トップ 事務局 京都教育センター通信

   
  ●京都教育センター通信 
復刊第116号
 (2016.3.10発行) 
   

「アクティブ・ラーニングとは」
~第47回京都教育センター研究集会 記念講演「「憲法が生きる国・教育へ―個人が尊重される社会に―」より ~

     佐貫 浩 法政大学教授/教育科学研究会委員


 

 アクティブ・ラーニングというのがあります。

 人間というのはその心の根底で、必ずバイタルに生きている。そのバイタルという意味は、生き死に関わる問題として、毎日を生きているということです。いじめの中にいる子どももそうでしょう。勉強ができなくて将来が見えない子どももそうでしょう。非正規で困難な生活に陥っているのも、そのことを、自分の生命にかかわる深刻さとして生きているわけです。

 そうするとそのバイタルな思いに、いったいどういう意味があり、どうやったら克服できるか。それをつかむことにおいて、主体的な人間として生きていける。だからその思いに働きかけるアクティブな学びが本当に実現されたら、その人間はバイタルで、アクティブに生きてける。そういう学びの回路こそが最もアクティブ・ラーニングであるわけです。

 主権者教育というのもそういう意味では、本質的にアクティブでなければウソなわけです。「いろいろ勉強したら、政治の仕組みがわかりました。でも選挙は関係ありません」というのではダメなわけです。今の政治は許せないという認識になって、どう変えていくかというふうに、主体の姿勢が変わることが大事なわけです。

 そのためにはその人間が表面的に議論しているかどうかではない。その人間が抱えている最もバイタルな問題をどうやって自己認識にし、どうやって生きていったらいいのか、その回路を発見するという学習が創り出されなければならない。

 そういう点でいえば、アクティブ・ラーニングというのは、例えばある生徒を前にして、その学びを本当に活性化しようとしたら、まず、その子どもが抱えている内面の困難、矛盾、なぜ元気がないのか、つかまないといけない。子どもをつかむという行為なしには、その子どもが直面しているもっとも中心的な課題は発見できません。そしてその子どもをどういう認識、どういうところへ到達させていくかという、獲得させるべき、その子どもが生きていける到達目標を持たないと教育はできません。

 そしてそのためには、それに必要な教材をつくらないとダメです。そしてその教材を押しつけるのではなしに、どうすればその本人自身が主体的に学ぶかという方法論は必要ですが、今、いわれているのはこの形式的な方法論だけです。そうでなく、子どもをつかみ、目標を設定し、それに必要な教育内容を自分でつくり、そしてそれを一方的ではなしに子ども自身が主体的に学ぶような学びの過程の方法が必要です。これら全体を持たないアクティブ・ラーニングの構想は偽物だと思います。
 
 

「(1947年文部省)学習指導要領(試案)序論」を読もう!

 

 2月14日学習指導要領改訂案が発表されました。今回初めて前文をつけました。そこには、改正意図が顕著に表現された教育基本法1・2条が引用されています。「主体的・対話的で深い学びの実現」を強調していますが、肝心の先生方は、「法的拘束力」、「カリキュラム・マネジメメント」のもとで教育内容への締め付けが、ますます強化されるのではと、強い危機感を持ちます。それをはねかえしていくためにも必要だと思い、戦後教育の出発点になった、1947年に出された学習指導要領(試案)の序論を紹介します。

一 なぜこの書はつくられたか

 いまわが国の教育はこれまでとちがった方向にむかって進んでいる。この方向がどんな方向をとり、どんなふうのあらわれを見せているかということは、もはやだれの胸にもそれと感ぜられていることと思う。このようなあらわれのうちでいちばん大切だと思われることは、これまでとかく上の方からきめて与えられたことを、どこまでもそのとおりに実行するといった画一的な傾きのあったのが、こんどはむしろ下の方からみんなの力で,いろいろと、作りあげて行くようになって来たということである。

 これまでの教育では、その内容を中央できめると、それをどんなところでも、どんな児童にも一様にあてはめて行こうとした。だからどうしても画一的になって、教育の実際の場での創意や工夫がなされる余地がなかった。このようなことは、教育の実際にいろいろな不合理をもたらし、教育の生気をそぐようなことになった。たとえば、四月のはじめには、どこでも桜の花の事を教えるように決められたために、あるところでは花はとっくに散ってしまったのに,それを教えなくてはならないし,あるところではまだつぼみのかたい桜の木をながめながら花のことを教えなくてはならない,といったようなことさえあった。また都会の児童も,山の中の児童も,その周りの状態の違いなどにおかまいなく同じことを教えられるといった不合理なこともあった。しかもそのようなやり方は,教育の現場で指導にあたる教師の立場を,機械的なものにしてしまって,自分の創意や工夫の力を失わせ、ために教育に生き生きした動きを少なくするようなことになり、時には教師の考えを、あてがわれたことを型どおりに教えておけばよい,といった気持に陥れ,ほんとうに生きた指導をしようとする心持を失わせるようなこともあったのである。

 もちろん教育に一定の目標があることは事実である。また一つの骨組みに従って行くことを要求されていることも事実である。しかしそういう目標に達するためには、その骨組みに従いながらも,その地域の社会の特性や、学校の施設の実情やさらに児童の特性に応じて、それぞれの現場でそれらの事情にぴったりした内容を考え、その方法を工夫してこそよく行くのであって、ただあてがわれた型のとおりにやるのでは、かえって目的を達するに遠くなるのである。またそういう工夫があってこそ、生きた教師の働きが求められるのであって、型のとおりにやるのなら教師は機械にすぎない。そのために熱意が失われがちになるのは当然といわなければならない。これからの教育が、ほんとうに民主的な国民を育てあげて行こうとするならば、まずこのような点から改められなくてはなるまい。このために、直接に児童に接してその育成の任に当たる教師は、よくそれぞれの地域の社会の特性を見てとり、児童を知って、たえず教育の内容についても、方法についても工夫をこらして、これを適切なものにして、教育の目的を達するように努めなくてはなるまい。いまこの祖国の新しい出発に際して教育の負っている責任の重大であることは、いやしくも、教育者たるものの、だれもが痛感しているところである。われわれは児童を愛し、社会を愛し、国を愛し、そしてりっぱな国民を育てあげて、世界の文化の発展につくそうとする望みを胸において、あらんかぎりの努力をささげなくてはならない。そのためにまず我々の教壇生活をこのようにして充実し、我々の力で日本の教育をりっぱなものにして行くことがなにより大切なのではないだろうか。

 この書は,学習の指導について述べるのが目的であるが、これまでの教師用書のように、一つの動かすことのできない道をきめて、それを示そうとするような目的で作られたものではない。新しく児童の要求と社会の要求とに応じて生まれた教科課程をどんなふうにして生かして行くかを教師自身が自分で研究して行く手引として書かれたものである。しかし、新しい学年のために短い時間で編集を進めなければならなかったため、すべてについて十分意を尽くすことができなかったし、教師各位の意見をまとめることもできなかった。ただこの編集のために作られた委員会の意見と、一部分の実際家の意見によって、とりいそぎまとめたものである。この書を読まれる人々は、これが全くの試みとして作られたことを念頭におかれ、今後完全なものをつくるために、続々と意見を寄せられて、その完成に協力されることを切に望むものである。

二 どんな研究の問題があるか

 いま述べたように、教育をその現場の地域の社会に即し、児童に即して、適切なものにして行くためには、いったいどんなことを研究して行ったらよいであろうか。

 まず第一に考えられることは、教育がその目標に達するように学習の指導をしようとすれば、わが国の一般社会、ならびにその学校のある地域の社会の特性を知り、その要求に耳を傾けなくてはならない。ここに一つの研究問題がある。
 次に問題になるのは現実の児童の生活である。このことはだれでもすでに知っているように、児童は身近な見なれたことを基にして新しいことを学びとって行くものである。また学習が十分な効果をあげるには、児童が積極的にみずからこれを学ぶのでなければならない。だから児童の生活から離れた指導は、結局成果を得ることはできない。この意味において、教師が児童の指導をするにあたって、その素材を選ぶためには、児童の興味や日常の活動を知ることが欠くことのできないところである。本書ではこの点を考えて、児童の活動や興味についての手がかりを得ることができるように、後に見るように、児童生活のあらましについてのべることにした。しかし、これはまだ決して完全なものではなく、一つの試みとして述べたに過ぎないのであるし、そのうえ児童の生活は値域によって多かれ少なかれ違ったものを持っている。だから教師各位は、これにとらわれることなく、その地域の児童の生活の実情について、これを掴まえることに努力してもらいたい。そしてその適確なもの―すなわち児童の指導にあたって効果をあげるに役立ったもの―については、これを大小となく報告をされたい。これによってわれわれは近い将来において児童の発達に応じた活動を豊かにこの書におりこむことができるようになると思う。ここにまた一つの研究問題がある。

 このようにして、教材についての研究が進められたとしても、学習指導の研究がそこに止まってならないことはいうまでもない。すなわち次にはこれらをどうしたら児童がよく学んで行くことができるかを研究してみなくてはならない。たとえ教材が適切であっても指導の方法がよろしくなければ、とうていその効果をあげることはできない。そこで教師は学校の設備や教具について考え、その地域の児童の生活を知って、それらの上に方法を工夫しなければならない。これまでわが国の学校で行われていた指導法は、ともすると単純で決まり切っていて、豊かな児童の生活の動きや、その地域の自然や社会の特性や、学校の設備などが生かされていないうらみがあった。われわれは,もっといきいきした豊かな方法を地域に即し,学校に即し,児童に即して研究しなくてはならない。ここにも研究の問題がある。この書は,このような工夫の参考にと思って指導方法の一般的なものについて述べたが,もとより完全なものではない。教師各位は現場の経験にもとづいていっそう適切な指導法を工夫することがたいせつである。

 このようにして,教材の研究も方法の研究もきわめて必要であるが,それが単なる思いつきや主観的なものであってはならないことはもちろんである。その研究がいつも確実な基礎を持った科学的な考え方でなされなくてはならない。それには特に指導の結果を正確にしらべて,そこから教材なり指導法なりを吟味することがたいせつである。つまり正確な指導結果の考査によって教材や指導法の適不適をしらべる材料を得て,これによって進めていくことが必要なのである。しかもこの考査によって,児童もまた,自分が学習の目的にどの程度近づいたかを知って,みずからの学習について反省の資料を得ることができるのである。ここでわれわれはどうしたら学習の結果を正確にしらべることができるかを研究する必要がある。この書はこの点についても一応その方法を述べたのであるが,教師各位はこれを参考にされて,もっと適切な方法を工夫して指導をいっそう効果あるようにする資料とされたい。 

   
  京都教育センター 2016年度活動の報告
 

1 第47回京都教育センター研究集会(12月24日25日、教育文化センター)

 集会テーマの「憲法公布70年、学問・教育に憲法を生かす」は、憲法改正の動きの中で2016年度の研究集会のテーマにふさわしく、「憲法が生きる国・教育へー個人が尊重される社会に-」と題した佐貫浩氏の講演は、資本主義社会の歴史から今の情勢をわかりやすく分析したもので、「もっと自由に、もっと人間らしく」をテーマとしたパネルトークの現場からの声と響き合う全体会の内容となりました。2日目は8の分科会をおこない、参加者は一日目86人、2日目94人でした。

2 公開研究会の開催

 各研究会が企画開催した公開研究会は10回開催されました。センターとしては、6月11日、氏岡真弓さんをお呼びして「ジャーナリストから見た日本の教育の30年後は明るいか?」を開催しました。

3 京都自治体問題研究所との合同研究集会の開催

 昨年に引き続き、京都自治体問題研究所との合同で「京都まちづくりシンポジウム」第2弾を「地域で住み続けられるまちづくりー学校跡地を地域の居場所に-」をテーマに「京都小学校校舎の歴史と学区」と題して11月19日、京都府立大学教授の大場修氏の講演、立誠・西陣・清水からの報告で開催しました。参加者50人。このパート2を2月12日にも行い、22人の参加で京都の番組小学校の歴史を学びました。また「夏休み親子で学ぶ実験教室」(8/11)を開催し、放射線について親子で学ぶ取り組みに35人参加しました。

4 教育研究集会・民主教育推進委員会への参加

 第66次京都教育研究集会(「教育のつどい2016」)(1/28~29:教文センター他)には共同研究者・世話人として二日間でのべ49人が参加し、各分科会での任務を果たしました。また民主教育推進委員会には共同研究者・世話人として30人(11/12)、22人(1/14)が参加しました。

5 「学校統廃合と小中一貫教育を考える第7回全国交流集会」実行委員会

 第7回全国交流集会を京都で開催することになり、実行委員会を立ち上げ、教育センターは事務局として2月26日の集会成功のため奮闘しました。実行委員会参加団体15団体は、教育関係だけでなく自治体問題研究所、京都自治労連や学校統廃合を考える会など地域の運動団体も加わり幅広く取り組みを広げることができました。

5.季刊誌『ひろば・京都の教育』の発刊

186号  (5/18)  ①変わりつつある大学の現状と課題  ②子どもの表現と発達 
187号  (8/10)  ①教師として生きる喜び、そして悩み  ②格差の広がりと子どもの貧困 
188号  (11/16)  ①今こそ主権者教育を  ②小さくても輝く学校づくり 
189号  ・(2/15)  ①学問・教育に憲法を生かす  ②小中一貫校と学校再編は子ども・地域に何をもたらすか

6.「センター通信」の発行<2016年度執筆者一覧>

106号  本田久美子/瀬戸有佳子(綴喜) 
107号  高垣忠一郎/倉本頼一(センター)
108号  塩貝光生/若林紀良・谷隆次(宇治) 
109号  高橋明裕/大平勲(センター) 
110号  中久保弘志/近藤洋子(京都市) 
111号  大味祥恵/菱山充惠(乙訓) 
112号  生水淳稔/山口茂樹(綾部) 
113号  深澤 司/西田陽子(乙訓) 
114号  池田 豊/近江裕之(丹後) 
115号  羽入あい子/センター研概要 

7.出版活動

 道徳の教科化の動きや、管理統制の強化で学校現場の息苦しさを打開するために「道徳教育実践編」「学校・教師論」の出版を新しい学習指導要領も視野に入れながら検討中です。これまで出版してきた教育センターの刊行物の普及に引き続き努力します。

8.研究活動

 「地方教育行政」「生活指導」「学力・教育課程」「発達問題」「子どもの発達と地域」「家庭教育・民主カウンセリング」「高校問題」「教科教育・国語」「障害児教育」の9つの研究会があり、それぞれ独自に研究活動を展開しています。研究会員募集中

9.事務局・運営委員会体制 

代表:高垣忠一郎、顧問:野中一也、研究委員長:高橋明裕、「ひろば」編集長:西條昭男、事務局長:本田久美子 
運営委員(上記含め):築山 崇、川地亜弥子、倉本頼一、下田正義、原田 久、中西 潔、大平 勲、
富山仁貴、深澤 司、佐古田 博、得丸浩一、西田陽子


 
トップ 事務局 京都教育センター通信