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親の会に参加して−−母親として思うこと
 
                            佐藤惠子(八幡・親の会)
八幡市では
 
 八幡で「京都のつどい」(不登校の子を持つ親と教職員のつどい)なんて、そんな大それたことと、ずっと尻込みしていました。しかし、世話人の顔ぶれも少し変わり、「案外新局面が開けるかも」と、のん気に構えて昨年十月に開催を受けました。市と教育委員会の後援を受けることができたことも、大きな前進でした。
 
 やはり、それだけ不登校やひきこもりが、身近な問題として認識されるようになってきたのだと思います。その後、新しい人の参加やこれまでの会員の子どもたちの変化や進路のことなどで、新局面を迎えつつあります。
 
 しかし、八幡市ではこの数年間、子どもの数は減少していますが、不登校児童生徒は一五〇人位を推移しており、割合としては微増傾向にあります。ということは、スクールカウンセラーを配置したり、市教育研究所の体制を整えたりしてもらっていることが、まだ必ずしも効果的に働いていないとも言えます。
 
 そんな状況の中で、親の会の果たす役割というのは重要だと思うのですが、宣伝力が不足しているせいか、まだまだ存在が広く知られていません。せっかく「京都のつどい」に市や教育委員会の後援が得られたわけですから、もっと広めていきたいと思っています。
 
 私が初めて不登校の子どもに接したのは、今から10年ほど前のことでした。これは深刻で重大な問題だと感じました。そして当時は浅はかにも、わが子が不登校にならないために気をつけることは何だろうかとか、どんな育ちそびれがよくないのだろうかなどと考えました。
 
 しかし、非の打ちどころのない優秀な子でないと不登校になるというのなら、ほとんどの子どもが不登校になりかねません。逆に、そのような完璧を求める子どもの方が、息切れをしやすい面を持っていることもあります。
 
 普通の子ども、あたりまえの子ども、まあまあのお母さんに育てられた、ややいい加減な子どもでいいと思うのです。どこかしら弱点もあり、育ちそびれている面も少しある子どもでいいと。わが子もそうでした。やや繊細なところはあったけれども、普通のまあまあの子どもに育っていました。しかし、そんなわが子が不登校になつた時に、「どんな子どもでも不登校になってしまうような現代」のことも身をもって感じ、思いをめぐらせました。
 
大切な第三者の存在
 
 子どもの不登校からの回復は、目からウロコの体験でした。わが子の場合は、カウンセラーではなく、ケースワーカー(スクールソーシャルワーカー)との出会いが力になりました。
 
 相談に通ったカウンセラーからは、「幼少期の母親のかかわり方が…」「夫婦の教育観や子どもに対する愛情表現の違いが…」「家族の間のしこりやあり方が…」「子どもの幼少期のあの事件がトラウマになり…」などと言われ、辛い思いをしました。確かに指摘されるような点もあったかもしれませんが、どこの家庭にも多かれ少なかれ課題はあると思うのです。
 
 当時の私は、面接のたびに内側に内側にと考えをのめり込ませ、自分を責めていきました。そうすることが、回復への唯一の道だと信じていました。
 
 しかし、ケースワーカーは、直接わが子に会いに来てくれました。タイミングのよさや出会いのよさが重なったのかもしれません。また、ケースワーカーには、子どもと会うことで少し先の見通しが見えていたのかもしれません。こうして、第三者との出会いと援助によって、わが子はぐんぐんと自分の人生を取り戻していきました。
 
 今後の親の会については、親どうしが思いを話せて励ましあったり、情報を交流したりすることはもちろん大切なことです。同時に、参加する親が、不登校やひきこもりをしている子ども・青年にとって「大切な第三者」になれるのではないかと考えています。そのためには、どんな試みや働きかけが必要なのかを考える時期に来ていると思っています。
 
 
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