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総論
ネット時代を生きる子どもの困難と可能性と


                 中西新太郎(横浜市立大学)



1 「子ども」をめぐる情報環境の変化

 ここ数年の間に目に見える子どもたちの変化はといえば、おそらくだれもが、ケータイ画面を一心に覗きこむ高校生のすがたを挙げることだろう。九九年のiモード発売以後、高校生のケータイ所持は激増し、あっという間に生活の必需品と化した。いつでもどこでも利用できる通信手段として画期的なケータイは、電車内での通話・メールをめぐる議論をともないながらも、子どもたちの日常風景に溶けこんでしまった。

 もっとも、高校生を「子ども」と言い切ってしまうことに躊躇がないわけではない。子どもと大人の関係はいま大きく変貌していて、大人のするたいていのことを経験してしまう高校生たちを子どもとはみなさない風潮*も拡大しているからである。また、小学生を念頭におくと、ケータイ利用はまだ普通とは言い難いし、使い道もかぎられているので、子どもという言葉でどの程度の年齢階梯を思い浮かべるかによって、変化についてのイメージもちがうと思われる。ただ、それにしても、中学生のケータイ所持率が五割程度に達していることや、ケータイにかぎらずインターネットまで範囲を広げると、小学生のあいだでもメールやサイト閲覧などが増えていることは事実である。佐世保の小学生殺人事件にさいして小学生によるHPやチャット利用が世間の反響を呼んだが、ネット社会への小学生の参加は特殊な、珍しい事例ではない。もちろん、中学生のネット利用は、「チューボー」という蔑称が以前から存在してきたように、普通のことがらになっている。要するに、おおむね思春期を迎えた子どもたちをとりまく情報環境が九〇年代末からおそろしい勢いで変化した、ということなのである。そして私たちはその変化を目の当たりにしながら、現実にすすんでいることがらについての全体像をつかめぬままでいる。ケータイ利用を考えればすぐわかるように、新しい情報環境のなかで生きることに「熟達」しているのは青少年の方であり、大人の知らない世界がそうやってますます広がっている。ぱどタウンというサイト上の仮想タウンに集う「ぱど厨」の世界はまるでネット時代の秘密基地のような様相を呈している。

 生活のより大きな部分がそのようにバーチャルな空間で占められるようになることに不安を覚え、とりあえず禁止しておこうといった方策は安易であろう。「秘密基地」の魅力は大人にも十分想像できるはず。ネット世界やケータイ利用について若い世代の感じている魅力、目新しい経験のすがたについてよく知ることが肝心で、そうしなければ現代の新しい情報環境が子どもたちに負わせている困難や危険についてもリアルにとらえることはできない。否応なしにその環境を生きる子どもたちが紡ぎ出している情報文化、情報行動をつかむことが先決問題なのである。


2 情報ツールの革新がもたらす文化行動の変化

 ケータイやモバイルパソコンがもっている、「一人ひとりがいつでもどこでも使える」という特徴に注目してみよう。これらの情報ツールはパーソナルメディアという性格をもち、私たちがアクセスできる対象、世界を飛躍的に広げてくれるし広げてしまう。ケータイの利用法が何よりもまず友だちのコミュニケーションに向けられているとしても、ツールとしてのケータイはそれだけに尽きないはたらきをもっている。次節以下では友だちづきあいの世界にさしこまれた新しいコミュニケーション手段のはたらきに焦点をしぼって考えるが、その前に、ケータイやパソコンの多様な機能について確認しておきたい。

 まず、学校文化とのかかわりでいまや重要な意味をもち影響力をもつレファランス機能について。ネットにアクセスできさえずれば、いつも図書館を持ち歩いているのと同じ状態になる。たとえば、複雑な交通径路をたどって出かける場合でも、最短経路や安い径路を教えてもらうのはごく簡単だ。わざわざ出かけて調べることも覚えることも必要がない。また、ウィニーをめぐる事件から垣間みえるように、ディジタル化された情報がいくらでも入手できる、つまり、情報を好きなときに自由にゲットできる状況の出現が、知識の習得(収集)と捨象との関係を変えてしまうことも推測できるだろう。

 次に、TUTAYAにCDを予約したり、ライヴのチケットを買ったり……といった機能についても注意しておきたい。ネットオークションも同様の機能で、この面でのネット利用はハイ・ティーンのあいだでも相当に普及している。青少年がネット上でぶつかる具体的リスク(迷惑メールは別として)のうちもっとも多いと思われるのは、身に覚えのない料金請求すなわちネット上の振り込め詐欺である。対面の手続きを経ない経済行為が広がれば広がるほど、この種の危険も拡大する。そしてこの場合、真っ先に被害に遭いやすい存在が子どもである点を見過ごしてはいけない。もっぱらビジネスチャンスの拡大だけをめざすネット利用のあり方、大人社会の商魂が問題にされるべきだ。そしてこういう取引機能は現実世界とバーチャル世界との新しい関係をつくりだしている。リネージュやFFXIなどネットゲーム内のレアアイテムがリアルマネーで取引されるといった事態がこの結果生まれる。ガチャガチャで手に入れた稀少アイテムを売ったり買ったりする取引は以前から行われていたことであり、そういう関係がまったく新しいわけではない。ただ、ネット上での取引関係の習熟は、子どもたちが日常の生活圏でいとなんできた、たいていは遊びの延長にすぎぬ「取引」を「発展」させていわば企業化させてしまうのである。


3 未知のだれかと出会う経験

 未知の相手と接触する可能性の飛躍的拡大は、大人たちにとってはまず「出会い系サイト」に子どもたちが引きこまれる危険として意識されたようにみえる。実際、性的交際を誘う迷惑メールがあふれかえる現状を親たちが不安に思うのは自然のこと。他の文化コミュニケーションの場合と同様に、ネット上のコミュニケーションについても広い意味での規制問題があり、これにかんする社会的検討の必要があることは確認しておきたい。ただし、それはネット世界が開いた新しい出会いの可能性そのものを塞ぐということではない。そもそも出会いの可能性をすべて塞ごうとしてもそれは無理な相談なのである。

 ネットゲームもふくめ、インターネット利用は国籍や世代をこえた未知の出会いを可能にした。教室やせいぜい地域の生活圏を遠く離れることのなかった子どもたちのコミュニケーション範囲はネット世界では驚異的なスピードで拡大してゆく。国籍も世代も性別もこえるというのは決して絵空事ではない。ネットゲーム上では日本語と英語が飛び交う世界が出現し、また、三〇代、四〇代の大人と中高校生とがチャットに興じる(あるいはまじめに語り合う)場面も存在する。世代間のコミュニケーションが狭くかぎられてきた日本社会のありようからすれば、それは新鮮な変化だといえる。危険なだれかと出会う可能性だけでなく、有益なだれかと出会う可能性も広がるのである。

 ネット上のバーチャルな出会いがだからこそ有り難い、よかったと思えるのは、現実の生活圏ではどんなに孤立していても、ネット社会では自分の仲間の一員と思えるしそう認められるような場所がまた別に見つけられるときだろう。不登校でも、自室に閉じこもりきりでも、他者とつきあえる場所がひらけている。たとえバーチャルでも自分の苦しさを内に閉じこめるままでなく、外にひらいてゆくことの解放効果は大きい。周りとは合わない、コスプレなりアイドルファンなりの趣味だって、ネット社会では必ず同好の友だちを見つけることができ、それが安心感をもたらしてくれる、わかりあえる(と感じる)。  そんなネット世界のなかで「こんな私がいるよ」というメッセージを発信したくなることも、それだから理解できよう。近年、男性とくらべこれまでネット社会で活動することの少なかった若年女性を中心に、ブログ日記が爆発的と言ってよいほど広がり始めていることも、この意味で当然だと思う。知ってもらえる、興味を持ってもらえるだれかに近づく確実で魅力的なもう一つの世界が出現した、ということなのだ。

 もちろんネット社会は匿名が許される社会――ただし自分の情報が絶対に知られないというのは幻想であるが――、「名無しさん」として振る舞うのが現実社会よりもずっと容易な社会であるから、自分に近づくだれかが危険な存在であるかもしれない。そのリスクはつねにつきまとう。こちらも匿名でさまざまなサイトに近づける気軽さがあると同時に、たとえばストーカーにつきまとわれるといった危険も覚悟しなければならない。そこで、未知の人間同士が出会うネット社会の集まりには、たがいの安全性を高めたり安心感を醸し出すために特有のコード(コミュニケーションルールや話法、規則など)が出現する。会員制クラブのようにはっきりと参加者を制限する場合から、「荒らし」にあわない工夫、近づきやすさや近づきにくさの案出等々、出会いのかたちをコントロールする文化が育っているわけだが、それらについてきちんと理解することは難しい。バーチャル世界でのつきあい方の文化として、これも丁寧に研究しなければならない課題だ。


4 ネット時代の友だち関係

 思春期の少年少女にとって、ケータイは、友だち関係の形成と維持とに必要不可欠な手段と感じられている。多い子どもで一日に数十回から百回をこえる交信をするとなれば、のべつまくなしにケータイ画面を覗いているすがたにも納得がゆく。メモリにやはり数十人からのアドレスが入っているのが普通なのであるから、いつでも連絡をとれる便利さがひっきりなしの交信になるのは少しも不思議ではない。前節でつきあい圏が広がることを述べた。その結果、狭い範囲での友だち関係のあり方が崩されることは不可避で、たんに関係の範囲が広がるのではなく、友だちの人数が増えるとともに、友だちというカテゴリー自体もつきあいの内容もおそらくは変容する。たとえば、同じ学級にいるから友だちのはずだというような大人の思いこみは通用しない。隣の席の子については何も知らないのに、趣味が同じサイト上の友だちのことならよく知っている、といった変化が生じるのだ。

 数十人の「友だち」が現実に一緒になって遊び始めたなら私たちは目をむくにちがいない。そんな目にみえる集まり方とはちがうかたちで、しかし、以前よりもずっと大集団の友だちがたがいをつなぐコミュニケーション・ツールで維持され、はたらいている。それが普通であるとき、この「友だちの輪」から外れるのは怖い。どこにもそういう「友だちの輪」がもてないとなるとさらに怖い。現実世界ですぐ隣にいるからといって友だちとは思われないし扱われない、そのうえ、自分をそれなりに友だち関係のなかに組みこんでくれる保障もない――要するにそれは徹底した孤立状態におかれるということ。極端な想定に思えるが、いじめやリストカットなど、孤立にまつわる深い困難の事例からはそんな様相が実際に浮かび上がってくる。友だち関係は現代日本の子どもたちが毎日を生きるうえで不可欠なセキュリティ・ネットとしてはたらいているのである。

 ひっきりなしの交信は、だから、このセキュリティ・ネットをせっせと維持する努力にほかならない。来たメールには即レスが原則で、遅れたらそれなりの言い訳を用意しないことには相手が気にする。メールの返事にも絵文字の使用などいろいろと配慮が必要、クラス全体へのメールではさらに気を遣わねばならない。いまの子どもは社会性がないなどと見当ちがいの説教を大人はよくするが、メールのやりとりにみられる過剰なほどの配慮には、大人の想像とはちがう「社会性」の出現がうかがわれる。日常コミュニケーションがケータイ環境化すればするほど、こうした「配慮の文化」が広がってゆくのである。

 大きくいって情報環境の変化が子どもたちに要求する配慮や気遣いの拡大と焦点変化とは、それが面倒でしんどいという感覚もまた広げざるをえない。ケータイを生活に必要不可欠と感じながら、同時に、ケータイを持つことでストレスを感じる高校生たちは少なくない。だれかがしくんでそういう配慮関係をつくりだしたわけではないから、どうしたらストレスから逃れられるかもさだかでない。つねにたがいの状態(ポジション)をつたえあうセキュリティ・ネットのわずらわしさから逃れると、とたんに透明人間のようにだれからも認知してもらえない危険が生まれてしまう――このジレンマは、出会いの可能性を地球規模まで広げたネット時代がまた、安心できる出会いの難しさも生み出していることを示唆するものではないだろうか。


5 ネット時代を豊かに生きるために

 文化には本質的にバーチャルな要素がふくまれており、バーチャル世界を生きることは人が文化をもつ以上当然なのである。重要なのは、たがいに顔をつきあわせる現実世界とネット社会のような、よりバーチャルな世界との新しい関係を知り、その両方を生きることがより豊かな人間関係を築いてゆけるようにすること。そう考えるなら、現実社会で子どもたちがどれだけ豊かな、安心できる関係をつくっているか、大人たちがそれをどれだけ支えているかについて無視することはできない。ネット社会の危険性だけを取り上げてあれこれ対策を講じても、それだけでは成長の困難を解決できないのである。この点を踏まえつつ、新しい情報環境がもたらした「つきあい方の難しさ」に焦点をしぼり、その難しさを逃れようとする試みの、これまた難しさ、困難について最後に触れてみたい。

 前節で述べたネット時代のつきあい方の難しさは、「何もせず何も言わなくても気楽に一緒にいられる関係づくりの難しさ」と言い換えることができる。「まったり」という表現がこれに当たっているが、「何もしないでただいること」はとても難しいことのように感じられている。だれも知らない場所、だれからも話しかけられないところにいたい欲求は、「動物になりたい」などの表現で語られるが、他方、だれからも認知されなければ、すでに述べた透明人間、生きながらの死者として扱われてしまう。情報のすき間ないやりとりによってセキュリティ・ネットを張らなくても、「あなたはそこにいる」と認知されていることが自分にわかっているような関係、すなわち、周囲の世界と一人ひとりの存在とがたしかにつながっていることをだれも自然に感じとれるような文化が必要である。そして、「自然に感じとれる」ためには、人為のワザ(アート)としての文化、たがいの関係をそのように築き上げる文化が不可欠なのである。

 自分が安心して「いられる」ための寄る辺の役割は、たとえば現実社会でのたった一人の親友と同様に、ネット世界でのだれかや何かでも果たすことができる。さまざまなファンサイトに集まる少年少女たちが安心できる居場所をそうやって確保していることはすでに述べた。実際の生活では無視されていても「これがあるから私は平気」といえる何かをネット社会で確保することは決して無意味ではない。

 さてしかし、子どもたちがそうやって自分なりに満足できる場所をバーチャルな世界でどこまでも求めることになれば、やはり私たちは不安に駆られるだろう。最近では商業価値の点からもてはやされ始めた「萌え」は、架空のキャラクター・対象にだけ関心を寄せ、仮想世界でのみ生きることに充実感、幸福感を感じる現象であった。「萌え」という言葉がなくとも、架空のキャラクターといわば「ともに生きる」ような現象は以前からあったのだが、「それだけて幸福じゃないか」と言われると、おそらく「ちょっと待って」と言いたくなるのではないか。つまり、バーチャル世界で「幸福に生ききる」ことができるならそれはそれで十分と言えるかどうか、私たちはいま、若い世代の文化行動によって問わず語りに問われている。

 この問いは、「それはだめだよ」と言下に否定できるようなものではない。バーチャルな世界と現実世界の新しい関係がつくりだしている可能性と危険とを検討せずに、「生身の現実」が先だと切り捨ててしまうことはできない。ここでは問題の提起だけにとどめざるをえないが、バーチャルな世界だけを孤立的に取り上げるべきでないという考え方に立つならば、安心できる幸福な生き方がバーチャル世界の側にどんどん引き寄せられてしまうあり方、現実世界のその意味での貧困や抑圧性をも視野に収めた議論が必要であることをもう一度強調しておきたい。
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