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京都教育センターの設立前後
 
細野武男(ほそのたけお)
(聞き手)須田 稔(すだみのる)
  
1976年1月(『季刊 教育運動』33号)収録)
細野武男(ほそのたけお)
1912年生まれ。
京都教育センター代表
(1960年〜現在まで。)
立命館大学教授・総長を経て、
現在橘女子大学学長、
全国革新懇代表世話人。
 
須田 稔(すだみのる)
立命館大学教授、
京都教育センター共同研究者、
京都文化団体連絡協議会会長

(注:上記は1988年段階 での紹介文です) 


須田 さっそくですが、先生は学生時代に教育のあり方について問題意識をお持ちになっていたのでしょうか。
 
 
松本高等学校、東京帝大のころ
 
細野 いや、教育プロパーのことで特に勉強したということはありません。ただ、ぼくの学生時代とサラリーマン一年生がちょうど一九三〇年代にあたるのです。一九二九年の大恐慌、三一年の満州事変、そして日中戦争、第二次世界大戦というふうに、戦争に向っての恐慌、イソフレ、増税、軍備増強、戦争という政治的な環境の中にいたわけです。問題意識を本格的にもつ高校生時代が、大恐慌の波をかぶった昭和初頭だったわけです。
 
 信州の松本高等学校の学生のとき、コメを作る農民がコメを食べられないで草や木の皮を食べている。コメは余っていて、政府が買い上げて価格を吊り上げる、「豊富の中の貧困」という事態を見ましたし、失業も非常にひどかった。そういう資本主義のもっている矛盾というようなものについて関心を持ちはじめ、いまの社会科学研究会みたいなグループで『空想より科学』を読み始めたわけですね。
 
 それと、もう一つは、長野県の教員赤化事件というのがあります。京大を出た先輩が就職難で長野県の郷里へ帰って小学校の教師をしながら青年団の活動を指導した。これが赤化事件と称して検挙された。小学校の生徒たちが「先生を返せ」と抗議する。京大出の先生ということもあったけれども、長野の青年たちは強力な影響を受けていましたからね、大きい事件でした。
 
 ぼくらの運動は、そういう教師達の運動と地域青年の運動とが間接的ながら関連していたわけです。長野県は当時から教育県だったし、それに新興教育運動がありました。これはすでにマルクス主義の教育だった。ただ、さるかに合戦一つを説明するのでも階級闘争やと言って説明したということがありますがね。
 
 一斉検挙があったのが、ぼくの高校三年のとき。関心をもたない方が不自然だったと思いますよ。ぼくら高等学校の生徒会や社研の活動、それと地域青年の運動と農民組合運動はみんな互いに関連がありましたね。それから紡績労働者との交流もあった。
 
 信州というところは冬は何もできないから、休暇に入ると青年たちを訪ねてはコタツに入って座談をしたりしてね。
 
 
須田 東京帝大時代のエピソードを一つだけお話しくださいませんか。
 
 
細野 大学に入った頃には、もう啓発的な運動しかなかったし、学生はどちらかと言うと理論の研究に集中しました。日本資本主義論争や唯研の影響が強く、経済学部の友人など山田盛太郎『日本資本主義の分析』を暗記していたほどです。私は法・経・文の三学部の有名な先生の講義を要卒単位とは関係なしに聞きに行きました。これが意外に就職のときにも就職後も力になっている、とつくづく思います。
 
 
立命館大学に赴任、教研にかかわって
 
 
須田 教育運動なり教研運動に深くかかわりをお持ちになったというのは、立命館大学に赴任されてからでしょうか。
 
細野 そう、初めて教員になったのだからね。一九四八年四月から一年間非常勤講師をやって、四九年の二月に専任になった。三六歳だったかな。
 
 
須田 京都の民主運動、とりわけ民主的教育運動にかかわりをお持ちになるについては、どういう契機があったのでしょうか。
 
 
細野 立命館大学に来た当時、ぼくは社会学会よりは法社会学会の方にかなり積極的に参加しました。この学会は法律学の世界では、悪く言うとはみでた、良く言えば進歩的な志向をもっていたね。そこから民科の法律部会や政治部会、あるいは哲学部会によく参加したわけです。そういう民主主義科学運動の中で教育問題についても関心を深めるようになったと思うんですね。
 
 
須田 京都教育センターは、一九六〇年九月二四日に第一回評議員会を経て創立されたのですが、先生方が中心になって呼びかけられたのですね。
 
 
細野 形の上ではそうなっています。実は、旭丘中学事件のとき、ぼくも支援したんだけど、そのあと山本正行君や寺島洋之助さんなどが教文部に入った。ぼくは割に早くから教研集会の講師団でつきあっていたのだけれど、山本君が教文部長として非常に熱心に各研究室を回って懇談しながら、もっと実質的な講師団を編成したいと訴えていた。ぼくなんかも講師団というのはおかしいじゃないか、幼稚園・小学校・中学校・高等学校・大学を通じて教育という側面での共通基盤が大事であって、それぞれの段階の教育なり研究なりがもっている特殊性をふまえた上で共同研究をやるべきだ、共同研究者であるべきだというふうに考えたわけです。
 
 教育研究所的なものでは財政的にも組織上もむつかしい。共同研究者を結集して日常的に教育研究の推進力になる、教育研究の集中点になるものをつくろうということで、名前も京都教育センターにしようと決めたんですね。
 
 だから重要なことは、教文部長が非常に積極的にオルグしたということ。そういう積極的な組織活動があったから、われわれも積極的に参加できたということ。それから、共同研究者として位置づけをはっきりしたということ。さらに、各大学から教育センターに中核的な人を集め、その周辺にできるだけ多くの研究者を結集していこうとしたこと。そういうわけで、初期は割合に広範な人が参加したと思いますよ。ただ問題は、教育学プロパーの人の参加が京都では見られなかったことです。われわれの力量の問題もあったけど、ほかの理由もあると思います。このことが一つの特徴であり同時に弱点であると言えますね。
 
 京都はいわゆる組合闘争型で、教研型でないとか一部に批判があるようだけど、ぼくはそんなことはないと思う。特に奥丹あたりでは、生活指導を中心にしたり、社会科研究会を中心にして広い意味での研究がすすんできたと考えますけどね。やはり旭丘中学事件が一つの契機になったのではないですか、
 
 
須田 当時の京都府教育研究所をどのように見ておられましたか。
 
 
細野 やっぱり官製という感じでしたが、それでも京都のばあい、自主的な教育研究がそこでもすすめられていました。
 
 
須田 対抗意識はあったわけですか。
 
 
細野 それほどでもないが、民間という意識はありました。自主的・民主的な教育研究のセンターという自負なり抱負。もう一つはやっぱり教育研究運動に画期的というよりポイントになるのは、一九五七年からの勤評です。教育問題が大きくクローズ・アップされた。勤評やってないのは京都だけでしょ、これは前進の上で大きいことです。
 
 教師の力量の問題、学力向上のための諸条件の問題、その中でも最大の条件としての教師のあり方などの問題が非常に広範に宣伝されたということは大きいでしょうね。
 
 
須田 ところで、先生が立命館大学に見えて民科の活動に参加なさった時期は、民統が結成されていた時期でもありますね。
 
 
細野 高山さんの市長選挙のときは、朝早くからトラックに同乗しました。個人としてだけれど、民科なんかも応援してきた。街頭演説はあんまり得意じゃないけど、やりましたね。
 
 
須田 勤評闘争のとき教育センターはまだ生まれてなかったですけれど、先生は現場というか分会をまわられましたか。
 
 
細野 それはもう職場集会にははとんど参加したし、夜になって各職場の代表が集まって討議するときも大体出ました。
 
 
須田 いまふり返って、あのときはこの点が抜けていたと思われることはありませんか。
 
 
細野 それはありますよ。走り回ってばかりおって。しかし、勤評反対にはたくさんの人が参加しました。
 
 
青年労働者の学習運動に参加
 
 
須田 民統いらいの統一戦線運動、教育運動その他民主主義運動の全般にご活躍なさってきたわけですけれども、青年労働者の学習運動にも尽力されていますね。学習協が京都に生まれたのはいつごろでしょうか。
 
 
細野 一九六一年ごろかな。その前に京都勤労者教育協会があり、片方に人文学園の労働学校があって、ぼくは両方に関係していましたが、合同して京都勤労者学園になった。学習協の方は立命館の総長になるまで会長を勤め、初期は勤労者学園の方も責任者の一人だった。創成期は財政困難、組織拡大も思うにまかせずでね。
 
 
須田 人文学園みたいな機関は他府県にはなかったのでしょう。京都の民主的な諸運動の中で大学の研究者が中心になってつくられたわけですね。
 
 
細野 割合にみんな参加したね。
 
 
須田 知識人なり研究者が果たしてきた役割はやはり大きいですね。
 
 
細野 勤評反対、学テ反対、高校三原則とか京都の教育についての広範な宣伝活動や普及、それから安保。そういうときの大学の役割は大きいけれど、同時に、民主的な研究者なり大学関係の人たちの組織化ということが重要な意味をもつわけです。
 
 
全面発達・科学的認識・集団主義
 
 
須田 六一年の第一一次京都教研三月集会で先生は「国民教育の内容について」と題する記念講演をなさっていますが、国民教育という概念は日教組レベルでは定着していたんでしょうか。
 
 
細野 民主教育・民族教育・人民教育とか言われるなかで国民教育という言い方に定着したのは、当時の日本の基本的な規定と関連するんです。安保闘争のとき論争は熾烈だった。経済的には高度資本主義国でありながら政治的にはアメリカに従属しているというふうにおさえることが大事だとぼくらは主張した。そういう二つの側面をもつ日本での教育のあり方を表わしているのが国民教育ということだと思います。
 
 
須田 六一年の先生の講演は国民教育とは何かを全国に提起されたという大きな意義をもつわけですね。五月には「再び」ということで全面発達・科学的認識・集団主義という三つの柱、いまでは日本全体の民主主義教育の原則みたいになっていますが、これを提起されました。この命題に到達される思考過程をお話し願えないでしょうか。
 
 
細野 みんなの言うことを聞いたり、教育学の本やら教研集会のレポートやらを読んだ。教育の基本は客観的な認識力を養うということだし、学校教育の基本的な方法は集団的なものだということです。それから、人間を適性の名のもとに選別し類型化する、その適性を個性だと主張する近代主義がある。違う違うと分けていって人間を一面的にする。民主主義は人間を基本的には同じだと考えなければいけない。全面発達という理想は、何でもできる人間ということではないのです。集団主義と同じようにこの言葉も誤解されちゃってね。自分の力量・・・・知識や体力ですね、そこに欠けているものは何か、力量の発達を阻害しているものは何か、それとたたかわなくちゃならない。全面発達の人間像は理想像なんだけれど、また非常に現実的な課題なんですね。この三つの原則は無意識のうちに多くの教師のなかにある。ただこれを意識化し、具体化し、先生のものにすること、これです。
 
 
須田 マルクスの『資本論』やレーニンやクルプスカヤの『教育論』を創造的に発展させられたのですか。
 
 
細野 レーニンは総合教育ということを言っています。基本はフォイエルバッハのテーゼですよ。教育の基本は教育者が教育されるとか、認識というのは労働過程でできるとかね。自主性とは働きかけること、そうしてこそ知識を獲得できるわけで、働きかけないで、あれが悪いこれが悪いと言うだけでは勉強はできない。昔から条件ばかり論ずることに抵抗を感じています。
 
 教員を増やす問題でも、教員があずきつぶみたいにバラバラのときには、いくら増やしても有効でないと言うのが私の意見です。客観的には教員増に賛成だけど。教員が集団として結集しているときに一人でも増やすと、これは俸大な力になるわけです。
 
 
須田 あずきつぶでなくて、もちごめでないといけない(笑)。
 
 
細野 そのことをはっきり認識して活動するとき、教員増の要求は熾烈になるし自信が出る。それなしに条件改善闘争やったって力にならんですよ。条件が悪くていいと言ってるのじゃないんです。物質が先だと主張することは大事ですよ、観念論をふせぐのには。だけど、観念論のいっている積極的側面が否定されるようじや困るんだな。青少年の自主性を圧殺している悪条件をとりのぞくことは教師自身の大きな課題なんですよ。先の三つの命題も要は教師が自らのものにすることです。
 
 
須田 それでも今なお新鮮な命題ですね。
 
 
細野 立命館大学で言う研究・教育の現代化・総合化・共同化ということ、これが大事だということは教育運動の中で獲得したものです。言い出したころは皆変に思ったようです。そのうちに学生の方が教員に要求してきた。
 
 現代化というのはスプートニク打上げ後の数学教育の現代化という課題から考えたわけです。現代化というのは、第一に現代的課題を積極的にとりあげる、第二に現代的視点をもつ、第三に高校までの教育の特徴をつかむ、第四に現代社会を生き抜いていくのに必要な力量は何かを考える、この四つが内容です。市内の中学校の教研集会で取り上げたのが最初で、立命では一九六三年の学費闘争のとき、ぼくが学生に提起した。教授会ではなかなか理解してもらえなかった。少数の積極的な諸君が支持してくれた、フル運転でね。いまの立命館がフル運転したらどうなるかと心配するぐらいだけど、ようしたもんで団体が大きくなるとそう運転しません。
 
 
須田 あまりようしたもんではないですけど(笑)、大きくなるとそういう問題がでてきますね。
 
 
細野 避けがたい、それだけに工夫しなければなりません。従来のやり方ではまわらんようになる。
 
 
京都の運動に自負もって前進を
 
 
須田 教育センターの今後の発展について。
 
 
細野 教員組合がいろんな研究課題や運動をセンターに提起してもらうこと。事務局を強化すること、教育をめぐる課題を事務局が積極的に提起すること。それと、共同研究者をもう少し結集することが大事ですね。
 
 現代社会では知力を養成する学校教育というものが非常に重要性をもってきているし、教育問題への国民的関心も強いので、統一行動や統一戦線の核になると思う。教育は平和運動の核兵器全面禁止協定みたいなものでね。あちこちの教育懇談会などの運動を掘りおこして動向を見定めながらセンターの考えを広げていくこと、PTAや先生にセンターの仕事を浸透させていくことですね。
 
 
須田 最後に若い教師へのひとことを。
 
 
細野 憲法と教育基本法にもとづいて平和と民主主義の教育をすすめてもらうことです。自主的集団的力量を養うという点では、子どもや学生に要求するだけではだめなんで、われわれ教師の方もお互いに学ばねばならんのですよ。
 
 それともう一つ、京都の国民教育運動に対する批判はあるし、私たちもこの批判に応えなければなりません。しかし、それにしても運動の歴史に学べば、そこから積極的な成果が得られるという確信をもって、運動を見ることです。京都の国民教育運動が京都の民主化、ひいては日本のそれに対して果していることに、私たち教職員、父母をはじめ民主運動に加わる多くの人が自負をもって前進することです。
 
 
須田 お忙しいところ、どうもありがとうございました。
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