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特集2 教育改革と教師の多忙化・過労死裁判
 
教師の多忙化と故萩野過労死裁判
 
                            八木 英二(滋賀県立大学)


 
(1)「勝利は悲しみを癒し 未曾有の命を救う」

 
 故荻野先生過労死裁判が二審で勝利し(二〇〇四年九月)、その判決は確定しました。先頃の二〇〇五年二月初旬には、その勝利を祝う会が催されました。実に過去一〇年の長きにわたる裁判の末の勝利です。関係者の労をねぎらい、判決の意味をかみしめ、この勝利判決を今後に生かすことができるよう、決意を新たにする会となりました。

 
 当日に配布された「公務災害認定を勝ち取る会」作成の報告集の標題は、『勝利は悲しみを癒し未曾有の命を救う』というものです。

 
 脳の持病が主な原因とされた一審判決が否定され、高裁では勤務実態の負担が明らかにされています。裁判にかかわってきた池野文昭医師は、荻野裁判勝訴の意義について次のように述べています。

 
 「荻野さんの場合モヤモヤ病という比較的稀な背景疾患でしたが、脳動脈瘤の破裂は認めてモヤモヤ血管の破裂は認めないというのも、基準変更前の事例であるから認めないと固執するのも、起こつた被害を救済する責任を放棄する不当な判断であることが、この勝利で確定しました。…中略。この勝利は、多くの過労死の方に救済の道を開いた意義あるもので、また、教職の慢性的過労状態を明らかにして認めさせた点でも意義ある勝利です」(同報告集収録あいさつ)。


 
(2)教育困難の性格

 
 「教職の慢性的過労状態を認めさせた」点に判決の意義があるとの指摘ですが、各紙の報道も、教師の多忙化に起因する加(過)重労働の状態について次のように書いています。

 
 「…校内でたばこを吸ったりビールを持ち込んだりする児童がクラスにいたことや、自宅などでの時間外勤務が週二十〜三十時間あったことを認定し、過重な労働だったと判断した」(二〇〇四年九月十七日/朝日新聞)、

 
「…問題行動をとる児童の個別指導や自宅での授業の準備などで、発症前の一ヵ月間の時間外勤務が計約百五十時間」(同/毎日)。

 
 筆者も意見書を提出し、克服すべき教育困難の法廷証言に加わり(一審)、学級崩壊にかかわる証拠提出に協力(二審)しました。多忙化の実情についての説明の一部は次のようです。

 
 「根本的な改善の課題等々、意見書にも書かしていただきましたけれども、将来の改革がなければということではなく、当面、週当たりの持ち時間が一時間減るだけでも、徒労感が減るのだということは、私ども調査を重ねる中で、現場の聴き取りで証言を得ております。そういうことを考えますと、週当たり一時間、二時間でも減らすといったようなこと、あるいは、持ち帰り仕事は抜本的に改善しなければいけないというようなことが課題としてあるかと思います。あるいは有給休暇が荻野先生の場合にはほとんど取れてなかったという事態は大変深刻な事態だと思います。週当たり二九時間持っておられたわけで、フリーの先生が授業には入られなかった。これは、言葉を換えて言いますと、職場全体の出勤率が一〇〇パーセントを前提に成り立っているということですね。つまり、ちょっとした何か具合が悪い状態になっても休めないわけです。有給休暇を取れない最大の理由の一つは、調査では同僚に気兼ねがあるということですけれども。そういう一〇〇パーセントの出勤率を前提としたような職場というのは、教職労働にかかわる職場実態としては非人間的だといってもいい憂うべき事態だと理解しています。この状態の改善が望まれると思います」。

 
 取り上げた事実は、管理運営のあり方や学級崩壊の事態に関連しており、一審以後も続いた主要な論議の一つになりました。関連事実をいくつか紹介させて頂き、先生の健康安全の問題が教師本人のためだけでなく子どもたちの成長と発達のために必要であることを強調しました。教師の役割発揮の条件整備(健康・安全・安心)が教師本人のためだけでなく、子どもたちのためにも絶対に必要なのです。

 
 これらの主な論点は一審以後も継続され、高裁における弁護士や関係者の方々の地道な努力によって、時間外勤務や持ち帰り仕事の加(過)重労働の実能蔀より整理された形で提起され、裁判勝利につながったと思います。判決文の該当個所は次のようでした。

 
 「恵子が家に持ち帰った仕事は、まず、日常の授業のために必要なものであったと認められる。前記認定事実によると、日常の授業を最低限こなすだけでも時間内勤務だけでは不足すると認められるが、授業やその他の校内活動をより充実させ、教育の効果を上げるためには、相当の準備が必要と認められ、相当程度の時間外勤務を要するものとうかがえる。恵子は、それを実践しょうとしていたと認められるのである。また、恵子のクラスを学級崩壊が始まった状態を回復させるためにも、心労のみならず、その対応のために時間外勤務が必要であったと認められる」。


 
(3)条件整備判決を支える国際動向

 
 今日の教育困難は学校や教師だけにすべて責任があるわけではありません。もとより教師側に教育困難の一切の責任がないというのではありませんが、教師を大切にできない政治・経済・社会の深い闇があります。

 
 ところが、教育施策の動きは、原因をもっぱら学校現場の教師や親だけに向けるバッシングの傾向を強め、真の問題の所在をそらしてきました。こうした事情はなお好転のきざしがみられません。むしろ、昨年の、あるパンフレット(教育基本法改正促進委員会「新教育基本法の提唱」二〇〇四年)においても、「改正」理由の一つに教師の素行をあげるなど、バッシングの状況は悪化しているとさえいえます。

 
 裁判所への提出物では、教職問題にかかわる、まだ日本で紹介されていない国際機関(ILOなど)の文書をとりあげました。それは、これからさらに深めなくてはならない「新たな教師の役割発揮」のための条件整備についてです。少し長くなりますが、その一部を紹介しておきましょう。

 
 「資料パラグラフ三九 中略・・・教師の労働時間の基本である、科目数・持ち時間・分掌の仕事・教科外活動や超勤などは、「良質の教育」を確保できるレベルまで減少すべきであり、授業準備にも十分な時間をあてなくてはならない。先進国において、授業・学校経営のすべてに責務を負う、極小規模校(数クラス)の教員に対しては、十分かつ適正な配慮が必要である。十分な、時間的・人的(助手も含めた)・財政的保障が、教員の仕事量を減らすには必要である。…中略。労働時間の削減が提起する困難さは、結局は子どもの教育に否定的な影響をあたえることになるので、改善を先送りにする口実にならない。」

 
 「パラグラフ五〇 さまざまな子どもを抱えるクラスは、その規模の大小が、教員の健康に影響を与える。障害のある児童、移民児童、マイノリティの児童を、通常のクラスに抱える場合は、心理的にも肉体的にも、専門的力量を発揮するうえでも、明らかに教員の負担は大きくならざるを得ない・・・中略。児童にとっての人権問題でもあるから、教員はいろんな児童の混じったクラスを支持するかもしれないが、重荷を自分だけでしょい込むべきではない。教育困難な児童に特別のクラスや小さな集団を配慮することに加え、通常のクラスで一緒に教育をすすめるには、ごちゃまぜのクラス人数を減らすことが、事態改善の道になる」。

 
 「パラグラフ五三 近年、ストレスが教育職の重大な健康問題となつており、したがって教育の質そのものにも影響せざるを得ないということを共同会議は確認した。しかし、政府側メンバーの中には、教育が他の職種と比べ、特にストレスの大きいものとは言えないとする人達もいる。共同会議は数多くのストレスの現われを示したが、次のようなものである。教室での教師の孤立感や無力感、特に若い教員における病欠や仕事拒否の増加、退職につながるような教育活動への不満足の増大などである。ストレスの原因は複合的である。教員に対する尊敬の念の欠如、児童との関係や生活指導上の問題、すしづめ学級、年齢や社会的位置が多様なグラスや、農村における生活実態なども、労働側は言及した。仕事に自分自身の方針が反映されていると感じる教員のストレスレベルが小さいということは、調査をしたいくつかの国で明らかになっている。…略」

 
 「パラグラフ五四 いくつかの国では、ストレスのより大きい要因として、教員に対する暴力問題があげられる。」

 
 「パラグラフ五五 暴力とストレスの要因や影響を減少させ除去するための提案が、共同会議で詳しく検討された。ストレスに対抗する最善の方法は予防であることに、ある労働側メンバーは留意した。方針決定への教員の参加と、教師・学校当局・児童・親の、相互の絆を強化させる措置、に基づく健全な教育環境の確立が最重点課題として求められる。・・・中略。定期健康診断が予防的手段として不可欠なのは言うまでもないが、メンタルヘルスに問題を抱える教員には、特別な医療手当が必要である。暴力の被害を被った教員に対する補償はいうまでもないことだ。・・・略」(ILOの一九八一年資料)。

 
 このほかにも、教師の多忙化にかかわって参考にすべき多くの示唆がなされています。小中高の学校階梯別や発達の差違によって教師の困難や現場の課題も随分異なりますし、注目すべきこれらの国際動向もふまえ、それぞれの実状をいっそうリアルに理解し克服していく努力が、今後ますます大切になってくると思います。


 
(4)新たな時代の教師の 新たな役割発揮を

 
 過労死の認定は今日の日本で克服され難い社会的困難の一つを示しています。しかし、積極的な判決が確定したとはいえ、なお、施策の矛盾が教師に集中する現実を思わずにはおられません。教師のあたりまえの市民生活を大切にしないで、あるいは憲法・教育基本法の示す「自由と民主主義」や「条件整備の責任」をないがしろにしたままで、ただ教師や親をバッシングするだけで教育の改善は望めるはずもありません。

 
 故荻野先生は現場で身を削りながら最後まで奮闘されたのですが、「教師を生きる」ことはできませんでした。しかし、判決は一教師の資質だけに原因を押しつけるパッシングを軌道修正させる一歩になったと思います。教育基本法のいう条件整備の意義を示す判決であり、今後の取り組みにつながるものです。「教師の新しい役割発揮」の視点から、荻野先生過労死裁判には今後深めるべき貴重な内容が含まれています。

 
 子どもと教育の未来を考えるとき、「教師・学校の開かれた専門職性」とともに、「子ども・親・教師・学校」を本当に大切にする社会の建設が必須の課題になっています。困難な状況にありますが、巨大な生産力をコントロールできる、平和で民主的な生産関係と社会関係における二一世紀型学校づくりにむけ、教師の新たな役割が発揮されなくてはならないでしょう。

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