|

リフ・ランデ ルンド (元留学生・ノルウェー)
幼い頃すごした京都
今年の5月いっぱいでノルウェーへ帰国するが、これで私にとって日本での13年目、京都での11年目が終わろうとしている。京都での思い出は数え切れないほど多くあり、まちのあちらこちらでさまざまな思い出がよみがえる。自分の故郷でもあるこの都市を去るのは不思議な気持ちである。
私は日本で生まれ、11歳までのうち9年間は日本で暮らしてきた。ほとんど京都で育った。修学院の「なかよし保育園」で楽しい日々をおくった後、小学校が始まる頃は下鴨のほうへ移り、葵小学校に通っていた。小学校では習字の授業で漢字を書くことと、運動会のリレーなどが好きだった。毎日、近所の友だちと一緒に登校したり、遊んだり、とても楽しく幸せな日々を過ごしていた。自分が外国人の子どもだったことをときには忘れるほど、まわりの環境に溶け込んでいたように思える。だが、「外人だ、外人だ」と、指でさされて、宇宙人であるかのようにじいっと見つめられることも毎日というほどあった。
いまはあまり見かけなくなったが、その頃は、うちのまわりには田んぼや野菜畑が多くあった。当時は近所から葵小学校までが「私の京都」であって、葵書房さえ京都の果てにあったように思える。そして、近所の優しいおじいちゃんやおばあちゃん、親切なおじちゃんやおばちゃん、ちょっときびしい先生、そして楽しい近所の子どもたちが私にとって京都の人々であった。とても温かい世界として覚えている。
留学生として「帰郷」
1995年に留学生として再び京都へ「帰る」ことができた。ノルウェーに帰国してから15年後になった。京都にふたたび住めることを知り、嬉しくてたまらなかった。
まず京都大学留学生センターで日本語の集中コースを受け、その後、京都市立芸術大学音楽研究科の修士課程で日本伝統音楽と民族音楽学の勉強を始めた。修士論文のテーマは、筝曲家・作曲家の中能島欣一の作品を中心に、明治以降の筝曲における西洋文化の影響についてだった。苦労や苦難もあったが、大学の先生と同級生のみなさんたちとともに楽しい授業や交流が続き、充実した学生生活だった。
その3年間、鳴滝の先生のもとでお筝のレッスンを受けることもできた。先生のご家庭もたいへん温かく、ほかのお弟子さんや私は先生のご家族のみなさんと一緒に晩ご飯に誘われることもあった。先生は古典や新曲、現代曲など幅広く、いろいろな音楽と出会うチャンスを与えてくれた。沢井忠夫作曲の繊細で素敵な曲に魅了された。古典曲は理解しがたい、と最初は思ったが、弾けば弾くほどとても好きになってきた。とくに、八橋検校の「みだれ」は何よりすばらしい曲だ、と思った。その後、八橋検校のお墓が黒谷寺にあることを知った。その周辺に住んでいたため(吉田山の北)そのお墓を訪れたこともある。
京都大学や京都市立芸術大学では新しい日本の友だちや知り合いもでき、とても親しい友だちも何人かできた。また、幼いころからの友だちとも再会することができ、懐かしく思った。そして、仲良くなればなるほど、お互いに異文化をもつ外国人同士としてではなく、同じ人間同士として接することができるのだ、と強く感じさせられた。
留学生として、京都のいろいろな魅力を再発見した。週末になると、友だちと一緒に自転車で京都の各所をよく走りまわった。大人として、京都は小さい頃の「小さな京都の世界」とは違う印象だった。京都は家の近所から葵小学校までより遥かに大きいこと、また、自転車で京都中を走れるほど「小さな街」であったことを実感した。そして京都がどれほど美しい街なのかをおとなの目で再発見することができた。宝ヶ池、鴨川、大原、貴船、比叡山、嵐山、銀閣寺と哲学の道、法然院、南禅寺、平安神宮、清水寺、子どもの頃にも足を運んだが、お気に入りのスポットとしていろいろな場所を再発見することができた。左京区の吉田山の北側に住んでいたので、毎日西京区の京都市立芸術大学へ通うには、まず自転車で鴨川沿いに四条まで行き、そこから電車とバスに乗り継いで行っていた。美しい朝の鴨川、帰りの夕焼けが毎日の喜びだった。

新婚生活を送る
しかし、外国人として日本にいるのはただ楽しいことだけではないと、おとなとして体験することもできた。私は西洋人だから、ほかの東洋人ほど苦しい思いはしていないと思う。だが、やはり外国人であるとどうしてもいろいろな区別、または差別を感じてしまう。ラッシュの時間にバスに座っていると、立っている人たちが多くいても私の横の席だけが空いていることがある。そんなに私は恐ろしそうに見えるのかと、ときどき悲しく思うことがあった。下宿・マンションを探すために大学生向きの不動産屋に行くと、留学生なら住めるところがかなり限られてくることが分かった。「留学生ひとりがこの寮に入ると嫌がる人もいるので、寮全体の学生さんから、まず許可を得てからでないと入れない」と、言われたことがある。そのときはびっくりした。
通信販売で物を買いたくても、外国の名前をもっている限り、自分の身分をまず調査されてから予約したものが郵送されてくる。だから2か月以上かかることもよくある。また、幾度か体験したことであるが、お店に入るとそこに座っておられるお客さまが私を見て心配そうな顔つきで横に置いているご自身のかばんを急に握って守る。日本人から見ると、私は「泥棒」の顔をしているのだろうか。ノルウェーではまったく経験したことはないし、自分はそれほど恐く見えないと思うので、外国人だからではないか、と思える。このような体験が何度も繰り返されると、少し悲しくなってくる。だが、西洋でも外国人たちは同じような経験をしているに違いない。もっと苦しい経験もしているかもしれない。
この3年間の日本留学後、ノルウェーへ再び帰国し、アメリカの大学院で勉強を続けるためカリフォルニアへ渡った。UCLA大学民族音楽研究科でのフィールドワークとして去年の4月から今年の5月末まで、14か月の日本での研究滞在を経験することができた。今回も京都市立芸術大学に所属し、筝曲・三味線音楽の現代音楽について研究を進めた。今回は主人のオイヴィンと一緒に京都に来ることができ、京都で新婚生活を送った。オイヴィンは日本がまったく初めてだったが、京都のまち、日本料理、日本の文化、日本人の知り合いなど、日本の何から何まで心から気に入ってくれて嬉しかった。知り合いの夫婦を通して伏見区深草にある鳥羽街道団地のマンションに住むことになった。きれいなマンション、そして私たちを温かく迎えてくれた団地の人々、感謝することが多くあった。ここの周辺でも伏見稲荷神社、東福寺、正覚寺、疎水沿いの道など、日常生活の中で心に安らぎを与えてくれるすてきなスポットがいろいろあることを知り、二人でよく散歩した。
今まで京都駅より南はあまり行く機会がなかったが、この周辺ももっとよく知ることができて良かった。ただ不思議に思ったことは、鴨川沿いなど、京都の北から七条までぐらいは市が手を入れて環境をきれいにしているようだが、それより南になると川沿いでの作業は何もない。京都市はどうして鴨川沿いを北から南まで全部きれいにしないのか。どうしても不思議に感じてしまう。
このように、小さい頃からおとなになった現在まで、人間として成長していくための京都は私にいろいろな貴重な経験や思い出を与えてくれた。この意味で、京都は私にとっていつまでも大切な存在である。ノルウエーに帰国して、京都を久しく思う日々が多く訪れるだろうと思う。
(リフ・ランデ ルンド/ノルウエーからの元留学生)
|