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  ●京都教育センター通信 
復刊第96号
 (2015.4.10発行) 
   
新年度に臨んで思うこと

          京都教育センター代表   高垣忠一郎

 
 私は不登校の子どもたちに心理臨床家として長年かかわってきました。その経験から、不登校は古い自分に「さようなら」をして、新しい自分に「こんにちは」をする「生みの苦しみ」の時なのだとみてきました。その「生みの苦しみ」を新しい自分の誕生につなぐ大切なものが「自分が自分であって大丈夫」という「自己肯定感」なのです。

 日本は今、戦後70年という大きな節目にいます。私はその日本の状況を不登校の子どもの「生みの苦しみ」と重ねてとらえたいと思います。とくに安倍政権によって「平和憲法」が改悪されようとしている今日の危機を、これからの日本にとって「平和憲法」の大切な意味を再確認するチャンスにしたいと思います。

 平和憲法の根本規範は国民主権、人権尊重、永久平和の3つの原理です。これらの原理の根本に第13条「すべて国民は個人として尊重される」という理念があります。それは「自分が自分であることを尊重される」ということであり「自分が自分でなくなることを強いられない」ということです。

 だが、いまは子どもたちは、一人ひとりが「自分が自分であること」を本当に尊重されているのでしょうか?「自分が自分であること」を尊重できているでしょうか?「自分が自分でなくなること」を強要されていないでしょうか?自分を「こうあるべき」「こうあら
ねばならない」という強迫的な「よい子」という「枠」の中に閉じ込め、「あるがまま」の自分を尊重できていない子どもがたくさんいるように思います。

 それは、なぜか?競争の社会、競争の教育のなかで、子どもたちが「よい子でないと見捨てるぞ」と脅されながら生きているからです。平和とは、なによりも人間が「脅し」によって支配されないことです。脅された人の心は焦ります。「焦る」という字は「こげる」とも読みます。焦る子どもの心は戦場のように「こげて」いるのです、平和ではありません。

 「子どもを守る会」の「花には太陽を、子どもには平和を」という「標語」がありますが、この戦後70年の節目の年に、子どもの心に平和をもたらすことのできる教育を創造することに力を入れる年にしていきましょう。「自分があるがままの自分であること」ができるとき、自分は自由に変化し、成長することができます。「よい子でないと見捨てるぞ」と脅されながら、「よい子」という狭い「枠」のなかに自分を閉じ込めて変化し、成長することなど不可能です。

 平和憲法を改悪し、「戦争できる国」へと日本を変えようとする政治の暴走が始まっているこの時代に、みなさんと共に、新しい日本の歴史と教育を築く大事業の一角を担えることを幸せに思います。

 
子どもの未来をみんなでひらく教育のつどい
第64次京都教育研究集会 全体会 2015.1.24

〜沖縄平和ツアー報告〜(後半)
2014年12月25日〜29日

                 京教組青年部
 
 

『チビチリガマとシムクガマ』

 ガマとは、沖縄の方言で自然洞窟の意味ですが、多くのガマが、戦時中、沖縄県民の避難壕として使用されていました。その中でも、チビチリガマとシムクガマは、生死を分けたガマとして語り継がれています。

 チビチリガマでは波平の村民が避難していましたが140人のうち85人が非業の死を遂げました。85人のうち約6割が18歳以下の子ども達でした。集団自決の仕方はさまざまで満州帰りの従軍看護婦に注射させて自決した人、洞窟内で毛布を燃やして窒息して自決した人、カミソリや岩石など身の回りによるもので自決をした人もいました。10代の少女は、日本軍が中国で捕虜にした強姦の話を思い出し、「米兵に強姦されるくらいなら」という思いで率先して自決したそうです。また、自分で死ぬことができない幼児は、その母親が幼児の上に乗り、首を刃物で切るなどして殺し、母親も自ら自決するという残酷な状況となりました。今もなお、遺骨や遺品が存在しており、中には一般者は入れないようになっています。

 ガマ入り口の右手には平和の像が建立されていますが、完成から7か月後、この像を好ましく思わない者によって破壊されてしまいました。その後、多数の支援者により再建されました。

 シムクガマでは、1000人近くの避難者がいたものの自決者はいませんでした。自決に至らなかったのは、シムクガマの避難者の中にハワイ帰りの波平の村民が2名存在し、その風評は間違っているのを知っていたからです。自決を図ろうとする人や竹槍をもって突撃しようとする15〜16歳の少年を説得するなど投降を促しました。ガマの入口の正面にはハワイ帰りの2人に感謝して波平区民は「救命洞窟の碑」を建立しています。

 集団自決はいくつかの理由が重なって行われたと考えらえます。証言から浮かび上がったことは、「死ぬのが当然という気持ち」「逃げ場のない状況にあったこと」「米軍への恐怖感が限界に達したこと」です。しかし、これらが幾重に重なったとしても、自ら家族を殺害することはありません。米軍の捕虜になることは、日本軍の秘密が漏れる可能性がある、だから米軍の捕虜が許されなかった、「鬼畜米英」と教育されて
いた背景がこのような集団自決を生み出したと言えます。大切な人を自らの手で殺めてしまう戦争の惨さ・愚かさを繰り返してはいけない、このような過ちを二度と起こさないよう、後世の子どもたちに強く伝えていくことが私たち教職員の責務かもしれません。
『高江ヘリパッド建設問題・辺野古基地移設問題』

 高江の問題も辺野古の問題も、1996年の「SACO合意」から始まっています。普天間基地の移設が辺野古の海上埋立て新基地建設につながり、北部訓練場の半分返還の条件として高江に6カ所のヘリ(オスプレイ)パッドの移設建設が日米両政府によって決められてしまったのです。

 高江では、映画「標的の村」に登場する伊佐真次さんの奥さん、育子さんに話をお聞きしました。子育てをしながらゲート前での座り込みを続けている育子さんは、自然豊かな地で子育てをし「命を育んでいるのに、ゲートの中では命を殺すことをしている」「国から訴えられ、『沖縄は憲法の下に暮らせないのか』と思った」と言われました。

 京丹後市の宇川でも米軍のXバンドレーダー基地建設、配備の問題があります。近くにいて、分かっていても何もできていない自分を責めるような気持ちがありました。でも育子さんは「ここでは、止めるだけしかできない。沖縄が声を出しても変わらない。皆さんが政治を変える、という二つの車輪が必要なんです」と言われました。その言葉が忘れられません。

 辺野古ではフェンス前まで行き、組合で集めた寄せ書きをフェンスにくくり、海上の船に向かって「沖縄を返せ」を歌いました。当局側の見張り船でしたが…。この日は青くて美しい、静かな海でした。その後、座り込みテントに行き、もう一つの寄せ書きを渡しました。翁長知事も選挙運動を、このテント前から始めたと話されていました。

『南風原文化センター』

 南風原の陸軍病院であった壕の一つに入り、薄暗く澱んだ空気の中、ガイドさんのお話を聴きました。文化センターで知った青酸カリによる自決の強要、ひめゆり学徒の動員、この中で起こった出来事だと想像するだけで、おぞましい気持ちになりました。当時、壕は廊下程度の幅になっており、そこには木で作られた簡易ベッドがあり、そのベッドには包帯を巻かれ、患部にウジがわき、何とも言えない臭いを発している負傷兵がいて、その側には処理し切れていない排泄物があったそうです。また壕の通路と通路の交差点が手術室として使われ、麻酔もない状態で手足の切断手術が何度も行われたそうです。食料や薬品の不足、不衛生な状況、様々な臭いだけでなく、悲鳴とうめき声が飛び交っていました。壕は戦争の悲惨さ、そのものを表していました。外に出ると、憲法九条の碑が立っていて、この言葉の重みが心に響きました。私たちは、この平和憲法があることの意義をもっともっと広めなくてはならないと感じました。

『沖縄県教職員組合那覇支部との学習交流会』

 沖縄県教組那覇支部の元委員長の宮城さんからお話を聞きました。宮城さんは、戦後苦しめられてきた沖縄の人たちが団結し、平和を勝ち取ろうと努力した事実をたくさんの資料を使って教えて下さいました。戦中の慰安所の問題や銃剣とブルドーザーで土地の強奪をした戦後の苦しみ、島ぐるみ土地闘争や米国からの圧力に屈しなかった瀬長亀次郎の活躍、現在の知事選・衆院選に至るまで弾圧に負けず、「オール沖縄」で戦っている沖縄の姿勢は、子どもを守っていくという沖縄県の教職員の強い意志が伝わってきました。学習会後は、宮城さんと現地書記長の上原さんと食事をしながら交流をしました。

『ひめゆり平和祈念資料館』

 米軍の沖縄上陸作戦が始まった1945年3月23日の深夜、沖縄師範学校女子部と沖縄県第一高等女学校の生徒と教師合わせて240人は、負傷した兵士たちの世話をする「看護要員」として南風原(はえばる)の沖縄陸軍病院へ動員されました。病院といってもそこは、暗くじめじめとした血とうみと排泄物の地獄と言わんばかりの場所で、少女達は毎日、水汲みや食事、看護、死体埋葬などの重労働を強いられました。

 1945年6月18日の夜の解散命令後は、激しい爆撃で亡くなったり、追いつめられて手りゅう弾などで自決をしたりする人も増え、結局、240名中227名の人が亡くなりました。

 最終的には、12万人にのぼる沖縄住民の犠牲が出た大惨事の戦争となりました。

 平和であることの大切さを訴え続けることこそ亡くなった学友・教師の鎮魂と信じ、ひめゆり平和祈念資料館が建設されました。激動の日々を生き抜いた犠牲者の少女や教師の一人一人の写真を見て、涙が出ました。実際に行ってみて、よく分かることが多く、自分の無知さに恥ずかしくなりました。

 看護教育では、射撃訓練や防空訓練もさせられたそうです。少女達の夢も希望も失わせ、「国のために死ぬ」という文化を植え付けられた恐ろしい戦争、教育が人を殺しました。教育は、間違えれば恐ろしいことになります。

 私達は、それだけ責任のある仕事をしているということの自覚を持ち、二度とこのような犠牲者を出さぬよう、戦争の恐ろしさ、平和の大切さを子どもたちに伝え続け、沖縄や日本を守り続けていきたいです。

『沖縄平和祈念資料館』

 平和祈念公園は広大な敷地に、目の前には美しい海がいっぱいに広がっていました。ここで、かつて激しい地上戦が行われていたとは思えず、穏やかでゆっくりとした時間が流れていました。

 平和記念公園にある資料館に入ると、沖縄の地で繰り広げられた戦争の経過や実態を多くの資料が物語っていました。米兵に怯え震える少女の映像、折り重なる死体の山、幼い子どもも写っていました。ガマに火炎放射機で火を放ち、手榴弾を投げつける様子など凄まじい様子には目を背けたくなりました。

 1945年4月1日、沖縄本土に上陸した米軍は北から制圧。最も過酷を極めた南部戦では多数の死者、沖縄戦自体、本土決戦を引き延ばすための沖縄の地と人を捨て駒にしたものだったそうです。この公園にならぶ慰霊碑に名前の刻まれた人々は、なぜ死ななければならなかったのか…、戦争の非道さを改めて感じました。

 しかし一方で、日本の戦争での被害を知れば知るほど、日本がしてきたことはどうだったのか、そう考えるようになりました。20万人を超える死者を出した沖縄戦でしたが、日本軍はその数をはるかに超える犠牲者を出しています。ドイツが過去を振り返り反省の意を示し続けているように、日本も過去の過ちをしっかりと見つめることも重要だと思いました。

 最後に、平和記念公園の美しさは、まさに平和の象徴だと思います。あの美しい沖縄の地に基地はいらないし、二度と戦火に塗れることがないようにしていかなければなりません。正しい歴史を知ること、平和の大切さを自分の周りに伝えていくことがこれからの自分にできることだと思います。 (紙面の都合で写真は割愛しました。写真つきの報告書がほしい方は、京教組青年部に連絡ください。送ります。)


   
 

歴史認識をゆがめる教科書を子どもたちに手渡さないために

 育鵬社の中学社会科教科書(横浜市・東大阪市など全国で、「公民」約45000冊、「歴史」約42000冊が、現在使用中)について、京都教科書連絡会議の学習会(3月10日)で、大八木賢治さんが報告した問題点の、一部を紹介します。

1.育鵬社「公民」教科書について
(1)「原子力発電所」の項目で、「市民が原子力発電と共存し」などと、「国家規模の政策」を優先する記述。
(2)「社会全体の秩序や利益を犯す場合には、個人の権利や自由の行使が制限されることもあります」と記し、「秩序や利益」が個人の権利より優先するかのような記載。
(3)「集団的自衛権」を「国際連合憲章第51条において保障されている権利です」「行使することができる、と解釈を変えるべきだという主張もあります」と、現在の内閣の「戦争法案」を先取りした内容。
(4)「男らしさ・女らしさや日本の伝統的価値観」「性別役割分業は『男は仕事に出て、女は家庭を守る』という役割分担」などの、時代錯誤的な家族観。
2.育鵬社「歴史」教科書について
(1)学問的に証明されていない「仁徳天皇陵」を「仁徳天皇が…民から慕われ、工事にあたっては追いも若きも力を合わせ…力をつくした」と「古事記」「日本書紀」の記述が史実であるかのように紹介。
(2)「2月11日の『建国記念の日』は、神武天皇が即位されたとされる日を記念したものです」と、あたかも史実のように表現。
(3)「韓国併合」を「日英同盟やポーツマス条約でも、韓国に対する日本の保護権が認められました」と正当化。
(4)日本国憲法制定について、「議員はGHQの意向に反対の声を上げることができず、ほとんど無修正で採択されました」と、「押し付け」を強調。 

 これらの教科書の改訂版が、今年夏の各市町村教育委員会での、中学校教科書採択にかけられるのです。教育委員会への要請や、教科書展示会で実物を読んで意見を書くことなど、子どもたちに手渡させない取り組みが急がれます。

 
  京都教科書問題連絡会議  教科書問題連続学習会

     「教育委員会制度改悪と教科書採択制度」
日時  4月14日(火)18:30〜19:30  
場所  京都教職員組合会議室にて(教文センター西隣「教育会館」2階)
 
学習会 「戦争する国」への人づくり 〜戦後70年、教科書はどうなる!?〜

日時   5月17日(日)13:30〜16:30  
参加費  500円
会場   京都アスニ―第8研修室(3階)(丸太町七本松西入ル北側)
      講演@「集団的自衛権と『戦争法』づくり」法律家より
      講演A「『安倍教育再生』と今夏の中学校教科書採択」
                石山 久男 氏(前歴史教育者協議会委員長)
主催:京都教科書問題連絡会議(連絡先:京都教職員組合 075-752-0011 kyobun@kyokyoso. 
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