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荻野先生過労死裁判勝訴まで
 
−−普通の教師が過労死する現状
 
                             富部 炎
 
               荻野先生の公務災害認定を勝ち取る会
 


子どもたちの前で倒れて

 九月十六日、大阪高裁。「荻野裁判」判決の日。裁判長が「原判決を取り消す」と判決の主文を淡々と読み上げました。「公務外認定処分を取り消す」の判決が言い渡されると、支援の人たちで満ちあふれていた法廷は大きなどよめきと拍手につつまれ、思わず涙ぐむ人もいました。荻野恵子先生が宇治市立西小倉小学枚六年一組の教室で倒れてから一〇年八ケ月、亡くなられてから九年八ケ月後に、やっと過労死が認定された瞬間でした。

 荻野先生が担任した学級は、学校での喫煙、ビール、教師への暴言、授業妨害等で学級運営に困難をきたす状況になっていました。まだ「学級崩壊」という言葉さえなかった時期でした。そんな中で荻野先生は、家事時間を削り、休みなく学級運営に時間を費やしてきたのですが、力尽きて、終わりの会中に子どもたちの前で倒れてしまったのです。脳出血でした。

 荻野事案の特徴は、

 
@ごくごく普通の女性教師であること。当時、荻野先生は、宇治市立西小倉小学校に勤務し、六年一組を担任する四十四歳の教諭でした。よく過労死の事案でいわれるのは、校務分掌が他の人の何倍もあるとか、重要で忙しい仕事が集中していた人に多いのが一般的です。しかし、荻野先生の場合は、六年の担任、国語主任、障害児部の部長、特活部員等で、ことさら他の同僚教師に比べて校務分掌が多いわけでもありませんでした。そのごくごく普通の教師でも、学級運営で困難なことが幾重にも重なると精神的にも肉体的にも疲労困燻し、過労死に至ってしまうということです。

 
A過労死の典型だったこと。荻野先生の担任していた六年一組は、二学期になると急速に指導困難な状況になってきました。課題を持つグループ、私学進学グループ、無関心な子のグループ、まじめな女子までが、さまざまな困難な状況を示すようになってきました。秋の遠足の時、同行した教務主任が「一組が大変そうね。教師の指示がほとんど入らないわ」と言っていたのが印象的でした。

 
 そのことに加え、保護者とのトラブル、研究授業、はじめての「エイズ」の公開授業、『あゆみ』の改訂など、困難な状況が一時期に集中したのです。二学期になってから荻野先生の労働時間が飛躍的に多くなっていきました。このような荻野先生の状況を、管理職の校長、教頭も同僚の教師たちも正確に把捉していなく、何の手だてを打てなかったことも悲劇を産んだ大きな要素の一つです。課題を持つ子に対しても、教頭は「元気があって、いい子」だと認識していたし、保護者とトラブルが起きたときでも、校長は、荻野先生に「ひたすら謝ってこい」と言うだけでした。
 

 悩みを相談できるはずの学年会も意見の対立で、相談するどころか荻野先生が学年の調整役にまわり、クラスの問題を一人で抱え込んでしまったのです。困難状況が重なった上に、まわりの援助がなければ、自分を追い込み、出口が見えなくなってしまうのです。特別な人ばかりが過労死するのではありません。

B持病(もやもや病)があったこと。精神的にも肉体的にも疲労困燻し、回復不可能な状態になると、自分の持っている一番弱いところにダメージが現れるのではないでしょうか。荻野先生は、その一番弱いところが脳血管(もやもや病)だったのです。倒れる前の一〇日間に、同僚に「足がもつれて、自転車がうまくこげない」「疲れて自転車で帰りたくないので、車で家まで送って」と言ったりしたのはそのエピソードでしょう。


 
控訴審に臨み

 
 荻野事案の大きな争点は、

@時間外勤務・持ち帰り仕事を含めた教師独特の働き方に過重性が認められるのか、

A疲労・ストレスが冬休み等によって回復するものだったのか、

B脳出血が荻野先生の罹病していた「もやもや病」の自然的経過によるものなのか、という三点でした。


 
 基金や原審の京都地裁は、

 
@荻野先生の職務は「通常の職務」の範囲であり、ベテラン教員であることなどに照らし、他の教諭との比較においても特に過重な職務とは言えないし、持ち帰り仕事についても「授業準備や教材研究、テストの作成や添削、プリント作成や添削は、おおむね勤務時間外に学校や自宅で行った」と認定しながら、その量については、「原告の主張のように長時間になるとは認められない」と二言で片付け、

 
A冬休みや一月の連続休暇によって、精神的・肉体的疲労を解消する機会は一応あった、

 
B脳出血は、もやもや病と加齢による脳血管の脆弱化に起因する、として「公務外」という荻野先生の勤務実態を全く無視した不当な認定をしました。以後判決を不服として大阪高裁に控訴しました。

 
 控訴審では、第一に、小学校の教諭は、毎時間授業を一人で受け持っており、しかも放課後は各種会議等が目白押しで、勤務時間内に授業準備やその事後処理の時間をまったく取ることができず、「持ち帰り仕事」は構造的に必然なことを訴えました。

 
 宇治市の小学校の教諭の勤務時間は午前八時三〇分から午後四時三〇分まで、そのうち子どもたちが学校にいる時間は、六年生で八時過ぎから四時まで、勤務時間のほとんどを子どもたちと一緒に過ごします。給食も五分ばかりでかき込み、あいた時間は宿題等の丸つけなど授業の後処理をします。ケンカがあれば仲裁にも入るし、けがをした子がいればその処置もしなければなりません。子どもたちとの関係がうまくいっていない場合は、負担が一層重く感じられます。

 
 加えて、荻野先生が当時担任していた多くの教え子たちの赤裸々な陳述書を通して、当時の六年一組は、極めて困難な状況にあり、「学級崩壊」の状態にあったことを明らかにしました。

 
 第二に、冬休み中の言動を掘り起こし、医学的な意見書で冬休み等により疲労・ストレスが回復されていないことを丁寧に説明しました。荻野先生は冬休みに、小学校で習った漢字の総復習のための漢字プリントを作成しました。数人の同僚がチームを作って、実際に荻野先生がした手順でプリントを作ってみました。その結果、実によくできたプリントでしたが、作成時間が予想していたとおり、一枚あたり五、六時間かかることも実証できました。冬休みにしていた仕事も七一・四時間認められました。

 
 第三に、もやもや病について荻野先生のカルテを精査し、もやもや血管にストレスによる血行力学的負荷があったとの意見書を提出して控訴審に臨みました。控訴審では、申請した証人を一人も採用しない厳しい裁判となりました。


 
 画期的な判決を勝ち取る
 
 しかし、大阪高裁は、荻野先生の勤務が過酷な状況にあったことを丁寧に認定し、脳出血の発症が「もやもや病」の自然的経過ではなく、過重な職務によって精神的・身体的な負荷の増大によるものと認定するなど、画期的な判決を下しました。また判決は、担任していたクラスが学級崩壊寸前か崩壊を始めていたこと、通知票の作成、学級運営等の職務の実態、二学期末には相当の疲労を蓄積させ、冬休み中の時間外勤務と家事労働のため、疲労を回復できなかLったことを認定し、荻野先生の職務が過重であったと判断しました。もやもや病に関しても、血管に類線維素変性が存在し、もやもや病の自然的経過でも再出血率が二九%であり、それだけでは説明できないとして、過重な公務がもやもや病の自然的経過を早めて増悪させ、脳出血を発症したと判断しました。

 
 さらに、大阪の鈴木均先生の事案では、休み時間や給食時間も当然勤務時間に含めるべきだと判断しましたが、今回の判決ではそれ以上踏み込んだ判断をしています。

 
 持ち帰り仕事についても、基金の「緊急・必要性のないもの、時間外勤務と認めるべきでない」という主張に対して「自宅での仕事は、緊急かつ必要性があった」「教育の現場で現実に児童の教育に責任を負う教諭として、必要があると判断して自宅に仕事を持ち帰ることは、おざなりな教育では足りないと考えることを示すものであって、教育に対する積極的な姿勢を示すもの」「日常の授業のために必要なもの」と判断しました。教師独特の働き方についても「教育の効果をあげるためには、相当な準備が必要と認められ、相当程度の時間外勤務を要するとうかがえられ、恵子はそれを実践しょうとしていた」として、時間外勤務も荻野先生が主張した九割以上の五四二時間を認めました。

 
 大阪高裁の判決は、教育現場に蔓延している過重労働を是正させて、教師が生き生きと働ける職場をつくつていく取り組みに示唆を与える判断をしています。

 
 「全国の学校現場で生かしてほしい」

 
 判決が確定した今、「なぜ荻野先生の過労死を防ぐことができなかったのか」「荻野先生の『助けて!』という叫びに気づかなかったのは何故か」と悔いが残ります。

 
 夫の荻野幸夫さんは、「一番大事なことは妻と同じことが二度と学校現場で起こらないことです。この裁判を全国の学校現場で生かしてほしい」と言い続けています。

 
 宇治久世教組では同志社大の千田忠男先生と協力して、教師三〇〇人の働き方調査をしました。その結果、小学校教師のほとんどが一時間以上の時間外勤務と一時間以上の持ち帰り仕事をしていて、長時間労働であることが裏付けられました。このことは、荻野先生の勤務実態がけっして特殊なものではなく、現場では、時間外勤務、持ち帰り仕事は、構造的に必然なことを示しています。一時間の授業(四五分間)をすると、約四五分の事前事後処理の時間が必要です。受け持ち時間を減らし、三〇人学級を実現することが、子どもたちも教師も生き生きと活動できる学校づくりにつながっていくのです。学校現場では、教員評価や初任者研修で教師が分断され、多忙化も進んでいます。今こそ同僚性を大切にした働きがいのある職場をつくっていくことが急静となっています。

 
一〇年にわたる暖かいご支援に心からお礼を申し上げます。

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