トップ ひろば ひろば133号
解読「心のノート」宗教学からの検討

「心のノート」の欺瞞性と危険性
      −−「畏敬の念」(宗教的情操教育を中心に)−−

                                           加藤 西郷(龍谷大学)


●はじめに

 『心のノート』を通読 しながら、私はかつて文部省が『国体の本義』を 刊行(一九三七年)、全国の学校や社会教化団体等に配布し、皇国史観の徹底を期した時代のさまざまなことを想起しました。

 それは、「十五年戦争」 の只中における国民教化 のための政策の一環でし た。

 私は、ちょうどその頃、 小学生、中学生の時を過 ごしていました。そうい う時、限られた情報のな かで、ある特定の情報を 一方的に聞かされている うちに、自分ではそうと 気づかないまま、誤った考えを正当だと思い込み、実は侵略にすぎなかった戦い を、聖なる戦いだと信じていた時があったことを、いま 想い起こしています。

 その過ちに気づいたのは、大学に入って、動員された時、それは敗戦間近なときでしたが、そこで出会った二人の先覚者のお陰でした。  それはともかく、最近の教育をめぐる政策動向は、かつての“十五年戦争”時代のそれに酷似しています。そ こには古い神道イズムを基盤とする「国体護持」の思想 の蘇りがあります。

 その蘇りを先導したのは、森前首相の「日本は天皇を 中心とする神の国である」という「神道政治連盟国会議員懇談会」における発言であり、その私的諮問機関であ る「教育改革国民会議」 の最終報告における「教育基本法見直し」 の提案です。しかも、この提案が、経済界か らの教育要求に応えたものであることも見落としてはな らないことです。また、こうした流れに拍車をかけてい るのが、小泉首相の「靖国神社公式参拝」という内向き の政治的パフォーマンスであり、それを「平和を願ってのこと」だと強弁するのは、首相という立場にある者の振舞いとしては許せるものではありません。しかし、こ のような政治風潮と教育政策への軌道を敷いたのは、中曽根元首相が、「新国家主義」と主張する立場から「戦後教育の総決算」と称した教育改革路線にあります。

 『心のノート』も、この路線での教育政策の一環として 刊行されたものです。

 私が子どもだった頃とは正反対に、いまの子どもたち は多様な情報の渦の中で、何が真実か、見定め難い時代を生きています。

 今日、「情報」は単なる手段ではありません。それ自身、「価値」として、それだけが真実であるかのように、登場してきます。

 『心のノート』はそんな危険なものをもっているにもか かわらず、やさしく甘い顔で子どもたちにささやいてい るように」思われます。

 そんな欺瞞がどのように隠されているのか、「畏敬の念 をもとう」という呼びかけを中心に以下、考えてみよう と思います。


●問題の所在


 「畏敬の念」をめぐつて、その問題性を考察するに際 し、看過できない問題の所在は、「宗教的情操の涵養」@ という、戦前から戦後にかけて引き継がれ、現在もまた 強調されている文科省の教育政策にあります。

 このことについて、菅原伸朗氏は、《問題は宗教的情操教育です。明治三十二年の訓令一二号によって、日本 の公私立すべての学校から宗教の指導が排除されました。 「神道は宗教でない」として、神社参拝などは行なわれま したが、戦地に行って死ななければならない兵隊に、神道の楔ぎと祓えだけでは「死ぬ覚悟は教えられない」と いう意見が強まりました。何とか「宗派を超えた宗教心」 を教えられないかという発想から、大正・昭和になって 「宗教的情操教育」という分野が研究されたのです。戦後 の教育でも、この宗教的情操教育に取り組む方向は継承 しました。最近では「生命の大切さ」を教えることがこ の分野なのでしょう。A》と簡明に問題の所在を明らか にしています。

 留意すべきことは、「宗教的情操教育」という概念が戦前の国家神道教育のもとで、諸宗教を国策に動員するた めに文部省官僚によって発明されたものであるという点 です。B

 具体的には、公教育における宗教の取り扱いについて 「特定の宗教教育はできないが、宗教的情操教育は必要で ある」という政策です。

 要するに、文部省の論理は《「宗教的情操」は、どの宗教にも共通だから、特定の宗教を教える教育にはなら ない。したがって、教育と宗教の分離という原則と矛盾 しない》という訳です。

 吟味すべき問題点は、《「宗教的情操」はどの宗教にも共通する》という主張が、本当にそう言えるのか、と いう点です。

 宗教学者、佐木秋夫氏(故人) は、この文部省見解を 鋭く批判して、《これは、ひどい詭弁である。第一、宗教的情操を拒否する自由を侵し、したがって、信教の自由を侵している。第二に、教義(信仰内容) と宗教的感情(情操)とは不可分である。だから、宗教的情操教育は かならず特定の教義と結びついた宗教教育となる。この意味でも、信教の自由を侵す。第三に、すべての宗教に共通する宗教的情操なるものは、抽象概念であって、実際にはあり得ない》Cと、文部省見解の不当性を指摘し ています。

 しかし、文部省見解を妥当とする研究者の意見もあり ます。宗教学者、岸本英夫氏の見解がその代表的なものの一つです。

 《宗教教育は、通常、二つの意味に用いられる。その一つは、ある特定の宗教体系の中の、宗教教育である。その場合には、特殊な色調を持った宗教的価値体制を植えつけるこ とが、その目的となる。他の一つは、もっと広い、一般的 な宗教教育である。特定の宗教体系に属さない、誰にでも共通な、基礎的な信仰体制の準備をしようとする。それは、宗教的情操教育といわれたり、宗教知識教育となつたりする。 日本のように、憲法によって、国家と宗教が厳格に分離された国では、その公立学校で行ない得る宗教教育は、後者であ る》D

 この岸本氏の見解は《公立学校では宗教知識教育がで きる》と言っているようですが、それと宗教的情操教育との関連が明らかでなく、結局、公立学校における「宗教的情操教育」を許容する見解になっていると思われま す。


●徳育の強化策としての「畏敬」= (宗教均情操)の登場  −−「期待される人間像」から「心のノート」まで−−


 一九六三年七月、教育課程審議会は「学校教育におけ る道徳教育の充実方策」として「今後、宗教的あるいは芸術的な方面からの情操教育を一層徹底するよう」答申 しました。

 当時、「国防教育」「神話教育」「愛国心教育」「天皇敬愛論」などが横行していましたが、この答申はそういう政治的な動向を教育に反映させるものになりました。

 また、それに拍車をかけたのが「期待される人間像(一九六六年)」Eでした。そこでは、「個人として」「畏敬の念をもつこと」を促し、それを「家庭人として」「国民と して」と同心円的に拡大し、結局のところ「象徴に敬愛の念をもつこと」に収赦させ、「天皇への敬愛の念をつきつめていけば、それは日本国への敬愛の念に通じる」と断定的に述べ、そういう考え方、生き方を「日本人にとくに期待されるもの」と強調しています。

 これに対して、「政治的支配者が権力を背景に、一方的 かつ画一的に教育の目標としての人間像を押しっけるも の」という厳しい批判がなされたのは当然のことと思われます。F

 そこで、私たちの課題にとって必要なことは、その「畏敬の念」が何に対して向けられ、どのような内容の「情操」なのかについて吟味することです。「期待される人間像」には次のように書かれています。


・「生命の根源に対して畏敬の念をもつこと」

・「すべての宗教的情操は生命の根源に対する畏敬の念に由来する」

・「このような生命の根源すなわち聖なるものに対する畏敬の念が真の宗教的情操であり・・・」また、一九八六 年「臨教審答申」Gにも同じような記述が見られます。

・「人間の力を超えるものを畏敬する心をもたせるよう に努める」

・「生命や自然への畏敬の念や豊かな情操の滴養を図る」


 このような答申などを背景にして「宗教的情操教育の必要性」が改めて主張され、それは『学習指導要領』の改訂毎に具体化されてきました。

 留意すべきことは、そこに登場した「畏敬の念」の位置づけです。それは次のように三つの段階を経て現在に 至っています。


@第一段階−−小・中学校の「道徳の時間」 の「徳目」 として登場します。
・五八年版(小) 「美しいものや崇高なものを尊びながら、清らかな心をもつ」
・六九年版(中) 「人間のカを超えたものを感じることのできる心情を養う」
・七七年版(中) 「人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつように努める」
・八九年版(中) 「人間の力を超えたものに対する畏敬の念を深めるようにする」
 年度毎に、「畏敬の念をもつ」 「…養う」 「…努める」 「…深める」とその表現が変わっているところに文部省が 「畏敬の念」=宗教的情操教育の比重を高めていることが わかります。


A第二段階−−「道徳の目標」に格上げされます。
・八九年版(小・中)−−「道徳」の第一目標 「道徳教育の目標は・・・人間尊重の精神と生命に対する畏敬の念を家庭、学校、その他社会における具体的な生活の中に生かし・・・」


B第三段階−−「総則」 のところに記述されてきます。
・小学校及び中学校「学習指導要領」(一九九八年十二月十四日)
・高等学校「学習指導要領」 (一九九九年三月二十九日)
・盲学校、聾学校及び養護学校小学部・中学部「学習指導要領」 (一九九九年三月二十九日)

 のいずれの場合も第一章「総則」に、八九年版小・ 中) 「道徳の目標」 に記述された「畏敬の念」が全く同じ 文章で記述されています。

 こうして、「畏敬の念」は現在では教育課程全体の頂点 に位置づけられ、その全体を総括する重要な「キー・ワー ド」となっています。挽言すれば、それ程に「宗教的情操教育」が重要視されていることになります。

 私たちの直接の課題である『心のノート』の場合はど うなっているでしょうか。

 例えば、中学一・二・三年用の内容と九八年版(中) 道徳の時間の内容は全くそのまま同じです。

 このうち、本稿の直接の課題である(3)についてその内 容の対応は次のようになっています。

〔心のノート〕              −  〔道徳の時間〕

(1)自分自身              − 主として自分自身に関すること

(2)他の人と のかかわり        − 主として他の人とのかかわりに関すること

(3)自然や崇 高なものとのかかわり − 主として自然や崇高なものとのかかわりに関すること

〈4)集団や社 会とのかかわり    − 主として集団や社会とのかかわりに関すること
 〔心のノート〕

・自然のすばらしさに感 動できる人でありたい〈自然や美を愛し 人間の力を 超えたものへの畏敬の念 を深める鍵〉

・限りあるたったひとつ の生命だから、〈かけがえ のない生命を 尊重する鍵〉

・良心の声を開こう〈人間 として誇りをもって生き ていく喜びを味 わう鍵〉
〔道徳の時間の徳目〕

(1)自然を愛護し、美しいも のに感動する豊かな心をも ち、人間の  力を超えたものに対する畏敬の念を深める。

(2)生命の尊さを理解し、かけがえのない自他の生命を尊重する。

〈3)人間には弱さや醜さを克服する強さや気高さがあるこ とを信じて  人間として生きる ことに喜びを見いだすように 努める。


 こうしてみると、『心のノート』が理想的に描く子ども 像はその手法と形式の新しさにもかかわらず、その性格や内容は、かつて『期待される人間像』において「とくに日本人に期待されるもの」として「一方的、画一的」 に押しっけられた「人間像」と全く同じであることがよ くわかります。

 そこで、「キー・ワード」として語られている「畏敬」 についての文部省の見解を整理しておきます。


●「畏敬」 についての文部省見解の欺瞞性


 これまで「畏敬の念」の対象は何であつたか、少し整理 しておきます。それは第一に「自然」に向けられています。 第二に、その「自然」は「生命の根源」として捉えられ、そ れに対する「畏敬の念」が語られています。第三に、そうい う「自然」「生命の根源」に「聖なるもの」の存在を感じ、 それを「人間を超えたもの」としてそれへの「畏敬の念」が 語られ、そこで成立する感情を「すべての宗教的情操」とし て一括しています。

 ここには、二重の欺瞞性があります。一つはここで言 われている「自然」や「生命」という言葉は、今日私た ちが人類的課邁としてその解決を迫られている「自然環 境」や「人権問題」 の内容の一つとして取りあげられて いる「自然」や「生命」とは全く異質のものだというこ とです。しかし、『心のノート』を読んだ子どもたちは、 その異質性にすぐに気づくことはできないでしょう。自然や生命という言葉によって、いま本当に考えるべき課題は何かということから遠く離れ、それをただ、「畏敬するもの」として捉えることの危険性を指摘しておきたいと 思います。

 第二の欺瞞性は、その畏敬の内容、即ち「宗教的情操」の問題です。それが「すべての宗教的情操は」という主語で語られているのは全くの詭弁です。端的に言えば、 それは日本の民族宗教である古代の神道に固有の畏敬観であり情操です。

 このことについては宗教学者、脇本平也氏の神道につ いての解説が参考になると思います。脇本氏は、岸本英夫氏が宗教を「救い型」「悟り型」「つながり型」の三つ に分類していることに依拠しながら、「救い型」はキリス ト教によって代表され、「悟り型」は仏教によって代表さ れるとし、「つながり型」は神道において、これをみるこ とができると前提して、《日本民族古来の伝統としての 氏神信仰が、大体これに当ります。そこでは、人は生まれるとただちに、ある氏神や産土神(うぶすながみ)の氏子になると信じ られています。祖先の神に対して、その子孫として位置 づけられるわけです。氏神と氏子、祖先と子孫という、 いわば血のつながりが神と人間の間にあるという信仰です。さらに、その人間を取り巻くものに山川草木の自然 がありますが、その自然のうちにも数々の神や霊が存在する。それらの神霊をもひつくるめて、神々と自然と人間との三者が、共同の絆によって固く結ばれて一つにな っているという信仰が神道の基底に流れています。・・・こ の型は、日本の神道のみにはかぎらず、いわゆる民族宗教は、おおむねこれに属していると考えられます。》H

 長い引用になりましたが、『心のノート』における「畏敬の念をもとう」という呼びかけの底流にあるものは何かを考える手がかりにしてほしいと思います。

 ところで、この「畏敬」についての文部省見解が、こ のことを裏づけるものとなっています。

 文部省はこの「畏敬」について『中学校学習指導要領』 (平成十年十二月) についての「解説」−道徳編−(平成 十一年九月刊)において、《畏敬とは「敬う」という意味での尊敬、尊重と、「畏怖」すなわち尊いものを傷つけた り、踏みにじつたりすることを禁じる気持ちという面が 含まれている》と解説しています。

 ここでは、「畏敬とは畏怖という気持ちが含まれている」という部分に注目したいと思います。いずれの宗教 にもそれぞれの教義と結合した固有の情操が成立してく ることは誰しも認めるところですが、「畏怖」という感情 がすべての宗教に成立してくるものではありません。例えば、仏教では「畏怖」という感情は「迷い」の様相に すぎません。

 これまでの民族宗教の研究のまとめによると、《宗教的な意識状態を示すものは畏怖(awe)の心持ちである。 この畏怖の心持ちは国語のカシコムというやや古い意味の現われた心持ちである。畏怖の心持ちは神秘感と威厳感という二つの情緒の複合した情操である。…》Iと整理されています。

 「畏怖」という心持ちが古代の宗教感情の特徴として指摘されています。

 また、菅原伸朗氏は「畏怖」という言葉にあたる用語が旧約聖書に二六三回見られるのに対し、新約聖書では二五回しかなく、しかも、イエス自身が登場する福音書には三回しか登場しないことなどを指摘して、《「畏れ」は宗教の必須条件か》と問題を提起されて、《畏怖は古代宗教のものではないか》と指摘しています。J

 世界の四大文明がすべて大河の畔で成立したことを思 うと、そこでは「自然」は最大の恵みの源であると同時に避けることのできない恐怖の源でした。それに対して、 どのような姿勢をとったか、古代の人々の考え方や生き方は「神話」として残されています。そこに見られる古代宗教に共通するものは「畏怖」という感情です。

 それを、「すべての宗教的情操」として語るのは欺瞞と言うほかありません。


●おわリに


 これまでの吟味を通して『心のノート』は、いま蘇りつつある国体護持思想を当然の如く理解し、それを支える国民感情を育てるための温床づくりに他ならないと思 わざるを得ません。

 しかし、子どもは「みんなと共に、独りで」生きる学びの主体であり、現在及び将来にわたって、自らの時代 と社会を、そして歴史を形成する主体です。したがって、 いま求められているのは、既成の「価値判断から自由」 であるだけでなく、「価値判断への自由」を自らのうちに育てることだと思います。それをどう援助していくか、 が私たちの仕事です。

 『心のノート』が描く理想的子ども像は、国が政策として求める「良い子」にすぎません。『教育基本法見直し』 論議と『心のノート』は、ペアで機能する仕組みになっているようです。教育基本法が「個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期して」「人格の完成」を 教育の目的として掲げたことの意味の深さを改めて認識することが、いま求められています。

 『心のノート』を配布するかどうか、使用するかどうか について、私たちはそれを選択する自由があることを付記して終わります。


 (註)  


@一九三二年(昭和七年)訓令一二号文部省次官通牒  
A菅原伸朗氏《「畏敬の念」再考》(シンポジウム草稿)未発表。二〇〇一年一〇月三一日、同志社大学神学部主催で開かれたシンポジウムで提案された時の草稿。  
B山口和孝著「新教育課程と道徳教育」にこのことについて詳細に述べられている。併せて、日隅威徳著「現代宗教論」 (白石書店) にこの間題についての戦後の状況が述べら れている。
C日本宗教史講座第4巻「現代の宗教問題」 (三一書房)
D岸本英夫著「宗教学」大明堂
E大田尭編著「戦後日本教育史」岩波書店
F中教審答申第二十回答申(会長 森戸辰男)別記(主査 高坂正顕)
G臨時教育審議会(昭和六一年四月二三日)第二次答申
H脇本平也著「宗教学入門」一九九七年、講談社学術文庫
I棚瀬嚢爾著「宗教要論」昭和二九年、百華苑
J前記Aと同じ《「畏敬の念」再考》菅原氏の著書『宗教をどう教えるか』朝日新書
K本稿の主題にかかわる筆者の論者は次のものを参照していただければ幸いである。
(1)「宗教と教育−子どもの未来を開く−」一九九九年、法蔵館
(2)「現代における宗教と教育の問題」龍谷大学論集、第四二七号、昭和六〇年
(3)「社会・地歴・公民科教育論」加藤西郷、吉岡真佐樹編著(二〇〇二年)、高菅出版

(かとう さいごう・龍谷大学)

トップ ひろば ひろば133号