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「学力があぶない」教育の再生を求めて講 演 |
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変わったものと変わらないもの かれこれ10年近く京都大学で教えております。その10年以上前から、数学研究者の仲間が集まりますと、いつも「どうも最近、大学で数学の教育がうまくいかなくなった」という話をしておりました。 なぜ、大学で学ぶのか 私が大学生と大学院生を相手にしておりまして、とくに大学院生は、京都大学では研究者の養成というものが第一の目的になってきますから、その視点からみますと、恐ろしいことが起こっているのです。 「わかる」とはどういうことか 大学生の学力が落ちたと言いますと、大学進学率が50%近くになり、はるか昔の3%の時代と比べたら、学生の学力が低下するのは当然だと、教育学の先生方はおっしゃる。私はそれには非常に反発を感じます。では昔、高校や中学しか出られなかった子どもたちが、そんなに学力がなかったのでしょうか。 考えていては効率が悪い 4年ほど前のことになりますが、ある有名な私立高校で数学の話をしました。一人の高校生が次のような質問をしてきました。
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子どもたちにとってみたら、学校に行くこと自体は疑問だし、なぜ、こんなことを学ばなければならないか、疑問だらけなのです。
20年前、30年前は、学ぶことは当たり前で、誰もそんな疑問はもたなかった。でも、いまの子どもたちは疑問に思う。だったら私たちは、そのことを否定して「そんなことを思うのはけしからん」と言うのはまちがっているのではないか。私たちは、なぜ学ばなければいけないかを、きちんと言わなければいけない。
中学校の数学で、方程式を学びます。そこには未知数のxがあります。なんでこんなことをやらなければいけないかと思われる方も多いと思います。
式がわかるようになるために、歴史的にとても時間がかかったのです。初めて式らしいものが出てきたのが、たぶん2世紀か3世紀、あるいは4世紀の初頭。その次に文献に出てくるのは、12世紀の中国です。日本に数式が出てくるのは、17世紀後半。このように式そのものが書けるというには、千何年という時間がかかっています。それを、小、中学校のわずか9年間で、理解できるようになるということは、考えてみたら奇跡ですし、人間の脳のすばらしさだと思います。
分数の計算はもっとそうです。分数が出てくるのが紀元前の千年以上も前、でも、みんなが分数の計算ができるようになるには、あるいはもっとはっきり言いますと、数学者が数学的に分数が何であるかをはっきりわかるようになったのは、実は20世紀です。20世紀に抽象代数が出てきて、初めて分数というのはどういうふうに捉えないといけないのか、本当の意味でわかりました。
小数に関してもそうです。小数は中国ではるかに昔からありました。ヨーロッパでは、むしろ遅めに入って、小数の計算は15、6世紀になって初めて専門家にできるようになったのです。
いま、「π」すなわち円周率を「3」にするか「3.14」にするかで大騒ぎしていますが、私は両方ともおかしいと思います。本当に言わなければいけないのは、円周率というのは「3.14159……」と無限に続く数だということです。そういうふうに無限に続く数のあることを、私たちにはわかることができるということを知ることが大切なのです。論理をつきつめていくと、最後まで計算しなくても無限に続くということがわかる、これを私は教えてほしいと思います。
このように、小学校でやっている算数にしても、人類が何千年かかってやっとわかった、非常に深いことが教科書に出ている。だから、小学生がやって難しいと思うのは当たり前だし、疑問に思うのは当たり前です。そういう意味では、小学校の授業と大学、あるいは数学の研究というのはけっして無縁ではありません。
そのときに、子どもたちの疑問に対してどう対処するか、ということがすごく大事です。そこで私が思うのは、そういうところに「総合的な学習の時間」を使ったらどうかと思うのです。
たとえば、社会統計のデータを見る場合、大きな数のわり算もかけ算もしないといけない、小数を使うパーセントも割合も必要。そういうときに「君がやっている小数の計算は、こんなときに知っていないと困るんだよ」。あるいは「小数の計算をするよりも、この場合だったら、分数の計算のほうが簡単なんだよ」と、ひとこと教えるだけで、子どもたちが目からウロコが落ちたように、はっとわかってくれることがあると思います。
あるいは、その場ではわからなくても、何年後かに、それは10年後、20年後かもしれませんが、本当にわかってくれるときがくるのではないかと思います。
今回の新学習指導要領には、いろいろな人が批判をして、私もかなり激しい批判をしました。結局、文部科学省は突然方針を変えて、学習指導要領は必要最低限を記したものであって、それ以上のことを教えてもいい、ということを言いました。だけれども、学習指導要領をよく読んでみれば、必要最低限を記したものでないことは明らかです。
たとえば、小学校の理科で乾電池が出た場合、2個しか使ってはいけないとか、月の変化は三つしか記してはいけないとか、そう書いてあります。そんなバカなことはない。だって、空を見ていれば月は刻々と変わっているのですから、三つですべて表現できることではないわけです。
乾電池だって、何個もつないでみて、「これは直列」「これは並列」と教えるのではなくて、子どもたちにプラスとプラスをつけてつながせてみて、何が起こるかということを見てもらったほうが、はるかに子どもたちは興味をもつのです。ときにはプラスとプラスで電気が流れないはずなのに、流れるのもあります。もちろん、片方の乾電池が弱ったりしている場合です。そういうことを通じて、子どもたちはその現象に対して、興味をもつと思います。それをあらかじめ、二つしかいけないとすること自体が、私は教育そのものを否定していると思います。
30年後の世界というのは、私も想像できません。みんなが豊かになっているというシナリオもありますが、実際は起こらないでしょう。もう一つはすごく現実感があって、貧富の格差がもっと広がる。日本の中でもそうです。
とくにいまの大学生たちを見ていて、いまのままだと日本の大企業のトップに、日本人はほとんどいないだろうと思えます。それだけではなくて、日本経済を支えているのは日本人ではなく、アジアから、貧しい国から出稼ぎに来る人たちでいっぱいになっているかもしれない。
そのときに、日本の、一流といわれている大学はどれだけのものでしょう。いまは有名私立校に入れて、有名大学に入れるというのが親の希望ですけれど、そのうち、中・高校くらいから外国にやり、外国の一流大学に入れないと有利でない日がやってくる。日本の企業に就職してもトップは外国人ですから、英語が自由に話せる、あるいはフランス語が自由に話せることが重要になるかもしれません。
そんな社会の中で、あらためて教育とはいったい何なのか、いったい何のため、誰のための教育を私たちはやるのか。もう少し考えてみる必要があります。
しかし30年後には、もっと恐ろしいことが起こるでしょう。それは20世紀に私たちが本当に豊かな生活を追求した結果起こった地球環境の破壊の問題です。あるいはエネルギー問題、食糧問題も人口問題もあります。
現在、すでに、世界のあちこちでいままで起こらなかったような大規模な洪水が起こっている。明らかに気象が変わっています。十分な治水対策もできない、バングラデシュのような貧しい国に大雨が降って洪水になる。その一方で砂漠化が起こって、土地がどんどん痩せている。
いま、日本が中国からのねぎ輸入などに関してセーフガードを発動したりして貿易摩擦が起こっています。しかし、そのうち中国の人たちがもっと豊かな生活をしたいと思うようになるでしょう。そのとき、日本に食糧を輸出する余裕がなくなり、日本の食糧が少なくなる。
では、この日本という国にまったく偶然に生まれてきた私たちは、そうした30年、40年後に起こってくる世界に対して、どういう形でいい方向にもっていくことができるのか。
教育基本法の第6条の2に「法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない」とありますが、この「全体の奉仕者」というのはいったい何なのか。日本という国の奉仕者ではなくて、この地球に住んでいる全市民の、あるいはこれから生まれてくる子どもたちに対する奉仕者でないといけないのだ、というふうに私は思います。
そういう意味では、教育やそれを受ける子どもたちに対して、いろいろなことが言えるのではないでしょうか。知識は、自分の将来のためにとって役に立つし、騙されないためにも大事なこと。しかしそれだけはありません。
これから先、子どもたちが生きていく世界はそんな平穏な社会ではなくなるかもしれません。これはとくに、日本やアメリカのような先進国と言われる国で、快適な生活を求めてきた結果であることはまちがいないのですが、それに対して、私たちはどういう責任の取り方ができるのでしょうか。
少なくとも、そういう私たちの負の遺産を引き継いでいく子どもたちに対して、その負の遺産を少しでも柔らげることができる、あるいは負を正の遺産に直してくれる、そういう力をもった子どもたちに育ってほしい。
しかも、それは日本の国だけではなく、世界中の子どもたちと協力して生きていける、そういうおとなになってほしい。こうしたことを願い、かつ、そのための教育をおこなわなくてはいけないと思うのです。私は、日本の教育が進んでいく道はそれしかないと思っています。
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