは手に持つさし傘等は使用しなかったとのことで、そのばっちょ笠もかなり幅広く直径八十センチ以上あったように記憶しています。真竹の竹の皮の内側を外にしっかり張られており、それを太い糸で円型に細かく、美しく縫われていました。とても軽く、一五〇年近く経った今も使えそうに感じられました。今は、枚方のつち?はし橋家に保存されているとのことです。


――知恩院の忘れ傘――

                        ※ EF(略)

 通学していた東山区の旧粟田小学校は、旧東海道に面し、京の七口の一つ「粟田口」にありました。学校の南隣に青蓮院があり、その続きに、知恩院、円山公園、東大谷、高台寺、清水寺へと、一年を通して観光客が訪れる京都の一大観光スポットでした。

 高学年になると、学校の運動場以外で、自分たちだけが自由に使える、野球のできる広場捜しに走り回りました。当時(昭和三〇年代)は戦後のベビーブーム(今の団塊の世代)が一斉に野球少年になったような野球ブームでした。野球道具を自転車に積み校区を走り回るのですが、どこも先客がいるという毎日でした。  仲間の一人が口を開きました。「知恩院さんの境内どうや」「えっ、知恩院さんのどこや」「本堂の東側、絶対、誰も来いひんで」

 即みんなで現地を見に行きました。提案した彼は、お寺さんの子どもでした。御影堂の東の長い石段を上った南側の一心院が、彼の生家でした。その広場は、彼の毎日の登校路だったのです。早速練習が始まりました。一心院への石段の上り口をホームベースにすると、南北に細長い広場だったのでライト線が短くなりました。極力ライト側には打たないように注意したのですが、月に何回かは御影堂の外縁にボールが上がりました。仲間の一人が捜しに行ったのですが、なかなか見つからず、チーム全員で捜しに行った時のことです。御影堂の外縁を歩き出すと、「キュッ、キュッ」「キュッ、キュッ」と床板が鳴ったのです。「これ何、なんでこんなんいうの」「これはうぐいす張りや。ドロボーよけ。誰か歩いてたら音がするしすぐわかるやろ」「へぇ」「なぁ、上の方に何かバットみたいな物あるけど、あれ何や」「あれは、左甚五郎の忘れ傘」「え〜、何であんなとこに傘忘れはったんや」「そこまでは知らん」「何でやろなぁ」

 ボール捜しのおかげで、大人になってから知る知恩院の七不思議の二つに一度に出会ったのです。うぐいす張りの廊下と忘れ傘、それに日本一大きい釣鐘が加わると知恩院の三大名物にもなります。

 「仰向いて傘の故事聞く日永かな」という句がありますが、いつ知恩院に行っても、必ず御影堂の外縁で忘れ傘を見上げる人を見ます。忘れ傘の伝説を少し紹介します。

 御影堂を建てた霊厳上人が御影堂の廊下のところに来ると、御影堂ができたため自分の住居を失った一匹の白狐が現れて、安心して住める場所を作ってほしいと頼んだとのことです。すると上人は「お前のために、山上にお社をこしらえてあげよう」と、濡髪堂を建てたとのことです。この時、白狐が忘れた傘がこの傘だそうです。白狐は棲家を作ってもらったお礼に知恩院を火災から守ると約束をしました。その約束のしるしが忘れ傘なのです。  なぜ傘。それは傘が要る時は雨の日。雨は水であり、傘は水を呼ぶ。このことから忘れ傘が、火災から知恩院を守っているとのこと。防火・消防施設のない当時の人々の、火災に対する恐れや願いを感じさせる伝説ですね。


――和傘――

                            ※ GH(略)

 初めて勤務した中京区木屋町蛸薬師にあった立誠小学校は、高瀬川沿いに建つ、明治の初等教育制度開始と同時に京都で創建の始まった、旧番組小学校でした。校区には、昔から続く老舗や専門店が多く点在していました。

 四条河原町上ル東側に、傘・ちょうちん提灯の店、辻倉さんがあります。以前は、先斗町や木屋町に和服姿が多く見られ、梅雨や雨の日には、手に和傘(蛇の目傘や番傘)を手にした人を多く目にしました。河原町、新京極、寺町各通りが校区を縦断していたので、一年中買い物客や国内外の観光客や修学旅行生で、混雑していました。特に春と秋の修学旅行シーズンの夜は、近隣の修学旅行生専門の旅館から大量の小・中・高生がこの地域に集中しました。「故郷の方言が聞きたくなったら、新京極に行くといい」と言われたくらいでした。

 大量の番傘を目にしたのは、修学旅行シーズンの雨の夜と梅雨時でした。手に手に各旅館の置き傘を持って買い物に集まったのです。「いろは旅館」「日昇館」「鶴ノ井別館」等各修学旅行生の宿泊している旅館がすぐ判ったものです。各旅館の宣伝効果抜群でした。

 三十年ぶりに辻倉さんを訪れました。お店の中に入ると、プーンとエゴマの油のにおいがします。一見、京都の伝統産業かなと思われた和傘ですが、竹割りから仕上げまで全て岐阜県でした。良い竹、良い和紙、そしてエゴマが採れる。この三つが和傘の三大要素とのことでした。そして十数人の職人さんによる完全分業で今も作られているそうです。

 骨師と呼ばれる人により真竹が割られます。骨師は和紙を張った後も、傘を閉じた姿が元の一本の竹の姿になるよう計算します。  次に、骨に和紙を張る張師も、傘を閉じた時、紙がしわにならず美しい円筒形になるよう丁寧に紙が張られます。

 最後は仕揚げ師の手で、エゴマから採れる油を塗り、天日で乾燥させます。完全に乾燥したら表面に漆を塗って完成だそうです。

 和傘の魅力は、閉じた姿の美しさとも言われます。一本の竹から生まれ、また元の竹の姿に戻ってゆくところだと言われています。

 布地に比べ破れ易いとか、かさばるとか、高価等の点から和傘の需要は今一とのことですが、日本の伝統産業として、また日本文化の育んだ美意識にふれる一つの入口として、いつまでも人々の目にふれてほしい逸品です。

 ぜひ辻倉さんのお店のウィンドウショッピングをおすすめします。美濃紙のランタンもすてきです。

  
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