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■学校間に“競争”が持ち込まれてはいないか■
新学習指導要領この一年

    京都光華女子大学短期大学部 山崎 雄介



キーワードは「評価」


 小・中学校で新学習指導要領が実施されて、ほぼ一年 が経過しました。俗にいう教科内容「三割減」による「学 力低下」を危惧する世論のなか、文科省はさまざまな施策を講じてきましたが、二〇〇二年度はとくに動きが急でした。ここでは、限られた紙数で一連の動向をどうみるか整理したいと思います。

 その際のキーワードは「評価」です。すでに二〇〇〇年一二月の教育課程審議会答申で、文科省は、「学力低下」防止にむけて、「児童生徒個人」「学校」「国(および地域)」の各レベルにおける「評価」の実施を提案してい ましたが、それが一気に具体化したのが、まさに〇二年 度だつたのです。

 結論を先取りしていえば、この一年に進行したのは、 近年、いくつかのいわゆる「先進国」で多用される「社会改革」の手法、すなわち、教育、福祉などの領域にお いて、数値目標など「目にみえる」目標を現場レベルで 「自主的に」立てさせ、その目標の実現状況の「評価」に応じて予算配分などを按配するというものです。

 この場合、現場の実践を大きく規定している政策のよ しあしは巧妙に評価対象からはずされ、あくまで現場レベルに不首尾の責任がおしつけられるというのが大きな特徴です。

 また、その際、「競争」が多用されるというのも重要な点です。では、以下、具体的にみましょう。


新指導要録・通知表がもたらしたもの−− 評価の自己目的化


 個々の子どむの学力評価にかかわっては、「観点別学習状況」(各教科の学力を原則として「関心・意欲・態度」 「思考・判断」「技能・表現」「知識・理解」の四観点に区分し、それぞれをABC三段階で評価)が、多大な混乱 をもたらしています。

 というのは、新学習指導要領のもとでは、単元ごとに、 授業の展開に応じた詳細な観点ごとの「評価規準」(以下 「規準」と略)をつくることが各学校に求められているか らです。このため、国レベルでは国立教育政策研究所の 教育課程研究センター(以下「国研」と略)が二度にわ たり参考資料を公表しました。また、たとえば京都市教委は小・中学校用の参考資料を作成しました。これらの資料をみると、どの教科についても、毎時間最低一つ、 多くは複数の観点について評価を行うことになっています。そのことは、以下のような問題点をすでに生み出し ています。

 第一に、教育現場の多忙化を解消する手だてが講じら れないままに「規準」づくりが強要されるもとで、結局 のところ、行政や教科書会社などの作成した、学習指導要領および検定教科書に強力に縛られた「規準」がほぼ そのまま、少なからぬ現場で一人歩きを始めています。

 極端な例として、広島県F市では、「シラパス・カレン ダー」なるものがあって、全教員の指導計画と「規準」 が日時まで含めて詳細に書類化されており、変更には届 が必要です。ある時、転出する子のお別れ会をしようと したら、「予定にない」と担任が非難されたという、冗談 のような話さえあります。こうした行事だけでなく、子どもの実態に合わせて授業を修正していくという当然の工夫さえ、「規準」による教育課程管理のもとでは困難に なります。

 第二に、詳細な「規準」がさまざまに提案されるなかで、「観点」設定の不適切さがあらためてクローズアップ されてきました。実際、国研が出した資料にしても、学習指導要領の内容項目を丸写しして、語尾だけ「〜しよ うとする(関心・意欲・態度)」「〜について考察・判断 している(思考・判断)」などと無理やり四観点に振りわ けているケースも多々みられます。「関心・意欲・態度」 「思考・判断」など、それぞれ言葉だけみれば望ましいものではあります。だからといってそれらをいちいち評価 項目としてあげ、ABCと序列をつけるという発想は形式主義もいいところです。

 第三に、最大の問題として、そもそも物理的に無理の ある「観点別学習状況」評価を「まじめに」やろうとす ると、教師は授業どころではなく、時間ごとの評価項目 の「チェック」で精一杯になつてしまうということです。 『毎日新聞』のある記者が、「こんなもの〔国研の『規準』 についての参考資料〕をつくった人間の顔が見たい」「愚行」と手厳しく断じています(〇二年六月三日付)。


学校評価と国・地域の学力調査学校間 − 地域間の比較 −


 冒頭にふれた教課審答申は、「全国的・総合的な学力調査」を継続的に行うことを方針化し、また各地方レベル でも学力調査を行うことを推奨しています。これをうけて、国レベルでは二〇〇二年はじめに小学校五年生〜中学校三年生についての調査が行われました。また地方で も、たとえば京都府教委はすでに一九九二年度から小学校四・六年生の国語・算数についての悉皆調査(全員対象)を行っていましたが、新学習指導要領のもとでの「学力対策」の一環として、新たに調査を行ったり、これまでの調査の対象を拡大したりなどする自治体が増加しています。

  一方、学校の「自己点検・自己評価」について、二〇 〇〇年一二月の教育課程審議会答申が「学校の責」としたのをうけて、いくつかの自治体で試行されつつありま す。この「自己評価」については、保護者・地域住民に 公開することとされています。そこで問題になるのは、 国レベルでも地域レベルでも、学力テストと「自己評価」 を連動させようとする動きが強まっていることです。

 具体的には、地域の学力テストについて学校ごとの平均点などを比較する、また「自己評価」報告書にこれら の結果をもりこむなどのことが、一部はすでに実現し、 また一部はこれから行われようとしています。〇三年度 に都道府県レベルでの学力調査を予定していると文科省 に報告した自治体のうちには、新潟、福島など「他県と の比較」を公然とうたっているところもあります。

 ちなみに、〇一年秋から〇二年春まで放送されていた 「三年B組金八先生」では、受験一辺倒の教育方針に異を 唱える保護者に対して、校長が「本校が都内の学力最低校になってもいいのか」と洞喝する場面がありました。 多くの視聴者には唐突と思われたかもしれませんが、伏線として、右記のような政策動向があったわけです。


学校・地域間の「点数競争」のいきつくところ


 しかし、こうした形で学校間・地域間競争をあおるや り方が、学校現場にいちじるしい腐敗をうみだしたという苦い経験を、日本の教育界はすでに一九六〇年代にも っています。五六年から毎年小学校〜高校で行われてい た全国学力調査(学テ)をめぐり、自治体間の点数競争が激化しました。とくに六四年には、全国一・二位の香 川・愛媛両県に研究者らの調査団が入り、さまざまな不正−−教師が作成した答案を混入させ、逆に「できない子」の答案をこっそり捨てる、「できる子」の左側に「で きない子」を座らせる、試験中に教師がそれとなく誤答を指摘して直させるなど −− が明るみに出ました。その結果、「学テ」自体が六〇年代後半には廃止されるに至り ます。

 そもそも、子どもの学力には教育課程・教科書の適否、 学校の教育条件などさまざまな要因が関与しますし、個々 の子どもについても、多様な教育課題があります。それ らの課題に対処するための条件整備という政策側の責任 をぬきに、学校・教師のレベルにのみ性急に「結果(数字)を出す」ことを求めるのは明らかに誤りです。

 ちなみに、こうした安直な数値目標化は学力問題だけ ではなく、昨年一〇月の中教審基本問題部会で「五年間でいじめや暴力行為の半減をめざす」といったように、 生活指導上の問題についても波及しはじめています。中教審はさすがに不登校については「大幅な減少をめざす」 との表現にとどめていますが、たとえば香川県では不登校についても二〇〇五年度にむけて「一・五%」という 具体的な −− どのような根拠があるのか理解不能ですが −− 数値をあげています。


「習熟度別少人数授業」の強要 −− 「できる子」「できない子」の空間的分離


 こうした「数値目標」を通じた短絡的な「業績主義」 は、教師をしめつけるばかりではなく、子どもたちにも その手を伸ばしています。具体的には、新学習指導要領 への移行へむけて、「できる子」「できない子」を物理的・ 空間的に分離しょうとする施策が矢継ぎ早にうちだされ ています。小・中学校でいえば、昨年から提案されてい た「学力向上フロンティアスクール」に加え、「構造改革特区」の一環として、英語教育を重点的に行う学校を設置する地域、中学校の通学区を廃止して.個々の学校に「文系」「理系」などの特色をもたせる地域、なども出てきま した。

 また一般の学校でも、昨年度来導入されている「少人数授業」 (一部教科で学級数+一〜二の ・・・・学級に比べて 小規模の・・・・ 学習集団を編成して授業を行うというもの) について、集団編成を「習熟度別」にすべし、という教委からの圧力が、京都(とくに府教委管轄下)を含む多 くの地域で高まっています。

 もちろん、授業においては子どもを機械的に「平等」 に扱えばいいというわけではなく、一人ひとりのつまず きの状況に応じた個別的なはたらきかけは必要です。し かし、そのことは通常の学級での授業と両立しないものではありませんし、これまでにも子ども同士の「教えあ い」などの形でさまざまに実践されてきています。なお、 「教えあい」によって学ぶのは教わる子だけではなく、教 える子にも、より深い理解が得られるというメリットが あります。

 これまでにも、高校レベルで、校内のコース、類型などが実質的に「習熟度別」的な印象、それによる心の傷を生徒たちに残すことが多々ありました。まして義務教育レベルで「習熟度別」 の集団編成を濫用することがどのような問題をひきおこすか、想像するまでもないので はないでしょうか。


事態を打開するのは保護者の声


 と、このようにみてくると、事態はおよそ救いがない とみえるかもしれません。しかし、学習指導要領など政策の根幹を本格的にみなおすことなしに、後づけの「修正」を施すという文科省の戦術が破綻をきたしているこ とは、誰の目にもみえやすくなつています。その中で、 従来であれば文科省・教委の方針に従順であった管理職 (校長・教頭)層も、自らが「やらされている」個々の施策に必ずしも確信がもてなくなつてきています。

 実際、たとえば「習熟度別授業」にしても、保護者の 批判が高まったために中止ないし規模を縮小したという ケースも、京都府内であります。本稿でみてきたような 一連の施策を進める一方で文科省自身、「開かれた学校」 をスローガンにしているわけですから、通知表であれ「少人数授業」 の問題であれ、学級懇談会や説明会を求めて いく中で、保護者の教育要求、教師の思いなどが交流さ れていくことには誰も文句はいえないはずです。

 その過程で、教師が本当にやらなければならない仕事 を明確にし、それ以外の不毛な労力は省くという方向が 出てくれば、政策の誤りを現場レベルで克服していく展 望もみえてくるのではないでしょうか。

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