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トラさん 大いに教育を語る

蜷川 虎三(にながわ とらぞう)

(聞き手)
細野 武男
安永 武人

1979年3月(『季刊 教育運動』46号)収録
にながわ とらぞう
蜷川 虎三
1897年生まれ。
京都大学教授、初代中小企業庁長官を経て、京都府知事7期(1950年〜1978年)。1981年没。
 
細野 武男
京都教育センター代表(橘女子大学学長、京都教育セター代表)
 
安永武人
同志社大学教授、京都教育センター事務局、京都勤労者文化団体連絡協議会会長
(同志社大学名誉教授、京都教育センター事務局)

(注:上記はいずれも1988年段階のものです)



教育は暮らしのなかに
 
 
細野 先生、二十八年間、ほんとうにごくろうさまでした。
 
蜷川 いやいや、乱暴な私でも、やってこれたのは、みなさんのご協力があったからですよ。
 
細野 さて、さっそくですが、今日は、安永さんと私が聞き手になって、先生に教育をおおいに語ってもらおうと思っています。
 最初にひとつ、先生の教育観みたいなものを、ざっくばらんでけっこうですから。
 
蜷川 両先生の前でちょっと照れますが、やっぱり私は、人間を人間として育てるっていうのが教育だと思うんです。ところが日本じゃ、教育というと学校教育ばかりですね。そうじゃない。社会教育もあれば、家庭教育もある。生活にいつも教育っていうものはくっついているというのが私の意見なんです。だから、学校の先生方、警察官もいれて、京都府が月給を払っているのがまあざっと三万人いるわけです。この人たちに、やかましいことばかりでなしに、仕事とともに教育というものがおんぶされている。背中あわせにさせていくべきだと思うんです。これは、ちょうど社会福祉がそうでしてね、いろいろな経済政策があるけど、経済政策一本ではいけないんで、経済政策に社会福祉を、こう、ちょうど餅みたいに、あるいは、サンドイッチみたいにくっつけていくっていうことが大事なんです。
 
 で、教育っていうものが、それだけとして別にあるんじゃなしに、生活の中に教育があるんだと私は思うんです。だから、お母さんが台所でお仕事をしていてですよ、子どもの勉強の相手しないって言うけど、そうじゃないんで、台所でお鍋を洗っていても子どものことを考えてやるということが一つの教育なんです。ところが日本の家庭じゃ、おやじはマージャンしているけどもね、子どもがうたを歌うと「うるさい」と言ってね、お母さんもうるさいと思うんじゃなくて、いっしょに歌ってやれというような意味において教育は、暮らしのなかにあるというのが私の考えなんですけどね。
 
 
大学には、自ら学べるものがいけ
 
 
 まあ、大学教育は別ですけれど、これは。大学っていうのは、大勢くることはないんでね。自ら学びたい者が自ら学ぶためにいけばいいんで、先生はまあ、そういっちゃ悪いけど、まず道しるべ、ステッキみたいなものだね(全員大笑い)、わからなかったら、先生の講義を聴く。自分が勉強するなかで、わからないことを先生を通じてわかるというのが私の大学論で、だから、その何十万ですか。共通一次試験受けたのは。
 
安永 三十二万っていってましたね。
 
蜷川 そんなに大学に行くことないんですわ。鉄工場に行ったって、セメント屋に行ったって学ぶことはできる。大学というのは、自ら学ぶ意志があって、自らが学ぶ。だから必要のない講義にはでることはないから、大学は出席とりませんわな。
 
安永 そうですね。
 
蜷川 語学ぐらいなもので、それが本来なんです。先生は先生で自ら研究したことを教えればいいんで、ところが先生は、外国の本を翻訳したものをタネにして講義をし、私どもは大学で「銀行論」というのを習ったものですよ。ところが、ハンドブックに全部あるんですよ。これを、誤訳つきで(大笑い)。
 これが当時の銀行論でしたね。「バンク」というところをひいたら全部あるんですよ。もっとも古い話で六十年も前のことですが、それさえ見ていれば、講義の内容なんてわかっちゃう。
 
安永 ただ今の大学生を見ていますとね、第一、入学試験の時に親がついてくるでしょう。それで入ってきたのに、例えば私のとこだと国文学ですね、そこで、「何故国文学を受けたのか」と聞きますと、「お父きんが行けといったから」だとか「先生が言いました」とか言うんですね。大学を選んだ、あるいは専門を選んだ理由が、今、蜷川さんが言われたように自ら学ぶということじゃなくて、非常に一般的に言えば、受け身になっているんですよ。
 
蜷川 ただ教わるということだね。
 
細野 そうそう。
 
蜷川 だからね、大学でノートをきちんと書いているものほど、落第しちゃうんですね。我々の時代は、普段休んでいてそいつを使ってね。必ず前の方に、五〜六人ちゃんといてね。先生の咳ばらいまでは書いていなかっただろうけど、なにもかも書いているんですね。だからどこがポイントかわからないし、自分が何を学ぼうとしているかわからない。それでただ大学にきている。なんで高等学校で苦労してきたのかわからない。我々ずるいものは、そいつのノートを使ってブランクをうめて卒業しちゃう(笑い)。
 
 
中学校、高校は教わるところ
 
 
 ところが、高等学校というのは、あれは教える所ですね。この間、近所のある高校の生徒が「三人で、訪ねていいか」っていうんで、「そら遊んでいるんだからいつでも構わない」というと、女の子二人と男の子二人がやってきた。新聞部だっていうんで、ちゃんと質問要項を書いてきているんだけど、そんなもの君聞いたって何にもならないと言って、無駄話をした。だんだん聞いたら、一年生なんですね。この四月入ったばかりなんですね。だから、高等学校って何なんだということを理解する方がいいよと言っておきました。それでも三時間ぐらいノートしながら話してゆきました。だけどまあそういうことを学校にいる時にやるのも勉強の一つでしょうが、でも高校はやっぱり教わるとこでしょうね。中学、高等学校というのはね。
 ただ私が、残念なのは、今の制度ですね。三年でちょんぎっちゃって、せっかく中学校に馴み、教科目も馴んだとこで、今度は違った高等学校に行くわけですよね。そうすると高等学校はなんか先生がちょっと専門化しているところがあるでしょう。
 
細野 そうですね。
 
蜷川 そうすると、今まで友達のようにしてきた中学校から急に専門学校へ行ったような気になっちゃう。教える方が非常に専門を教えるのに、受け皿がよくできていないということですね。受け皿の方は、何が何やらさっぱりわからない。私は、高等学校の先生に非常に同情するんですけどね、あんな教えにくい学校っていうのはないだろうと、大学は言い放っしにしておけばよいんでね。ポイントさえ教えておけばいいんだよ。高等学校の先生には同情するんです。中途半端なんですね。
 
 
私が中学生だったころ
 
 
 私が、中学生だった頃には、子どもも中学の三年ぐらいになると、小説を読もうとか、詩をつくろうとか、俳句をつくろうとか、スポーツやる人は別ですけど、そういう文芸ものに、またばかに芝居に凝っちゃったりしてね。学校をエスケープして、有楽座などに行ったりしてね。私のとこ下町ですから。「おていちゃん」がでてきた浅草ですね。そこの市村座の役者の子なんていうのは、非常にのんきなもんで、三年ぐらいになると映画でも「目玉の松ちゃん」ばかりみていたんではしかたないんで、西洋ものを見るとか、あるいは、自分で詩を作ったり、俳句作ったりしてましてね。私が三年になった時には、数学の幾何がバカに好きになったんです。幾何の先生の渾名がジャガイモだったけど、ジャガがバカに好きでね、その時に『幾何学、考え方と解き方』っていう本があって、それを読んで、中学二年の時は、三年のことをやっているんですね。五年になったら試験よりむこうの先のことをやっている。それが勉強としていいかどうかね。尋常六年の時に英語を習いましてね、そして中学に行って、バカにするけどおれは発音悪いなってなことが英語の時間にわかりましてね。そうすると母親がだいたい縁日で本を買ってくるんですね、これ読めっていうんで見ると、国定教科書の四年生ぐらいのものなんですよ。別にひっぱたきはしなかったけど、一年、二年先のものを読ませる、学んでいく。今は追いつけ、追いかけるでしょう。そして明日のことは徹底的に明日でしょう。そうでなくやっぱり、三年の頃っていうのはこころ豊かで、からだも豊かなころですからね。ただ財布が空っていうだけで(笑い)。
 
 四年になると、ようやく入学のことを考えて、試験をやるようになったですね。校長先生が有名な八田元夫っていう、演出家のお父さん(八田三喜)で、哲学者でしてね。それがどこから拾ってくるんだか、代数の問題を百題ぐらいガリ版に刷って、それ暇なときにやっとけ、というんですね。それが入学試験の準備みたいなものですね。別にやってこなくても叱られはしない。実に自由なもんでした。三年すぎると、少々窮屈になってくるんですが、今、かわいそうに高等学校に入ったらすぐ大学で、自ら学ぶ意志のねえやつが大学へうろちょろ行く(笑い)。
 
安永 それが来なかったら食い上げになりますよ(笑い)。
 
 
高等学校の先生は大変
 
 
細野 ところで、先生ね。
 
蜷川 先生?
 
細野 先生には、今の教員・教育に対していろんな希望、期待があると思うんですけどね。サラリーマン化しているかという批判も含めて、どんなことを。
 
蜷川 あたしゃあね、やっぱり先生って一言で言うけど、大学の先生は別格だと思うんですね。これはもう研究するのが主なんですから、するしないは本人の自由なんですね。それから高等学校の先生はですよ。さっきも言いましたが、制度が悪いんで気の毒だと思うんですね。あれが中学三年で切らないで中学校からずっと六年間やれば先生はもっと教育しやすいと思うんです。大学でも、生徒の方も先生のまねしているうちに、ゼミナールの学生というのは、もう先生のとおりになりますわ。ヒゲはえていばっているけれどね、やっぱり先生のくせがでるんですね。それと同じで長年やってもらえるといいのに、それを三年でちょんぎっているところに高等学校の先生の苦労が一つあると思うんです。
 
 もう一つは、やっぱり社会生活がつらいですからね、先生も、教育者の自覚はもっておられるんだけれども、やっぱり社会の、経済の波に押し流されて暮らしがつらい。
 
 私が一九五〇年に知事になりたてに、給料増やせ、ボーナス増やせっていって、府の正庁で教職員組合に囲まれましてね、私一人なんです。だけどおれの方は金がないんだと、だからみんなにがまんして税金だしてもらっているくらいなんだから、先生も決めた金ぐらいでがまんしてくれっていうのがこっちの言い分なんだ。第一、知事自身の月給が二十五万円とかなんとかわずかなものだ。だから到底、君らも暮らしにくいというのはよくわかるけども、とにかく自治体を守らなければならないんだ。勘弁してくれ。「自治体を守ることは分かるけど、とにかく食えない」と言うんだね。こちらも新米知事で興奮してね。そこで、テメエたちが餓鬼をヒリヒリ産むから暮らしにくいんだと。そしたらひどく怒られてね。人様の子どもを餓鬼とはなんだと。それからおまえ、ヒリヒリ産むとはどういうことなんだと。
 
 そりや私は東京の下町の暮らしで育ちが悪いから、言葉が悪いのは堪忍してもらうけど、食えもしないやつが餓鬼産むっていうことが第一ね。やっぱり社会経済に適応して生活していかないと。適応しながら、今度は経済を直していくということが我々革新のねらいなんだ。ただ経済が悪くなったからおれたちだけの暮らしをよくしろと言っても、それは無理な話なんだ。我々は歯を食いしばっても暮らしに堪え、そして革新自治体っていうものを守り、教育もそういう点でいってもらわなきゃ困るんだ。で、まあ朝の六時になったからもうみんなくたびれたから解散しようって。で、その年はそれで私の決めたとおりになったんですけど、随分失礼なこと言ったけど。とにかく我々は先生が、そのボーナスを増やせっていうのはよくわかるんだ。その時に私自身が暮らせないんだから、現に四月に選挙してですよ、私は、まず、フランス語よく読めないんだけど、フランス語の本は全部売っちゃったんですよ。それで選挙やったんですから。まあドイツの本でもいらないものは売っちゃったけど。で、第一回目の選挙っていうのは自分の持っているものを売りとばしてですね。女房の帯や着物なんかを売りとばしてですよ。やったんです。
 
 そらまあ一生懸命やってくださったんですけどね、みな金はなかったんです。とにかく、先生も暮らしが大変なんだ。
 それから、もう一つはやっぱりね、高等学校の先生に非常にきばっていただかなければならないことね、人間を専重するということですね。中学生の時はまだ子どもですからね、だから、その割合に先生が頭撫で撫で。高等学校になるとそうはいかないんで。岩波のポケットディクショナリーがあるでしょう。あの英和のウーマンってとこ引いたらね、その例に女の子は十七歳で大人になる。男の子は十七歳でもまだ子どもというのがありますが、僕はなぜ、ウーマンってとこ引いたのか忘れちゃったんですけどね。その女の子と男の子とをです。入学試験を前にして一緒に教えるっていうことにも非常に苦労があると思うんですけどね。私は男女共学っていうのは賛成ですけど、人間としてね、なにも男の子だから女だからといって区別することはないだろう。だから好きになったら好きでいいじゃないか。人間の本性、二十歳になって好きになるかね、十五歳で好きになりだすかわからないですから。好きは好きでいいと、そこにやっばり高等学校での生きがいがあるんでね。学較へ行きたくないけど、あの子がいるからっていうんで学校へ行く生徒もあるんでね、それでいいんじゃないかと。私は、男女共学がいいと思うけど、家庭に残る、あるいは会社に入るっていうのが女の子に多いなかで、男の子だけ区別して、入学の準備させねばならないっていう苦労が先生にあると思うんで、その苦労を察していませんね。そらやっぱりね、スポーツやる時にはおれは走るっていうのにまわりのやつが走らないっていうのに、自分だけ走るというのは大変なことです。そういうことはもっと教育委員会が理解しなきゃいかんと思うんですね。
 
 
子どもに冒険させよう
 
 
 それからもう一つは、小学校の先生ですね。今の小学校というのは、昔とあまり変わらないんで、ただなんというか、変に文部省が指導要領なんてものをこさえてくるでしょう。あれがもっと地域に即したように、地域の暮らしと子どもの教育とが結びつくようにやりたいんだけど、それができないんですね。だからたとえばね、子どものなかにですよ、算数は下手だけど、絵が、マンガ描くのが上手だっていうのがいますわ。そういう子どもたちにはマンガ描かせてやればいいんで、小学校ではね。やっばり、算数の好きな子が算数のことで、絵の好きな子は絵ばかりかいておればいい。
 私は中学の時にね、八海事件で有名な正木弁護士と同級生なんです。あいつは、理屈っぽいし、文章もうまいんだけれども、絵描くのはもっとうまいんですよ。ある時、ヴィーナスの像のデッサンがありましてね。ところが先生が私のところにまわってきて、こりや豚じゃねえかって、ゴムでガリガリ消すんですね。だからもうめんどうくさいから、正木おまえ描いとけと、それで二枚正木に描かして、一つは正木ひろしと、一つは蜷川虎三と書いて知らん顔して出しておいたんです。一週間すると、正木のは九十点ですわ。蜷川のは六十点。同じやつが書いてなんでちがうんだろうと思ってね。二人で怒るんだけど、先生にはそりゃ怒れないしね。で、卒業する時に先生に謝りにいこうと思ってね。やっぱり、うそついて学校卒業したっていうのも気持ち悪いし、正木はまあ弁護士みたいになるやつだし、そういう点きびしいし、おれ共犯だっていうのはいやだっていうし、で二人で先生のところを訪ねて行った。よくきたな、まあ座れよ、先生は二人できたんで、共同でやったことで何か言いにきたと思ったんでしょうね。いっさいこっちに口を開かせないんです。そしてミレーがどうしてあんな有名な画家になったかっていう話を一生懸命するんですわ。こっちはミレーどころではない。何かすきがあったら白状して謝ろうとしてた。その先生はよく帝展、今の日展に出して入選してたんです。私は、こういうのがほんとの先生だと思うんですね。すなわち、謝らせないんですね、謝りに来たってことは先生がみてとってんです。でその若い子どもにロを開かせないで、ミレーの話してさ、私はこういうのが先生の一つの理想像じゃないか。
 
 この間、大阪のどっかの沿線かなんかで、中学生三人がそばを立ち食いしたっていうんで、教職員会議を開いて停学にしたんです。私は京都新聞に随筆書いているんで、私が教師だったら、あくる日子どもの背中をたたいて、昨日のそばうまかったかと聞く。そら、私の絵の先生のばあいと同じなんですね。子どもは悪いことをよく知ってんだけども、腹のすいてることはどうにもならないし、いけないということはやってみるっていうことに一つの冒険心があるんですね。やっぱり子どもにそういうのを認めてやる。そこがね、小学校や中学校の先生の苦労な点だと思うんです。子どもといっしょになってやるということがね。ところが何故苦労かというと、社会経済が悪いために、先生にそれだけの余裕を与えてないっていうことですね。例えば先生でも、共稼ぎが非常に多いですね。そうすると、つい学校の帰りに買い物かごさげて、スーパーにでも行こうっていう、やっぱり時間がきたら帰るというようなのは、何も先生掛悪いんじゃないんで、社会経済が悪いんで、と私は思うんだけれども。だから、我々は別に教育の雑誌だからお世辞使うんじゃなしに、それが真実だと思うんですね。だからだんだん、経済の荒波に流されて、先生が本当に聖職であるにもかかわらず、本当に聖職ですわね。自分犠牲にしなかったらね、子どもを守るってことはできやしない。
 
 そりや、大学はね、門出しちゃったらそれでかまわないんだから。小学校、中学校、高等学校っていうのはね、やっぱり子どもを守ってやらないといけない。で私は「十五の春に泣かすな」というスローガンこさえて全入をとなえた。十人ぐらいが入学試験で泣いて、おれはできないのかと思わせる。そういう点で人生観が違うのはね、人が生まれてから、いつその人が生きがいを感じるようになるかっていうのは、わかんないっていうんですよ。生まれてから、子どもの時に生きがいを感じて、愉快にやる者もある。明日、お葬式だって死ぬ前にだね、はじめておれはよかったと思う人。だから高等学校で成績がいい子が必ずしも大学でよくないですね。大学じゃあ、しゃあねえ、ボールばかり蹴っとばしてやがって、あれしまいに、女房を蹴っとばすんじゃねえかって。私はよく思うんです。あの蹴っとばすフットボールの選手だった人が、会社へ入ってみれば、ひどくやり手だなんていうのがいますよ。人生というのは、長い六十年、七十年の生涯の間に、私なんぞはちょっと生きすぎましたけどね。その長い間にいつ自分の生きがいというか、力を発揮できる満足する日があるかといえば、こりゃわからないんじゃないか。その点で小学校、中学校、高等学校の先生っていうのは、その子どもたちをですよ、生きがいを感じさせるように、だんだん人間形成をしていくっていうところにやりがいがあるんですよ。そりや文部省のいうようなあんな形式的なものではない先生の苦労があると思うんですよ。そりやただ一つ肩をたたいてやっただけでもね、子どもはそれで発奮して勉強するかもしれないし、飯を食わせないで人の部屋に閉じこめても勉強しないかもしれないし、そこらがね、小、中、高の先生の非常に苦労な点だと思うんです。
 
 それから、やっぱり、先生は、生活上非常に苦労しているってことですね。給料安いんだもん。給料高いとか、京都は東京と比べると高いとか、やっぱり我々は労働者なんだからね労働力売ってるんで、労働力売ってる場は、東京と京都じゃあ市場がちがうんで、それを変な物価指数の一コマとってですよ、これより高いとか低いとか言う、あんなもんは京都ではやらせないって言ってたんです私は。私がやめてからどうなるか知らんけどね。
 
 
先生は点数でははかれない
 
 
 それから勤評なんての、先生を点数で。教育愛ってなもんは、インテンシヴな量で、エキセンティヴなものに直さなければ計れない。空気のあったかさと同じで、愛情なんてものは。それをね、文部省が勤務評定を出した時に、教育愛なんて、いったいどうやってつくるんだ。教職員組合が賛成しても、京都府知事は、学問にかけて賛成できない。測れないものを測るってことを教育委員会が言っても、あるいは教職員組合が言っても知事としてはですね、自分の学問を捨てるようなもの、許せない。そんなものはやめてしまえって教育委員会に言って、とうとういまだにやってません。インテンシヴな量ってなものは測れないですよ。で、京都府では絶対に認めないって、幸いに立命館や同志社の先生方もいいと言ってくれて。そんなものね、教育愛六十点だったらね、相撲の横綱に抱きつかせたらいいですよ。
 
 それから変な指導要領つくられて、もっと子どもたちの暮らしにあったような教育をしてやる。だから数学でも、この間も高等学校の子ども三人と三時間ばかり話したんです。
y=a+bx とおいてと言っている。それはどういうことを意味するんだ。そういうことを先生教えてくれないと言うんだな。 y=a+bx っていうのは、直交座標軸で直線の方程式なんですね。だからまず先生が直交座標をつくって、で、そしてaはこれの高さなんだ、bはそれのタンジェントですね。それはもう統計的に出てなきゃならない。そういうものは例えば農産物でも何でもいいからやってみて、それでこれは y=a+bx だと。その座標軸の根元から直線引くんならaはないわけなんです。そういうのを教えてやれば、もっと数学の興味がおこるっていうんですよ。ハマチなどの養殖をしてんの、引き潮と満ち潮の比ってものを一つひとつ測ってみる。測ったデータは定時制の高校へもってって、子どもに計算させると、これがね、数学と暮らしってものを結びつけることになる。数学ってものは、どこかの数学者も言ってたように、こりゃひょんなことで思いつくんでね。
 
 私も一中で教えてたんでね、大学院の時、アルバイトで。今の洛北高校でです。今の公安委員長の湯浅(佑一)君なんていうのは、その時の生徒でね、そういう連中が三高の試験受けなくちゃならない。だから経済を教えにいってんだけど、経済のいろんな現象をね数学で教えたんです。法律教える方は毎朝新聞みていって、教科書あるんだけどもすっとばしちゃってね、子どもが毎朝読んでくる新聞を、読んでこないやつは私が持っていってみんなに回して、そして教科書の何ページ開いてごらんてなもんですね。それを教科書を一ページからしまいまでやらなければならんというのが先生の苦労の点ですね。校長先生も、新米がアルバイトしてんだからっていうんで、見に来てましたよ、教室に。それで校長先生が、蜷川君のやり方の方がいいっていうんですね。まあ私は水産やったもんだから、動物も知ってるし、植物も知ってる、数学も知ってるし。でもう法律、経済やるのに今まで習ったやつを自分のもののような顔をして教えたわけですね。今の先生はそれができないですね。指導要領なんていうのがあって、もし指導要領からぬけた話をして、もし試験にそれが出たら、子どもにうらまれるわけです。
 
 私は今の学校の小、中、高の先生っていうのは、やっぱり生活がかかっているんでね、だから、そういう点が教育者として大変だと思うんです。身動きできないんだね。
 
安永 小、中、高の先生は、それぞれ個性があるんだけど、その個性を発揮するゆとりがなくなってきてるんで。
 
蜷川 ないですね。
 
安永 だから僕は、まあ細野さんよりも僕の方がちょっと若いんだけれども、非常に印象に残っている小学校の先生とか、中学校の先生とか、高等学校の先生とかあって、その先生に、何気なく言われたことが、非常に大きな痕跡を残しているということがあるんだけれども、今は比較的それが少なくなってきているんではないかという気がしているんですけど。
 
蜷川 いや今はだめですね、そういう点は、みんな先生には重荷としてあるんです。だから、教育委員会も、そういうことをよく考えなさいって言うんですけど、知事の権限で教育委員会の権限を侵害することできませんので。
 
安永 そうですね。
 
 
先生は団結しなきゃいかん
 
 
蜷川 それから、やっぱり、経済の波にあらわれないためには、団結しなきゃいかんですよ。ねえ、教職員組合なんていうのも、だてにあるんじゃないんで、やっぱりみんなが団結してですね。みんなが、ヒリヒリ産むなんて言わせないことです。団結しなきゃいけない、経済の波にさらされているのが一番つらいことですよ。大根一本買ったって、何十円というですからね。それから、この間、タバコの定価表をみたらゴールデンバットが五十円です。昔は七銭だったんです。ところがその当時、タイガーの計算器っていうのがありましてね。あれしか計算器がなかった。ところがその計算をやるのに左の手で回せないんですね。不器用だからタバコすうのは右の手でしかすわないんです。計算するときは、非常にもうだんだん高じてね。とうとう七十本もいったんです。ところが、トラックに乗って演説して歩いている時に、胸が苦しくなる。その時お医師さんにみてもらったらどこも悪くない。ところがですよ、「君タバコすうか」っていうから、「七十本ぐらいすう」、「それやめとけよ」。やめようと思ったらそりゃつらいで。この右の手のもっていきようがないんです。人がこられるとこうして机の上たたいて、そうすると、もうお前と話してると、せわしい、なんとかそれをやめてくれよ。今度はこうポケットに手を入れて、ゴールデンバットを二つずつ両ポケットに入れて、さわってたんです。今、バーでおさわりなんてのがはやっているそうだけど、僕はゴールデンバットにおさわりで、そしてまあ半年位がまんしましたね、とうとう、二十六年の夏やめちゃったんです。
 
 けどね、今はもうインフレだから、私は飲みたいものは飲んどけと、タバコをすいたいものはすうとけと。いま経済危機といってごまかしているけど、もう十年もしたら必ず世界恐慌がくる、その時にね、同じようにタバコもすえないし、酒も飲めないし、ウイスキーも飲めない。だから、山の神がいくら文句を言ってもいいから、好きなだけ飲んどけと。
 
安永 こりやいいこと聞いた。
 
蜷川 これで恐慌きたら、昔はよかったなあと思い出だけをすえばいいって、議会でも同じことを説いたんです。君ら笑うけどね、昭和五年ぐらいの世界恐慌考えたら冗談じゃないんだと。今政府はかくしてるけど物価はどんどん上がっているんで、ただ物価指数が横ばいになっていると政府は発表いているけど、我々の生活はどんどん落ちている。言いかえてみれば物価は上がっているんです。
 インフレがどんどん進んでるんですよ。そりやあるところまで来たら恐慌がきますわ、ちょうど一九二九年・三〇年頃のような。毎週西ドイツの平和委員会から私のところへ手紙がきますが、恐慌が来たらどうやっておさえるかって、むこうの方が経済危稜感をもっていますね。今、一番、危機感をもってんのは、アメリカ大統領のカーターですよね。
 
 だから私たちとしては、インフレ時代における教育ってものをどうするかを考えなきゃと私は思うんですね。文部省みたいにだまくらかしてですよ、そんな共通一次試験だとか二次試験だとか、三十二万人なんとか言ってるけど、あんなものしないでもいいですよ。だからそのね中学校出てね、植木屋さんになったって、大工さんになったっていいんで、日本は民主化されたっていうけども、教育制度は封建的ですね。だからその学校で、ダンスしてたっていっこうさしつかえないんで、芝居やっててもいいっていうんだけど。私みたいなもん校長にしてくれると実にいい学校をつくるんだけどね。人形芝居なんぞやってね。
 まあ私もはじめはよく知らなかったんだけど、見せてくれたんですよ、府庁でね。
 
 
移動劇場は教育する
 
 
安永 移動劇場ですね。
 
蜷川 移動劇場。まわってくれてるんです。もうね注文が多くて、子どもたちの。それで移動劇場に注文すりやいいんだけど子ども達がね変な手紙書いてよこして、知事さん、この芝居を覚えてくれっていうんだね。まあ移動劇場の方には連絡してますけど、まあこの間の年末に少しばかりだけど、お歳暮を送っといたんだけどね、人形劇場に。
 
安永 どうもそれは。
 
蜷川 だけどその、みんなその、それが教育なんだな、僕らにはじめて見せてくれたのは、出征兵士のあり方ですね。いかに名残りを惜しんで戦場に行くか、とにかく第二次世界戦争の時に、日本の兵隊は、戦地で約三百万殺されたんですね。それから東京の爆撃で、五十一万人死んでるんですね。今の政府のやつはみなけしからんと思うけどね。私のゼミナール出た安井謙なんてのは、参議院の議長をしているんだが、その立場から教育のために、もっと働いて欲しいと思っている。
 
細野 あのね、先生の二十八年間に憲法、教育基本法ということが京都はわりと平気でいえるんですが、これがよその府県へ行きますとね、憲法、教育基本法を旗印にかかげることすらはばかるのが多いですよ。京都のように、それが学校で平気でいえるのはちょっと珍しいんですわ、学校をまわってみても。ちょっと手前みそになりますけど、立命館でもどんな文書でも、憲法、教育基本法と小さくみんな入れてあるんですわ。ところが、これよその府県に行きますと、先生たちがにらまれたりね。
 
蜷川 はあ、私ら、これポケットにいつももってますわ(と言って「ポケット憲法」を取りだされた)。
 
細野 それが非常に大きいんですよ。このことなんとなく遠慮がちになるんですわ。特に、教育基本法は。ある時期に、自民党の文部大臣の荒木氏が教育基本法は敵だと言ったんですよ。
 
蜷川 同志社は宗教がありますね。
 
細野 それはそれでいいですよ。そういうものを旗印に掲げることが、公立の小学校、中学校、高等学校の場合に、そういうことを主張できることが京都のいいとこなんですね。これやっぱり二十八年間に先生がおやりになった……。
 
蜷川 一つの遺産ですな。
 
安永 貴重な遺産ですね。
 
細野 これを崩さないようにね、先生方が。知事が変わりましたですわな。そうするとだんだん、それを言いにくくなるような空気がでてくるとこれは困る。やっぱりどうしてもそれを守っていかなければいかんと思います。
 
蜷川 二十八年間、みなさんのご協力でそうなったんだけど、こわされるというとね。
 
細野 それが危ない。徹底してね、そこを守らないと。
 
蜷川 こわされるということは、こっちの礎が弱かったということなんで、こっちも反省しなきゃいけないけど、こわすやつらは撃滅しなきゃいかんと私は思うんです。
 
 
知事が乱暴でも、みんながしっかりしていたから
 
 
安永 それと、私は文連(京都文化団体連絡協議会)の関係で蜷川さんとは比較的お目にかかる機会があったわけですけども、府民の文化要求に応えていこうというのも、蜷川さんの一つの基本的な姿勢だったと思うんですけど。
 
蜷川 そうやったんですけども、不十分で。
 
安永 いやいや、さっきお話に出た移動劇場もそうですけど、文化芸術会館もそうですね。
 
蜷川 ええ。
 
安永 ちょうどこちらからお願いに行ったら、知事も考えておられて、あのドイツ留学時代の小劇場が蜷川さんの頭に強くあって、そういうものをつくろうという話になって。
 
蜷川 それがね。実験劇場にしようと思ってね。入場料なんぞ、ついに考えなかったんです。で客席を狭くして、舞台を広げてね。今でも毎日、浄瑠璃なんぞ語っているけど、マイクなんぞ全然いらないんですね。
 
安永 いらないんです。あれはもう日本でも指折りの音響効果のいいホールなんですね。だからあそこで歌った人、例えばペギー葉山だとかね、「こんな歌いいいホールはないと言うんですよ」。新劇の宇野重吉さんがね、「おれここの小屋の支配人にしてくれたら、いい芝居を随分見せる」といっているほどなんです。
 
蜷川 使いいいんです。
 
安永 こんなホールないといってますね。
 
蜷川 舞台はうんと広いし、それからテレビをやる部屋もできてるし、下は展示会をやるようにできてますしね。
 
安永 設計段階で、私たちの意見も随分とり入れてもらって。
 
蜷川 ええ、あれは先生方の意見でやったんです。
 
安永 画廊なんかも、コーラスの練習へ転用できるようになっているんですけど、画廊としての申し込みが満員で、そういう転用ができなくなってるんですよ。だからあの建てものは非常にいいんです。
 
蜷川 京都は、こういう先生が多いですからね、知事が乱暴でも、それを全部聞いてやれたからうまくいったんです。あの資料館でもね。東寺の百合文書買うんでも、先生方の意見をよく聞いて、で一億二千万円も出して、東寺から散逸しないようにね。
 京都の非常にね、行政上幸せなのは、大学のいい先生が大勢いらっしゃるということですね。それも我々何も知らないんだから、ただ新聞や雑誌で知ってる。とにかく、つくるからには、やっぱり一人前のを作らないといけないと思ったんです。その時に、すっかり教えられて、そこでまあできたんです。資料館もそうですね。
 
安永 そうです。フィルムライブラリーもそうですね。それから「京の百景」、非常にいい仕事だったと思いますよ。
 
蜷川 ああそうですか。北桑田のゼミナールハウス、先生と学生が一緒に寝泊まりする。そして空気のいいとこで、ゆっくり勉強する。そしてね、教室じゃ先生に質問する機会もないけれども、ゼミナールハウスじゃね、先生と一緒になれるということがね、学生たちにどんな励みを与えるか、その味を知らないわけですよね。まだみんな。で大学でやるゼミナールぐらいに思ってる。そうじゃないんで、ゼミナールハウスは合宿してるんですから。まあ二十人ぐらいまで、それが十ぐらい棟があるんですから、いくつの組がきても、大丈夫にできてるんで。まあ秋になればね、松茸、失敬して帰るってのは、なかなかいいところもあるんで(笑い)。
 
 
青い海に白い舟浮かべて一ぷくやるのが夢だったが……
 
 
 まあ、私も二十八年間知事をなんとかやってこれて、いろんなことを残せたのは、府民が知恵と力で私を支えてくれたからですよ。
 公約を守れずに終わったことがあるんです。私は、知事やめたら青い海に白い船浮かべてなぎさで、タバコくゆらせながら一ぷくやりたいっていうのが私が夢だった。知事に出た時に、「おまえ知事になって何したい」というから、「あの日本海の青い海に白い船を、調査船を浮かべて、なぎさで一ぷくやりたい」って言ってやったんです。それがまあ私の公約第一号だったんで、ところが、自分でもタバコやめちゃって、公約破ってしまっちゃったんです。まあ、白い船はできましたがね。
 
細野 もっともっとお聞きしたいんですが、今日は、これぐらいにしておきたいと思います。今後とも、ご健康に気をつけられて、私たちを、叱咤激励してください。今日はほんとうにありがとうございました。
 

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