事務局   2014年度年報目次

第45回京都教育センター教育研究集会 第9分科会
障害児教育で大切にしたいこと
〜教育課程・教育目標・教育評価を通して考える〜

                西城 信幸(京都障害児教育研究センター)

 

基調報告  「障害児教育で大切にしたいこと」
木下博美(京都障害児教育研究センター代表)


1 はじめに 「教育はどこへ行こうとしているのか」
〜教育課程・教育目標・教育評価を通して考える〜


 即時的な結果のみを求め、教師の意図通りに子どもを操ろうとする「強い指導」が、全国的に強められ広げられてきています。それは、教育目標が「社会的要請や望まれる行動規範」即ち、外にある要請に合わせる力の獲得(就職準備教育)に大きな重点が置かれる傾向が目立ってきていることと無関係ではありません。

 「長期目標からの逆算方式による短期目標の設定」「できることが客観的に評価できる数値化された目標」が必要以上に求められています。それは、子どもたちの内面の育ちが評価されにくい教育計画や、大人の指示通りに動くことを求める学習活動、形式化された人との言葉のやり取りの「訓練」の強化など、即効性を求める「教育」の広がりとなって表れています。これらは、人の心を受けとめて通わせていくコミュニケーション力を育てることとは、異なるねらいを持つものです。

2 支援学校のホームページから「教育目標」を見てみると

 各支援学校のホームページに書かれている内容を読んでみると、「仲間と協力して」「豊かに生きる」ことを目的としている学校や、個を「きたえる」ことに重点をおいている学校など、卒業後の社会参加をどうイメージするかによってかなり異なるものになってきています。

ある支援学校の学校経営計画より抜粋

◆作業学習を中心に、その特色を一層明確にして、進路希望の実現を図る。

◆小学部からの働く生活を見通した指導、中学部「作業学習」の充実、高等部1年生からの職業実習など、早期から進路実現のための指導を進める。

  今、支援学校の高等部には、一般就労の比率を上げることが強い目標としてのしかかってきています。もちろん、生徒の希望に添って一般就労を実現することは大変重要な進路実現です。しかしそれが、学校毎の一般就労率を上げる数値目標とした場合には、教育内容にゆがみをもたらしかねないのです。

 たとえば「小学部からの働く生活を見通した指導」とした場合に、どんなことが起こるのでしょうか?

 「イスに正しく座って、学習する力を身につけるための足マーク」。例えばこのことが「はたらくためには、必要な力」との理由から自閉症教育の中で、一面的な指導が行われるとしたら。本来の「足マーク」は、分かりやすくするためのものであるはずですが、「正しく座らせる」こと自体を押しつける結果になってしまいかねません。しかも、その多くは熱意ある指導のもとに行われます。

「スケジュールに合わせて行動する力をつける。」予定表の掲示は、行動を分かりやすくするためのものですが、行動変容だけを求めてしまうと、予定通りにこどもの行動を制御するためのものになってしまいます。

3 夏季研の三木講演において提起された問題

「2001年指導要録改定の中で、障害児教育に対して3つの要求が出されています。」

@ 客観性」の要求  A「測定可能性」の要求 B「成果」の要求。

( 例)頻繁に廊下に座り込んでしまう生徒に対して「次の学習の場所に、歩いて移動することができる。」?「自分で立ち上がることができる」?「歩いて〇m進むことができる」?という目標が立てられるとしたら、本人の思いや考えに目が向かないことになります。考えるべきなのは、なぜ座り込むのだろう?なぜ歩かない?歩けない?のだろう?何を願っているのだろう?ということであるのですが。

(三木講演より)

 「教育目標の教育的価値が、軽視ないし無視される事態がおきています。発達障害の子たちの教育目標・評価の研究をするようになって、人権侵害の事例がたくさん寄せられるようになりました。人権侵害の指導や暴力の指導、想像以上に深刻な事態が広がっていると言えるのです。これは教育評価の問題ともつながっています。」

 府下の支援学校の現場でも、教育目標や評価項目を 先ほどの@ABの視点で作成することが強く求められ、「達成=できる」ことを目標に設定する指導がすすめられてきています。

 そこにあるはずの人間的豊かさや人格的広がりが、教育の目標と実践から外される指導が浸透しつつあります。表面的に「測定できる」ことが必要とされることで内面的な葛藤や心の育ちへの目標が薄れ、担任が「成果」を強く求められることによって「できる」ことばかりが重視される実践が行われることになります。

4 「京都の教育の中で大切にされてきた視点」

 発達をタテとヨコでみる。タテの教育目標とヨコの教育目標能力の獲得。心と人間関係のひろがりを教育課程・教育目標・教育評価を通して考えること。

5 ある支援学校の教育目標は、このようになっていました。

「自分で考え、仲間と協力して、たくましく、豊かに生きる子どもたちを育てる」

<そのための目標として>

・基礎学力や社会性を身につけ、自立し社会参加する力をつける。
・自分を見つめ、主体的に生きる力をつける。
・命を大切にし、健康に生きる力をつける。
・自分と仲間を大切にし、豊かな心で生きる力をつける。

 その中に流れている考え方は、教育のプロセスをとおして画一化、均一化を求めてはならない。個性化、多様化を追求する。「ニーズに応じる」ということ。実践の主体が、「指導者」であってはならない。発達の主体は、子ども自身である。ということと考えることができ、私たちが大切にしてきたこととつながるものとなっていました。

(中略)


講演「教育目標、教育評価から考える」人間の弱さに不寛容な学校ではなく未熟さの中にこそ輝きを見つける学校へ−自閉症の子どもたちを念頭に−  鳥取大学地域学部  三木裕和

 家族の弱さ、痛みがあるから学校がある。社会も矛盾があるから学校がある

「教育の荒廃」問題

・A 先生の報告:ある特別支援学校中学部、生徒を怒鳴る。理不尽な叱責

通常の教育においてもよく見られる傾向

・先生が子どもを怒鳴る、学生も怒鳴られる(ある教育実習)

修学旅行の引率教員が他の学校教員とけんか

教育の「荒廃」で、被害に遭いやすいのは発達障害、知的障害の子どもか。

社会性の障害、能力主義的生存競争で不利な子ども

・いったい、学校はどうなっているのかと思える状況はいくらでも報告される

黙って食べる保育園の給食(学校から、「おたくの保育園ではどのような指導をされているのですか」)

読書の時間に、本を持ってくるのを忘れたら生徒手帳を読まされる(おかげで、校則についてとても詳しくなった)

教育実習参加のためのチェックリスト

教師をあきらめる教育学科学生、教育実習での厳しい評価、学外からの苦情

・発達障害、知的障害の教育を考えるとき、この問題を避けて通れない

学校とは何か、教育とは、授業とは。子どもとは、障害とは?

人間の弱さ、未熟さに不寛容な学校の背景には、人間の弱さ、未熟さに不寛容な社会が存在する。

自閉症教育に見る操作主義的教育観

日本特殊教育学会第50 回大会自主シンポジウム33

自閉症の子どもたちの社会適応行動の獲得を目指した授業実践です。シンポジウムの冒頭、東京都教育委員会が自閉症児の「社会性の学習」の位置づけを説明しました注5)。

「社会性の学習は、社会性の障害に起因する現在や将来の生活上、学習上の困難を軽減していくことにあるが、中学部段階では、小学部よりも一層、家庭や地域生活、将来の職業生活の中で困難に直面していくことが想定される。そこで、中学部の自閉症の生徒が障害特性から直面する困難な状況を整理し、それらの解決に必要な力や援助設定を明らかにした課題整理表を作成した。加えて、社会性の学習で学んだことを実際の生活で活かすための指導のあり方についても研究開発校の指導事例をもとに検討を加えた。」
要約すると、将来の社会生活で困らないような力をつける教育であるということです。

それを受けて、現場の学校教員が実践を報告しました。

報告を聞きながら、私は実に多くの疑問を感じ続け、悲しい思いにとらわれました。なかでも看過できなかったのは次のことです。
この取り組みには、生徒が自ら考えたり、迷ったり、逡巡したり、さらには拒否したりする余地がないという点です。もちろん、生徒が買い物を拒否すれば認められたかもしれませんが、それはあくまで「おつかい行動」の未獲得として評価されるということです。「正解とされる行動」が決められている授業は、生徒の知的活動を認めず、創造性を無視する授業なのです。

学校は学校らしく実践しよう

社会性:必要性がある場面の設定

教師と子供の信頼関係を基礎に、あくまでも教材の文化的価値を信頼し、子どもの集団的活動性に依拠した実践。結果として社会性の発達を目指す。教材の価値をわがものとする過程で自己変革が起きる。教育の本質的営み。
教育の専門性は、子どもの困難から逃げないこと。

買い物学習において、回を重ねるごとに、お店の人を「人」として捉え、意思の交流を通して、人への信頼を深めることはあります。物理的ストーリー、行動的ストーリーとしてだけ買い物を捉えるのではなく、生徒本人や生徒集団、教師、お店の人を含んだ心理的ストーリーが授業の重要な要素として意識され、自閉症の人の社会性が育っていく道のりを教育位置づけることは可能です。むしろ、これを抜きに教育は成り立ちえません。

世の中にあふれる商品文化の中から、自分の生活、家族の生活を豊かにするものを自ら考え、選び取り、買い、持ち帰り、生活の中に取り入れていく。そういう買い物行動は、私たちの生活を彩る行為です。家族の意思を受け取り、それを買って帰る行為も、家族の喜ぶ姿とともに、生徒を励ますものでしょう。それは子ども自身の知的活動、情意的活動を伴うものであって、この中核的価値こそが授業づくりにおいてもっともよく検討されなければならない要素です。

これを見失い、行動獲得だけが問題にされるとき、教育は教育でなくなります。

教材の価値が内面化される過程。溝手範子「6 人の子どもたちと過ごしたひまわり学級の取り組み」、障害者問題研究第42 巻第2 号、46-53溝手実践「クリスマスオールスター」という絵本の文化的価値が一貫して尊重されていることが分かります。それを子どもたちに分かるように伝え、子どもたちが情動をもって受け止め、教材に主体的に働きかけ、自らを変えていくという過程が授業となっています。「発表のための道具」として教材が扱われるという逆転の発想がありません。

それは、溝手先生が「私は絵本や歌が大好きなので」と書いておられることからも明らかなように、教師自身がこの教材の価値にリアリティを見いだしているからです。教材や教育内容の計画は教育内容の普遍的価値にもとづくものであって、決して教師の個人的な嗜好に左右されるべきものではありませんが、しかし、教師がそこにリアルな価値を見いだしていない場合それを豊かに教材化するはできません。教育内容に教師自身が深く共感することが授業の基礎となります。

教材の価値をわがものとする過程で自己変革が起きるという、教育の本質的営みがここに見られますが、それは「発表のための道具」として教材を扱わなかったからこその到達点です。

報告を一読して分かるのですが、溝手先生は子どもの行動が社会化されたことを必要以上に喜んではいません。かつて「おふざけが引き金となって、けんかに発展し大騒ぎになった」日を懐かしむ口調からも読み取れるように、非社会的行動への寛容な態度があります。子どもの不適応行動への寛容さと、教材の価値への揺るぎない共感。これが溝手実践を支えています。

教育というものは、すぐに成果が出る場合もあれば、そうでない場合もある。しかし、目の前の子どもたちから出発し、教材の文化的価値、子どもや教職員の集団を信じ、困難な現実に向き合い続けることそのものが専門性です。この専門性はカリスマ的でもなく、権威主義的でもありません。そういう実践こそ教育を前へと進める力です。

教育目標・教育評価 文科省は学習目標・学習結果

学習目標・学習結果は決まったもの、それに対して学習を通して行動変容があったかをみる。学習目標の問い直しはない。教育評価は、何を教えるべきか、教育目標はどうか、教材はどうかを問い直す。

すべての人間にとって幸福になるための本質を伝えることが障害児教育。二つの特徴。@目の前の子どもの切実な現状から目標を出している。A仮説的である。

質疑より

数値より言語化が大切:事実を言語化し、教師間で共通確認されたことの結果の蓄積することで目標化出来る。

健常児では情意目標が評価されるが、特別支援教育では排除されている。

構造化によって子供の行動をコントロールしていないか。

心の問題は、その子がどれだけ認識できたか。そのことで文章化していく情意のもとは認識の力。
 
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              2015年3月発行
京都教育センター