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座談会 「コミュニケーション能力に関わるアンケート」をもとに現状と課題を探る
2003年3月1日(土)14:30〜18:00
於 京都教育センター室
   
出席者 築山 崇(京都府立大学)
浅井定雄(砂川小)
北村 彰(東宇治中)
西浦秀通(伏見工業高)
 
1:子どもたちのコミュニケーション能力の発達に着目して
 
築山(司会)
 司会をかねて,はじめに,私の方から,「今回のアンケートのねらい」に関連して話をします。
 2000年9月1日付で最初の「アンケートのお願い」を出しています。それから2年半ほどたっているわけですが,アンケートのお願いの中でどう書いているかと言いますと,不登校・登校拒否が13万人を超える,少年事件が多発している,学級崩壊やいじめ自殺事件も大きな社会問題になってきている。そういう中で,現在の子どもたちが示すさまざまな姿を子どもの発達の中で正しく捉え続けたいと考えて,問題点や課題を探ろうとしているんだ,と。その中でも,重要な柱として,社会性の発達,とりわけ子どもたちのコミュニケーション能力の発達に着目して今回のアンケートを作りました,と述べています。アンケートの中では家庭の中での対人関係の発達をはじめ,学校の中での友達や教師との関係,さらには子どもたちとメディアとの関係についてなどの調査項目を設定しています。それを通して,子どもたちの実態,課題などをその背景も含めて明らかにしたいというのが,今回の調査の主旨です。
 関連して,これは今の時点での自分の認識になっているという点ですが,今のお願いの文章にもあったんですけれど,出発点は,現状,今の子どもたちの実態であるということで,学級崩壊,荒れや不登校・登校拒否などがあるが,たぶんその問題行動の現代的特徴に迫っていくと言うときに,その問題の底というのか,共通の部分,共通の原因の部分に,人間観というと大げさだが,子どもが友達や親・教師といった自分以外の人をどういうふうに見ているか,あるいは自分自身をどうとらえているのか,そういう意味での人間観というか,人間認識,自己認識。人間というものを他者も自分も含めて,いったいどういうふうに理解をして,あるいは感じているのかと言うこと,そこでの「ゆがみ」というか弱さとか理解の不正確さとか,そういうことが,いろんな問題行動といわれているものの共通する背景なり要因としてあるのではないかと思うんですね。そのときに,人間観であるとか自己認識というものは,どういうふうに形作られるかというと,それは日常的な場面での具体的な対人関係を通して,形成されていくものだと思うんです。それは発達心理学の基礎の理論の中でも自己認識よりも他者認識の方が先なんだ,世の中には,この世には自分という存在とは違う存在があるということに気づくことを通して,それに気づいている自分という存在に気づく。たとえば,子どもがお菓子を分けるときに何人分に分けるかという,今ここに目の前に3人いたら,3人にわけてしまうんですね。自分を忘れてしまう,という段階があるというのがあったけれど,自分も入れて4人というのが認識できるという自分認識が後だ,というのがありました。入門的な本の中で見たことがあるのですが,人間観とか,他者認識,自己認識というのは日常の対他者関係の中で形成されていくものだということがあります。こうした議論を通して,問題行動の背景なり共通の要因なりに,他者認識・自己認識があり,これは対人関係の中で形成されていくという意味で「コミュニケーション」というところに我々の関心がいった一つの背景があるだろうと思います。
 もう一つは,表現,自己表現と,他者の表現をどう認識するか,受け取るかという問題です。「荒れ」であるとか「引きこもり」であるとか,そういう問題というのは,かなりの部分自己表現なり,表現に関わる問題があるのではないかと思うのです。自分の中にある要求・欲求あるいは葛藤というものを表現するためには,当然「言語化」をするということが中心になります。言語化することによって,自分で自分を認識する。怒りであれ,不安であれ,何か自分の持っている感情だとか「こうしてほしい」「ああしてほしい」という要求や欲求を表現するということは,今自分の心の中にある状態を言葉にして表現するということなので,そこでもコミュニケーションということがつながってくるところです。他人との関係を結ぶためには表現する必要があるし,表現する過程で,その関係を結んでいく力も形成されていくということで,そういう意味で「関係」というのは,いわば真空の中で抽象的に作られるというのではなくて,あくまでも具体的な関係の中で,具体的な中身が伴って形成されていくのである,そのへんの議論がおそらくあったんだろうなと思うんです。だから,今日の子どもたちが,かいま見せる様々な姿,いわゆる問題行動の現代的特徴を捉えて,分析していこうとした時に,今日の子どもたちが他者とどのような関係を取り結んでいるのか,あるいは関係を取り結ぶ力がどうなっているのか,という,ないしは関係を取り結ぶ中で力が育っていく過程が,どうゆがんでいるのか,いないのかということを解明していく必要がある,ということが議論の流れになってきたんだろうと思います。で,それを「調査」という方法で実際にどうやって掴まえることができるのか,ということになったときに,今回のように子どもが,まずは同級生などを中心として子ども同士の関係,から対大人,対教師,対親,家族に対してどういう意識を持っているのか,というあたりを質問し探っていくというところに落ち着いたんではないかなと思います。
 逆に,今回のアンケートから,読みとることができるのは,直接読みとることができるのは,対子ども,子ども同士,あるいは対大人との関係で,子どもが持っている意識というのがどういう中身なのかということがつかめるのではありますが,コミュニケーション能力という抽象化された力がここから直接に見えてくるというものではないのです。コミュニケーション能力という言葉,概念は,「コミュニケーション能力」ということで一つにくくる特定の能力が子どもの中にあるというよりは,さっき言ったように言葉で表現する力であったり,相手の言葉や表情や態度から相手の気持ちや考えていることを読みとるという能力であったり,共感する能力であったり,いくつかの要素的な力が組み合わさって発揮されたときに,それを客観的に見て「コミュニケーション能力」という言葉,概念でくくることができるという,ある意味では便宜的な概念であると思うのですね。
 繰り返しになりますが,表現力とか読解力とか関係の調整力などというような複合的な力を読みとっていくということ,アンケートから直接読みとることができる具体的な子どもたちの,子ども同士,大人に対する意識から出発して,我々分析する側が,複合的な能力としての「コミュニケーション能力」というものを,どういうふうにイメージしていくかということになると思います。
 ですので,結果を見ていくときも,そのあたりのことを念頭に置いて,たとえば現在の子どもが持っている,心の内に持っている葛藤・要求が今回のアンケート結果にストレートに表されているとは限らないので,そこを読みとらなければならないと思います。言い方をかえると,たとえば,子どもが孤立している,バラバラにされている状態が読みとれるとして,でもそれは「バラバラだよ」ということではなくて,そういう状態におかれている子どもの気持ち,「受け止めてほしい」とか「理解してほしい」とか「もっとつながりたい」とか,そういう要求を潜在的に子どもたちが持っているという読みとり方が必要かなという気がします。メディアとか商品の問題にしても,それが相当深く子どもたちの対他者との関係の中に,介入・媒介してきていることを捉えつつも,そこにはゆがめられた面というのもあるし,欲求としては健全なんだけども,そういう物やメディアやお金を媒介とすることによって,本来の要求としては健全であったものがゆがめられて,かえって子どもたち自身の人間としての豊かな感覚を阻害するようになってしまっているということもあるということも見ていく必要があるかなと思います。
 ひとまず,今回の調査の主旨に関わってということで,まとめておきます。
 あと,それぞれ小学校の現場,中学校の現場などで日々子どもたちと接しておられて,感じておられることと関わらせながら,今回の調査の結果を振り返っていくつかお話をいただければなあと思います。
 
2:子どもを取り巻く状況
 
浅井
 小学校の方で,今の子どもたちの状況を報告しようと思っているんですけど,できたらその前に「今,子どもをめぐってどういう状況が生まれているか」というあたりもふまえて考えてみたいなと思っています。
 これは新聞の記事からとっているんですけれども,あいかわらず乳児・幼児を含めた虐待の問題が連日のように報道されていて,小さい子どもが死んでいくという事件もあるわけですけれども,小学生ぐらいでも現実には,いろいろ虐待されているという問題もあります。これは昨年10月の新聞ですけど,岡山県で12歳の男の子が置き去りにされて捨てられたというのがあります。その子はお母さんの後を追いかけて保護されたんですけど,お母さんと二人暮らしをしていて,お母さんはお金がないので二人でヒッチハイクをして途中で長男を置き去りにしたということです。また,これは倉敷で11歳の女の子ですが,餓死しているというのがありました。11歳といえば小学校5年生ぐらいかな,母親も衰弱していて食べ物を買うお金がなかったというのです。昨年の6月ぐらいまでは79歳の方と同居していたのですが,その方が病気で死んで,そのあと満足に食べ物も食べていなかったと言うことです。その女の子は学校にも行っていなかったと言うことで,そんな様子が報道されています。本当に,今,不景気とか失業とか言う中で,一番弱い部分がもろに影響を受けて,出てきているという状況があるのではないかと思います。
 不登校は,平成12年度で13万9000人と言われていますし,おそらく,統計はないのですが昨年は14万人は超えているのではないかと思います。児童・生徒数がこれだけ減ってきている中で,これだけ実数が増えてきていると言うことは,パーセント的に言うとかなり大きい率としてでてきているのではないかと思います。
 そんな中で,少年事件はあまりにもたくさんあって,詳しくは言わないのですが,たとえば最近起きた「ホームレス集団暴行事件」などのように,攻撃の矛先が「弱者」に向いているということは言えるのではないかと思います。それから,校内でも少年事件とは言われなくても「いじめ事件」とか,それにつながっているようなものもたくさんあるのではないかと思います。たとえば,これは2月に報道されていたのですが,中学生が同級生に背中に針を突き刺されて,それを取り出す緊急手術を受けて一週間ほど入院したという事件もありました。これは,男子生徒3人が遊び半分で,同級生の背中に針を突き刺していったというものでした。それから,これも中3ですが,同級生にアトピーをからかわれて男の子が自殺しているという事件もでてきています。アトピーであったということで,数回同級生から「きもい(気持ち悪い)」と言われていて,親は学校に相談をしているんだけども,学校側は「生徒らにも確認したけども,いじめの事実は確認できなかった」と言っているとか,また,これは大阪の泉大津市の中学2年生の男子生徒が飛び降り自殺をしているという記事がありました。これも,どうやら交友関係に悩んでいたと言われています。これはいじめかどうかはわからないけれども,こんな中で,死に追い込まれてきたというのがあります。そういう中で,今世の中で「サバイバル」とか「自由競争」とかで社会的弱者がいじめられるというのが,出てきているわけですが,こうした中で弱い家庭や,学校の中でも弱い立場の子どもたちに集中的に矛盾が現れてきていると思います。
 
3:小学校の現場と子どもたち
 
浅井
 次に,小学校の現場の中で,今,子どもたちの状況がどういうふうになってきているかということを,いくつかの点で話をしたいと思います。 
 一つは,勉強にたいして二極分化が起きてきているという点です。特に,5年生・6年生あたりを担任していますと,何とか勉強についてきている子どもと,それに対してかなり大きな部分で,勉強に対する意欲をなくしている子どもたちが生まれてきています。たとえば宿題などでも,毎日出すわけですが,何も言わなければ3分の1ぐらいの子どもしか提出しない,「宿題出してや」とかうるさく言って,あと3分の1が提出する。また,残りの3分の1は,それだけ言われても,最後まで提出をしないということで,たとえば「居残りをしろ」とか「休み時間にしろ」とかして,先生がそこについて強制的にでもやらさないかぎり,なかなか学習に取り組まないという状況が生まれています。また,忘れ物がきわめて多くて,体操服,絵の具,習字道具,音楽のリコーダーなどの,「これがなかったら勉強が進まないし困る」というようなものに忘れ物が目立つと言うことです。あるいは,授業中,机の上に勉強道具を何も出さないとか,ノートをいっさい書かないとか,勉強をしないで漫画の本を読んでいるとか,そういう問題なども出てきていて,学級崩壊と言うけれども,さわぎまくって授業が成り立たないというだけではなくって,本当に勉強に取り組まないという,いわば「静かな学級崩壊」というのは,かなり広範な範囲で進んできているのではないかと感じています。
 さきほど,築山さんの方から,特に対人関係の中で,いろいろな問題も生まれているし力も形成されていくという話があったのですが,ここの対人関係が大変難しくなっているなと感じています。あの,40人学級でいるときにですね,一つの教室の中に40人いること,そのことがストレスのもとになっているんじゃないかなと感じることがあります。そこにたくさん人がいるという中で,生きづらさを感じているような気がします。小此木敬吾が「山嵐ジレンマ」というのを言っていますが,要するに一人一人が「トゲ」を持っていて,無意識的に攻撃性を持っているんだけれども,気持ちとしては友達と親密になりたい,けれども実際に接するとなってきたら,自分は意識していないんだけども,攻撃性を持っていて相手を傷つけてしまう,だからそこでトラブルが起きてしまう,というような状況です。だから,「距離」を保たざるを得ない。だけどそんな中で,教室は一種の過密状態になっているわけです。その中で子どもたちがどういう方法を現実のクラスのなかでとっているかと言うと,一つは「相手を消す」つまり,自分を主張して自分勝手に振る舞って,そして自分の居場所を確保しようとしています。そういう風な傾向,だから,そういう面ではアンケートの結果とも関係するけれども,人からの注意が「自分の結界を侵すものだ」という感じで排斥しようとする傾向があります。もう一つは,逆に「自分を消してしまう」ということです。どういうことかと言えば,自分が自己主張すれば人とぶつかるわけだから,いわば付和雷同的に友達に「同調」してしまうわけですね。そして,同調してしまって,自分というものを消してしまって,その中にいるというふうな形です。自分を出せばぶつかってしまう,だから自分を消してしまっているから,極端な話,隣でひどい暴力がふるわれていても,それは見ていない,見ないようにして,何事もなかったように振る舞うということです。そういう傾向も生まれてきているのじゃないかなと思います。ただ,現実問題としては,実際には「消える」わけにはいかないわけですから,そこで,相手を消すこともできないし,現実には自分を消すないこともできないので,常に周りの状況にピリピリと神経をとがらして,自分はどう同調していくかというふうなところに気を遣っているわけです。そういう点では,教室は、非常に「ストレス」の場になってきていると思います。
 そんな中で,どういう関係を,今,友達と切り結んできているかというと,僕自身は,友達関係の切り結び方の中に,今問題になっている「いじめ」とかの芽があるなあと思っています。たとえば,男の子の場合なんかは,どちらかというと「ふざけ」とも「からかい」とも言えるようなこと,ちょっと相手をからかったり,ふざけてプロレスのわざをかけたりなんかして,じゃれあったりしています。教師から見ていたら,それは遊びなのかいじめなのか境界がはっきりとしないような状況の中で,結果的には「いじめ」に発展していくというのがあります。からかいあったり,足ひっぱったり,そういうことをしながら遊んでいるんだけれども,最終的にはそういうやり方というのは弱いところに一番集中されるわけで,最後的には一番弱い立場の者がみんなからやられていくというのがあるわけです。それから,女の子の場合は,どういうつながり方をしようとしているかというと,お互い面と向かい合ってやったら,それこそ「トゲ」で刺し合うことになっちゃうわけで,第三者,つまりそこにいない人のことの「うわさ話」になるわけです。それは「先生」でもかまわないわけですし,ほかの友達でもかまわないわけだけれども,「あの人,ああやで,こうやで。」という形で,そこにいない第三者を問題にして話したり,(目の前の友達の)共感を得ようとするような話をするわけです。そんなつながり方をしているんじゃないかなと思います。第三者を取り上げて話するのは,たいてい良い話というのは少なくて,悪い話とか,第三者を敵にして攻撃するような話になることが多いのです。そんな中で仲間同士の思いが共有化されていく中で,そういう中で誰かが「あの人ムカつくわ」と言えば,「みんなで無視しよう」とか,共同的な行動につながっていくわけです。つまり,今の子どもたちの社会は,その共通のターゲットを作って,それに対する話や行動で,仲間同士の友情を保っていこうとするような,そういう「友達作り」が展開されていて,それがともすれば弱い者に矛先が向いて,いじめなどにつながっていくんじゃないかと思います。そのような問題点を感じています。
 もう一つは,これは後でもアンケート結果との関連でも話が出ると思いますが,今の流行的な文化の問題です。小学校高学年ともなれば,女子は思春期的なところもあって,僕の持っていたクラスでは「キッズ・ウォー」みたいなドラマを見ていたことがはやって,「学芸会で台本を作ろう」といったときに,こんなんがでたんですね。子どもたちが作った台本の一部ですけれども,ある女の子,D子ですが,トイレから出ようとすると,ドアが開かない。「あれっ?」。するとE子が,トイレの上からバケツで水をかける。白い粉をかける。F子が「お嬢様,気分はよろしく?」。みんなで「キャハハハハー」と笑う。G子が「あんた,調子にのってんじゃないわよ!」H子が,「もう学校くるんじゃねえ」I子が「私だって,同じ思いをしたのよ。少しは痛い目にあわせないと気がすまない。」・・・・つまり,これは「キッズ・ウォー」というドラマの中にあった一つの場面を台本にしたらしいのですが,やっていることは集団で一人の女の子をいじめているという場面なのですが,心の中で,要するに「私もこれだけひどいことをされたのだから,これくらいしないと気が済まない」という「いじめ返し」という気持ちを出しているんです。そういう所に,女の子たちがすごく共感をしている。そういう意味では,今の子どもたちを取り巻く文化の影響というのも,すごく大きいのではないかと思います。
 それから,もう一つは,これは6年生の二学期だったと思うのですが,クラスの女子の半分の子どもが 携帯電話を持っていたということがあります。学校にはさすがに持ってこないんだけれども,この携帯電話で,家へ帰ってから「どうしてる」とか「おやすみ」とか,そういうことをメールでやりとりしているんです。そうなってくると,携帯電話を持っていない子どもは,学校を帰ってからの情報から「つまはじき」されてしまって,当然それは学校生活の中でも,仲間はずれにされるということにつながってきます。中にはやっぱり,出会い系サイトみたいなところに,いたずらでかけてみたとか,そういうふうな子どももいますので,今の社会的な状況の中で,非常に危険な状況も生み出しているのではないかと思います。
 ただ,そういうふうに,女の子をとってみてもメディアの変化の中で「友達と関わる媒介体」が変わってきたということは言えます。たとえば一番最初でしたら,授業中にノートの切れ端に手紙をちょっと書いて回して交換するというものや,あるいは交換ノートを仲良しの友達で回したり交換したりして,コミュニケーションするというものでした。ところがその次に出てきたのは,電話でよくおしゃべりして情報を交換するというものです。また,その次に出てきたのは,ファックスです。ファックスで,ばあと書いて向こうの家とこっちの家でやりとりするというものです。そして今でているのは,携帯電話やメールでやりとりするというものです。このように,コミュニケーションする手段そのものが,今,大きく変わってきているのではないかと思います。
 少し長くなりましたが,今を取り巻く子どもの状況には,このような変化が生まれてきているのではないかと思います。
 
4:中学校の現場と子どもたち
 
北村
 最近の中学生,特に一年生の様子が変わってきたように思います。男子のけんかというのは,中学一年生では4月5月頃の年中行事のようなもので,特にちがう小学校から集まってきた男の子同士のけんかというものが,4月5月に多発をするんですけれども,最近では年間を通して,この男子同士のけんか,暴力があります。しかも,同じ生徒が繰り返すという傾向があります。また,女子のグループのもめごとというのも,中1の女子ではよくあることなんですけれども,グループの中の成員が変わったり,もめごとがあっても比較的早く解決するということが多かったのですが,最近は,いったんもめ事が起こると年間を通していがみ合うというようなことが多くなっています。こういうもめ事は,あるのは当然ということで,学校の方でも指導するんですけども,むしろそのもめ事を通じて個人とか集団が前進をしていくきっかけになると,人間関係を取り結ぶ力を,もめ事を通してつけていくということが,多かったのですが,いわゆるフィードバックができるという状況だったんですけれども,今では,その学級内にそのことをしっかり話し合うことができない。それから当事者同士でも話ができない。年間を通して,ずっと,まあ「もめ事だらけ」ということで,なかなかそういうフィードバックができない状況にあります。
 特に女子のもめ事についてなんですが,いじめに発展するということが多々あります。グループの中の成員が対象になることが多いんですけれども,同一人物が最近では対象になって。それが長期化するという傾向があります。以前は,仲間はずしがあっても,「健全な」仲間外しの域じゃないかなどいうこともあったんですけども,最近では,長期化をしてしかも身体的な攻撃も加わってくるということで,やはりこれは問題であると思っています。そのように人間関係を取り結ぶ力というものを考えても,やはり子どもたちの力は低下してきているんじゃないかなと思います。いったん問題が起こっても,それを解決に結びつけることがなかなか困難であるのが最近の特徴であると思います。
 最近,二つ目に気になることなんですけれども,反社会的な問題行動を起こす子どもは,どの学校にもいるとは思うんですけれども,これは去年の例なんですけれども,最近気になることとして,もともとが引きこもりであったり,不登校傾向を示していた子どもが,学校へきた時には反社会的な行動を起こすということが,特徴として気になる所です。これは昨年だけに限らないですけれども,三年生の男子の反社会的な問題行動を繰り返す子どもの半数以上が,もともとは不登校や不登校傾向を持っていた子どもであったりすることから,このことが何らかの子どもたちを取り巻く環境や状況の変化から来ているんじゃないかなと思います。特に,非社会的な行動を示す子の反社会的な問題行動というのは,予測ができにくい,ま,いわゆる「地雷型」の問題行動に発展することが多く,突然,たとえばチュウハイを飲んで学校へ来て暴れるとか,校外生活でもバイクに乗るとか,コンビニで暴れる,破壊行為を繰り返す,学校へ来ても対教師暴力とか生徒間暴力にすぐ発展するということで,予測がなかなか困難な場合が多いです。共感的理解を進めて,家庭訪問とかカウンセリング,保護者面談等行ったりはしているんですけれども,なかなかすぐには事態が好転しないというケースが多く,これからますますこのような傾向を持つ子どもが増えてくるのではないかと思います。
 それから,さきほどいいました「健全な仲間外し」もあるんじゃないかな,ということですけれども,子どもたちを見ていますと,行動面での一致を求めるような,いわばギャングエイジ的な行動を示す子ども,小学校の段階のような子どもが多いかなあと思うんですが,最近では中1,中2ぐらいで,ギャングエイジを今経験しているんじゃないかなと思われる子どもが多かったり,また,ギャングエイジを経ないで,そのまま次の段階に行っているんじゃないかなと思われる子どももいます。言動レベルでの一致をもとめるような中学生らしいグループを作っていくと,ただしそのギャングエイジを経ないで,そのチャムグループと言って良いかと思うのですが,そのようなものを作ったときに,どこか「苦味」があったり,またそのグループ内でいじめが生じたときに,長期化とか同一人物が対象になるとか,身体攻撃が加わったりとか,重傷に発展する場合が多いように見受けられます。中学生ぐらいになってくると,自分自身を客観視する力というのができてくるかなと思うんですけれども,他者と自分とを比較して自分を確認していくという,そういうこともあるんですけれども,むしろ親からの自立に伴う不安を打ち消すかのような行動を示す,思い切って自分の思っていることと反対のことをしてみるとか,親が期待をしていることの全く逆をしてみるとかいうような問題行動が多いのが最近の特徴かなと思います。特に中学1年生ぐらいの仲間集団を見てますと,仲間からの圧力がやっぱりあるんですけれども,ほかのグループに対して自分たちのメンバーが同じようにあるという圧力が加わるんですが,その際に,仲間からの圧力が過度の圧力になったり,極端に集団優位型になったりして,子どもが発達するためのフィードバックするものとしては,ちょっといびつな行動に向かわせるような大きな圧力がかかっているように思います。
 子どもたちに対しての指導というのは,共感的な理解というのも大事なんですけれども,子どもたちが自分たちの同年代の中で,どのように自分が見られているかとか,他人がどういうことを考えているかと言うことをキャッチする力というのが大切だとは思うのですが,やはり今回のアンケートの結果を見てもですね,たとえば暴言・暴力に対していやだと思ったときどうするかということでも,「同じだけやりかえす」とか,逆に「がまんをする」とか「離れる」とか,そのような形で対処することが多く,いわゆる「話し合いで解決する」とか「助け合いをする」とか,または「先生などに告げ口をする」とかのことが少なくて,自分たちの思いを表現しあいながら解決するということが少なかったのが特徴的かなというふうに思います。
 今言いましたように男子のけんかや暴力,そして女子のグループ間同士のもめごとやいじめなどが,最近特に気になる所なんですけれども,それに加えて非社会的な傾向を持つ子どもが反社会的な問題行動を起こすということが多くなっています。その中でも,中学生の時期に「幼さ」がいつまでも目立つんですけれども,集団活動を通して確実に力をつけているんじゃないかなと思うところもあります。たとえば体育祭や文化祭の行事を通して集団の自治力とか,自分たちのことを自分たちでやっていく力ということを身につける。その中で立ち直っていくとか,力をつけていった子どもたちがあるんだなと感じることが多いです。ただし,以前に比べて,行事をやるたびに子どもたちが伸びるということが以前はあったんですが,最近の子どもたちを見ると,まずその行事に入れない,それから行事の中でリーダーとして活躍した子どもたちが行事が終わった後で元気がなくなる,または中学校を卒業していった後で,力をつけたはずなんだろうけど,その力が高校時代に生かせていないというケースが最近あるように思います。
 子どもたちはリーダーやリーダーの指導に従って行事を企画立案をしたり,それを実行に移したり,成功させることの達成感で力をつけていくんですけれども,その指導ー被指導の正しい関係,すなわち指導する者の指導内容が,指導される者の利益に合致しているかという民主主義の基本の力を培うことに,以前は大きくプラスになっていたように思うのですが,今の場合には,行事そのものを成功させることが目的になってしまって,培った力を日常化させることが非常に難しくなってきているように思います。行事をするために行事をするのではなくて,行事の間に培ったいろいろな力を日常生活に生かしていくというねらいが,なかなかそのとおりにはなっていないように思われます。これも子どもたちが行事というものを通して,コミュニケーション能力をどのように高めていたかということをしっかり教師の方が検証しないといけないことではないかなと思います。最近,行事の精選ということが言われているんですけれども,やはり行事を通して同一のハードルを跳ぶことによって得られる充実感,集団に対する信頼度というのが,ほかの教科指導では得られない学校における行事の役割というのが,どのように子どもたちの力につながっていくのかということをやっぱりつかんでおかないといけないと思います。
 それから,最近携帯電話も普及をして,実感としては8割以上の子どもが持っているように感じられるんですが,学校への持ち込みとか,携帯を通じての問題行動等,やはり最近急激に増えています。携帯を通して,様々な情報が子どもたちの中に入ってきていまっすし,子どもたち同士の情報のやりとり,それから出会い系サイトの問題もありますし,最近扱っている問題行動の約半数以上が携帯が何らかの形で使われていると言うことがありますし,携帯の問題は見逃せない。ただし携帯だけを取り締まるとか管理をするとかいう問題ではなくて,なぜ子どもたちにとって携帯が必要なのか,子どもたちにとっての携帯の意味,携帯を通じてのコミュニケーションの意味というものを,やっぱり考えていかないといけないのではないかと思います。
 人間関係が希薄になっているのは,教師の中からも実感しますし,その希薄になった人間関係をかろうじて維持しようとする行動の一つとして,携帯というのがあるんじゃないかなと思います。携帯を持っているだけで安心する子どももいますし,一日一回は「**君と」「**さんと」話をしないことには,メールでやりとりしないことには,落ち着かない,眠れないという子どももいます。また逆に,こちら(教師)から「携帯(電話)をするまで起きとけよ」というふうに,深夜にわたっても,昼間と夜の区別がなくなるほどコミュニケーションのやりとりがさかんになっているということで,携帯が子どもたちに及ぼす影響というのは,生活そのものを一変させる,また生活に対する考え方を変えてしまうほどの影響力があるものかなと思います。だから,保護者の間からは「携帯をちゃんと取り締まってほしい」とか,「携帯の指導をちゃんとしてほしい」と言うことを言われているんですけども,「携帯だけ」を扱うのではなく,携帯の背景にある子どもたちの仲間や集団に対する意識,自分に対する意識というものを考えていかないといけなというふうに思います。
 とりあえず,以上です。
 
5:非社会的な傾向の子どもが反社会的な行動に出る
 
築山
 今の北村先生のお話の中で,意識をして話をしていただいたと思うんですが,「非社会的な傾向の子どもが反社会的な行動になる」ということで,「非社会的」ということは,主たる側面としては,他者とのコミュニケーションがうまくとれないということで,それ自体すでに「関係作り」と言おうが「コミュニケーション」と言おうが,今回のアンケート調査で問題にしようとしているところそのものというか,そこが中学生が,具体的な問題行動の現れ方が「反社会的な行動」として現れていても,具体的に何をするか,バイク行動をするか,ものを壊すか,教師に暴力をふるうか,それはいろいろあるだろうけれども,その根っこのところに,非社会性,コミュニケーションとか関係作りの所に弱さとかゆがみを抱えている,それはすでに抱えていると言うことですね。それは中学校に入ってくる時点,それまでの過程で,そういう状態を抱えてしまっている。
浅井
 僕は,そのへんね,二つの視点から見たらどうかと思うんですけれど,一つは築山さんが言ったように,やっぱり育ちの中で,たとえば表現力だとか他者に対する信頼感,そういうものが育ってこなかったために,友達とうまく関わり合える力が十分育ってこない。そのために,ある側面では非社会的なり,ある側面では,他者と適当な距離なり関係をつくることができずに暴力的に走ったりというふうになるじゃないかなと思います。もう一つ見ておかなければいけないのは,やはり今の子ども集団,子ども社会そのものが,よく「ジャングルの掟」だとか言われるように,やはり大変攻撃的になっていて,自分をそのまま出したのでは,どこから足を引っ張られるかもわからない,いじめの対象にされるかわからないというふうな状況の中で,自分がいわば「武装」して,その仲間集団の中に入っていかない限りは,生きていけないのではないかという思いに子どもがとらわれている,追い込まれている。だから結局「やらなきゃ,やられる」というような所から,そういう子どもたちが生き抜こうと思えば,そういう行動に出る。僕は「自己防衛」というか「過剰防衛」なのかわからないけれども,自分を守るための反社会的な行動のようにも思えるんです。だから,そのへんで僕は二つの面から,今の状況については捉えていかないといけないのではないかと見ているのですけど。
北村
 非社会的な行動,不登校とか登校しぶりですね,不登校傾向を示す子どもは学校へ行くとか勉強するとか,または食べるとか,そういうエネルギーの少なさというのが目立つんですね。そのエネルギーの側面だけで切った場合は,その非社会的な行動を示していた子どもが反社会的な行動に転向するときに,子どもを見るとエネルギーを感じるんです。たとえば,家に閉じこもっていた子どもがボンタンをはいてくる,髪を金髪にしてくる,ピアスの穴をあけてくる,チュウハイを飲んで校内を闊歩するというようなことというのは,やはりエネルギーがないとできないことですね。だから,確かにその偽装やたばこや問題行動,すなわちいろんな武装をして,すなわち鎧を着て自分を守りつつ学校にやってくるんですね。だからぎりぎりの状態で学校にやってきているんじゃないかなと思うんです。そういうことをしないと学校へこれない。だから,普通の学校生活をおくるそこまでのエネルギーはないんですけれど。だから,武装しないと学校に来れないと言うのは,普通の学校生活まではエネルギーがないんですけれど,そういうことをすれば学校へと来れるという状態までは来ているんではないかなと感じます。ただし,この場合の反社会的な行動を起こす場合には,今までとは180度違った表現の仕方をしますので,過激に走る,思い切ったことをするということで,実際にその問題行動を扱うと言うことでは,その予測がなかなかできなかったり,大きな問題行動に発展する場合があります。その対応がなかなか難しいところです。今までみたいに攻撃性が表面に出た子どもが非行に走るというのは,非常にわかりやすいんですが,今までは従順なよい子に見えた子どもが家に引きこもってじっとしていたものが,急に破壊的な行動に出てくるという状況というのは,やはりわかりにくい,予測しにくい。しかし,実感としては,数としては,今はそういう行動にはでていないけれども,そういう芽を持っているというか可能性を持っている子どもは,実は数としてはこちらの方が多いのではないかと思います。
浅井
 エネルギーの少なさということを,もうちょっとつっこんでみたいなと思うのですけれども,さきほども言ったように,今,不登校の子どもが13万9000人というように増えてきていると言ったけれども,その先に青年の引きこもりという問題なども大きな問題としてあります。統計によれば何十万人とも百万人とも言われていますが,最近起きた事件で「ネット自殺事件」というのがありますね。つまり,そうなっていくと青年が生きていけないところまで追い込まれているという状況で,ネット自殺というのは今の現代的な特徴を表しているのではないかと思うのですが,一つは,今の日本の青年の死因の第一位が自殺になっているということです。やはり若者にそういう「無気力感」というものを広げていっていて,孤立さしていっている,そういう状況といったものは,いったい何なのかなと思います。けれども,その若者の自殺というのは「生きたい」ということの裏返しだと言われるけれども,そんな中でこの事件は,20代の青年ではあるけれども,インターネットの「心中サイト」で知り合って,自殺を相談をして,用意周到ののち3人で実行したという風に報道されているのですが,ある新聞にこういうふうに書いてあったんですね。「男女3人が出会ったのはホームページの自殺掲示板でした。ところが一週間たってネット上で「自殺」をキーワードに検索すると30万件以上の項目がでます。「自殺サークル」というだけで1万8000件,「自殺仲間募集」だと300件もパソコンの画面に出ている」と。つまり本当に今回の事件を,氷山の一角というかすそ野の広い問題として,同じ思いに多くの若者たちがさらされているし,追い込まれているという状況をとらえなければいけないと思います。気持ちとしては,友達とつながりたい,その死ぬ間際であっても,今回の心中事件のように「一人で死ぬのはさみしい」と言っているわけで,友達とつながりたい,そういう思いを持ちながら最終的には,生きていくということを絶望すると言うところまで行かざるを得ないようなところにおかれているんだろうなと思います。そこのところをどういうふうに克服していくのか,と思ったときに,やはり現実の目の前にある友達関係,対人関係というものを,本当に豊かに発展させるようなことを,それは家庭の中でもそうだし,学校の中でもそうだし,当然社会の中でもそうなんですが,そういうものを求めていかなければ,なかなか展望を見いだせないのではないかと思います。
北村
 引きこもりの青年も,推定100万人という説もあるようですが,20歳代後半までに問題化して,6ヶ月以上社会と関わらなくなるという定義づけで,100万人という説があるらしいんですが,その中でいくつか言われていることは,やはり母子関係の見直しが必要なんではないかなと聞いたことがあるんですけれど,最近は過保護の子どもを扱うことが多いので,母親との面談は欠かすことができないんですけれど,その中で家庭内の様子を見ると,やはり家庭内の病理というのを感じます。子どもが生きる力を奪われている,それがエネルギーの少なさになっている。一種退行現象のようなことが起きている。その退行現象が子どもの幼児化というか,その年齢相応の力が培われていない。その状態というのは,特に母親から見れば「よけいにかわいい」というような錯覚に陥るのかどうか,ちょっとわかりませんけれども,子どもにとっても親にとっても「愛おしく」思えるような,そういう「母子カプセル」とでも言うような状況が,家庭訪問していても見受けられることが多いかなと思います。日野小事件とか新潟の事件を見ていましても,二十歳代の男性だったり,「引きこもり」「家庭内暴力」があったり,共通点がいくつもありますし,これから「非社会的」な問題行動と,それから「反社会的」な問題行動とを別々に扱うのではなくて,一つの線上に扱っていくべきなんじゃないかなと感じます。
浅井
 で,その「非社会的」「反社会的」と言ったときに,アンケートでも出てるんだけれども,たとえば自分に悩み事があったときに,誰に相談するかと言った場合,たとえば男の子なんかは35%の子ども,全体の3分の1近い子どもが「相談はしない」というふうに答えているわけなんですね。要するに,自分の悩み事があっても,もちろん「友達に相談する」とか「お母さんに相談する」というのが全体としては多くて,お父さんはその次ぐらいなんだけれども,同時に男子の3分の1近い子どもが,誰にも相談しない,自分で抱え込んでしまうという問題は深刻です。それと「いやなことを言われた時,あなたはどうしますか」という問題の時,たとえば「話し合って解決をしていこう」というのが,本当に少ないですね。10%満たない。5%ぐらいしかない。そのかわりにあるのは,「2倍返しをする」というのとか「悪口を言う」とか「その人から離れる」というのが多い。そういう形で,確かに友達との関係は難しい関係ではあるんだけれども,それをなんとか,そのもつれた糸をほぐして良い関係を作っていこうと努力する方向ではなくて,むしろ「2倍返しをする」だとか「悪口を言う」だとかいうように攻撃に出たり,逆に「離れてしまう」というように関係を切る方向に働いているということが,アンケートの結果に出ているのですが,そういうふうなことがますます子どもを孤立化させていくし,そのことが同時にまた友達との交わりの能力,コミュニケーション能力というものを非常に貧弱なものにしているし,その行き着く先がさっき言ったように,引きこもりや自殺といった問題につながっているような気がするのです。友達とどう関わるか,そこに一つの鍵があるのではないかと思います。
 同時にさきほど言ったのですが,本来自分の悩み事を相談するのは友達や親であるにもかかわらず,かなりの子どもが相談相手として選んでいなかったり,自分一人の心の中に閉まっているというものが,現象的にはどんな形で現れてくるのか。先ほど北村さんも言っていたように,これは小学校でもいっしょなのですが,いじめや仲間外しなどの事件が起きても,我々が気づいた時には進行した状態になっていることが多く,だからそれが解決の方向に向かわずに,一年近くもトラブルが尾を引いたり,ひどい場合は親も巻き込んだトラブルに発展していくというようなことにもつながっているのではないかと思います。だから,やっぱり我々が見ていくのは,その子どもと,その子どもが親とどういう関係にあるのか,どういう関わり方をしようとしているのか,友達とではどうか。そこの所を調べたのが今回のアンケートだし,そこの部分にやはり改善のメスを入れていかない限り前進していかないのではないかと思います。
 
6:子どもの「遊び」と発達
 
西浦
 僕はここでしゃべれるものを十分準備をしてきてはいないんですけれども,コミュニケーション能力の発達の背景というか,コミュニケーション能力を通じて社会性が発達していくとか,そういう側面があると思うのですが,社会性が発達していくのは,どういうことをどうして総合力が身に付いていくのかなということに関心があるのですが,僕は「遊び」というものに注目していて,遊びというのは大人の管理の下にあるのではなくて,自分たちで,集団の中で,遊びというのはつくりますよね。遊びというのには,いくつかの側面があって,たとえば一つとしては「自分で考えて,自分で判断する」。正しいことがあるというのではなくて,その場その場で,自由度が非常に大きくて,基本的に強制されない。自分のしたいことをする。それから何か目的があって遊ぶのではなくて,遊びそのものが目的ですよね。そういうことをやる中で,それも自分一人ではなくて集団で遊ぶということを通じて,社会性なりコミュニケーション能力が発達していくという部分があると思うのですけれども,それは,今回調査対象には入っていないですけれども,2歳3歳の頃というのは,みんなで遊んでいるように見えても実は一人遊びをしている。一緒に遊べるようになるには,やはり3歳4歳5歳となってきてという部分があると思うのですけれども,小学校低学年とか小学生の間の「遊びの質と量」というのが,調査ではでてきませんけど,その不足が背景となっているような気もするんです。その「退行現象」にしても部分的には,十分遊んでなくて,一定の年齢にふさわしくない,つまり不足した遊びをやっているように見えるところがあります。
 遊びを通じて,あるいは遊びでなくてもいいんですけれども,社会性の発達を通じてのキャパシティというのがあると思うのです。視野とか視点というのは,僕個人の感覚で言うと二十歳ぐらいに一番大きくなって,だんだんと生活の視点というかそういうのは,年齢とともに現実生活の中でまた狭くなってきていると思うんですけれども,二十歳の時点で「世界平和」とか「世の中の幸福」とか,そういう広がりがあっても,年とともにだんだん狭まっていくはずなのに,十代の後半で一番広くなっているはずなのに,広い視点を持っていなかったら,そこがキャパシティになって,さらにだんだん狭くなっていくような気がするんです。キャパシティを広げるということが,学校生活の中ではなかなかできていなくて,放課後の自由な時間も奪われて,そういう背景の中でコミュニケーション能力が十分育ってないんじゃないかなと,不安を覚えます。
築山
 キャパシティというのは,その子にとって「現実に生きる世界」,みたいなものですね。
北村
 今の子どもたちの「遊び」というのは,やはり昔と決定的に違うところがあると思うんですね。昔は,テレビゲームとかのような電子機器が少なかったので,自分たちで遊ばざるを得ない。その中で特徴的なのは「集団で」遊ぶという点です。それから「自分たちでルールを作って」遊ぶ。それから「外で」遊ぶ。ということがメインだったと思います。今の子どもたちの実際の生活を見てみると,テレビゲームなどに象徴されるように,一人で,もちろん与えられたルールで,家の中でこもってやっているということです。集団で,自分たちでルールを作って外で遊んでいくということは,社会を模倣しているというところがあると思うのですが,その中で実際に人間関係のいろいろなもめ事があったりして,体験的な中で人間関係を取り結ぶ力が培われたりするんじゃないかなと思います。けれども,今の子どもたちを見てみると,テレビゲームや塾通いとかの環境を見てみると,なかなかそういうことができない。大人が,与えてあげないと,なかなかそういう機会がつくれないと思います。
築山
 今回の調査の中では,終わりの方で「(遊びの)持ち物」を聞いているところがあって,そこは,府立大の学生の泉さんの分析の中でも,女子が先行しながら,そういうものに対するとらわれが,端的に出てきていましたよね。今おっしゃたようなことは,実態としてはかなり広がっているというのは確かにありますね。
浅井
 小学校で言えば,外遊びとしてはボールが非常に多いのですが,内遊びとしては,テレビゲーム,カードゲームというのがあって,男女差の大きなものもあるのですが,小学校で「ボール」が多いというのですが,実際の所はほとんどの子どもがボールで遊んでいるというわけでもないんです。どちらかと言うと運動が好きで,活発な子どもを中心として運動場の広い場所を占拠してドッジボールをしたり,サッカーをしたり,女の子であればちょっとバレーボールをしたりという感じになっています。しかし,そういう運動場を占拠できない子どもたちというのは,結局,その周りに鉄棒にぶら下がっていたり,カードゲームで遊んだりというふうになってしまっています。また,学校生活の中で「多様な」遊びがあるかというと,今はもうなくなってしまっているんですね。やはり,「ボールを持ったらドッジボール」とか,一面化,パターン化された遊びでしかないんです。また,家へ帰ったら,なかなか外で遊ぶ時間がないから,テレビゲームとかそういう形で,結局「一人遊び」になってしまっているんです。従来遊びの中であった,集団との関わり,そういうものがなくなってきてしまっている中で小学校時代を過ごし,子どもたちを中学に送っていくということになっています。
 もう一つ,特徴的なことは,たとえば女の子に「どういうものを使っていくのか」と聞いたときに,電話とか交換ノートとか手紙とかお金,そういうものが多くなってきていると言うことは,要するに他者との関わりを求めているのだけれども,その中に「もの」が介在をして,その「もの」を通じてしか他者と関われない。つまり直接的に他者,たとえば友達と関わって「言い合い」をしたりということがなくて,何か「ワンクッション」置いて関わっているから,現実感というか,緊密さの実感みたいなものが感じられなくて,それが育っていかないのではないか。そういう点で言えばバーチャルな世界と現実の世界とが どう違うのかというあたりが,非常に曖昧になっている気がしていて,そのことが人に対したときに,自分に対して自信というか確信が持ちにくくなっているのではないかと思います。
 
7:大人の果たすべき役割とは
 
築山
 大人は,子どもの変化をいろいろ議論するんだけれども,その変化のほとんどを作り出しているというか,その変化が起きる環境を作り出しているのは,大人社会なんですよね。それを視野の外に置いておいて,子どもの変化をあれこれあげて問題を議論しているというような所がよくあるのですが,今の話では,その辺の関係のところがだいぶん出されてきていたように思います。だから,今回でもこの調査をやって,実態や意識動向がどうだというようなことを出して,この辺に背景や要因があると解明していくのと同時に,じゃあ学校の教育として,地域の大人が子どもとの関わりとして,何をしていくのか,どうしていくのかという所も,実は分析と同じか,それ以上に我々大人として大事なことで,方向を出していかなければならないのかな,ということを改めて感じています。
 実際,すでに学童保育や児童館の実践だとか,地域の子供会だとか,いろいろ意識的に取り組みが生まれているものがあるので,そこをもっと広げたり深めたりしていけばよいと言ってしまえば,そうなのですが,たとえばゲーム一つにとってみても,子どもは「ゲームをするなと言うけれども,それを売っているのは大人だ。大人が子どもに出しておいて,それに飛びつくなと言われても・・・・」と言っていましたが,・・・・。
浅井
 今やはり,子どもの世界は,市場としてターゲットにされていると思います。もちろんテレビゲームなどは大きな市場になっているし,金額が高いというのもあるけれども,たとえば女の子のファッションでも,ブランドものが宣伝されているとか,ティーンむけのファッション雑誌なども何十万部という発行の雑誌が幾種類もあるとか,この間テレビでやっていたのですが,「美容エステ」,これをお母さんと一緒に小学校高学年から中学にかけての女の子たちがやっているという報道がありました。いっしょに行って,お母さんはお母さんで,子どもは子どもでエステを受けているというものです。そういうようにターゲットにされているという状況を抜きにして,今の問題は語れないのではないかと思うんです。
築山
 「発達」ということで言えば,さっき中学生がギャングエイジを中学生時期でやっているとか,あるいはそれを取り返しさえしないままに,その思春期的な世界,疑似思春期的な活動を作り出しているという話がありましたが,それは社会との関係で言えば,それの先行する時期に,たとえば小学校3〜4年生ぐらいに集団で,外で自然や集団などと触れながら遊びを作り出すという経験ができない環境というのがあって,そこを経てきたことによって中学生時代がそういうことになっているわけですね。子どもの人間の発達のプロセスの中には,取りこぼしたものというか,育ちそびれた部分を取り戻そうとする,ある意味「自己回復力」のようなものが働く,人間の成長のメカニズムの中にそういうものがあると思うのですが,それは「発達の臨界期」というものがあるように,それにふさわしい時期に獲得されなかったものを,後から取り戻そうとしても,それは全く本来の時期に獲得したものとは全く違った形になってしまうので,ある種のゆがみなり不十分さを残すことになってしまいます。だから,今この時点で,社会状況と子どもとの関係で起こっている問題と,それが成長過程で蓄積されていって思春期的・青年期的な現れをする問題とがあります。ことここに至っては,仮に60年代の前半ぐらいにことの起こりを,仮に設定したとしたら,もうすでに40年という時間の流れの中で,累積したものが今の社会の中に存在していてて,で,現在の子どもたちはその累積状況の中でまた過ごしているという,そういう今の子どもが人間として成長していく上で,負わされている歴史的な困難と,現時点での社会状況との関係で背負わされている時代的な困難という二重の困難を背負わされている中での発達という問題があります。そういう構造みたいなものが,今のお話の中から出てきていたと思います。
 で,仮にそう分析したところで,じゃあ,大人は,我々は,教育は,そこにどう関わるのか。教育がどう関わるかという問題もあるけれども,もっと言えば,大人自身の暮らしを,生活を,有りよう,生き方をどうするのかという,そういう問題を抜きに,子どもの生活,子どもの教育のみをあれこれ議論しても無理なんだろうなと思います。
西浦
 ちょっと戻ってしまうのですが,さきほどターゲットの部分で思ったことがあるのですが,この調査の「遊びに何を使いますか」のところで,「何を使うか」が選択肢として示されて,選ばせるパターンなので,たとえば「ゴムひも遊び」とかいうのをしていても選びようがないですよね。あと,「鬼ごっこ」とか「かくれんぼ」とか,「ちゃんばら」とか,もししていても選びようがないんですけれども,でも,これはこれでアンケートとして意味はあると思うのですが,「鬼ごっこ」やボール遊びならばボールそのものがいりますけれど,ボールを一回買ったら延々使えますよね。剣玉にしてもそうですけれど,でもテレビゲームとか,ここに消費者としてターゲットにされているものは,更新していったりして,ずっとお金が取れるものですよね,売っている人にとっては。「だるまさんがころんだ」を延々やっていても。だれももうからない。けれども,その中で集団の中でギャングエイジなどの時期に,相談してルールなどを決めてなにかするということは,コミュニケーション能力を伸ばすと言うことは,すごく意味があると思うのですが,でも,それだとだれももうからない。今の子どもがターゲットになっている中で,結局,お金を払うのは子どもではなくて,親が基本的には払うのでしょうけれど,お小遣いの範囲から遊ぶものを買うということを超えてしまって,「子どものため」ということで,どんどんもうかる,そういうターゲットを商業主義としてやる層があって,子どもは,お金は持っていなくても,まさに消費者として存在しているということが,発達阻害につながっているかもしれないと思うんです。
築山
 そういう面と,遊びで言えばボールとか,単純なものほど多様な遊びの素材となりうる要素があるりますが,ファミコンのソフトなんかは,「裏技」とか言うけれども,多様性においてたかがしれている。子どもの遊びの発想から言えば,たとえばゲームのソフトが入っているCDを機械に入れてゲームするのではなくて,それを投げて遊ぶとか,そういうものですよね,遊びの自由度とか言うのは。本来それが想定されている機能とは全く無関係に遊びの中に生かしていくような,そんな遊びが本来の子どもの遊びであって,今次々と出てくる遊び商品というものは,そういうところに目を向けていると言うよりは,より狭い機能,限定された,でもそれは,その瞬間には刺激的で面白いものを出してきていて,いかに売るか,ということになっている。テレビゲームの場合もそうだし,だいたい日本のおもちゃメーカーとかが作り出すものは,そうで,逆に海外とかヨーロッパなどで優れた玩具として評価されているのは,非常にシンプルだけれども,多様な遊びとしての発展がある可能性を持ったものが評価されています。日本でも,そういうものに着目して,中身を豊かにしていこうという動きも少しはありますけれども。今回の調査では,そのあたりを明らかにしていこうというのはメインではなかったのですが,子どもの発達を乳幼児期から系統的に考えたならば,そういう問題というのは,大事な視点だと思います。
 関連して思うのは,中学生にとっての遊びとか,高校生にとっての遊びとか,ある部分必要なものだと思うのです。今の社会状況というのは,年齢が低ければ,まだ比較的大人の意識的な取り組みというのが,保育や学校教育の中での働きかけ次第で一定作り出せるのではないかと思うのですが,中学生,高校生というふうになってくると,いわゆる勉強以外に,彼らの人間的な成長を豊かにするような,遊びというか学習以外の活動というような,そこは現実問題として選択の幅が狭くなってしまっているように思います。なかなか難しいですね。現実に中高生はどうしているかと言えば,コンビニの前であったり,駅前であったり,公園であったり,そういうある種,周辺的な世界,比較的大人の視線がなくて,管理の緩い部分で,隙間を縫うようにして集まってだべっているか,ものを食べていたりとか,まあ大人の目から見たら問題行動として管理や統制の対象となるような部分です。でも,本当は,大人になってくる過程で彼らにとって必要だし,それは別に無駄なものでもなければ,抑圧の対象になるものでもないはずだと思います。ただ,現れ方が,大人の目からすれば,反社会的になったり,大人の期待する中高校生の姿ではないということになります。
浅井
 遊びではないけれども,今回の調査の中で「動物の世話をする」とか「植物の世話をする」とか「外遊びをよく経験している」とか「家の手伝いをする」とかいうことを調べて,それと「自分はがんばっていると思うか」とかの自己肯定感というようなものとの関連を見たときに,やはりいろいろと小さい頃から「動物や植物の世話」あるいは「家の手伝い」など,労働と言って良いのかもわからないけれど,そういうものの関わってきた子どもたちは,全体として自己肯定感が持てない子どもが多い中では,自己肯定的な率が高いという結果が出ています。やはりこのことは,遊びを含めて,小さい頃からの自然や生き物とのふれあいとか労働みたいなものの大切さというものを表していると思います。
築山
 そういう場面で,友達や親や先生や近所の大人たちと,やりとりがあって,教えてもらうとか,見てもらうとか,そういう場面でコミュニケーション能力も育つと言えます。コミュニケーション能力,それだけを何か取り出して,それを育てようなどとしても全然おかしなことになるので,今言った動物の世話とか植物の世話とかお手伝いとか,地域で役割を担うなどのことをさせてもらうとかいう具体的な活動があって,その具体的な活動をする過程には当然,そこに出会った人同士のコミュニケーションがあって,そこで自分も見えるし,他人も見えるし,と言えます。
 
8:携帯電話というコミュニケーション
 
浅井
 そういうものを育ちそびれてきた今の中学生とかをどう見るかという問題があると思うのですけれど,たとえば遊びで言えば,今の子どもたちはよく言われるように時間も空間も仲間も奪われた状態の中で,当然人との関わりの力もついてこなかった子どもたちが,問題行動,トラブルを起こしているという,その子どもたちが今コンビニにたむろしているとか,携帯電話で連絡を取り合ってやっているとかいうのは,ある意味では,現代的なあり方ではあるけれども,なんとかコミュニケーションを回復をして,そこで身につけてこれなかったものをちょっとでも補っていきたいという,願いの表れというようにも見ることができると思います。もちろんそこには,携帯電話で言えば出会い系サイトの問題とか,落とし穴はいっぱいあるわけなのですが,そういうものを,落とし穴があるということと同時に,そこに現れている子どもの願い,発達への願いを,しっかりと我々がくみ取っていかないことには,いけないと思います。
北村
 特に中学生頃の,思春期にゆれる子どもたちにとっては,自分に対して自信がない,また仲間によって確かめてほしい。だから携帯というのは言葉によっての確かめ合い,自分たちの集団なりの結束を固めるというか,自分なりの確認というのがやっぱり携帯を通じて行われるという,そういう意味では彼らにとって携帯というのは貴重なのかなと思います。
西浦
 携帯について言えば,包丁が料理に使う道具であるのと同時に人に怪我をさせることにも使えるというように,そういう意味で言うと,携帯もツールにすぎないわけで,そのツールにすぎないから,事件や殺人などの連絡を取り合うのにも使われると言うこともあれば,コミュニケーションを,本当にこれでとっていくツールとしても使えることになるのですね。
築山
 それと,直接面と向かって表情を見ながら,相手の対応を感じる状況の中でするコミュニケーションと,携帯でも電話でしゃべるよりも,メールとなると,非常にこう間接的なコミュニケーションになっていく。そのことが,一応人格形成,パーソナル形成が完成した成人がそういう手段をとることと,文字通り人格の統合というかアイデンティティの形成の時期にあるような中学生や高校生が使うと言うことでは,やっぱりその持つ意味が違ってくるだろうと思います。ある種,自分は安全な場に置いておけるんだけれども,それは大人でもそうですね,しゃべるほど緊張せずにメールを送れるとかあるんですが,直接向かい合うという,そこでの葛藤,抵抗といったものを避けた方がエネルギーの負担はは少なくてすむというのはあるのだけれど,それは成長過程にある子どもなり,パソナリティの一定の統合が形成されるような青年期に対応することの問題を持つものというのは,決して軽視できるものではないのです。子どものコミュニケーション欲求の表れだし,現代的な形ではあるんだけれど,コミュニケーション能力の形成というか,人格形成の視点からするとやはり問題がある。弱さとかゆがみを生んでしまいかねないな要素であると思います。
北村
 言語レベルでの一致を要求されるような仲間作りの次の段階に移行できないような気がするんですね,携帯などの機器を使っては。次の段階になると,やっぱり青年期なんかでは,お互いの価値観とか考え方とか理想とか将来の生き方とかいったものをお互いにぶつけ合って,共通点も異質性もあるんだけども,でも異質性をぶつけあうことによって,他者との違いの中で,それを確認するなんていう時期があるじゃないですか。でも,たぶんそういう段階まで行ったら,携帯やメールでは確認しあえないと思うので,いつまでもその前の段階のままで止まっている子どもたちが多いのは、そのせいかなとも感じますね。
浅井
 新聞のある相談欄の中に書いてあったのですが,「私は中3です。人と電話では話せるのですが,人前で話すことができません。どうしたらいいのでしょうか?」というのです。今の話でもあったように,要するに携帯では話しできると,もちろん匿名性があるからいろいろ問題もおきると思うのですが,でも,直接的にということになれば緊張してしまってうまくできない,それは特殊な子どもではなくて,多くの子どもの中にその傾向はあるんだろうと思います。だから,教室へ行ったら「生(なま)の友達」がいるわけだから,そこで緊張状態に置かれるし,ストレスも生まれる。けれども,相談のこの回答者が言っているように,この女の子が「先生ならば少し話せます」とか「お母さんとならばよく話をします」とかいうことから,そこの所からコミュニケーションを広げていくということを,もう一度やっていく。そこで,自信を持っていくということが大事ではないかと思うのです。僕は,やはりそういうことをやっていかないといけないのではないかと思うのです。だから,先ほど親の生き方の問題も出てきたけれども,もう一度,「携帯をやめろ」とかそういうことではなくて,家族の中の生(なま)のふれあい,あるいは友達との生(なま)のふれあい,関係作りを見直していって,一からになるかもわからないけれど,そこから作っていくという,そういうことをやっていかなければいけないし,学校の教師としても,そういう所を大事にしていく。面倒だし,大変なことなんだけれど,それを作っていくということを課題として取り組まなければならないと思います。
北村
 中学校でも,昼間,同じクラスでしゃべろうと思えばいつでもしゃべれる友達と,学校ではしゃべらないで家でメールのやりとりだけはやっているというそういう子もいるんですね。直接しゃべるどころか携帯でしゃべるというのもなんかちょっとひっかかる。でもメールならできるという子もいます。声を発すると言うことがおっくうというか・・・・
西浦
 メールならね,相手とのやりとりというのは時間差があるでしょう。だけど,「話す」というのは,どちらもしゃべらなかったら,その場その場でもう空白の時間ができてしまいますよね。そこで,即答性というのが求められる部分があって,それができる方ができないほうよりもコミュニケーション能力が高いかもしれませんね。
浅井
 猶予の時間がないんですね。即,判断しないといけない。今の子どもには,そういうことを避けるところがあると思います。社会に出て行くときでも,すぐ進路など何かを決めてしまうのではなくて,モラトリアムというか猶予期間がある,そういう状況に身を置きたいというものあろだろうし,友達との関係でも,友達の言ったことにすぐそれに答えていかなければいけないし,それがまた正しい答えをしなければならないと思っているから,だからそういう場面に自分が追い込まれるということに,非常に緊張もするし,かなんと言うか,そんな気持ちがあるんだろうと思います。
北村
 でも,その場での反応というのは,社会性じゃないですか。だから社会性という面から見たら課題があるんでしょうね。
浅井
 子どもは自分に自信がないんだと思う。
西浦
 メールは僕自身,いろんな場合に使いますし,便利なことを否定しないけれども,「メールだけ」というのはちょっと違和感があって,何かしようと思ったときにメールでいろんなやりとりをしておいても,結局は「百聞は一見にしかず」で,一度会うと一気に話が進むものだと思います。でも,子どもは延々,メールでやりとりをしている。実際いくらやっているように見えても,お互い分かり合っていないとかいう場面さえありうると思うんですよ。ところが顔を合わせて小一時間でもしゃべると,もう物事が解決するという場合に,何かやりたいことがある場合には,結局,会ったりする。そのとき本当のコミュニケーションが必要になるんだけれど,単に毎晩やりとりしていると言うのは,子どもがコミュニケーションそのものを消費しているように,時間と携帯を媒介として消費しているように見えますね。
北村
 消費というか,それを通して自分の「安心」というものにつながっているように思います。不登校の子どもで,誰も友達がいなくて話もしていない。けれども,メールを通じて友達ができて,それから直接会って,今では不登校の子ども同士でバンドを組んで音楽をやっている,そういう社会性が生まれてくるという場合もあるので,メールや携帯といったものが,段階に応じたコミュニケーションのスタイルという形で有効に働く場合もあるんです。
 
9:反社会的な行動への「衝動」と「歯止め」
 
西浦
 親の過干渉などから生まれていると思うのは,社会性なりコミュニケーション能力なりの発達が未熟な段階で,いろんなことを要求されると,それが自分のキャパシティを超えてしまう,過充電のような状態になってしまって,それが場合によっては反社会的行動に「漏電」のような形で爆発するような,そういう側面もあるように思います。一定自分自身が社会性なりを身につけて,その中で人間に対するとか集団に対する信頼を作っていれば,さっきのようなものも苦にならないだろうと思います。
北村
 反社会的な行動というものに「攻撃」とか「破壊に対する衝動」というものを感じるのです。器物破損とかしても,暴力にしても,攻撃・破壊の衝動というのがすごく大きなものに感じるのですけれども,でも,心の発達と言うことを考えて見れば,中学生ぐらいになったら,衝動に対する一定の「歯止め」というものがしっかりしてくるんですよね。ところがそういう衝動に耐えられない,抑えられない子どもというのが多いと思うんです。やっぱり,遡っていったらテレビゲームだけが原因じゃないんでしょうけれども,最近はアドベンチャーとかロールプレイングとかシューティングとかいろいろありますね。どの子どもでもヒーローになりたいとか,強くなりたいとか,こういうふうに変身したいとか,その場から逃れたいとか,または攻撃・破壊をしたいということがあるんだろうけれども,そういうゲームを通じて,そういう衝動を育て,「抑止との葛藤」を垂れ流してきた。そして,実際に友達と遊んでいく上で,「たたいたらどうなるか」とか,「たたかれたら痛い」とか,そういうことを考えたりする経験が少ないと,衝動に対する歯止めというのが,しっかり育っていかないのじゃないかなと思います。
浅井
 小学校の学級崩壊の中で,小学校の低学年の時から非常に衝動的な傾向が強いと言われていて,本当に我々教師から見れば「なんでもないようなささいな事」から,パニックを起こしたり,セリフコントロール不全というか,自分で自分を律しきれない行動が起こったりしています。今の子どもの特徴だと思います。それにはいろいろ原因があると思います。消費社会の中で自分の欲望が物質的には満たされていくとかいう中で「わがままさ」を生んでいるとか,自由保育の問題とか,市民的社会的ルールをどこで教えるのかとか,いろんな問題があると思うのですが,しかし少なくとも集団生活に入って「自己と他者との関係」とか,「周りの状況を理解して,自分の行動を理性的に考える」とかいうあたりが,その認識の方も,考えて行動するというプロセスの方も,しっかりと鍛えられてこない。そしてそのまま中学校にまでつながっているという,そういう問題もあるんじゃないかなと思います。
 それともう一つあるのは,今の社会の矛盾というのは,原因が見えにくいですね。非常に複雑に絡み合っていて,「何が原因で,俺はこんなに腹が立っているのか」ということが見えてこない。単純に「このことで,僕は腹立つ」ということが言えないほど,実際の原因は複雑だと思います。だけど,子どもにとっては目の前にあることが原因のように見えてしまう。たとえば子どものことを一番好きで,一番子どものことを思っている母親なのに,「あなたのためよ」という形で,いやでたまらない受験勉強に子どもを追い込んでしまって,子どもにとっては母親が原因のように見えてしまう。あるいは教師でも「君のため」だとか「将来のため」だとか言いながら,現実には「学校のきまりを守れ」とか子どもの自由を束縛するように追い込んでしまって,子どもにとっては先生が原因のように見えてしまう,そういうふうな形で,本当の原因が見えにくくなってしまっている。だから,子どもが理性的に「本当は,何が原因で自分が腹が立っているのか」ということを考えにくくしているし,しかも自己表現がへただということになれば,子どもは,言語化されないで心の中にたまってきた,だれにぶつけて良いかわからないようなむしゃくしゃしたものが,何かのきっかけで一気に噴出してしまって,家庭であれば親を刺し殺すとか,学校であれば校内暴力などという形で現れているんだろうと思います。結局それは,本当の社会の原因がはっきりと見えてこないから,社会的な矛盾の被害者同士が争っている形になって,「親子の問題」「先生と生徒の問題」として,責任が転嫁されてしまうのだと思います。
 それと,これは「おそらく」なのですが,マスコミではそんなに大きく報道されていないけれども,少年事件や校内暴力事件の数を見ているとインターネットの各県の昨年のデータでは「過去最高」という県がいくつもあるのです。全国的な統計は見ていないのですが,かなり高い数値になっているのではないかと思います。ただそれと同時に注意しなければならないと思っているのは,そのことを「教育的に対応」しようというのではなくて,「権力的に封じ込めてしまおう」という動きが広がっているという点です。そこの所が非常に怖いなと思います。警察的な対応や少年法改悪のような対応もそうですが,それだけではなくて,たとえば,高校2年生が殺されたという事件があったのですが,少年はもちろんですが「そういう子どもを育てた両親にも責任がある」ということで,8,900万円の賠償命令をしているわけです。「少年の異常な行動に気づかなかった監督責任を問う」という訳です。また他の例では,16歳の子どもが家でたばこを吸っていたということで,親が「外で吸うと人目につくので,家の中でなら・・・」と黙認していたというので,親が書類送検をされています。つまり,少年がそうやって社会的に問題を起こしてきたときに,そこの所は親にも責任をとらせるという形で,親にしてみたら余計に子どもに対して抑圧的にならざるを得ないわけですが,そんな形で,家族ぐるみで社会的に押さえ込んで,「事件」を封じ込めてしまおうという動きが見られるのです。今の反社会的行動でしか表現できない子どもたちに対して,抑圧・排除の論理で向き合い,子どもの発達への願いに「教育的に対応」していこうとする姿勢が見られないのです。やはり,そうであってはいけないと思います。やったことはやったこととしてきちんと指導すると同時に,反社会的にしか出せない子どもたちの本当の願いに,もっと耳を傾けてやっていかなければならないと思うのです。
北村
 その中の子どもたちの願いとともに,子どもが置かれている状況,親の願いもくみ取りつつ解明していかなければならないと思います。
築山
 そういう権力的に抑圧しようとする動向・雰囲気というものを,子ども自身が感じ取って,それがまた社会不信になりますね。そして一層攻撃性が増すということになってしまいます。
 今回の座談会は,子どもたちの状況からスタートして,携帯とかメールとかいくつかの焦点になるようなことをもとに議論をしてきたわけです。もう一度アンケートの所に帰ったときに,今日の議論の中にはなかったことと言えば,アンケートの中で子どもの姿として肯定的に見られる部分と,今後実践を進めていく上で依拠できると読みとれる部分が,どこでそういうふうにあったのかということの確認が一つは必要だと思います。
西浦
 雑誌とか音楽と言うところで,日頃することのあたりとか,本と言うことで諸外国と比べてみれば,学習時間も少ないけれど,読書も少ないという日本での報道がありますけれど,精神衛生というか,人とコミュニケーションをとる前の自分自身の確立という意味で,落ち着いて物事を考えたり,哲学的とは言わないけれど,そういう思索にふけるとか想像力を増していく背景となる力が,本をあまり読んでいないのは,想像力がつかずコミュニケーション能力の発達にもマイナス面として働いているのではないでしょうか。また,マイナス面ではだめだけれど,・・・・。
北村
 どこから見ても,言語関係が豊かだとは思えないですよ,この結果は。
 
10:それぞれの現場で多様なアプローチを
 
築山
 認知的な力というか,教科学習ではどうなんかと言う面なども,当然表現力などの関係で出てくると思います。コミュニケーション能力とここで呼んでいる力が,今の子どもたちの中にある具体状況のかなり大きな特徴であり焦点だと言うことは,今日の議論の中で明らかになったのではないかと思います。改めて共通の認識にできる部分だと言えます。それと,そこには,冒頭ではコミュニケーション能力という概念自体が複合的な概念だと言いましたけれど,単に概念が複合的だというだけではなくて,そのコミュニケーションということをテーマにして今の子どもの実態について,アンケート調査をしたり議論をしていくと,いろんな要素がそこに関わって出てきた,必然的にそういう構造だからそうなんですけれど,そこも今日の話の議論自体の特徴,議論の中であたらめて明らかになったことだったと思います。だから,今は流行しているB型インフルエンザのようなものは特効薬があるかもしれないけれど,このコミュニケーションをめぐる現代の子どもの問題状況の特効薬という,そんなものはあるわけではなくて,大人の暮らし方を含めた社会的な環境の中でそれをどう変えるかということもあれば,遊びなら遊びの世界をどう豊かにするかとか,その他の具体的な手だてをどうするのかということもあるし,学校の行事で従来子どもたちが生きる力をどうつけてきて,それをどうしていくのかという問題もあります。今は行事自体が「精選」と称して削減されている状況もあるし,同じように行事をしたとしても以前と条件が違うので,同じ結果が出るとは言えるわけでもありません。でもやっぱり,行事というか文化的取り組みを大事にして,子どもたちが文化的・創造的なものに取り組めるように組織していくようなことは大切だ,そういう場を確保していくことが必要だ,ということは明らかになったと思います。そこは実践的には軽視されているし,「総合的な学習の時間」がそれに変わりうるものであるかどうかという点でも,それはそうではないだろうと思います。
 今回の調査は,コミュニケーションの力をテーマにした調査でもあるし,今日の議論でもあったわけですが,議論の中で出てきた論点は,多様なアプローチの必要性がでてきたように思います。アンケート調査に入るときの呼びかけ文を見ていたら,「一定の段階で職場に返して,共に議論しあって深めていきたいと考えています」ということなので,このアンケートの結果を「こうなんだ」と言い切る必要があるのではなくて,問題提起というか,さきほど遊びや携帯であるとか,行事であるとか,子どもたちの中にある問題の焦点のいくつかがコミュニケーションとの関係の中で提起されて,それらが具体的な現場の中で,それぞれの方の関心や,いろいろな条件の中で実践的なテーマとして深められ,それがまた全体として子どもの姿や課題を明らかにしていくという方向を提起すれば良いのではないかなと思います。
 
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