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  ●京都教育センター通信 
復刊第89号
 (2014.9.10発行) 
   
今こそ「共同の学び」を(全国教研のフォーラムで考えたこと)

                      京都教職員組合教文担当 松岡  寛

 

 8月16日〜18日に高松市で行われた、「教育のつどい2014」(全国教研)の、教育フォーラム2「子ども期の豊かな育ち保障する学校・地域を考える〜学力って なあに〜」に参加しました。

コーディネーターの中嶋哲彦さん(名古屋大)の問題提起の中で、印象に残ったことは、

・全国学力テストが始まって以後、学力は何かという議論が貧困化してしまった。学力の中身を問うことより、学力テストにどう対応するかという点のみが焦点化してしまっている。
・一部の「グローバル」「イノベーティブ」な人材と、大多数の従順な「リスクを生まない」国民とを、早期に選別して教育することが、財界の要求。以前は文科省がそれなりのブレーキをかけてきたが、今の政府は財界の要求に愚直なまでに正直に従っており、官僚がますます官僚化(結果に責任を取らない)している。
・私たちは、「学び」と「育ち」を1つのものととらえ、「安倍教育再生」の規範主義的道徳や生き方の強制でなく、学んだことを行使して人とつながる力を大切にしたい。
・「小1プロブレム」などと言われているが、実態も定義も定かでない。私たちは、空虚なことばでなく、子ども・学校の現状を確かに読み取り、リアルに子どもを語ろう。
・基礎基本が大切とも言われるが、「将来の準備」と称して、小〜高の12年間、我慢させて機械的訓練を受けさせ続けるのはだめ。基本的な内容をクリエイティブに学ぶあり方を考えていこう。

などの点です。

 話を聞きながら、2005年ごろ、中嶋さんが犬山市の教育委員として、全国学力テストに参加するのでなく、犬山独自の「共同の学び」を追及されていたときに、

「知は共同(協同)のものである、一人の人間が学んだことは、他の人に共有されてこそ価値を持つ。」

などの趣旨の発言をされていたことを思い出しました。

 以下、私がこのフォーラムの中で、「学力」について考えたことを記します。

*日本国憲法と教育基本法(改悪されてもなお)に記されている、「すべて」の国民が「ひとしく」教育を受ける権利を持っている、という基本にたちかえって、すべての子どもが「ひとしく」身に付けるべき「学び」の中身を問い直したい、と思いました。

*学校教育が追及するべきことは、仲間とともに学び合う中で、
・自分の考えを仲間に理解してもらい共感してもらう喜び
・自分とはちがう考えがあることに出会う新鮮な驚き
・新しい真実や文化的価値に出会い、心一つになる共有感
という経験を積ませることだ、と考えて、私は実践にとりくんできました。

*発達段階に応じて、それぞれの時期に、子どもたちが喜び・驚き・共有感を味わうことにできる、とりくみのテーマにどんなものがあるか、京教組や教育センターのみなさんと、より幅広く考え合っていきたい、と思いました。

*久田敏彦さん(大阪教育大)が以前、
「学力とは何か、という議論を続けても結論は出ない。子どもたちが仲間とともに主体的に学んでいる活動そのものの中に、あるべき学力の中身がある。」
という趣旨の話をされていました。答えは子どもの中にある、子どもから学び、子どもとともに学びの中身を追求する、という姿勢を守っていきたい、と思います。

*「基礎基本」にかかわって、機械的反復練習をずっと続けさせることはいけない、という点は納得できますが、一方で、自分自身で成果が分かりやすい反復練習は、子どもたちが喜んでとりくむ活動でもあります。基礎基本を「クリエイティブ」に「仲間とともに」学ぶあり方を考えたい、とも思いました。
 
 
教育研究全国集会in香川 外国語分科会

今、「教師としての学び」にどのように出会うのか

                   乙訓 公立中学校 江島 幹雄(仮名)
 
 

 はじめに

 教育研究全国集会では外国語分科会にて中学校での実践を報告しました。実践と言っても、まとまった授業実践の報告ではなく、新規採用からの6年間の自身の授業を振り返って、感じてきた課題意識やぶちあたっている壁などについてまとめたものを報告しました。京都代表のレポートという意味では、大変お粗末なものではあったと思います。それでも報告に真摯に耳を傾け、意見をくださる参加者の皆さんの温かさを感じました。香川での学びを京都に持ち帰るという意味で少しはその役目を果たせたらと思います。

 教師になって

 私は新規採用となった学校で「身銭と時間を使って勉強しなさい!私は毎年数十万円書籍購入や学習のために使っています!」と組合活動をされている先生によく言われました。教師になったばかりの私にとって、その時の「勉強しなさい!」という言葉はどこかしっくりこなかったのですが、いつまでも胸の奥に沈殿していました。初めて担任した2年生の女子生徒が2学期以降崩れだし、その突出行動への指導が後手に回りだすと、管理職からも圧力をかけられ、学級運営や授業、そして学年教師間の人間関係なども行き詰まっていきました。その学級は初めて担任した学級として大変思い入れのあるものとなりましたが、これでは教師としてやっていけないと痛感しました。「これが私のスタートライン!『教師としての勉強』を積み重ねて力をつけていこう!」とその時決意し、生活指導の学びに傾斜していきました。生活指導の学びではたった数年の教師経験でこびりついていた「教師とはこうあらねばならない!」という自分自身の教師観・教育観の相対化によって、自己変革していくという節がありました。こういったものから自身を解放していくことによって、子どもへの寄り添い方を身に付けていくことができました。

 一方で、教科指導においては、小規模校での勤務といったこともあり、モデルとなる先輩教師もおらず、自分の目指していきたい教科指導の方向性を見いだせずにいました。書籍を買って指導方法は学ぶのですが、「こんな授業をしたい!」という欲求はなかなか生まれてきませんでした。中学教師は教科指導を通して生徒と関わることがほとんどですから、教科指導の力量が伸びてこないジレンマは、年々募ってきました。それでも少しずつ自身の授業実践の方法を工夫し、変更してきたことで、子どもの反応は大きく変化してきました。

 つどいの中での学び

 教育のつどいでは、輝かしい実践が数例報告されました。とある北海道の先生は、マラカスを振りながら楽しい雰囲気で英単語の指導をしていると話されました。マラカスを振っている自分の姿を想像することはできませんでしたが、それぐらい自分を脱ぎ捨てて生徒と出会わなければならないのだという覚悟をつきつけられた思いでした。また、日々、お風呂でペーパーバックの英文を読んで英語力をブラッシュアップされていました。教師としての学びは当然のこととしてありました。滋賀県の高校の実践報告では、いじめについての詩の映像視聴から長文読解の授業をされていました。カナダでピンク色のシャツを着て登校した男の子がいじめられ、そのことを知ったその子の先輩が、ピンク色のシャツを着て登校することを友人に呼びかけ実行すると、たちまちいじめが収まったというエピソードがその内容です。この話を受けて、滋賀の高校生たちがピンクシャツデイを設けいじめ撲滅をアピールをしました。このムーヴメントが話題を呼び新聞取材を受けたことなども報告されました。一方で、次のような中学校での報告もありました。それはAくんという多動性や暴言のきつい生徒に対して、どのように関係をつくっていったかという報告でした。授業プリントなどもぎっしり詰まった資料でしたが、報告はAくんとのやりとりが中心になりました。「立ち歩きは3回まで」という約束をしたところ2回で我慢したAくんを褒めてあげたことや、テスト前「Aくんと一緒に勉強を頑張る会」を企画したにも関わらず、Aくんにすっぽかされてしまったことなどが報告されました。50代半ばのその先生がAくんとの関係づくりに四苦八苦している様子が目に浮かんできました。どんな生徒を前にしてもその子の発達や関係性を分析した上での有効な手立て(方針)を打たなければならない。教科指導の中にもまた生活指導が必要不可欠なのだと報告を聞きながら感じました。

 私の実践報告

 私の実践報告は、「学力保障」というテーマで取り上げていただきました。2年生から3年生にかけての報告です。英語という教科は個人差が大きく、家庭訪問や三者懇談でも「うちの子英語が苦手なんですがどうすればよいですか」とよく聞かれます。そんななか、私は生徒と自主勉強ノートのやり取りをし、低学力生徒をケアすることを小さな方針としています。ノートに授業で使ったプリント(B5)を貼り付けて毎日交換するのです。やり取りする生徒の数が増えてくると空き時間は若干圧迫されますが、「これは半分は学力補充で、もう半分は関係づくりなのだ」と割り切ってやっています。また、クラスで最も課題の大きい生徒との学習会を放課後に週1度行っています。まずはマンツーマンでスタートして、本人の意向を尊重しながら、そこに別の生徒を入れて集団をつくっていきます。課題の大きな生徒は、その突出行動ゆえにクラスの他の生徒の排除の視線を感じ、抑圧を受けて過ごしています。学習会という小集団を育てながらそうではない世界を作り出していくことが目的です。しかし、課題生徒への手厚い指導が露骨すぎると、「なんであの子ばかり!」という周囲の声を生み出し、その声はさらに課題生徒を苦しめます。そこで先に紹介した自主勉強ノートの実践は、そんな不満を和らげ、勉強を頑張ろうとする集団づくりを応援するメッセージとなります。また、長期休暇などにはあえてクラス全体に自主学習会を設定し参加を呼び掛けます。これは通信などで徹底的に情宣し、また事後にも大々的に評価します。理由は自主勉強ノートのときと同じです。このような実践を積み重ねながら、課題生徒への取り組みを主軸として、排除・競争が渦巻く当初の学級を、平和・共生・連帯といったイメージのもとへと高めていきます。

 おわりに

 今、学校現場には「教師としての学び」が不在の状態に近いのではないかと思います。学校内での研修機能は管理と多忙のためもはや麻痺状態です。このような現状において、青年教師はどのような教師人生を生きているのでしょうか。私の職場は半数以上が教師経験10年未満という若い職場です。私よりも年下の先生もたくさんいますが、真面目で、熱心で、授業力も日々磨いている優秀な先生ばかりです。しかし、この「優秀な先生ばかり」に見える職場状況は、それぞれの教師の困り感を露見させてはいけないという青年教師の緊張によるものかもしれません。それに拍車をかけるように、職場に縦の関係がつくられ、教員に対する管理と点検のシステムが構築されています。「教師としての連帯」や「教師としての学び」に出会うことなく、孤軍奮闘している青年教師は少なくないのではないでしょうか。今20代、30代の教師は、自治を知らない世代です。つまり、連帯することや自主的な学びの経験の乏しい世代です。「俺は教師だ!」と自分でネジを巻きながら奮起している青年の教師がいる一方で、「もう駄目だ!ついていけない・・・」と弱音を吐きそうな青年教師がいるのです。それは一人の教師の中に同居している二つの心性かもしれません。学習会や組合への勧誘についてはなかなか青年教師の参加は容易に得られませんが、それでも粘り強く「学び」と「連帯」の世界を彼らに開き続けること。このことが管理と競争主義の職場を変革していくことにも繋がると信じています。

 
   
 
「教育のつどい」開会全体集会対談

松本春野さん(絵本作家)・小森陽一さん(東京大学大学院教授・九条の会事務局長)

「いま、憲法を守り、生かす ー福島、平和、子どもたちに思いを寄せて−」
 
 
小森さん:憲法九条が生まれて以来最も厳しい状況。これをどう押し返していくのか。安倍さんが何者なのか、とらえていく必要がある。自衛隊ができて60年目の今、自国のみならず、他国まで守ることが歴史的使命と考えている。今日は安倍首相のような人間をつくらないためにどうするか。彼にどう立ち向かうか考えていきたい。
 長女を保育園に送り迎えしていたときの、「絵本を読んであげる時間」が忘れられない。子どもたちの絵本を読んで受けるのが何でこんなにうれしいのだろう。読んであげても反応がみんな違う。関わり方の多様さに驚いたことを思い出す。

松本さん:絵本は子どもが出会う最初の文学と言われている。絵本は、大人が子どもが思ったとおりに動かないということに気づく初めてのメディア。同じ絵本を読んでも、大人と子どもは、まったく違うところに興味を持つ。子どもは膝の上に乗って好き勝手に読んでいく。別の観点からの見方に、一つの絵本を通して行き交う。コミュニケートしていく。それが大事。

小森さん:幼児期、悪さをしているとき、それなりのコミュニケートしている。

松本さん:そこで思い通りにいかないことをお互いに受け入れていく。

小森さん:そして他者を発見し受け入れていく。文学とは他者の発見である。
 
  連続学習会「安倍政権の教育改革のゆくえ」(第5回) 
 
「教科書問題と安倍政権の歴史観」


日時 2014年10月25日(土) 13:30〜16:30
会場 京都教育文化センター 101号室
講演 「沖縄から見た教科書問題」
講師 高嶋 伸欣 さん(琉球大学名誉教授)


 八重山問題を中心に教科書問題とはどんな問題なのかを、問題の具体的展開を通じてお話を頂きます。「国民(人々)にとって教科書とは」について、考え合いましょう。

報告 「来年度から使用する小学校教科書(国語・社会)の問題点」
報告者 倉本 頼一さん

報告 「来年の中学校教科書採択に向けて」
報告者 大八木 賢治 さん

参加費 500円 どなたでも参加できます。

共催 京都教育センター 京都教科書連絡会議

連絡先 п浮ax 075−752−1081

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