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●京都教育センター通信 
復刊第47号
 (2010.9.10発行)

あっという間の50年!
〜教育センター設立(1960年)のころ〜

                     山本 正行(元京教組教文部長)



  私は、「池田・ロバートソン会談」以降、急速に強まった"偏向教育"のレッテルを貼られた旭丘中学校で1954年に、不当な懲戒免職処分を受けた3人の一人です。生徒・父母・教職員が一体となって平和教育の学習を熱心にやったというのが"偏向"の理由です。私たちは、京教組等の支援のもとに処分取り消しの訴訟を行い二〇年間の裁判を闘いましたが、国家権力に屈服した最高裁の壁を突破できず処分に服することを余儀なくされました(一審・二審は勝利したが、最高裁で差し戻し、再度の高裁で敗訴、再上告棄却)。一人は訴訟途上で故人となりましたが、私ともう一人は京教組執行部の役員として翌55年から選出されました。

  京都教育センターは今から50年前の、1960年7月の京教組定期大会で設立が決定され、9月24日の第一回評議員会で正式に立ち上げられました。[代表・細野武男(立命)、事務局長・奥田修三(立命)、研究委員長・安永武人(同志社)]の陣容で、当時私はまだ20代でしたが京教組の教文部長として設立の実務的責任者として奔走しました。51年に日教組は日光で第一回教研集会を開催しますが、当時は「教え子をふたたび戦場に送るな!」のもとに平和教育は熱心でしたが教科教育の系統性については遅れた状況にありました。京教組はレッドパージがあっても原則的な闘いを堅持しましたが、民主教育を教室の中だけでなく地域まで広げていくことに苦労がありました。そこで、「京都憲法擁護教授懇談会」と言う名の先生方に学校現場に入ってもらうようにはたらきかけました。関谷さんと私が京都の各大学をかけずり回って、教育センターの「共同研究者」になって頂く依頼をしましたが飛び込みで苦闘しました。細野さんや安永さんには「わしが頼んでやる」と部屋を回って仲介して頂きました。

  当時、研究所という名称が多くあり(今もそうですが)、センターという名は珍しかった。これは細野先生が「研究所といえば"国定指定"という固いイメージがあり、現場の教育運動の発展を泥臭い実践から始めよう。教育の運動と実践を結合するにはセンターが良い」とおっしゃったのを覚えています。当時の日教組などは研究者を講師団と呼んでいましたが、細野さんは共同研究者だと言われて、その後広まりました。当時、センターに参加されたのは教育学の専門家は少なく、経済や法学を専門にされている方が幅広く賛同されたのがその後の京都の教育運動を発展させるうえで大きな意味があったと思います。京都大学の教育学部の先生方がたくさん協力頂いたのは60年代の後半からでして、その頃からは大学院生のほとんどがゼミ担当の教授から「教育センターに行って勉強してこい」と言われて研究会に顔を出した方が多くいて、彼らは後に全国や各方面に散らばり、中には民主教育とはやや遊離した教育委員会寄りのところに身を置いている方もおられるようです。センター設立の手始めの仕事として、58年の勤評闘争や指導要領の改訂を意識して各教科の「センター・シリーズ」を発行しました。

  61年まで京教組にいましたがその後は市教組の執行部にはいり、センターとは少し距離を置くようになりましたが、土曜日の会議のあとなどよく誘われて、「加茂八」などに同行しましたが、そこでの教育・政治議論はとても愉快でした。ケンケンがくがくの議論の末での細野先生の口癖は「君、そういうけどね、今の世の中、なるようにしかならんのだよ」で、一同鉾を収めたものです。

  往年のメンバーは、事務局長として奮闘された大麻さんも含めてほとんどの方が故人となられ、当時を知る人がほとんどいなくなり寂しい限りです。私は、市教組役員を定年で終えたあとも、退職教職員の会や子どもを守る会などにかかわり、今も「9条の会」などで血を騒がせていますが、センター設立50年の節目に「生き証人」として語れることに自分史をみる思いがしています。




人間って大したもんや
―市民合唱団 Peace Call の活動から
   (全国教研「文化」レポート)

           新庄 佑三(乙訓退職教職員の会・府立学校退職教職員の会)



  過労自殺寸前に52歳で京都府立高校を退職。時間講師をしながら大阪私学教組の役員をしていた2004年、市民合唱団Peace Callを結成しました。うたごえで、子どもと教育・人間の尊厳を守るたたかいを組織しています。この6年間「人間って大したもんやなぁ」と思うことの連続でした。注:詳しくは今年の「全国教育のつどい」レポートの元となったパンフレットに。


サラ金宣伝隊が差し入れ

 大阪市教委が「こころと命の学校」市立貝塚養護学校の廃校を突然発表したのは、2006年末。Peace Callは、50回ほどの街頭宣伝・署名行動のほぼ全部に参加しました。

 宣伝場所の多くは歓楽街の難波高島屋前。「10人で1時間に10筆」と言われてきた場所です。

 08年9月27日、二人連れの男性が立ち止まり「署名用紙はないの?」と尋ねました。「新たな情勢に合わせ用紙を作成中です」と言うとガッカリした様子で去りました。

 女性が近づき「私も教師です。応援します」と2千円を預けました。

 サラ金のアコムのティッシュを配る若い女性たちが団員の紙袋にどっさりティッシュを入れてくれました。責任者の男性は「税金の使い道が間違ってますね」と言いました。

 「学校は心のふるさと」(創作曲)などを歌い始めると、目を上げ、立ち止まり、横断幕を見、チラシを受け取る数が一気に増えます。

 署名板の前に何度も行列が出来ました。"モノの分かった"年配者だけではありません。金髪・緑髪・紫髪や超ミニの高校生・若者が行列して署名するのです。


モノとして扱われてきた若者たち

 病弱児を寄宿舎で育む学校をつぶし、肢体不自由児の学校へ転校させるのは、産婦人科病院に歯科の患者を移すようなものです。「心と命を持つ人間を、モノとして別の入れ物に移すような行為だ」と思ったとき、突然、長い間の疑問が解けた気がしました。

 貝塚養護学校では、子どもが「人として」大切にされています。それが伝わったとき、若者たちは強い共感を覚え、希望を見いだすのではないでしょうか。若者たちの多くは、ずっと「モノとして」扱われてきたから。在校中は学校のランクや点数で値をつけられ、卒業後は、「非正規」でも正社員でも、「使い捨て部品」のような扱いを受けています。だから、「人として大切にする」学校が現実にありその学校がつぶされようとしていると知ったとき、遊びや用事に行く大事な時間を割いてでも署名をするのだと思います。


若者が訴えにハッと見る

 マイクでこんな訴えをする時、若者がハッとなって見ます。
A 人が信じられなくなった時、生きる意欲を失いそうになるのは大人でも子どもでも同じです。
B イジメで死にたいと思っていた子が、貝塚養護学校で「大人って、友だちって信じられる」と判ったとき、生きる元気、学ぶ意欲を取り戻し、巣立っていくのです。
C 貝塚養護学校は「早く明日にならないか、先生や友だちに会える」と思える学校です。


うたごえでビラ受け取り10倍

 今年8月3日。朝8時からの、南海堺東駅前の飛翔館高校裁判宣伝。原告の吉野、山本さんをはじめ11人が訴えました。「1時間で300枚のチラシが受け取られた」と聞き、「ここで何度も宣伝しているが、通常は30〜50枚だ。うたごえがあると10倍も違うね」と、初芝高校分会の松本さん。

 元初芝争議団員川アさんは音楽教師でした。「無表情にうつむき改札口に来る人たちが、歌声に顔を上げ、生きた目になる。機械的な音声でない、人間の温かい肉声の歌の力ではないか」

Peace Callカンタンメモ

1 団員は大阪を中心に近畿一円。平均年齢50代半ば。教育分野の団員、現役でない団員はともに40%台。
2 規約も団費制もなし。
3 歌いたいときに参加できる。
4 ほぼ週に一回ニュース、ほぼ毎日メール速報。  
主な支援行動

<廃校ストップのたたかい>
 大阪市立貝塚養護学校、大阪市立大2部
<解雇・迫害とのたたかい>
 私立大阪初芝学園(07年勝利)、私立産大付属高校(今年6月勝利和解)、私立飛翔館高校(現近大泉州高校)、大阪シンフォニカー(今年8月23日中労委が全面勝利命令書交付)、タイ国際航空


事前の集約を上回る"PC現象"

 いつのころからか"Peace Call現象"という言葉が定着しました。事前の集約数を、当日参加数が上回るのが普通の現象なのです。


寒波の日に予定の二倍

 08年12月27日、寒波襲来。年内最後の貝塚養護学校の署名行動に30数人。Peace Callは予定の倍以上の16人。参加できないはずの武田さんが、姉さんや東京の娘さん親子など6人づれで現れたのにはビックリ。三村・中川さんのギター、上村・武田さんのタンバリンで元気いっぱい歌って訴えました。

 街頭宣伝などの支援行動も演奏回数も、最近いっそう増えました。今年1月から8月20日までの主な行動の回数は次のようになります。

<要請による出演15回>(コンクール参加を除く)。

<街頭宣伝52回>和歌山市、岸和田市、貝塚市、堺東駅、大阪地裁堺支部、淀屋橋、大阪地裁、シンフォニーホール、産大高校付近、大東市、京都・乙訓地域の計11か所。

<裁判傍聴など支援行動17回>(会議・集いを除く)


漢方薬の素「10の大切」

 Peace Callはいざという時に50人ほど集まりますが、普段は25人前後です。これだけのエネルギーが発揮できるのは「10の大切」の力のようです。

1 トップダウンでなくキャッチボール 
2 義務・任務・規則で縛らない 
3 同一行動を求めない 
4 自主性と得意を生かす 
5 自分を語り聴ける場を持つ 
6 生きた人の動きを伝えるニュース・速報を全員に届ける(以下略)

 いわば、「内から力を生み出す漢方薬」のようなものと言えるでしょうか


 今年8月15日の「自分を語り聴く場」=「Peace Callの日」に、4人の新団員が語った内容は、これをことごとく裏付けるものでした。

Kさん「1月3日の争議支援の初詣宣伝に23人も集まりびっくり。組合が動員費を払っても3人か4人が普通だ。強制でなく自主的に自分の判断で動けるからだと思う」

Hさん「指揮のMさんが意見や経験を聴いてくれるなんて!指揮者に対しても意見や感想が言える!うまくない私も大きな声で歌っていいのですね」(彼女は他の合唱団に20年いた)


(詳細は、京都教育センター通信47号をごらんください。)




行事報告
猛暑の和歌山で学んだ「教育のつどい」

(近日掲載)
新刊紹介
教育センター室でも扱っています

『思春期のゆらぎと不登校支援 U子ども・親・教師のつながり方』

 春日井敏之 著    ミネルヴァ書房  2800円+税

 U認め合う居場所とつながりの実感を  思春期・青年期の自己形成と支援のあり方、臨床教育の視点から双方にとっての支援の意味を問う。

『水源の里 綾部で文化を紡ぐ U中学生からの 地・生・輝 づくり』

吉田武彦 著     ウィンかもがわ 1500円+税

 地域の人々が支える学校、地域のにない手が育つ学校づくり。過疎の農山村地域で取り組んだ、未来に生きる豊かな学び。

『京都山科 音羽・大塚・音羽川 二千年の歩み』

       鏡山次郎 著     つむぎ出版 2500円(税込)

 ふるさと山科の二千年/中世の山科七郷と自治の伝統/音羽地域の二千年/幕末の山科史/四ノ宮地域の二千年/山科における戦争の爪痕を訪ねて/四ノ宮におけるまちづくり住民運動 他


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