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特集

追いつめられる子ども?  「心のノート」から 見えてくるもの


文部科学省が7億円もの予算を計上し発行 した補助教材「心のノート」。あなたはも うご覧になったでしょうか。すペての教科 の学習とあわせておこなわれるという心の 教育。いま、このノートをめぐって、子ど もたちの心へどんな波紋を広げていくの か、危惧する声が出始めています。今号で は、この「心のノート」をとりあげます。
文部科学省発行の「心のノート」とは

                                      ひろば編集部






小・中学生全員に配布される「心のノート」

 この一学期に全国の小・中学校に、 文部科学省の作成した『心のノート』 が配布されました。この秋にもすべて の小・中学生が手にすることになりま す。文部科学省の説明では、この「ノ ート」は道徳の時間はもちろん、学級活動や教科の授業、「総合的な学習の 時間」で使う、つまり学校のあらゆる 教育活動で使う「補助教材」と位置づ けられています。七億円以上もかけて 作成されたこの「ノート」には重大な 問題点が含まれています。ひろば編集部は、今号以降、継続的に『心のノー ト』について取り上げていく予定です が、本特集はひとまず全体的な問題点 を明らかにして、先生やお母さん・お父さんたちに、討論の材料を提供した いと思います。

 『心のノート』について考えるべき ことは、おおよそ、以下の点にあると考えます。

人間の心への国家の介入

 心という人間のものの感じ方ににかかわる領域は、「良心」 「思想・信条」「宗教観」などと深くつながっているので、人 間の心の問題を考えるときには、近現代の歴史を通して確 立されてきた「市民的自由」や、近代教育の原則である「国家からの教育の独立性」がもっとも尊重されなければなり ません。「心のノート』のように、文部科学省に著作権のあ る「教材」を一律に全国の小・中学枚とそこで学ぶ子ども たちに配布することそのものが、戦前における国定教科書 を思い出させるものです。むし補助教材と言うなら、それを使う、または使わないという判断は、教師と親に委ねら れるべきです。

「心のノート」の道徳観

 『心のノート』に書かれている内容は、学習指導要領の 「道徳」で書かれている徳目にしたがったものです。たとえ ば『心のノート』中学生版には、「自分自身」「他の人との かかわり」「自然や崇高なものとのかかわり」「集団や社会 とのかかわり」の四領域を設定し、二十三項目を配置してい ますが、それは「道徳」の徳目とまったく同じものです。文体的に見ます と、問いかけ 型の価値多元 的な文体と、 断定型の文体 とがあります が、とくに後 者は「社会と のかかわり」 に関するとこ ろに目立ちま す。「わが国 を愛し、その 発展を願う」 「あなたは 『日本の伝統 や文化』 の頼りになる後継者である」と一方的な文体で書かれています。 価値多元的文体のなかに時々顔を出す断定的文体こそ、『心 のノート』が誘導しようとする一方的な価値観ではないで しょうか。教育の場においては、「日本の伝統や文化」をど うとらえるのかを考えることはあっても、「伝統や文化」を 一方的に肯定することを押しっけるべきではないのです。

教材の要件を満たしていない

 『心のノート』を教材として見た場合、はたしてこれを教 材と呼べるかどうか疑わしいものです。もしも道徳やものの感じ方にかんする教材がありうるとすれば、その教材は 慎重の上にも慎重に作成されるべきものです。上に述べた 「わが国を愛 し」のページ には「美しい言葉がある、 美しい四季が ある、そして」 と書かれてい ます。ところ で日本には二人のノーベル 賞作家がいま すが、最初に ノーベル文学賞を受賞した川端康成は 「美しい日本 の私」という受賞記念講演をしましたが、ふたり目の大江健三郎は川端を意識して、「あいまい(アムビギユアス)な日本の私」 というタイト ルの講演をおこないました。ビューティフルな日本とアム ビギユアス (両義的)な日本とが、つまり対立的な意見が 両方示されてこそ、ものを考えるに足る教材となるのです。 (大江健三郎がアムビギユアスと言うのは、明治以降の日本 の近代化がはらむ両義性のことであり、わかりやすく言えば「和魂洋才」「脱亜入欧」という歴史そのもののアムビギ ュイティが日本人のこころを引き裂いてきたことを彼は述 べたのでした)。
 また「悠久の時間(とき)の流れ この大自然」「自然のすばらし さに感動できる人でありたい」のページでは、それを表す 写真ととともに、たとえば「地球温暖化による生態系の破壊」が述べられてこそ教材となるものではないでしょうか。
 さらに、中学生版には作家や哲学者のことばが散りばめ られています。たとえば「義務心をもっていない自由は本当の自由ではない」と夏目漱石のことばが、それだけを文脈から切りとって書かれています。こういう手法は、作家や哲学者の書いた文章を全体として示すのではなく、その なかの文をとりだして示すという手法であり、その文を本当の意味で理解したり批判的に考えたりする教育的なもの ではなく、まるでイデオロギー教化の手法のようです。も したとえ、そのことばに普遍性があるとしても、この手法 はけっして教育的なものにはならないでしょう。

子どもを追いつめる危険性

 『心のノート』の新しさは、その「ノート」性と小学校低・中・高学年、中学生と義務教育のあいだに四回も繰り返すことにあります。子どもたちがノートに書きこむとき、 それが親も先生も誰も見ないものであれば自由に書けるかも知れません。学校でおこなうことは当然、評価が絡まってきますので、子どもは「道徳的である」とされることを 書かされる危険性があります。書くことを考えつかないと き、子どもたちが参考にするのは『心のノート』に書かれ たことばであるとすれば、これは一定の価値観を書くこと を通して形成するという意図がえるとともに、さらに重大なことには、自分の書きたくないことを自分の意に反して書かねばならないことで、子どもたちを「道徳的に」追 いつめるという危険性が感じられることです。現代の子ど もたちのひとつの特徴として、先生や親の求めることを先 取りするかのような自分を「演じる」こと、そこから本物 の自分とはちがう他者向けの自分を「演じる」ことに疲労 していることが指摘されます。それは、ある場合には勉強 であり、ある場合にはスポーツであったりしますが、それ に「道徳」が加わったとき、それは全生活を通して「存在」 (あるがまま)ではなく「当為」(こうあるべき)が子ども に重くのしかかることが危惧されるのです。

 まず、『心のノート』を大人自身が読むことから始めたい ものですが、本特集がその参考になればと思います。

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