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ひろば131 特集

【特集「変わる成績評価 新しい通知票をどうみるか】

悩める新通知票 わが子の学力が分からない

座談会
◆ 浅岡よしえ(母親・仮名) 安藤玲子・佐々木俊子・鈴木寛・本山政治(以上小学校教諭・仮名)

司会:ひろば編集部



■夏休みが始まりました。終業式の日、子どもたちは今年度から始まった絶対評価による通知票をもらって帰ってきました。評価の方法の変更、新通知票の本質はどこにあるのでしょうか。


──評価の問題というのは、一度にすべてを言い尽くすということはできません。まずは職場の実態から話していただきましょう。

いよいよ学力の観点別評価がはじまった

本山 うちの学校で評価について具体的に出てきたのは、今年の1月、2月です。学校長が大上段にふりかざしてということではなくて、教頭と教務主任に最初に案を作ってもらうという形でスタートしました。それが明らかになってきたのが、3月だったと思うのですが、ほかの学校などで聞いていたのと比べると、表現としては指導要録の文言、たとえば「話す、聞く、書く能力……」がそのまま出てくることではなかったので、学校の中としては、大きな反対の議論にはなっていません。

佐々木 私の学校も具体的に出てきたのは去年ですね。指導要録の開示ということが非常に言われているので、通知票を指導要録に合わせて変えたいという話でした。職場では、通知票と要録というのは役目の違うものなので、要録と同じにものにする必要はないのではと、かなり論議をしました。去年の2学期の終わりごろに学年から一人ずつ参加して委員会を立ち上げ、どういう形の通知票を作るかということで終始大論争しました。校長は要録と同じというのは「関心・意欲・態度・知識理解」の、4観点で通知票をつけろというのです。でも、それでは親は分からないのではないか、親としては今習っている小数の勉強が分かっているのか、分数が分かっているのか、漢字が書けるようになっているのか、それが基本的に知りたい情報。それを知らせるのが通知票ではないかということで、かなり、話し合いをしました。以前から四観点的になってきている国語や図画、体育などいいとして、社会や理科や算数については、単元も残してほしい。それについては校長も今年に限っては認めるということになりました。

鈴木 去年の夏あたりから話が出ていました。指導要録の会議で、これからは観点別の要録と同じ評価しかできない、それでやってもらわなければ困るという説明でした。論議をしようとしても、管理職の態度は「話は聞きますが、どの学校もこの方針ですから」という姿勢で、具体的な作業日程だけが一方的に提示され、つぎつぎ進んでいる感じです。議論はするのですが、「どこの学校もこの評価の仕方です」ということで意見は聞き入れられない。通知票として親に分かるように、子どもにも分かるように励みになるようにと項目を削除したり、変えたりして案を提出すると、次のときにはもとに戻してやらせる。そんなことで、非常に無力感が蔓延しています。

安藤 私の学校では一年ほど早いですね。「総合的な学習の時間」の研究発表をしたこともあって、学習の内容が変わって、指導方法が変わったのだから、通知票も変わって当然だという感じで提起されました。どう考えても算数や理科は、それぞれの単元でまったく学習する中身が違うのに、知識理解などをひっくるめて評価するなんてことは絶対できないという話をして、1年は理科と算数については今までどおりでしましょう、変えられるところだけでも変えましょうと昨年一年間やりました。国語、社会、図工、音楽、体育などはすでに観点別になっています。 鈴木 音楽は週に1.5時間、この1.5時間で四つの項目で評価をつけなければならない。図工でも週に2時間ですね。1.5時間の図工でも5項目をつける。反対に国語は6時間、7時間あっても5項目をつけるのですから。こういうやり方だったら、評価が先か、学力が先か、本末転倒のような感じです。

通知票は連絡簿にすぎない

安藤 情報公開に向けて、開示したときに通知票と指導要録が違ったらいけないと管理職はさかんに言いますね。それの一点張りですね。

浅岡 指導要録と通知票では書いてあることが違うというお話ですが、どこがどう違うのですか?

安藤 もちろん、こちらでは褒めておきながら、こちらではダメだと書いているというような違いはありませんよ。ただ、表現として、たとえば通知票で4年の算数だったら分数の足し算引き算ができるとかいう項目があるのに対して、指導要録の方では計算の技能と理解。数量的なとらえ方ができるとか数学的な考え方ができるとかいう感じなのです。私たちが1年間の通知票につけた項目を総合して、この子は数学的な力があるといったら、そこに○をつけたりするのです。

浅岡 修練されていくというか……。

佐々木 法律的には通知票は作らなくてもいいのです。形も決められているわけではありません。たとえば一つの教材が終わったら、それが分かったかどうかを親に通知して、またそれを親が見て返す、それを学期に何回も行き来させている学校もあります。要するに、私たちが通知票と考えているのは「子どもが今こんな勉強をしていて、これは分かっておられるけれど、これはもう少しがんばってもらわないとダメですよ」と、そういうことを通知しているだけなのです。一方で要録というのは、分数が分かっていようが分かっていまいが、数学的な考え方をもっていればいいわけなのです。関心をもっていれば、関心・意欲・態度がよければいいというものです。

浅岡 通知票というのは、基本的にそうしたら今おっしゃったように、お知らせするという性質のものなのですね。

安藤 連絡簿です。 鈴木 文部省もそう言っているんです。

佐々木 だから各学校で独自につくってもいいのです。

鈴木 隣の学校と違ってもいい。

佐々木 そうです。いわゆる公文書ではないから。

浅岡 義務ではないのですよね。

──そういう正しい話が校長には通じればよいのですが。指導要録そのものも、地方自治体によってそれ違ってかまわない。文部科学省は押しつけることはできない。そういう関係にあるのに、要録通り、要録通りというのですね。

浅岡 そうすると、義務でもなく、しかもお知らせ的なものに、何と親も子どももとらわれているか、ということですね。

佐々木 そうですよ。だから、通知票を渡す場合に、これを子どもたちの学力の一部を示すものですと言って、私はいつも渡すようにしています。だって子どもの力というのは、教師一人の目では分からないことの方が多いでしょう。  要録の中の「数学的な考え方」のところでも、その力がついたかどうかなどというのは、子どもの頭の中を割って見られるものでもなし、子どもはいろんなことを考えながら、結果としてその問題が解けるというところにまで到達している、そういう思考過程のどこを評価するのか。今度はその分からないものを通知票にも登場させて親に通知しろというのですからね。  私は指導要録が開示されて、「何でこういうふうについたのですか? と保護者に問われれば説明できますよ」と、校長に言うのですが、校長は通知票と一緒だったら、「これを見てもらったらこの通りです」と言えば簡単だから、この方がいいではないですかと、皆さんを守るためにやっているんですよと開き直って言うのです。

親も子も教師も悩ませる新通知票

佐々木 たとえば国語だったら、1年生では「国語に関心をもちつつ表現したり楽しんで本を読んだりしようとする」「したこと思ったことを話したり大事なことを聞き取ったりする」「言葉や文字を正しく書いたり使ったりする」とあるのですが、今まででしたら、「ひらがなが正しく書ける」とか「書き順がただしく理解できている」という表現でした。親の立場から言って、どうですか? 新しい通知票をもらったときにどう思われますか。  算数で言うと、1年生でしたら、「数や形に親しみをもち自分でも使っていこうとする」「見通しをもち筋道を立てて考えることができる」「簡単な計算をしたり、量をはかったり、図形を観察したりすることができる」となっていて、計算も量をはかることも図形もみんな一つの項目で評価するのです。これをもらったときに、うちの子は算数の何が分かっているか、どこでつまずいているかと分かりますか?

浅岡 全然分かりませんね。どこが問題なのかも分からない。さきほど「数学的な考え方ができる」の項目の話がありましたが、1昨年うちの小学生の息子が1年のとき、すでにその項目が通知票にありました。先生に尋ねたのです、「これは何ができるとこういうふうになるのですか?」と。そうしたら、先生も「さー、何でしょう?」とか言って……。

──「形に親しみをもつ」というのも、おかしなことです。

佐々木 私は4年生を担任していますが、たとえば「辺の長さに着目して、図が二等辺三角形であることを見分ける」というのがあって、それに「がんばろう」がついていたら、うちの子は二等辺三角形の区別がつかないのだなと分かりますよね。

浅岡 分かります。

佐々木 そういうイメージを言葉にしようとすると、これは今年しかたぶん認められませんと、校長に言われるのです。

浅岡 本当にそういう「計算も図形」もゴチャゴチャの文言の通知票でしたら、親は困ります。  今、自分がもらっていた通知票を思い出していたのです。おとなになった今でもよく分からない抽象的な文言が各教科4項目くらいあって、それが3段階で評価されていて、科目の頭に評定の「5、4、3、2、1」がついていた。そうすると、そこで親と交わされる会話というのは「なにしてたん? 授業中、横向いていたんのと違う?」とかそういう話でした。そして自分が親になって子どもがもらってくる通知票は、たとえば、「図形の理解ができる」が「がんばろう」というのであれば、「どうしたの? 図形が分からなかったの?」と具体的な話が子どもとできた。「3・2・1」はもちろん気にはなるけれども、それだけでなく、具体的な話ができるから、この子のここを気にしてやるとか、漢字がもうひとつであるという評価であれば、少し空いた時間に漢字を見てやろうかなとかいう、具体的な手立てが考えられる。

鈴木 算数だったら、知識理解ができて数学的な考え方ができないというような、知識理解がダメでも数学的な考え方ができるなんてありえない。そうなったら、今までもできる子はそのままいい成績ですよ。でも、そうでない子どもはどうしてやったらいいかということです。うちの学校の通知票の項目には、音読の評価はありません。音読を一生懸命やって上手になっている子に励みになるような評価をつけてやることはできない。「気持ちや様子を考えながら音読する」というような項目がほしいのです。あるいは、漢字についていえば、今度の通知票がさっき佐々木さんが言ったように「言葉や文字を正しく書いたり使ったりする」となると、「漢字の語句をしっかり使う」ことはできるけれど、「正しく丁寧に文字を書く」ことができない子、つまり覚えられない子の評価が正しくできない、その反対も同様です。できることをきちんと評価してやって、しかもできていないことが分かるような細かさが今度の通知票にはない。それを全部排除して、この四つの観点でくくってしまってやるから、できる子はできる。音楽でも歌は苦手だけど、楽器は弾ける子だっている。でも新しい通知票の「曲の感じをつかみ歌ったり、演奏したりできる」だったら評価できない。

──現場の先生の努力というか誠意というのが、実を結ばない格好になっています。

親は分からないと学校に言ってきてほしい

鈴木 子どもが通知票をもって帰って、今までだったらだいたい分かるから質問がない。極端な話、分からないから教えてほしいと言わせるような通知票を出して、聞かれたらそこで対話が始まる。それが教育相談だとはうちの管理職は言いますからね。

浅岡 分かりました。聞きましょう、分かるまで(笑)。

佐々木 私は説明会を開いた方がいい、と学校では言っています。こんな大幅に通知票を変えるのだから、親の要求は当然あるはずだから、と言ったら、通知票がまだできあがりませんから、通知票を渡す前の7月にやりますって。ここに見本があるわけですから、これでやったらいいと言うのですが、結局嫌なんだと思います。開かれた学校と言いつつ、都合が悪いことはしないのです。

本山 アカウンタビリティは必要です。 安藤 私の学校でもこれで親には分かりにくいという話を職員の中から何回も出したのです。そうすると、親が分かりにくいから親に合わせるのではなくて、親にも慣れてもらわないといけないし、親を教育する必要があるのだという言い方をするのです。

佐々木 親を教育しないとダメと思っているから、間違っている。親から学ばなあかんのですよ。

鈴木 私の学校では、PTAの役員さんから重要な変化だから保護者に説明してほしいという要望が出されました。

通知票に教える内容が規制される

佐々木 前回学習指導要領が変わって、途中で新しい学力、新学力観というのが出てきました。この間、指導主事が何回も言っていたことは、新学力観が学校の入り口で止まっていると。つまり、新学力観を文部省がうち出しても、学校の中では相変わらず足し算、引き算を一生懸命教えている。「意欲・関心・態度」について、私たちは喚起しなければとは思っているけれども、それは評価の対象だとは思っていない。そういう授業をやっているから、学校の門の前で止まっていると言うのです。  そこで、門の中までズカズカと入れてくるために通知票を使うことにしたのです。親も始めは変だと思うけれど、そのうち慣れて、うちの子は何ができて何ができないのか分からないけど、「5」になっているとか「4」になっているのを見て一喜一憂するだけになる。そういうふうにしてしまうための道具として、使われるという思いがすごくします。  ここからが怖いのですが、そうすると、教師はこれだったら一つの単元が終わっていなくても、子どもが内容がを理解していなくても、「数学的な考え方ができる」にポンとマルをつけたらいいのだから、楽ということになりかねない。今まで私たちは具体的な、計算ができるとか分数が分かるとか、そういう項目にマルがつくように、一生懸命残してまで、それは、子どもにとったら迷惑だったかもしれないけれど、教えたりしていた。これからは、そこまでやらなくても通知票をつけることができる。そんなふうにして教える中身が、この通知票を通して、変えられていくのではないか、こう思います。

浅岡 新学力観の意欲・関心・態度で、成績をつけるのにはどういう意味があるのでしょう? 親に対して、わが子を知識がある、ない、できる、できないで見ずに、子どもがこれが好きだと思っているとか、楽しそうにしているとか、そういうところを見なさいというふうに言うわけですね。

鈴木 そうです。知識の量が多いよりも、もっと生きる力だと、それは、思考力や判断力や意欲的にやるとか、そういう力をつけることがもっと大事なのだと。

浅岡 それが駄目だと「がんばろう」になるでしょう。ではどういう手立てをしてやったらいいのですか?「関心・意欲・態度」が「よくできる」子になるには親としてどうしたらいいのでしょう。具体的な手だてはあるのですか。わが子が「分数や少数が分かっていない」ことも分からない通知票って意味があるのでしょうか。

──今、そういうことに対する批判が高まって、文部科学省の方に揺り戻しがきて、今度は「基礎基本、基礎基本」という。それで次はその手直しで格差を作ろうとする。手直しするところとしないところで格差をつけようとしているのです。そこも気をつけないといけない重要な部分ではないでしょうか。

(構成・文/矢田智子)

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