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127号
【特集「いま、勉強はだいじょうぶ?」】

「学力があぶない」教育の再生を求めて

講 演

数学者・京都大学理学研究科教授

上野健爾氏




数学者・上野健爾氏と日本語学者・大野晋氏の『学力があぶない』(岩波新書)が教職員
や父母の間で大評判です。その上野氏が「教育の再生に」向けた思いのたけを語ります

変わったものと変わらないもの

 かれこれ10年近く京都大学で教えております。その10年以上前から、数学研究者の仲間が集まりますと、いつも「どうも最近、大学で数学の教育がうまくいかなくなった」という話をしておりました。
 で、なぜ、大学の数学でそういうことが起きているかというと、大学の数学は、高校までと違い、もう少し抽象的なことを考えないといけない。ある程度、抽象的に思考する訓練ができていないと、ついていけない。だから、その部分が欠けてきたのではないか。しかし、当時はまだ、このことについてはよくわからず、「最近の学生はこんなこともわからない。あんなこともわからない」という話ばかりしておりました。
 ちょうどそのころ、文部省の依頼で私は隔週土曜の休日を使って、高校生たちに講義をしたことがありました。それは簡単にいえば形を変えたエリート教育で、私は、断っていました。しかし、実際にやってみて気づいた問題点を文部省にはっきり言ったほうがいいと思い、引き受けました。
 最初のころ、私は勢い込んで「君たち、学校でいろいろな宿題や受験勉強をやっていて、わからない問題があったら、一晩考えることがあるか」と聞きました。
 私たちの世代の経験から言えば高校時代などに、わからない問題があったら、少なくとも1週間は考えることが普通だった。絶対に解答は見ないし、自分で何がなんでも考える。そうすると、友だちがいじわるをして、わざと答えを言う。私は悔しいので、それと違う解答を一生懸命考える。「ほら、こんなおもしろいのができたよ」と言って、逆にその友だちにやり返す。ですから、たしかに受験勉強は大変だったかもしれませんが、その受験勉強という学校の勉強を通して、少なくとも「何か考える」という訓練を「いま、必要なもの」として、していたように思います。
 ところが彼らは一晩なんて考えたことない。1時間も考えたら大変だ。だって「その間に、友だちはどんどん問題を解いていくかもしれない」と、不安でしようがない。ああ、そうか。そんなふうに受験勉強や学校の勉強が変質してしまったのかと、非常に驚きでした。
 では、彼らは本当に変わってしまったかと言えば、それはもちろん、まったく違う。
 受験とはまったく関係しない私の講義で、いくつか問題を出します。もちろん、それは宿題でも何でもなくて「時間があるときに考えてみて、途中まででもいいから出してくれれば添削して返します」という形で問題を出しました。そうすると、喜んで考えてくる。本当に1か月、2か月かかって、「先生、ずっと前に出された問題だけど、見てくれますか」と出してくれます。最後までできてない答えもありますが、多くの人が最後まで自分なりに考えてやっています。
 ほとんどできないだろうと大学院の入学試験問題を出したことがあります。何人かの子が考えてきて解いてくれました。もちろん、高校生ですから、たどたどしい言葉使いです。でも、それはなかなかおもしろい思いつきで、ちょっと私も考えつかないような、うまいことをやっているわけです。
 彼らは学びたいとか学ぶ意欲をけっしてなくしているわけではない。だけれども、周りのいろいろな要因で学べなくなっていることに気づきました。

なぜ、大学で学ぶのか

 私が大学生と大学院生を相手にしておりまして、とくに大学院生は、京都大学では研究者の養成というものが第一の目的になってきますから、その視点からみますと、恐ろしいことが起こっているのです。
 学生は、一生懸命勉強して大学に入ってくる。入ってきて、勉強したいという意欲はみんなもっています。もっていますが、大学に入ってしばらく講義を聞いていると、どうしていいかわからなくなる。ところが、大学にはそういう学生に対して、十分な手当をする人的、時間的余裕がない。学生たちが実際に誰かと相談できるような窓口があまりにも小さすぎる。
 なかには、意を決して私のところにやってくる学生がいる。一番多いのは「何をやりたいか」ということが全然自分にない学生です。要するに、大学に入ることが目的になってしまって、大学に入って何をやるかということが全然見えなくなっている。非常に悲しいことですけれど、ほとんどの大学生が、まず第一に自分で何をしていいかわからない。
 それから、もう一つ問題なのは、大学の授業についていけない。要するに勉強の仕方がまったくわからない。簡単に言えば、自分で疑問をもつことができない。たとえ、疑問をもったとしても、それをどういう形で解決するか、どういう方向があるかと、そういう学習ができていない。少なくとも、昔はそういうことは学校で教えるまでもなかった。ほとんどの学生たちは、生活の中で身につけていたのではなかったかと思うのです。


「わかる」とはどういうことか

 大学生の学力が落ちたと言いますと、大学進学率が50%近くになり、はるか昔の3%の時代と比べたら、学生の学力が低下するのは当然だと、教育学の先生方はおっしゃる。私はそれには非常に反発を感じます。では昔、高校や中学しか出られなかった子どもたちが、そんなに学力がなかったのでしょうか。
 私は1945年の12月、つまり敗戦直後に生まれた人間です。高校時代は進学校にいましたので、そうでもありませんが、中学校時代には、勉強のできる成績のいい人たちがたくさん就職していきました。もちろん家庭の事情です。
 私は、小学校6年生から中学校3年生の1学期までは、高山からバスで1、2時間かかる岐阜県の飛騨の山奥におりました。いまでは、ますます僻地になっていると思います。私はそこで、いま考えますと、信じられないほどすばらしい教育を受けました。私が今日、こうやって生きて活躍できているのは、まちがいなく、その中学校で受けた教育によるわけです。若い先生方がたくさんおられ、情熱をこめて教えてくれました。そのときに発せられた言葉のなかには、30年とか40年たって初めて意味がわかるような言葉がたくさんありました。
 私は教育というのは、教えてすぐにテストをやって、それで成績が出ることではないと思います。だから、大学で講義していて矛盾を感じます。1学期間講義をしてすぐに試験をする。それが本当に学習の成果を見ているのだろうかと、疑問をもっています。
 とくに数学の場合は、いろいろなところで疑問をもちますから、それを考えていると1、2週間あっという間にたちます。もしかすると、1年後に初めてわかることもあるし、あるいは10年後にわかることもあるわけです。そういう意味では、試験をやっていて思うのは、あくまでも仮の、ある程度わかったかなという判定でしかないと思います。
 最近、大学生が特定の先生の過去の問題を集めて、その問題集の解答集を作って、インターネットなどで公開していると報道されていました。私は始め「なんでそんなバカなことをするのだろう」と思っていました。同じ問題を出すとは限らないし、授業のどこが大事かは、聞いておればわかることです。しかし、最近やっと私もわかったのですが、学生にとって「勉強とは何か」と言えば、試験の問題の解答を憶えることです。
 東京大学には、暗記王と言われるすごい容量をもった学生がいます。あらゆる問題の解答を憶えている。でもそれは、試験をやって答案を見ただけではわからない。そういう子がまちがって、自分には数学の才能があると思って大学に入ってきます。だけど、その学生が大学院へいったら、何か自分で新しいことを発見してやっていかないといけませんから、当然、そんな勉強ではうまくいかない。いくら本を読んだって、書いてあることでなくて、書いてないことを自分で見つけなくてはいけないわけですから。
 そのとき初めて愕然となり、「自分の勉強はまちがっていた」とわかるのです。しかし、それでは手後れなのです。もう大学院ぐらいになると、どうにもならない。

考えていては効率が悪い

 4年ほど前のことになりますが、ある有名な私立高校で数学の話をしました。一人の高校生が次のような質問をしてきました。
 「自分はいま一生懸命受験勉強をやっている。担任の先生は『一生懸命勉強すれば、努力は必ず報われる。だから、それを信じて受験勉強をしなさい』と言う。でも大学って、いったい何をする所ですか」
 その子の目を見ると、本当に真剣です。私は「大学って、自分が勉強したいことを勉強する所だよ」と言ってやりたかったのですけれど、そう答えていけないという目をしています。一瞬、答えにつまってしまいました。そのとき隣の先生が助け舟を出してくれ「私は大学という所は、自立することを学ぶ場所だと思う」とおっしゃいました。私は「ああ、たしかにそうだな」と思いました。本当の意味で、自立できていない子どもたちがたくさんいるのです。
 それは小学校からの学び方の問題だけではなくて、私たちの社会全体の問題ではないかと思います。とくに「教育の荒廃」ということが、あちこちで言われます。しかし本当に教育だけが悪いのか、学校だけが悪いのかと言えばそんなことはない。むしろ、私は学校は被害者ではないか。社会の歪みが教育に現われているだけではないかと思います。
 結局、大学の問題で言いますと、大学生が自立できなくなってしまっている。それから、学び方自体がわからなくなってしまっている。もちろん、学ぶことがどういうことであるか、あるいは何を学ぶかを聞いても、まったくわからない。
 もう少しそれをかみ砕いて言えば、考えることがもう嫌になってしまっているのです。もっと言いますと、考えたってどうせ答えはわかっているから、あるいは答えが出ないのだから、もうそんなのは面倒くさい、だから誰かに聞けばいい。あるいはどこかに答えがあるから、それを探せばいい──というふうになっている。それは、この間、世間が非常に助長してきたことです。どうやって効率をあげるかがこの社会では強調され、それが教育にまで浸透しています。
 大学だって、国の税金を使っているのだから、どれだけの学生をどう育てたかということを、きちんと世間に見せろというわけです。でも、教育の成果というのは、短期間で見せることができるものなのでしょうか。




学力低下か、総合学習か

 新しい学習指導要領で「総合的な学習の時間」が導入されることになりました。私たちは始め、数学の時間が減らされて「総合的な学習の時間」が増えるとはけしからん、などと話をしていました。
 しかし、そんなことを言ってもしようがない、せめて、「総合的な学習の時間」に使えるように数学の教材を作ろうと始めました。そうしたら、とてもではないが、単に数学の問題だけでないというので、「日本総合学習学会」というものをつくってしまいました。
 いくつか意味があります。一つは、おそらく文部省の官製の学会ができるだろうから、それよりも先に私たちでその名前を使ってしまおう。それから、本当の意味で「総合的な学習」とか総合学習、あるいは教育は何かということをもう一度考える場、小学校から大学の教員まで、一緒に集まって、議論できる場をつくろうということでした。
 そこで議論をしていますと、「学力低下論者というのは総合学習に対する敵対者である。総合学習を一生懸命やっている人は、教育のことをよく考えている」、こういう図式が、どうもできあがっているみたいなのです。私のような、新学習指導要領はけしからんと言いながら、総合学習のことを一生懸命やっている。また学力低下が起こって問題だと言いながら、総合学習はやめる必要はないと言っているのは、非常に不安らしいのです(笑い)。

円周率から学ぶこと

 子どもたちにとってみたら、学校に行くこと自体は疑問だし、なぜ、こんなことを学ばなければならないか、疑問だらけなのです。
 20年前、30年前は、学ぶことは当たり前で、誰もそんな疑問はもたなかった。でも、いまの子どもたちは疑問に思う。だったら私たちは、そのことを否定して「そんなことを思うのはけしからん」と言うのはまちがっているのではないか。私たちは、なぜ学ばなければいけないかを、きちんと言わなければいけない。
 中学校の数学で、方程式を学びます。そこには未知数のxがあります。なんでこんなことをやらなければいけないかと思われる方も多いと思います。
 式がわかるようになるために、歴史的にとても時間がかかったのです。初めて式らしいものが出てきたのが、たぶん2世紀か3世紀、あるいは4世紀の初頭。その次に文献に出てくるのは、12世紀の中国です。日本に数式が出てくるのは、17世紀後半。このように式そのものが書けるというには、千何年という時間がかかっています。それを、小、中学校のわずか9年間で、理解できるようになるということは、考えてみたら奇跡ですし、人間の脳のすばらしさだと思います。
 分数の計算はもっとそうです。分数が出てくるのが紀元前の千年以上も前、でも、みんなが分数の計算ができるようになるには、あるいはもっとはっきり言いますと、数学者が数学的に分数が何であるかをはっきりわかるようになったのは、実は20世紀です。20世紀に抽象代数が出てきて、初めて分数というのはどういうふうに捉えないといけないのか、本当の意味でわかりました。
 小数に関してもそうです。小数は中国ではるかに昔からありました。ヨーロッパでは、むしろ遅めに入って、小数の計算は15、6世紀になって初めて専門家にできるようになったのです。
 いま、「π」すなわち円周率を「3」にするか「3.14」にするかで大騒ぎしていますが、私は両方ともおかしいと思います。本当に言わなければいけないのは、円周率というのは「3.14159……」と無限に続く数だということです。そういうふうに無限に続く数のあることを、私たちにはわかることができるということを知ることが大切なのです。論理をつきつめていくと、最後まで計算しなくても無限に続くということがわかる、これを私は教えてほしいと思います。
 このように、小学校でやっている算数にしても、人類が何千年かかってやっとわかった、非常に深いことが教科書に出ている。だから、小学生がやって難しいと思うのは当たり前だし、疑問に思うのは当たり前です。そういう意味では、小学校の授業と大学、あるいは数学の研究というのはけっして無縁ではありません。
 そのときに、子どもたちの疑問に対してどう対処するか、ということがすごく大事です。そこで私が思うのは、そういうところに「総合的な学習の時間」を使ったらどうかと思うのです。
 たとえば、社会統計のデータを見る場合、大きな数のわり算もかけ算もしないといけない、小数を使うパーセントも割合も必要。そういうときに「君がやっている小数の計算は、こんなときに知っていないと困るんだよ」。あるいは「小数の計算をするよりも、この場合だったら、分数の計算のほうが簡単なんだよ」と、ひとこと教えるだけで、子どもたちが目からウロコが落ちたように、はっとわかってくれることがあると思います。
 あるいは、その場ではわからなくても、何年後かに、それは10年後、20年後かもしれませんが、本当にわかってくれるときがくるのではないかと思います。

教育を否定する? 新学習指導要領

 今回の新学習指導要領には、いろいろな人が批判をして、私もかなり激しい批判をしました。結局、文部科学省は突然方針を変えて、学習指導要領は必要最低限を記したものであって、それ以上のことを教えてもいい、ということを言いました。だけれども、学習指導要領をよく読んでみれば、必要最低限を記したものでないことは明らかです。
 たとえば、小学校の理科で乾電池が出た場合、2個しか使ってはいけないとか、月の変化は三つしか記してはいけないとか、そう書いてあります。そんなバカなことはない。だって、空を見ていれば月は刻々と変わっているのですから、三つですべて表現できることではないわけです。
 乾電池だって、何個もつないでみて、「これは直列」「これは並列」と教えるのではなくて、子どもたちにプラスとプラスをつけてつながせてみて、何が起こるかということを見てもらったほうが、はるかに子どもたちは興味をもつのです。ときにはプラスとプラスで電気が流れないはずなのに、流れるのもあります。もちろん、片方の乾電池が弱ったりしている場合です。そういうことを通じて、子どもたちはその現象に対して、興味をもつと思います。それをあらかじめ、二つしかいけないとすること自体が、私は教育そのものを否定していると思います。

誰のため、何のための教育か

 30年後の世界というのは、私も想像できません。みんなが豊かになっているというシナリオもありますが、実際は起こらないでしょう。もう一つはすごく現実感があって、貧富の格差がもっと広がる。日本の中でもそうです。
 とくにいまの大学生たちを見ていて、いまのままだと日本の大企業のトップに、日本人はほとんどいないだろうと思えます。それだけではなくて、日本経済を支えているのは日本人ではなく、アジアから、貧しい国から出稼ぎに来る人たちでいっぱいになっているかもしれない。
 そのときに、日本の、一流といわれている大学はどれだけのものでしょう。いまは有名私立校に入れて、有名大学に入れるというのが親の希望ですけれど、そのうち、中・高校くらいから外国にやり、外国の一流大学に入れないと有利でない日がやってくる。日本の企業に就職してもトップは外国人ですから、英語が自由に話せる、あるいはフランス語が自由に話せることが重要になるかもしれません。
 そんな社会の中で、あらためて教育とはいったい何なのか、いったい何のため、誰のための教育を私たちはやるのか。もう少し考えてみる必要があります。
 しかし30年後には、もっと恐ろしいことが起こるでしょう。それは20世紀に私たちが本当に豊かな生活を追求した結果起こった地球環境の破壊の問題です。あるいはエネルギー問題、食糧問題も人口問題もあります。
 現在、すでに、世界のあちこちでいままで起こらなかったような大規模な洪水が起こっている。明らかに気象が変わっています。十分な治水対策もできない、バングラデシュのような貧しい国に大雨が降って洪水になる。その一方で砂漠化が起こって、土地がどんどん痩せている。
 いま、日本が中国からのねぎ輸入などに関してセーフガードを発動したりして貿易摩擦が起こっています。しかし、そのうち中国の人たちがもっと豊かな生活をしたいと思うようになるでしょう。そのとき、日本に食糧を輸出する余裕がなくなり、日本の食糧が少なくなる。
 では、この日本という国にまったく偶然に生まれてきた私たちは、そうした30年、40年後に起こってくる世界に対して、どういう形でいい方向にもっていくことができるのか。
 教育基本法の第6条の2に「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない」とありますが、この「全体の奉仕者」というのはいったい何なのか。日本という国の奉仕者ではなくて、この地球に住んでいる全市民の、あるいはこれから生まれてくる子どもたちに対する奉仕者でないといけないのだ、というふうに私は思います。
 そういう意味では、教育やそれを受ける子どもたちに対して、いろいろなことが言えるのではないでしょうか。知識は、自分の将来のためにとって役に立つし、騙されないためにも大事なこと。しかしそれだけはありません。
 これから先、子どもたちが生きていく世界はそんな平穏な社会ではなくなるかもしれません。これはとくに、日本やアメリカのような先進国と言われる国で、快適な生活を求めてきた結果であることはまちがいないのですが、それに対して、私たちはどういう責任の取り方ができるのでしょうか。
 少なくとも、そういう私たちの負の遺産を引き継いでいく子どもたちに対して、その負の遺産を少しでも柔らげることができる、あるいは負を正の遺産に直してくれる、そういう力をもった子どもたちに育ってほしい。
 しかも、それは日本の国だけではなく、世界中の子どもたちと協力して生きていける、そういうおとなになってほしい。こうしたことを願い、かつ、そのための教育をおこなわなくてはいけないと思うのです。私は、日本の教育が進んでいく道はそれしかないと思っています。

*去る6月9日におこなわれた京都教職員組合主催の講演会です。お話を編集部の責任でまとめました。
(うえのけんじ/構成・矢田智子)
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