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125号
【特集「学校のあり方を問う」/日本の学校はどこへいく?(1)】

教育基本法をいかす学校づくり

京都教育センター

市川 哲

「教育改革国民会議」の「教育基本法の見直し」

 「教育改革国民会議」は国民の意思を代表する国会が設置を求めたものではなく、あくまで首相の『私的』な諮問機関です。しかし、同会議が打ち出す「教育基本法の見直し」が既定の方向であるかのように採り上げられ、文部大臣が「基本法改正案」を国会に示すことも表明しています。
 そもそも改正の方向づけは現文部大臣が小渕前首相の特別補佐官として同会議に出席しおこなったものであり、強固な改正論者もいる第一分科会に政治的に持ち込まれたものです。第一分科会では改正を求める声もありましたが、他の第二、第三分科会の委員も交えた全体会議では異論も出て、「中間報告」(昨年9月)では「具体的にどのように直すべきかについては意見の集約は見られていない」と書かざるをえなかったところです。したがって、「見直し」の打ち出しに向けて相当の政治的「テコ入れ」があったことも予想されます。しかも「反対論はなかった」とする座長発言に対して、明確に見直しに反対したとする委員もいる始末です。
 不登校や「学級崩壊」、「校内暴力」さらには学力不安など、学校と教育をめぐる問題は山積しています。科学的な調査結果や実態をふまえてこれらの問題に取り組むことが求められます。そうであるにもかかわらず「教育改革国民会議」は「飲み屋談議」とも評される根拠のあいまいな議論をおこなってきました。これでは、はじめから「基本法改正ありき」であったといわれても仕方がないでしょう。

教育基本法の目的――個性的な「人格の完成」

 ところで、基本法を変えたい人々は戦後の教育は画一的であるとし、その要因を基本法に求めます。
 しかしながら、基本法は「人格の完成」を教育の目的としています(第一条)。これは、国の政治や経済、いろいろな勢力の手段であったり、あるいはそれらに従属したりしない、それ自体が主体であり、目的であるところの、まさに「人格」としての人間の育成が教育の目的であることを示すものです。もちろん、こうした教育目的は、民主的で文化的な、そして平和である国家や社会でしか達成できません。そこで第一条は、人格の完成を基礎とした上での「不可欠な文節的表現」(大田尭「教育の目的(第一条)国民教育研究所編『教育基本法』)として、教育が「平和的な国家及び社会の形成者」を育成し、真理や正義などの普遍的価値に向かって開かれ、それらを愛し求めていくような人間の育成であるべきこと、さらに個人の価値を尊び、勤労と責任を重んずる自主的精神に満ちた、心身ともに健康な国民の育成であるべきことを示しています。
 すでに気づかれたと思いますが、基本法にもとづく教育は一人ひとり異なる価値をもつ人格の完成のためにこそおこなわれるべきものです。それが実現されていれば「画一的な教育」など存在しなかったのです。ちなみに、基本法にもとづく学校教育を実施する学校教育法は、幼・小・中・高の各学校段階で「心身の発達に応じて」教育を施すとしています。したがって、学校教育は子どもが一人ひとり異なる個性的な存在であることを前提に、その心と身体の発達に応じて、一人ひとりをていねいに扱う、そうした意味で個性的な教育の実現を予定していたのです。

教育基本法の実現を阻んだ要因

 今日、個性的な教育の実現を阻んでいる要因がいくつかあります。第一は、法的な拘束力があるとして全国津々浦々の学級の教育実践にまで管理統制を及ぼしてきた文部省の「学習指導要領」の存在です。さすがに近年、「大綱化・弾力化」に向けた手直しや発言もありますが、学校現場では、いまでも「学習指導要領」とそれに準拠した教科書が教師と子どもを縛っています。
 第二は、教育条件の問題です。個性を伸ばす教育のためには教師が受け持つ子どもの数を少なくし、また、ゆたかな教材や教具、ゆとりのある施設や設備が必要です。戦後の復興期は仕方ないとしても、経済大国になっても40人学級であり、30人以下学級の実現を拒む貧困な文教政策のもとでは個性的な教育は「絵に描いた餅」です。押しつけの教育内容と、子どもをていねいにみられない教育条件の貧困さは「学級崩壊」の一因でもあります。なお基本法はその十条で、「教育の目的を遂行するに必要な諸条件の整備確立」を文部省や教育委員会の任務として求めていることをつけ加えておきます。
 自らにポリシーがないと力の強いもの、上のものに従属しがちです。国の「指導等」を鵜呑みにする傾向のある教育委員会(中央教育審議会「今後の地方教育行政の在り方」)の意向が直接に、あるいは「校長会」の「合意」等に形を変えて学校に持ち込まれます。こうした上意下達の「横並び」の学校経営が教育の画一化をもたらす第三の要因です。目の前の子どもに係わる教育論を内在させない方針は混乱を学校にもたらします。しかも、話し合いをしても最初から決まっている結論を押しつける管理職などの対応が教職員のやる気を奪います。こんななかで教育内容や教育方法が縛られ、画一化がいっそう進んできました。
 第四は、子どもや父母の声が伝わりにくい学校の敷居の高さです。子どものわかりたいという要求や父母の願いを教育に取り込むことが苦手であった学校の問題です。もちろん画一的な教育を強制する行政の圧力が問題です。また教育条件の改善によって実現できるものもあると思います。そうであれば、できない理由やこうすれば実現できるという方向性を示し、子どもや親と共に取り組むことが求められると思うのです。なお今般の教育改革で「学校評議員制度」が導入され、学校の「説明責任」も強調されています。前者については校長が評議員を推薦するため、個人としての評議員が親の意見を正当に代表することができるのか、また子どもが位置づいていないことなど、多くの問題があります。後者についても、親と共に学校づくりをする具体的な方向性のない「説明」は、単に聞かせておくだけ、あるいは「説明」したらそれでよし、となる危険性があります。

「規制緩和」の教育改革とは

 ところで、教育改革は「地方分権」と「規制緩和」の流れの中で進められており、「学校の自主性・自律性」、「個性をのばす教育」を唱えています。この改革で上述の学校教育の問題点が解決されるのではないかという期待を抱かせる文言です。
 しかし「規制緩和」は新自由主義的な考えから出てきました。買い手が多くついたものは価値があり、そうでないものは価値がない、また価値あるものを手に入れる自由な競争の結果が最も経済合理性を具現化する、とするのが新自由主義の考えです。教育や国民生活の水準や基準を決めていた規制も競争を活発にするために緩和されます。そして人々は行政に頼らずに「自立した個人」として「自由」にサービスを「選択」することになります。もちろん選択の結果に対して「自己責任」をとることが要求されます。
 そこで教育の場合、選ばれる学校が「規制緩和」によって準備されます。すすめられている「特色ある学校づくり」と東京都品川区のような小学校や中学校の通学区の自由化が結びつくとき、親は選択可能な数校からわが子の学校を選ぶことになります。中学校以上では公立の「中高一貫校」も準備されます。高校は単位制や総合学科、「新しいタイプの高校」など、いま以上に多様化され、さらに選抜制度を変えることで選択肢はとてつもなく広がっていきます。一部の「希有な才能」をもつ子には18歳未満でも大学に入学できる「大学入学年齢の特例」を設けることも考えられています。
 一方、「やれる子はたくさん勉強し、やれない子はそんなに勉強しなくてもいいことにした」のが今回の「学習指導要領」であるといわれています(田村哲夫:中央教育審議会・教育課程審議会委員・教育改革国民会議委員。『中央公論』2000年8月号)。したがって多様化した学校教育のいくつものルートの中で競争教育に勝ち残る「エリート」とそうでない子どもとの格差は、学習意欲の点でも、その結果としての学力の点でも、ますます広がっていきます。もちろん、途中で脱落せざるをえなかった多くの子どもたちの心は今以上に傷つき、すさんでいくことが考えられます。

教育基本法をいかす学校づくり

 このように多様化した学校教育で競争させ、子どもたちに格差をつけるのが「規制緩和」の教育改革です。この教育改革のためには「すべて国民は、ひとしく、その能力に応ずる教育を受ける機会を与えられなければならない」(第三条)とする基本法はいかにも邪魔です。だからそれを変えたい、ここに「教育改革国民会議」が基本法「改正」にこだわる理由があると思います。
 基本法は国家主義による戦前の画一的な教育を否定し、憲法の理想を実現する教育のためにつくられました(基本法「前文」)。この憲法との密接な関連性は最高裁の判決も認めるところです(1976年5月21日「旭川学テ判決」)い。
 ま求められているのは「極度に競争的な教育制度が子どもの発達を阻害している」(1998年「国連子どもの権利委員会」)とされる日本の教育に新たな差別と競争を持ち込む「規制緩和」の教育改革ではありません。すべての子どもが能力を可能な限り伸ばすために教育機会が「ひとしく」与えられる教育、子どもたちが民主的で平和的な国家、社会の形成者として育っていくことを援助する教育こそが求められているのです。そうした教育を実現していく取り組みのなかで、現下のさまざまな教育問題を解決していく糸口も必ず見つかることでしょう。
 憲法と教育基本法にもとづく教育が根こそぎ変えられようとしているとき、学校や教育をよくしたい、真の教育改革をすすめたいと願う私たちおとなの果たすべき役割は重大です。教育基本法をよく読み、学び、そして親と教職員がしっかり手を取り合って、教育基本法をいかす子どものための学校づくりに足を踏み出すことが大切ではないでしょうか。

(いちかわさとし)
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