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子どもの「不安」や「いら立ち」を真剣にわかろうとする大人に

勝見 哲万(京都・親と子の教育センター)


 ひんぱつする少年事件。都会であれ農漁村であれ、今や思春期・未成年の子どもたちの悲惨な事件が全国どこででも起きています。希望を抱き、未来に大きく羽ばたくべきこの時期に、彼らをして凶悪な行動に走らせるものは一体何なのでしょうか。

 私は中学校の教師を退いた後、教育相談員として、わが子の「不登校」や「非行」などに悩む父母に関わってきました。今回は、去る二月、大阪・寝屋川で起こつた少年事件と、″京都・子どもの「非行」に悩む親の会″で出された一つの例から見た子ども・親・教師の姿を追ってみたいと思います。


 
 「教職員殺傷」の十七歳少年の心に何が  −大阪・寝屋川での事件


 
 五年前に卒業した母校の小学校を訪れ、応待した一人の教師を包丁で刺殺し、他に二人を傷つけた事件からもう半年が経ちます。報道によれば、この少年が進んだ中学校で二年生の時から不登校になり、以来、高校へ行かないで、家でゲームや読書に浸っていたとのことです。

 性格はおとなしくまじめで、不登校中も塾に通い、勉強はできるほうで、大検(大学入学資格検定)にもパスする程であったとのことです。そんな少年が、なぜ、こんな事件を起こしたのか。取り調べの中で、「小学校六年生のとき、友だちにいじめられていたのに、担任は無視して助けてくれなかった」と、その動機を語っているとのことです。

 だが、当時の担任教師や同級生は、そんな事実を否定しています。果たして「いじめ」は本当にあったのか、あるいは、この少年だけの 「思い込み」 にすぎなかったのでしょうか。

 一般的に、他人のちょっとした言動でも、私たちの心をひどく傷つけることはよくあることです。まわりの友人からのからかいや嫌み、無視。そして陰湿な「いじめ」が、気の弱くておとなしいこの少年に耐え難いショックを与えていたのでは。思春期真っ最中の中学生になって、この心の傷は癒えることなく本人を苦しめ、登校できないまでになってしまった。いじめた友だちより、それを放置して自分を救ってくれなかった担任、そして教職員全体へと恨みと怒りが広まった。−こう考えることは間違いでしょうか (※〇五年五月頃までの新聞報道を受けて)。

 学校では、つっぱり、荒れる子だけでなく、あまりに目立たないおとなしい子どもにも、教師は絶えず目を注ぐ(特に「いじめ」については)ことが大切です。多忙で「ゆとり」のない今の学校現場にあっても、すべての子どもたちに温かいまなざしと言葉がけを忘れず、その声に耳を傾けることが何より大事なことです。


 
 子どもの「非行」で試される家族の絆
 施設での面会で、子の目に涙と優しさ


 
 ″京都・子の「非行」に悩む親の会″での話から(母親Aさん(十七歳の息子について)(略)
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「不安」や「いら立ち」を溜め込んだ
子どもの気持ちに寄り添える大人に


 
 「競争」と「管理」が支配する今の学校で、「不安」や「いら立ち」を溜め込んで苦しんでいる子どもは少なくありません。「できる子」と「できない子」に選別された彼らは、やがて社会に出て「勝ち組」と「負け組」に分化され、否応なく今の 「差別」社会に組み込まれていきます。このことを思春期に達した子どもたちは、大人社会を見つめて、本能的に感じているのではないでしょうか。特に「勉強がわからない」「友だちに辱めを受け、いじめられる」「先生から無視される」といった子どもたちは、やがて自信と生きる意欲を失って自暴自棄に陥ってしまうのでしょう。

 今、こんな子どもたちにきちんと向き合おうとする大人たちがどれだけいるのでしょうか。
 不安にいら立つ子どもの気持ちにしっかりと寄り添い、子どもの目線に立って、じつとその声に耳を傾ける大人たち。こんな大人にこそ、子どもはやがて信頼を深め、心を開いて、自らを取り戻してくれることでしょう。

 少なくとも親は、世間体や外聞といったしがらみから脱して、子どもの苦悩を分かろうとする気持ちを持ち続けましょう。
 また、教師は「学校的枠組み」のとらわれから自分を解きほぐし、子どもと同じ「喜怒哀楽」を持った人間として自分を変えることなくして、子どもを変えることはできないでしょう。

 今も増え続ける「いじめ」、不登校、そして非行の数々。これらは「僕の気持ちを分かってほしい」「私の存在を認めてほしい」と訴える、子どもたちの悲痛な叫びであり、大人社会への心からの訴えと怒りでなくて何でしょうか。今こそ、私たちは力を合わせて、この願いに応えねばなりません。

 
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