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ひろば140号
 
育てよう人間力−−学力の発達と学習集団

梅原 利夫(和光大学)
 


 1 「育てよう人間力」の提案


 
 二一世紀はじめに、私は『育てよう人間力』(ふきのとう書房)という本を世に出しました。四つの講演記録からなるもので、そこで一貫して検討したのは、学力・生きるカ・人間力です。

 なぜ人間力なのでしょうか。それは、人間の各部分を細かく分けて、特定の目的のために利用価値あるもののみに光をあてるという見方がはびこつている現状に対して、そうではなく、生命力を核にして幾重にも人間的諸能力が重なり合った存在として、個性的な人間を総合的に捉えることが大事だと考えるようになったからです。

 生きる力を身体の内部から支える生理的・身体的な力があり、さらにはものごとの本質を概念や抽象力で捉えることのできるような認識力(学力の本質の一つはそこにあると考えます)が形成され、その上で重要な判断が迫られている時には、価値の選択を伴って実行することのできる行動力が貫かれているのです。

 そしてこれらの力を調整し動かしていく中心軸に、「人格力」とでも表現できるような個々人に固有な力の存在があります。人間力とは、このように重層的であり、全生活活動を通して構造的に形成されていくものでしょう。

 ところが、文部科学大臣が示した「人間力戦略ビジョン」(二〇〇二年)なるものの正体は、その二ケ月前に出された経済財政諮問会議(いわゆる新・骨太方針)の「人間力戦略」をストレートに受けています。すなわち、「確かな学力の育成」も「豊かな心の育成」も「トップレベルの頭脳、多様な人材」も、世界規模の経済大競争にうちかつための国家の経済戦略に奉仕する「たくましい日本人の育成」に収斂されていってしまうのです。

 私も、子どもの学力を形成するという課題を重視します。しかしそれは、競争に勝ち残るための部分学力をいびつに開発することではありません。自分の存在を社会の発展方向と関わらせて自覚し、社会生活と自分の生き方を重ね合わせて、絶えず自己教育を求め続けていくような、豊かで広く総合的な力の育成が大事だから、その重要な一翼を担う学力の形成に注目するのです。今日するどく問われている教育改革の道も、人間力をめぐる綱引きの中でその真の価値が争われているのだと思います。

 
 2 学力テスト上昇競争か学力保障めざす道か

 
 一九六〇年代のはじめ、文部省によって全国でいっせいに学力テストが強行されました。当時、私は中学校二年生で、このテストを受けさせられたのです。普段のテストとは違う、異様な雰囲気の中で行われたことを覚えています。

 しかし、これがきっかけとなって、日本の教育界に偏差値序列システムが居座り、大きな混乱と問題が生じました。その結果、数年後には、いっせいの学力テストは廃止を余儀なくされたのです。

 それでは、現在はどうでしょう。文部科学大臣の「学びのすすめ」アピール(〇二年一月)以来、ゆがんだ「学力向上策」が教育現場を覆ってきています。問題にされる学力そのものがきわめて一面的なので、施策もゆがみを増幅させているように思います。その典型として、復活させられた学力テストを見てみましょう。

 あれだけ批判された全国いっせいの学力テストだったのに、「学力低下が国を滅ぼす」という論調にあおられて、再び文部科学省によって行われて(〇二年一、二月)以来、全国や地方自治体レベルでたくさんの学力テストが実施されています。いずれの調査も、その目的には「学力の実態を把捉して適切な指導にいかす」ことが述べられていますが、いったん実施され、その結果が点数(達成度)で公表されるや数値の比較が一人歩きし出し、「とにかく次はこの数値を上げること」に目標が矮小化され、数値上昇化競争の悪循環にはまり込んでしまっています。

 しかも、テスト問題の適否は問われていない場合が多いのですが、詳細に検討してみると「問題」自体の問題点が多数浮かび上がってくるのです。

 私自身は、すでに文部科学省の全国テストの場合で検討しました(日本教育方法学会第三十九回大会、公開シンポジウムでの発表、〇三年九月)が、東京都教育委員会が行ったテスト(〇四年二月、中学二年生実施)については、都教組と東京民研が分析結果のパンフレットを発行しました(〇四年五月)。たとえばそこでは国語については、「やさしすぎて、どんな『学力』を求めているかと疑念」、「正答があやふやであったり、他に選びようのない選択肢がある」、「答えられない設問がある」、「履修内容により学校間に差がでる…懸念」など、具体的な問題点が指摘されています。「テスト問題」に問題があるとすれば、その測定結果の数値自体の信頼度が大きく揺らがざるをえないでしょう。

 また東京都のある区では、民間の教育産業にまる投げしてテストを行い、その結果を「情報公開」という理屈づけで、すべての学校ごとにインターネット上で明らかにしてしまいました(〇三年六月)。この区は、全校で学校選択制をとっているので、テスト結果の点数がその重要な材料になってしまうのは必然でした。しかも、皮肉なことに、今年度には東京都レベルで行われたテスト結果が公表され、その区は全四九自治体のうちで最下位群にランクづけされでしまったのです。

 私は強く思うのですが、目の前にいる子どもたちの学力の実態を日常的にかつ具体的に把捉しているのは、他ならぬ担任教師を中心とする教師集団なのではないでしょうか。「指導に生かす」というのなら、すでに学校の教師集団が日々努力してきているのです。

 もしも、それぞれの学校で毎年の変化を把握したければ、「私の学校で、どうしても理解と達成をして欲しい水準の問題」をそれぞれの教科ごとに具体的に作成し、その達成度を調査してそれを指導に生かすことこそ、学力保障のたしかな道ではないでしょうか。

 その学力水準を父母や地域に明示することで学校教育への安心感がもたらされ、子どもに対しては達成目標を示すことになり、教師には保障すべき指導の指針となりうるのでしょう。

 
 3 安定と臨機応変の学習集団

 
 『育てよう人間力』の中で、私が考える教育の姿を「わ・か・る」の三文字の組合せで表現しました。

 わかること(理解)かかわること(関係)で人間はかわる(発達)

 ここで言う「かかわる(関係づくり)」とは、人間はかかわりを通して発達することを示しています。それを実現する場が生活集団と学習集団です。一般に、この二つの機能をあわせ持った集団のまとまりが学級という形態で組織されてきました。学級はまずは生活集団として構成されますが、その生活集団を基盤にして学習集団ができれば、かなり安定した学習関係が生み出されやすいのです。

 そもそも学習の指導にあたっては、継続的で安定した一定のまとまりが重要であるとともに、課題によっては臨機応変に編成される柔軟な学習集団の形成も有効だと思います。この学習集団の編成方式と指導方法の組み合わせは、それこそ無数に存在し、これまでも実際の指導場面でいろいろ工夫され応用されてきました。

 ところで最近になつて急に、習熟度別学習指導のみが異様に強調されてきています。このやり方が、学力向上のために唯一有効な方法であるかのように言われ、各学校に教師を追加配置する条件として、この方式の採用を事実上強要しています。しかし、本当にそうなのでしょうか。

 私は、教育現場で行われている事実に即して冷静に分析されるべきであるという立場に立って、〇三年度にA小学校での実践を継続観察してきました(梅原利夫「教室から見た習熟度別指導の実際」『教育』〇四年六月号、「習熟度別学習指導という教育法方法」『教育方法三三 確かな学力と指導法の探究』〇四年、図書文化社)。その結果、現時点で次のような見解を持っていよす。

 @習熟度別指導と言われている集団指導の実態の正確な表現は、「一部分『達成度別』自己学習方式を加味した、ティーム・ティーチング(TT)による少人数指導方式である」とでも呼べるものであり、厳密な意味での習熟度別指導方式は、全指導時数のうちのほんの一部分(最後の練習やドリル場面)にすぎないことが判明しました。

 Aこの学校で効果が見られた点は、「授業の各時間では、その場の状況に見合った全体指導と個別指導の組み合わせを、三人の教師の協力体制で行うことができていた」ことでした。

 B指導のねらいや内容や評価法は、いわゆる国基準に拠っていて、「学校や教師個々人の自主的な吟味や創造の工夫は発揮しにくい」点が、最大の問題点でした。

 この研究で私が言いたかったことは、表向きの言い方(習熟度別)と教室現場での子どもとのやりとりの実際にはまだ乖離があること、教育行政の圧力と学校現場との間には避けがたい葛藤や矛盾があること、そこに分析の目を注いで「学力の発達」を促していく道を見出すことは可能である、ということなのです。

 私は、指導の方法は、教育内容や教材の特徴に応じて採用されるべきものであると考えています。学習集団の編成も指導方法の一環なのですから、多様な工夫をする余地があると思います。したがって、子どもの学習にとって意味のある集団とは、次のような要素を備えているものでしょう。@自分の発言を聞いてくれる安心感から、自由に発言ができる。A間違いや疑問が堂々と言える。B仲間の発言から、互いに学び合える。

 このように見てくると学習集団は、固定的かそれとも流動的かとか、異質同居かそれともグループ別かとか、一斉授業かそれとも習熟度別かといった、二分法のどちらかが良くてどちらかが悪いというような性格のものではありません。いずれの形態をとろうとも、集団の中で安心して発言できること、学び合いや教え合いができることが保障されなければなりません。また学習のテーマや課題によって、教師による子ども把握や指導が可能で有効であるような、適切な集団の形能心や人数が選ばれることが重要なのです。

 この点については、今後ともおおいに検証し、論議しあっていきたいと思います。

 
 4 学力形成は人間力育成の見取り図の中で

 
 学力の発達を促すとは、何をどうすることなのでしょうか。一九七〇年代から八〇年代にかけて、私の学力論は、計測可能な部分をコアとしたものに注目していました。今から見ると、少し限定された「狭義の学力論」でした(『子どものための・教育課程』一九八八年、青木書店)。しかし同時に、「学力の発達と人格の形成」という視座から、学力発達の過程で人格形成へと発展する重要な契機があることを指摘し、両者の関係を切り離さずに研究していました。

 今日では、学力の概念を少し広く捉えるほうが有効である、と考えるようになりました。すなわち、「学力とは、学習過程で獲得され、その後の学習と生活の場面で使いこなせる能力のこと」と捉えています。学力は、意図的組織的な学習活動をする中で身についた能力(これはかなり広い力です)のうちで、すぐに剥がれ落ちることなく、その後に応用できるまでに定着した能力(つまり人間力の一部分にまで埋め込まれた能力)のことを指しています。その実態は、次の四つの層からかたちづくられる一つの構造体としてたちあらわれると考えています。@学力の土台部分(神経、生理、知能の発達)、A基礎的な学力(わかる・できるという達成度が比較的たやすく判定できる学力)、B学習活動に立ち向かう意欲や持続力、C課題設定や探究力や表現力などの総合的な学力。

 これらは、これまでともすると、@やBのように「学力以前」というように表現されたものや、Cのように基礎学力がつけられて、その獲得の後につけられるものとして捉える傾向がありました。

 しかし、教室で子どもたちの学習の過程に居合わせてもらってつぶさに観察していますと、学力以前とか学力以後の発展とかと言うことで、人間力育成にとって大事な能力を学力形成の場面から切り離すよりも、それらは子どもたちが学習活動に立ち向かっている場面で、開発され獲得され定着されている能力なのですから、広い意味での学力概念に包摂した方が現実的ではないかと思うのです。なお@〜Cは、学力形成の順番を表しているのではなく、学習活動において見られる相互に関連しあった四つの学力の質を示したものです。

 人間力が層をなして総合的に構成されていくのですから、その重要な場である学習活動においても、学力が構造的に形成されていくのでしょう。この文章の1で述ベたように、人間力の内容や方向をめぐつて鋭い綱引きが展開されている現状ですから、どのような人間力をめざすのかという見取り図を描き出しながら、その方向に合致する学力の形成を促していくような、目的意識的な働きかけの実践が求められていると思います。

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