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京都教育センター地方行政研・京教組合同学習会「格差社会と子ども・教育」より
格差社会の中で広がる生活困窮の実態と課題
報告者 高橋瞬作さん(全京都生活と健康を守る会連合会事務局長)
2006年6月27日(火) 於:京都教育文化センター205号
 
 ここに掲載した記録は、2006年6月27日に開催された京都教育センター地方教育行政研・京教組合同学習会「格差社会と子ども・教育」の中で行われた高橋瞬作さんの報告を、当日の記録にもとづいて京都教育センター事務局の責任でその要旨を編集したものです。文責は、京都教育センター事務局にあります。

低所得者層の暮らし・・・・生活相談活動から見る暮らしの実態

 
各種の滞納により、生活基盤を失う

 生活相談活動を私どもやっている中で、最近の一つの傾向と言うんですか、気になることは、従来だったら私どもに相談にみえる方は、長い間生活困窮にありながら、がんばっておられたけれども、行き詰まってどうにもならないということで、おみえになることが多かったんですけれども、最近はそうではなくて、普通に生活していた方、この間まではある意味ちょっとはゆとりのある生活ができていたのに「私の人生、なんでこんなになってしまったんだろう」という、本人も戸惑っているような、生活設計、人生設計が狂うと言いますか、「こんなはずじゃなかった」という戸惑いを伴って相談に来られる、こういうことが感じられます。

(いくつかの典型例の紹介・・・・略)








報告者 高橋瞬作さん(全京都生活と健康を守る会連合会事務局長)








貧困を見えにくくする多重債務

 今、相談の中で、具体的に現れてくるのは各種の滞納問題ですね。生活に必要な電気、ガス、水道。この間も五〇代の母親と三〇代の息子と、少し発達の障害があって、母親が障害年金をもらっているんですけれども、電気を止められましてね、ガスも水道ももうすぐ止まるということで、ガスと水道は、まあ、話し合った結果、元に戻したんですけれども、関西電力だけはガンとしてね、「お金払うまでは電気は通じない」と言って、先日、話し合いに行ってきて、なんとか救われはしたんですけれども、生活に必要なそういった電気、ガス、水道。それが供給停止ということで、追われて生活が破綻するというようなケースです。

 やっぱり一番深刻なのは家賃の滞納でね、住まいを追われる。だいたいこの家賃滞納で立ち退きという相談は、せっぱつまって追いつめられて駆け込んでくる方が多いですからね。だいたいその「立ち退きの期日はいつですか」と聞くと「明日なんです」とかね、「一ヶ月後です」とか、せっぱ詰まった相談です。「住まい」というのは生活の基盤、すべての生活の基盤ですからね。その住まいが不安定になるというのは、人間にものすごく大きいなダメージを与えます。ほとんどの方が住まいの不安で漏らすのは「夜、寝られなくなる」「ごはんがのどを通らなくなる」と言うんですね。だいぶ以前ですけれども、「地上げ屋」が横行した時期がありますが、そのころの相談の方は共通して「寝られなくなる」「食事がのどを通らなくなる」というものでした。それは精神的なダメージが非常に大きいと言うことです。「住まい」というものが、いかに人間の暮らしに大事かという現れだと思うのですが、こういうものがいま危なくなっています。ですから、住宅ローンの破綻とか、家賃の滞納ですね、これに悩んでいる方が多くおられます。全国借家人組合がね、「どうしてホームレスになってしまったのか」という調査をしたところ、八割ぐらいが家賃滞納と答えています。ですから、こうした支払いの滞りがローンでも、生活の基盤を失ってしまうということになってしまうわけです。

 それから、もう一つ深刻なのは、国保料です。国民健康保険料滞納で、全国四百何十万人でしたか、厚生労働省なんかに行くと「払わん奴が悪いんだ。まじめに払っている者がいるのに、一方で払わん奴がいるのはけしからん」みたいな話になるんですけれども、やはり原因は高すぎて、所得が下がってきているにもかかわらず、高額の国保料が設定されるところに一番の原因があるんですけれども、これも小泉改革にによってもたらされた貧困なんですが、これは深刻で、医療を受ける権利を奪ってしまいますね、「保険証の取り上げ」という形で。ですから、各種の滞納と同じように、電気やガス、水道が止められる。そして家賃の滞納、住まいを追われるというところに行くわけで、「滞納」というものが生活に与える影響というのはきわめて大きいものがあります。

 ついでに申し上げておきますと、「国民健康保険料が払えない」ということが社会問題になったのは、そもそも今から十七〜八年前ですか、一九八六年に、それまで国が出していた国民健康保険の国庫負担を国が削ったんですね。その結果、削られてから3年間の間に全国の市町村の約九三%の自治体が、国保料の大幅値上げを行ったんです。平均値上げ率が4割です。ここから、「払えない」ということが社会問題になります。やはり「国庫負担の削減」ということに契機があることが間違いないわけで、決して「払わん奴が悪い」という問題ではないんです。ですから、「自己責任」とか「自助努力」なんて言いますけれども、やはり政治というものがもたらした貧困だと思います。

 それから、あと今日のテーマに関わっては、学校の納付金の問題です。新聞なんかにも、どこの町でしたか、「給食費を滞納したら、その時に給食はあたらへん」というひどいことを言っている所がありましたけれども、やはり子どもにそのようなしわ寄せがくるといことは、子どもは傷つきやすいですから、大変大きな影響を与えます。

 学校納付金が納められなくて、そのことが学校現場のいろいろな配慮によって守られていればいいんだけれども、中にはストレートに親と同じようなプレッシャーを子どもにもかけるということが一番心配されるわけです。学校では、先生方はいろいろな対応に苦慮しながら悩んでおられるのではないかと思います。税金などのように「滞納一掃」などの徴収作戦をやるわけにもいかない分野なんですからね。なかなな悩ましい所だろうと思います。

 そこで、今こうした広がっている貧困、あるいは人生で思いもかけないような自体が案外、ストレートに表面化してこないその理由は「多重債務」です。借金生活で、借金のやりくりをしているんだけれども、借金をしながら返済して、また借金をして返済をしてと、利子はどんどんふくらんでいく。しかし表面上は何かまともに生活できているようなね、表面づらはそういうように見えるわけです。なかなか生活困窮が表面に出てこない。そういう意味でサラ金とか高利貸しというのは、非常に社会的に悪い役割を果たしていると思います。アイフルだけの問題ではなくて、すべての高利貸しが社会的な貧困をさらに深化させていると言えます。あるいは、直接的に目に見えにくくするという、大変悪い役割を果たしています。金利の問題は最近国会でも取り上げられて、いわゆるグレーゾーンというものが是正されることが出てきていますから、やはりこの多重債務の問題、高利貸しの問題が社会的に糾弾されて、今是正の流れの中にあるとはいえ、やはり我々生活の中にかなり浸透しています。

 先日、丹後にある生健会の会合に行ったところ、生活相談を一年間ずっと並べてみたら、八〇%が多重債務だった。あとの三割の中に、税金問題とか生活問題とかがありますね。かなり地域差はあるんでしょうけれども、多重債務ということで、貧困の一つの形として深刻に受け止めています。

 

暮らしを支える諸制度の「改悪」

 冒頭申し上げたように「自分の人生の中で、こんなことが起こるんだろうか」と思っているのがひとつの特徴といいましたが、これをもたらしているものは何かと考えた時に、これは、国民の暮らしをきちんと支えているはずの社会保障の諸制度がね、非常に最近「脆弱」になってきている、このことが大きな原因ではないかと。やはり日本の社会の仕組みからすれば、収入が減ったり、給料が下がったりというのは多少はあると思うんですが、その時に、生活困窮に陥らない、貧困に陥らないためにこの国にはさまざまな社会保障、生活保障の制度があるはずなんですね。ここが脆弱になってきているから、ちょっとした不都合、ちょっとした減収で、たちまち生活困窮になってしまうということをもたらしているんだと思います。

 
公営住宅「改悪」

 
 いくつかそうした例をあげますと、ひとつは「住まい」に関わっては、公営住宅のところで大きな制度改悪がされています。たとえば、今公営住宅に入る時には、契約名義人というのがいるわけですね。だいたいはその世帯のご主人が名義人を書くわけです。今であればその契約名義人が死亡した時に、いっしょに暮らしている家族がね、承継手続きという、ある意味簡単な手続きをすれば、そこに住み続けることができるわけです。だけど、昨年国土交通省が出した指針ではね、「承継ができるのは原則、配偶者に限る」と、こういうのを出したわけです。親子はあかん、親が死んだら子どもは出て行かなければならないということですね。

 そうすると、この問題なんかで私たちがいろいろ学習会なんかをやっていたりして、私自身も「ああ、公営住宅にはこういう世帯が多いのかな」と思ったのは、八〇代ぐらいの母親と五〇代ぐらいの息子が二人で暮らしているという例が、けっこうあるんですね。この息子さんは、何らかの病気を抱えている。精神的な弱点も抱えている。働きに出られない、あるいは出てもパート程度という、そんな中で苦しいながら二人で生活している世帯があるんです。こういう世帯がけっこうあるということがわかったんですけれども、そんなところで、たとえば母親が名義人であれば、母親が死んだらその息子はどこに行くんだろうということになるんです。その「原則、配偶者に限る」という、まあ障害者とか高齢者とかは特例を認めるということなんですけれども、これは行政の手によって、政治の手によって、力によって野宿生活、ホームレスを作り出しているようなものなんです。


 それからもう一つは、公営住宅というのは入居には一定の収入基準というのがあるんですね。これも下回る人しか当初入居できない訳ですけれども、入居してから収入が上がるという人も当然あるわけなんです。そうすると、その人は「収入超過者」と呼ばれるんですね。こういう人には、今までは「割り増し(家賃)」だと言うんですね。従来の、本来の所得から引き出した家賃に一定の割合をかけてね、「割り増し」がかけられたわけです。ところが、今度からはどうするかと言うと、三年かけてね、「近傍同種の住宅の家賃と同額にする」というわけです。

 「近傍同種の住宅の家賃」というのは何なんだろうと言うと、「近く傍(かたわら)」ですよね「近傍」というのは。「同種」、同じような種類、同じような大きさの民間の賃貸マンションですね。だから、ある公営住宅、市営住宅、」府営住宅があるとして、その近所に民間の賃貸マンションで、部屋の面積もだいたい同じくらいの築年数もだいたい同じくらいのものがあったとすると、そこの家賃と同じ家賃をもらいまっせと、そういうことなんです。そうすると、今までは公営住宅家賃というのは社会の中で、その地域の民間住宅家賃をある程度押さえる「重し」の役目をしていたわけですね。民間住宅の家賃が暴騰しないように、社会的役割を持っているわけです。ところが公営住宅が「民間住宅の家賃に合わせますよ」ということになると、今までの「割り増し」という考え方から、根本的にね、公営住宅の家賃が変わってくるということになります。そうなると収入超過者は、公営住宅に居る意味がないんです。で、出て行かざるを得ない。ということで、ここでもやはりね、公営住宅から見た中間所得層は出て行ってくれと、本当は中間所得層ではなくて低所得層なんですが、公営住宅から見た中間所得層が公営住宅から居なくなるという。そうすると公営住宅は、ごくごく貧困層の住宅になるという「限定されたエリア」になってしまうわけです。そんな不都合もされようとしています。ですから、公営住宅がより狭められたものになって、社会保障のひとつの制度が崩されていくわけです。

 

医療・介護・国保などの負担増、制度後退

 
 それから、医療、介護、国保などの負担増ですね。連日、今、新聞などで報道されているのですが、医療費が払えない、医者に行けない、必要な介護が受けられないという、新聞にも取り上げられないいろんな話がいっぱいあります。

庶民増税とその波及

 
 それから、「庶民増税」ですよね。この間、6月に入ってから区役所を覗きに行った方は、今でもそうですが、わかると思うのですが、もうロビーにパイプイスがいっぱい並んでいますわ。で、職員さんは汗をかきながら番号札を配っています。住民税の相談の方、介護保険料の方、国民保険の方、順番に番号札を配ってね、一日に何百人もの人が区役所に行っています。何かというと、住民税が上がった、介護保険料が上がった、国保料が上がった、「どうしてくれんにゃ、払えへんぞ」と、苦情、怒り、それから不安。こういうものがね、いっぱい今区役所に持ち込まれています。区役所のロビー、大変ですわ。で、臨時の職員さん入れてね、交通整理をしながら、いま相談に乗っている事態ですね。

 税金の「増税」というのは、他に波及効果が大きいんです。同じ年金収入しかないのに、みせかけの所得だけが、ボーンとふくらんでね。税金がふくらんで、そのことによって他の健康保険料や介護保険料にずっと連動して波及していく。こういうことですから、何でもかんでも上がってしまう。負担増、全面的な負担増です。これに結びついてきているんです。これが今多くの人の怒りの原因になってきています。

 


生活保護の基準切り下げと締め付けの強化・・・・全国が「北九州市」に

 
 それから「最後の砦」なんて言われている生活保護法がね、メタメタな攻撃を受けている。おとつい(六月二五日)の朝日新聞に「生活保護費五〇〇億円削減」という記事がありました。それから法令で「持ち家の人は保護を受けさせない」とか、そういうのが出ていました。おそらく生活保護法改悪というのは、これにとどまらず、今後もっと進んでいくと思うんですね。二〇〇三年から「生活保護の基準」という土台の部分が、ずっと毎年毎年削られてきているんです。生活保護基準がさらに削られるということは、単に「今保護を受けている人が困るなあ」と言う問題にとどまらないんです。基準が下がるということは、今生活保護を受けている人が、保護を受けられたはずの人が、保護を受けられなくなるということなんです。同じような生活困窮度でありながら、基準が下がれば、保護を受けられない人が出てくるということです。

 これと同時に、もう一つ、生活保護、あるいは生活保護基準というものが持っている社会的な役割、歴史的な役割、果たしてきた役割というものに着目すると、事態はもっと深刻なんですね。というのは、たとえばね、今、厚生労働省の中の「労働政策審議会」の「最低賃金部会」という所で、「最低賃金、これでいいのか」という議論がされていますよね。ここの中立の委員でしたかな、こんな意見が出ているんです。たとえば京都府の一時間分を見ると、京都府の最賃は今六八二円ですね。そうすると、一年間働いて得られる収入が生活保護基準より下だという、現象が大都市なんかでは生じるんですね。すなわち、一年間額に汗して働いて、生活保護基準より低いんです。「これはちょっと具合悪いんちゃうか」という議論が今出ているんです。これがストレートに「だったら、最低賃金を上げたらいい」というふうになればいいんだけれども、ことはそう行かないですね。

 それから今、厚生労働省が出している方針の大原則に、国民年金、老齢基礎年金の額にまで、生活保護基準をここまで下げてこようと言う、こういうことが議論され始めています。今、老齢基礎年金というのは四〇年間丸々かけたって、六万六千二百八円が月額ですよね。これでは一人の人間が生きてはいけないわけですよね。年金というのは本来退職してから生活するためのお金が「年金」なわけなんですよね。孫の小遣いじゃないわけですよね。六万六千円で一人の人間が一月暮らしていけないんです。ここを引き上げなければならないのに、今、政府が考えているのは、「生活保護基準が、長年かけてきた年金よりも高いのはおかしい」ということで、「だから生活保護基準をそこまで下げましょう」ということを、今、真剣に検討を始めているんです。それから、政府税制調査会の中では、「生活保護費に所得税をかけよう」というような発言が今出てきています。それから、「生活保護世帯から、お医者さんの窓口で、医療費を取るようにしようではないか」という、こういうような議論も出てきていますね。

 すなわち、生活保護基準が、社会的に果たしている役割をね、生活困窮者の生活を保障するということだけではなくて、この国ではね、国民の暮らしの基本に関わる最低の賃金とか年金の支給額であるとか、所得税の課税最低限であるとか、医療費の負担、介護の負担、そうした国民生活の基本に関わるものと、常に生活保護基準が連動しているということなんですね。だから、そういう賃金の話や、年金の話や、税金の話をするときに、いつも生活保護基準が引き合いに出されるんです。引き合いに出されて、保護基準と比べてどうか、「上げにゃならん、下げにゃならん」という議論がね、いっぱいされるんです。してみると、こういう連動が良いか悪いかは別ですよ、社会保障制度のあり方として良いか悪いかは別にして、現実にこの国においては生活保護基準が、いわば国民生活の最低保障の機能を社会的に果たしている。これがこの国の現実なわけです。

 従って生活保護基準が下がると言うことは、今後国民生活全体に連動して、国民生活全体の低下が合理化されていくという、年金給付を下げるけれども、保護基準を下げるからいいやろうと。所得税の課税最低基準を下げるけれども、保護世帯からも所得税を取るからいいやろうということで国民を納得させていく。生活全体をぐっと下げていく。こういう関係に生活保護基準の切り下げというのはあるんです。


 同時に今、生活保護をできるだけ「受けにくく」する。大きな削減ですから、基準を下げるだけでは追いつかない。これはやはり、保護を受ける人の人数を減らさなあかんと、「締め付け行政」といって「厳しくしよう」というわけです。三月に厚生労働省が「適正化の手引き」というのを出したんです。「警察との連携を強化する」とか、「刑事告発をどんどんやっていく」とか、なんか保護を受けている人は、全部ウソをついて不正受給しているかのように描いて、そして住民の間に分断をもたらして、生活保護を受ける人をどんどん減らしていこうとしています。こういう作戦が、現在着々と進められています。

 あの、北九州でね、餓死事件がありましたが、福祉事務所に二回も足を運んだけれども、断られてね、保護が受けられなかった。(事件の報道があって)あとから、どんどんどんどん北九州では餓死事件がもっといっぱいあると連日報道がされています。北九州市というのは政府、厚生労働省が「モデル自治体」としてね、直接厚生労働省から乗り込んでいって、高かった保護率を下げるためにあらゆることをやってきたんですね。いわば、この蓄積の結果が、今度の厚生労働省の「適正化の手引き」というものに反映したんです。従って、この締め付け行政と「適正化」が、全国に及ぶと、全国の町が北九州市のようになる、こういうことになります。

 今紹介しましたように、本来、生活困窮に陥ったときに、それをしっかりと支え、そして社会生活を営めるように保障するはずの社会保障の諸制度が、どんどんどんどん脆弱になってきている。そのことが思わぬ貧困にバーンと落ち込んでしまって、こういう現象の原因になってしまっているのではないかなと思います。



貧困と子どもたちの生活、教育


 
生活困窮者の孤立

 
 子どもとの関係でこの貧困を見たときに、今私たちが体験して、心を悩ましているのは、「孤立」ですね。生活困窮者が地域の中で孤立をするということですね。地域の中で孤立をしていって、そして、社会の中で自分自身の存在意義が認められない、社会の中で自分自身の値打ちを確認できない。世の中で、どんどんどんどん孤立していく。その孤立が結局何につながるかというと、餓死ですね。それからさまざまな犯罪につながっていくわけですね。秋田県で子どもが殺された事件で、容疑者が逮捕されましたけれども、いろいろな報道を見る限りでは、その地域の中で孤立をしていた。あるいは別の面で見ると、何か地域を「憎むべきもの」として、見ながら生活をしていたような形跡があります。生健会では「もし彼女が私どもの仲間、会員だった場合は、犯罪を防げただろうか」と、(残念な思いをしながら、そういう人を二度と出さないように)議論しているわけです。

 人間というのは地域の中で、人とのいろいろなつながりの中で、やっぱり人としての値打ち、価値、それを自分自身が自覚しながら、生きていればこそ、やはり人間として前向きに意欲的に生きていけるんだろうと思います。ここの所がやはり貧困によって疎外されて、社会的に孤立していく。そんな中で社会との断絶が起きて、問題を起こしてしまう、ということにつながっているんですね。

 


貧困の世代間引き継ぎ、階層の固定化

 
 このことが、その社会の中の子どもに与える影響というものは、非常に大きなものがあると思います。今、貧困の世代間の引き継ぎね、貧困層、生活困窮者の階層が社会的に固定してしまうという、我々としても「何のために運動をしているのかなあ」と思わざるを得ないような事例にずいぶんぶつかります。

 たとえば生活困窮の中で、生活保護を受けて、そしてなんとか健康で文化的な生活を営むようになったはずの世帯の中で、子どもたちが育っている。そして、そこの子どもたちが大人になる中で、また生活保護を受ける世帯になっていくという、たとえばそれが三代続いているというような事例も、ずいぶん我々出会うんです。そうすると、生活保護の受給と言うことが、その世帯なり、その人なりに持っていた意味はいったい何んだったのだろうかなと、我々自身やはり考えざるを得ないんです。

 それはたぶん「制度がある」というだけで解決することはできないもので、生活保障の制度が、社会の中で十全に機能を果たしていて、そしてその人が地域、職場でいろんな人間関係の中で、人間としてその存在価値が認められて、人間らしく生きていけるという所まできちんと保障仕切るという、言葉を換えて言えば「人たるに値する生活が本当に保障されているのかどうか」ということを一つの基準にして見ていかないといけないのではないかと、取り組みの中で感じています。人としての値打ちが自他共に評価できる。そんな中で人間というのは意欲を持ったり自立できるということが可能になったりするんじゃないかなと思います。


 ですからこの格差社会になると、やっぱり疎外されてくるのは、社会の中での人とのつながりが断ち切られて、そんな中で人間は自立できなくなって、自らの力で生きて、自らの喜びを作り出す道が閉ざされていくことになり、その道がちゃんと保障されるような社会保障の諸制度というものが、今整備されていくべきだろうと思います。



今後のこと


 
生活保護の高校教育費支給(生業扶助)・・・・学資保険裁判の勝利と制度改正

 
 こういう事態が今広がっていて、暗い話ばかり続く訳ですけれども、そんな中でも私たちは、運動の中で、やはり少しばかり「光」というものは見えてきています。

 「光」の一例は何かと言いますと、生活保護制度の中で、これまでは高校教育というのは生活保護の対象じゃなかったんですね。教育に関してはね。「生活費はなんとかめんどうみたろう。だけど教育費については義務教育までや」と、高校進学はある意味「ぜいたくや」という位置づけが制度の中でされていたんですけれども、これが最高裁判所で「学費保険裁判」というもので争われまして、これは今高校進学率が九十何パーセントまで上がってきている。高校教育もやはり「文化的生存権」という憲法二五条の「健康で文化的な最低限の生活」の範疇に高校教育も入るんちゃうかということが、我々の主張であったわけですね。だったら、生活保護の中で高校の教育費はしっかりと保障すべきだ、高校に行く、教育を受ける権利を保障すべきであると。それは高校へ行くための学資保険を収入認定したということを具体的には争った裁判だった訳ですけれども、争点はそこだったんですね。最高裁で我々は勝ちました。それから生活保護の中に高校教育費は位置づけられることになりました。

 ま、でもここには一つ問題があるんですね。小学校中学校の教育費は、生活保護の中で「教育扶助」の中に入るんですね。生活保護と言うのは、いくつかの柱があってね、生活扶助とか住宅扶助とか、医療扶助とか介護扶助とか、それが憲法でいうところの「すべての生活部面について」の保障が柱立てされているわけですね。その中で小学校、中学校の教育費は「教育扶助」として位置づけられているんです。ところが高校はどこへ行ったかというと「生業扶助」なんです。「生業扶助」というのは、「仕事につく上で高校に行った方が有利だよ」という意味なんです。「その方が収入が多く得られるよ」という意味で、教育の観点というのはないんですね。ここに大きく不満が残るところで、教育費の中に位置づけるべき制度改定が求められる所なんですけれども、とりあえずは高校教育費は生活保護の中に位置づけられたという点では、大きな前進だったんではないかなと思います。

 こういうところに、いくつか公営住宅の分野とか、国民健康保険の分野でも、小さな成果というのは闘えば勝ち取ることができる。こういうことをきっかけに、我々はこの国の生活保障全体の向上、あるいは貧困を克服していく、社会的不合理をなくしていくという取り組みの一つの「光」を見ることができるのではないかなと思います。

 
生活困窮者を孤立させない取り組み(運動)

 
 それから合わせて、我々が日常の中で、地域の中で、一番大事なことは何かというと、やはり生活困窮者を地域の中で孤立させないという、「自覚的、意識的な日常」が大事なんじゃないかなと思うんですね。あえて、「運動」というような、「取り組み」というようなものがなかったとしても、なかなか見えにくい困窮者ですけれども。生活困窮者が地域の中で孤立することによって、孤立している側から見ると、地域というのは「憎むべきもの」ということになってしまうんだろうと思います。そこの所にやはり我々が日常生活の中で、実践していく、どう関わっていくかですね。

 残念なのは、たとえば行政にしても、行政自身がその力によって地域社会の中に住民分断を、作り出すようなことを日常やってきているんです。我々はこういうものとも闘いながら、変えていかないとね、地域の中で生活困窮者を孤立させないということができなくなるんです。小泉改革の流れ、それを本来ならば防波堤として受け止めるべき行政が、それを地域版に焼き直ししてね、住民いじめにかかっている。これとも闘いながら、生活困窮者を地域の中で孤立させないという、そういう「日常」が必要なんではないかなと思います。


憲法二五条と生存権・・・・「人たるに値する生活」

 
 最後に、こういった「取り組み」「運動」というものが目指すものは、我々の国民の今後の結集軸を、「ここに輝く憲法二五条がある」ということを確信にしていいんじゃないかなと思います。やはり世界中の憲法の人権条項をザーッと並べてみますとね、日本国憲法第二五条が一番優れていて、輝いています。それはたとえば第一項ですね、「すべて国民は健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」、非常にわかりやすいですね。「生存権規定」、これだけ明快に国民の生存権を明記した憲法は、世界中の憲法にありません。また、この一項の規定と同時にね、二項で「国はすべての生活部面をきちんと社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない」という、この国の責任、憲法が国と言った場合、当然地方自治体をも含む概念なんですけれども、この国の責任というものを社会保障、生存権の分野でこれだけ明快に言った憲法も世界には見られないですね。そういう意味で、憲法二五条は、九条と並んでね、「わが国の誇るべき歴史的獲得物」というふうに思います。この憲法二五条の実現を我々は国民の大きな「結集軸」にしていくということ、ここは確信できるんじゃないかなと思います。

 先日、会場予約をしたところ、「会議の目的」「どういう内容の会議をするのか」というのを書かなければならなかったので、そこに「憲法二五条の実現」と書いたんです。すると、それを受けた職員が「憲法二五条って、まだなかったんですか」と言ったんです。(驚きの声)「そういう意味じゃなくてね、残念ながら憲法二五条の条文はあるけれども、わが国の諸政策の中で、二五条がまだ実現していない。それを国や自治体の中で実現すること、こんなことを今度の会議の中で議論するんですよ」と言いますと、「ああ、そうですか」と快く納得してくれました。

 憲法九条の場合には「明文改憲」で来ていますよね。「二項なくせ」「軍隊持てるようにしよう」「海外で戦争できるようにしよう」と、明文改憲です。ところが二五条については、自民党の改憲案の中でも「すべての生活部面」が「すべての生活分野」に変わっているだけですね。自民党は、ここでの、二五条の明文改憲は考えていないみたいですね。だったら何をしようとしているのか。これ日本国憲法の全体の構図を見たときに、やはり九条と二五条は大きな柱ですね。平和国家の理念と、福祉国家の理念、この両方で成り立っているわけですから、九条を変えて二五条をそのままにしておくというのは考えられないわけです。やっぱり同時にこれは変えていこうとしています。

 どのように変えるのか、これは「空洞化」なんです。二五条の条文そのものは残しておきながら、実態として、あるいは立法や行政の具体的な施策の中で、地方自治体の行政現場で、この二五条を空洞化していこうということが今、現実に進んでいる事態なんです。我々はここを食い止めていくということが、すなわち憲法二五条の実現という、「憲法で文化的な最低限度の生活」が「すべての国民に、これが保障されているんだ」というのが国民の共同の結集軸になって、小泉改革に対抗する国民の側の軸を作り出していくことが、二五条によってできるんじゃないかなと思います。

 ちなみに生活保護法のことを申しますと、「生活保護世帯は、生活困窮世帯だ」というふうに分類されがちなんですね。だけど、これは法律上から見ると、憲法二五条から見ると間違いなんです。生活保護法ですね、「生活に困窮するすべての国民を保護して、自立助長をはかるのが生活保護法の目的だ」というわけですね。その保障すべき生活水準というのは、「健康で文化的なものでなければならない」わけです。そういうものを生活保護法第三条で決めているわけですね。ですから、生活保護世帯というのは、「健康で文化的な生活を送っている世帯」のはずなんですね。なんらかの理由で、生活困窮に陥った世帯が、保護を受けることによって健康で文化的な生活をおくることができる、こういうのが法のしくみであり、憲法の理念なんです。

 ところが実際にはそうなっていずに、生活保護世帯が生活困窮世帯に分類されざるを得ない状況があるわけです。ここの所を私たちは改善させていって、文字通り一億二千数百万人すべてが、誰一人例外なく、「健康で文化的な最低限度の生活」を営めるようにしていこうという、これが憲法25条の位置づけなんですね。すべての人間が「人たるに値する生活」が営めるようになれば、地域社会での孤立というものも、どんどんどんどん改善をされていって、人々が地域の中で、職場の中で、いろんな集団の中で、信頼し合って、はげましあって生きていける社会が作れていけるんじゃないかなと思います。

 ちょうど、時間となりましたので、これで終わらせていただきます。ありがとうございました。

 
 
(その後の質疑応答や他の方の報告は省略しています)
 
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