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  ●京都教育センター通信 
復刊第83号
 (2014.2.10発行) 
   
秘密保護法の問題点と廃止への取り組み

          京都法律事務所     弁護士 小笠原 伸 児
 

1 秘密保護法の問題点

(1)秘密保護法は、防衛、外交、特定有害活動(いわゆるスパイ)の防止、テロリズムの防止という4つの分野の情報について、行政機関の長が特定秘密を指定する、特定秘密を取り扱う公務員などが漏えいしたり、何人であれ、秘密保有者の管理を害するやり方でこれを取得したりした場合には、最高10年の懲役及び1000万円の罰金を科する、漏えいや取得を働きかける共謀・教唆・煽動なども重罰に処する、特定秘密を取り扱うことができる者を「適性評価」により選別された公務員などに限定する、というものです。

(2)特定秘密は、防衛情報に限らず、外交情報や公安警察情報にまで拡大され、しかもその範囲が極めて不明確となっています。原発情報や輸入食品の安全性情報など、含まれるか含まれないかの政府説明が変遷したのはその証左です。だから「何が秘密か、それが秘密」と批判されているのです。

(3)行政機関の長が行う指定などについて、行政に都合のいいように恣意的に運用されるおそれがあります。チェック機能が全くないのです。設置された情報保全諮問会議は運用基準について意見を述べるだけで指定などには関与しませんし、独立公文書管理監や情報保全観察室は内閣府に、保全監視委員会は内閣官房に設置される政府の一組織ですから、第三者機関とはなり得ません。特定秘密は、行政の判断によって永久に秘匿できる仕組みになっており、特定秘密は国民の目に触れさせるなと言わんばかりです。

(4)情報源に対しては厳罰化と適性評価制度による差別選別によって、情報源への接近に対しても同じく厳罰化と取得行為の未遂、共謀、教唆、煽動まで処罰対象を拡大することによって、規制を強化し、秘匿性を高めています。取得行為の規制は、出版報道業務に従事する者も例外ではありません。ここまで規制が強化されると、国民の知る権利やこれに貢献する取材・報道の自由が死滅しかねません。多くのマスコミ関係者やジャーナリストらが抗議の声を挙げているのは当然のことです。行政が情報を私物化する社会、行政が是認する範囲内でのみ知る権利、取材・報道の自由が“保障”される社会は、もはや民主主義社会とは言えません。

(5)適性評価による著しいプライバシー侵害、何が特定秘密かを秘匿にしたままの刑事訴追による適正手続、実質的弁護権侵害など、国民の諸権利を侵害し、また、国会による行政統制監視機能を弱体化させる仕組みなど、問題点は尽きません。極めつきは、この法律が刑罰法規であることから犯罪捜査権限を背景に情報収集・統制機能を強化し、スパイ・テロ防止名目に市民運動を監視し、適性調査権限に基づき公務員や民間適合事業者を統制下におく、公安警察による監視社会が到来するということです。


2 廃止への取り組み

 法律成立後も修正及び廃止を求める声が約75%(共同通信世論調査)に達しており、秘密保護法廃止の一点共闘を急速に強めていくことが求められています。民主党や共産党は通常国会へ廃止法案を提出する予定で、他の野党との共闘が期待されています。日本弁護士連合会は廃止を求める請願署名運動を提起しました。秘密保護法対策弁護団が1000名規模で結成されます。強行採決された12月6日を忘れないとして6の日宣伝行動が始まりました。気骨ある報道機関、ジャーナリストへの支援、ツイッターなどでの情報・運動の発信、新聞社への投稿など、ひとりでもできます。あきらめないこと、できることを継続すること、ネットワーク(仲間)をつくり、大切にすることが、廃止を求めるこれからの取り組みにとって大事です。

 
京都教育センター 公開研究会 講演
発達障害のある子どもの内面をさぐる
−通常学級の集団作りとの関連で−(その3)

                 別府 哲(岐阜大学)

 

U.子ども集団作りと高機能自閉症児の支援

(1)今関和子先生の実践

 「ユウタの恋―ADHD、高機能自閉症が疑われる子どもとの“出会い直し”」(「困った子は困っている子」 大和久勝 編著 クリエイツかもがわ)より

 ユウタは小一・九月の転校生。教室でユウタを子どもたちに紹介しようとした。が、ユウタはすでにうろうろと教室中を自分の興味のあるものに向かって動き回っていた。そこで「ではクイズです。ユウタさんはどこから来たでしょう。」「北海道!」誰かが答えるとユウタはすうっと教室の前に戻ってきて、人差し指を出して「ブブー、違いますね」と人慣れした様子で答えた。「ユウタさんどこから来たの」と言うと、「エチオピアです。ええとね、十人しかいなく、それが八人になっちゃって‥」時間がなかったので話を切ったが席に着かせるのに大変エネルギーがかかった。その後、子どもたちが私のところに夏休みの連絡帳を持って並んでいると、ユウタは私のところに連絡帳を突き出した。子どもたちは口々に、「割り込みはいけないんだよ!」と叫ぶ。するとユウタは、「いいんだ、俺が一番だ!」すると一学期のワリコミの大将だった太郎が、苦笑いしながら言った。「俺と同じだ。『ワリコミノジュツ』だ」。太郎の言葉にほっとした様子で子どもたちはどっと笑った。私も「そういえば一学期はワリコミで大騒ぎだったね。ユウタさんもだんだんにおぼえていってもらおうね。」子どもたちもニコニコしながらユウタを見ていたが、ユウタは「それはできない」ときつく言い返した。ほかにも、椅子に座らない。気ままに好きなことだけやる。興味あることだけ喋り出す。順番を守らない/割り込む。気にいらないとすぐにパンチをするなど毎日大変な状況だった。先生はユウタをどう理解し、支援したかと言えば、次の3点になると思います。

@ユウタ個人に則した評価基準をもって関わる。
A目に見えるポジティブな評価(シール)。
しかし、ユウタとみんなとの関係は、願いが対立します。だったら、対立することを事実として認めつつ、一緒に楽しめる、一緒に悔しがる体験をどうにかして作り出せないだろうか。共感経験を意図的に作り出すことはできないだろうかと考え、次の事をしました。
B周りの子に、ユウタの姿を自分の姿と重ね合わせるような語りかけ

 ユウタはおしゃまなユリカの隣の席になった。1学期のユリカは「いや、絶対いや」と言い出したら石のようにかたくなだった。気に入らないと「みんなウルサイ!ウェーン!」ととてつもない声で泣いていた。今もとても手がかかる。ユウタはそのユリカを気に入ったらしい。二人は引きあうものがあるようだ。ユウタが「いやだ、いやだ、もう許さない」と騒ぎ出したら、私はユリカに言った。「ねえユリカさん、誰かに似てない?」ユリカは照れたように、おしゃまに口に手を当てて笑った。子どもたちも笑い出した。ユウタが転校してきて私は、一学期のころの子どもたちのことを話すことが増えた。一学期の武勇伝が昔話のように語られ、盛り上がった。授業は成り立たないし毎日大騒ぎで深刻なのに、そんな話になると子どもたちも私も愉快な気分になった。

 子どもたちは、ユウタを通して、一人ひとりの成長を認めることになり、認められる喜びは他者を見つめる余裕に繋がっていきます。ユウタを異質な他者として排除するのではなく、確かにユウタ君は変わっている、変わっているけど自分も同じようなことがあるなと感じます。強制的にではなく、自発的、納得に基づいた共感体験をしていきます。このようにユウタの世界を周りが共感することをいっぱい増やしていく。ユウタは共感されてうれしかっただけではなく、共感されたら答えたくなります。

 ユウタは、まず先生に気持ちを寄せます。頑張ったときのシールから、帰りの会で毎日「先生に質問があります。僕は今日、かしこくなりましたか?」と聞くようになった。その後ユウタが集団の一員として成長するのは、少し時間がかかりました。3ヶ月後、クラスの仲間に気持ちを寄せるようになります。一月のカルタ取り。勝負ですから、「1番大好き」の彼にはとっても耐えられない行事。案の定、練習を1回やったら、カードの取りあい。「バカやろう!許さないぞ!」と叫ぶ。どんどん興奮して班の子を叩きだす。最後はカードを破って終わりました。班長を集めてカルタ大会のルールを相談。班長たちは「読んでいるときは手はひざ/自分が取れないからって、人をぶったり、けったりしない/先生に三回まではいいけど四回注意されたら、チャンピオンになれない」など、7つの約束を決めました。カルタ大会当日、先生は「今回はユウタがルールを守れなくても、仕方ない。たいへんな1日になりそう」と思っていた。ところが、試合の途中「先生、まだ三回注意されてないよね」「もちろん、きょうはユウタさんルールを守っていてえらい!」一回戦はユウタの班が一位。しかし二回戦は全く歯がたたない。「ああ、とれない、負ける」と言いながらもユウタは必至で自分を抑えていた。残りの三枚になったとき、いじけてテレビの後ろに隠れた。次の授業が始まってもユウタはテレビの後ろにいた。子どもたちは「ユウタさん」と声をかけた。私は「ユウタさんは、一生懸命ルールを守って頑張ったのに負けたから悔しいんだと思うよ。しばらくそっとしておいてあげて」と言った。その言葉と同時に泣き始めたユウタの声は大きくなった。泣き声はいつもの怒った声ではなく、「エーンエーン」という可愛い泣き声だった。「昨日のユウタさんの泣き声は怒っていたけど、きょうは違うの、わかる?自分が一生懸命やったけど勝てなかったことが悔しいんだろうね。みんながユウタさんのわがままを許さなかったこともうれしかったよ。ユウタさんもクラスの仲間だもんね。先生は今日とっても嬉しかったよ。ユウタさん、かしこくなったねえ。」ユウタは三十分ほど私に抱きついて泣いていた。ユリカがユウタのそばにきて、「ユウタさんえらかったね。おりこうになったね」と何度もいい、ユウタの頭をなで始めた。ユウタの回りに子どもたちが集まって頭をなで始めた。ユウタはされるがままになっていた。気を取り直したユウタは私のひざから降りると、ユリカに言った。「ユリカちゃん、おんぶしてあげる」ユリカはうれしそうに「アリガト!」ユウタはユリカをおんぶして教室中を歩き回った。みんなもニコニコしながらそれを見ていた。ユウタとみんなの距離が近くなったことを感じた。


異質共同の集団作り

 現在、発達障害を含んだ集団作りというとき、同化排除の集団作りが良くされます。発達障害の子が、クラスにいると、どの場面は一緒にやれるか、どうやったら一緒に活動できるかを考えます。たとえば運動会でこの競技は好きそうだし、彼の好きな解決ゾロリの音楽を入れてやったらどうか、など工夫したりします。みんながやる運動会にその子が当日頑張れたらいい。その子はこの競技だけでもいいだよ。でもみんなと一緒に、やろう。みんなが基準でみんなと一緒にやろう。ところが当日、調子が悪くて、その競技の時にパニックになって参加できない。そうなると、クラスの子は残念だったなあという子もいますが、中には怒る子もいます。「こんなに先生も自分たちも工夫したのに何で彼は参加しないの。」そして180°転換して、「なんであの子このクラスにいるの。あの子障害があるんでしょ。別のクラスにいったら。」となります。みんなと同じ。同化ばかり強化すると、それは容易に排除の理論に転化してしまいます。今関先生の実践は、異質共同の集団作りです。異質なことを前提として認め合う、異質なことをなくしたり、みんなに合わせたりではなくて、認めながら共同することを追求します。障害を持っているこのいろんな感じ方や特徴や苦しさ、変わった喜びを、障害を持たない子はどうやって自分から感じようとするのか共感的に理解しようするのか、自然にはできませんから、ここに大人の役割があるのです。今関先生は、語りかけを通して、同じ部分あるな、それが十分あると、お互い一緒にいることがいやじゃない。楽しい。楽しくなったら、みんなもやっている事、僕も参加したい。


さいごに

 子どもに共感的自己肯定感を育むためにこそ、大人も自己肯定感を実感できる仲間と生活を作ることが、今こそ大事になっていると思います。子どもはいくつもの顔を持っています。朝の顔、夜の顔、大人に見せる顔、仲間に見せる顔いろんな顔を使い分けています。大人は、自己肯定感があるときは、心に余裕があるので、子どもと距離をもって接することができます。子どもの問題点を見つけた時も距離を置いてみているので、別の顔も見つけて、こいつも憎めん奴やと思える。ところが自分に自信がない時、それでも真面目に頑張ろうとすると、子どもとの距離が保てないので、なんでこうふうになっちゃうの、判らなさをどんどん子どもたちに迫ってしまうことが少なくないです。そう言う時、比較的第3者は分かります。はたから見ていて、「もうちょっと彼のいいことろを見てあげたら」と言われた時、先生ありがとうといえる人はまだ余裕があります。指摘されると、あんたなんかに言われとうないわと思う人が、本当はSOSなんです。そういう人の事を思うと、大事なことは、同僚性だと思っています。何かというと、そういう人が思いのたけを語れる、愚痴です。愚痴を十二分に語れるような仲間を作る。言いたいことがあったらとりあえず聞いてくれる、つらいなあ、大変なことがあるね、それを聞いてもらった時に、弱い自分を受け止めてもらった事が、こんな自分でもいいのかな、もう一度向き合えるきっかけになるのではないかと思います。

 他者とつながり他者を信頼できて初めて、自分とつながり自分を信頼できます。そういう大人の仲間づくりが、非常に厳しい社会だからこそ弱まっています。それと合わせて、発達障害の子の支援を考える。そんな課題を課せられているのではないでしょうか。(完)



   
 
子どもの未来をみんなでひらく教育のつどい2013
第63次京都教育研究集会 全体会に250人

平野啓一郎さんの講演に共感!
「他者との関係性の中で、自分らしさをつくっていく」


 京都教育研究集会は、1月25日に教文センターで全体会と今年度初めておこなわれた2つのフォーラムが、26日に分科会が教文とかもがわで開催されました。

 全体会は、川口真由美さんによる沖縄の歌を手話つきで会場に響き渡る歌声で始まりました。
記念講演は、作家平野啓一郎さんが「未来のかたちを探る〜憲法と国家、社会、私たち一人一人〜」と題して語られました。講演の一部を紹介します。

 未来の予測不可能性が一番大きな問題だと思っている。たった10年のことも予測できない。労働形態は変わる。エネルギー問題もそうだ。出版業界にいるが、電子書籍の出現や、誰もが出版できる状況を予測する人はいなかった。社員に一定の仕事は認めるが、他の仕事も認める会社が増えてきている。今日の講演もそうだが、文章を書くと、そのような広がりがある。その中で新しい人との出会いがある。人間は一つの職業を通じて自己実現していくのではなく、生きがいや収入源を複数化していくことが必要ではないか。人間は「分けられない」のではなく「分けられる」ということだ。表面的な仮面を、全部本当の自分だと考えるということだ。他者との関係性の中で変わっていく。本当の自分は何かという問題になる。他者との関係性の中で、自分らしさをつくっていくのではないか。

〈感想〉

○生きていくということは他者を受け入れ、他者に学んでいくことであり、他者に働きかけていくことだと再認識しました。
○「短い人生の中で解決できないことがあって当然」という言葉に、涙が出そうになりました。とてもよかったです。

 全体会の後おこなわれた2つのフォーラムには、あわせて90人の人が参加し、積極的な意見交流がおこなわれました。

 「京都の教育」どうなってんの・・・!?では始めに、京教組作成「京都の教育」リーフレットの説明と、植田健男さんから「安倍政権の教育改革のねらいは」を問題提起し、会場から学力テスト、高校入試制度、教科書検定問題など発言がありました。「いじめ、ネット社会、子どもの貧困・虐待・・・子どもを取り巻く環境と子育て」では、春日井敏之さんが問題提起し、会場からいじめ、スマホの問題や、子どもの家庭や学校での様子が語られ交流しました。

 2日目の分科会は、275人の参加で100本近くのレポートが報告され、活発な意見交換がされました。青年教職員のレポートや参加も見られました。教育センターから、1日目は24人、2日目の分科会には35人が共同研究者、世話人として参加しました。



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