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第45回京都教育センター教育研究集会 第6分科会
民主的カウンセリング・ワークショップ
〜学校・職場・地域・家庭でよりよい人間関係をどう築いていくのか〜

                芦田 幸子(民主カウンセリング研究会)

 

 この間、秘密保護法の制定・施行、集団的自衛権行使を容認する閣議決定、そして憲法改悪へと情勢の動きは「戦争できる国作り」へと急速に進んでいます。

 子ども達は伸びやかに成長する「子ども期」を奪われ、過度な競争社会の中で苦しんでいます。若者は不安定雇用や劣悪な労働条件の中で、将来を描くことが難しくなっています。

 こんな時代だからこそ私達は、人と人との温かいつながりを作り、人が人として 尊重される社会を作っていきたい。そんな想いで今回も、まわりや自己の内なる声に静かに耳を傾けながら、自由で自発的なふれあいを体験するワークショップを開催しました。

 今回の参加者は男性5名、女性7名で12名でした。参加者のほとんどがカウンセリング経験者でした。研究会会長のあいさつと簡単なオリエンテーリングの後に、自己紹介を行い、その後自由な発言と交流の時間をもちました。

T、午前のワークショップ

1、 あいさつ、オリエンテーション

・ 先日の選挙結果から2つの流れが見えてきたと考えられる。ひとつは若者を中心にアートやネット、ITなどを駆使して、もう黙ってはいられないぞ、私はこう思うと自己主張する者が増えてきたということと、もうひとつはもう少ししたらアベノミクスのおこぼれがあるかもしれないという期待を持つ者いたこと。今後この流れがどうなっていくのか、これから大切にしなければならないのは何なのか一緒に考えていきたい。カウンセリングが情勢と切り離すことのできない存在になってきたことをますます実感している。

・ 私達はいろいろな人間関係の中で、人との関わりの中で生かせてもらっている。しかし、この人間関係がなかなかうまくいかない。特に親子関係、夫婦関係など身近な関係がむつかしい。今日はしんどい関係についても出しあって、話しあえたらと思っている。相手を尊重するということはどういうことか率直に出してほしい。

・ 他の分科会と違いテーマがあり結論があるという分科会ではない。何かについて話し合うのではなく、自分の持っているもの、思いを出して響きあい、気付きあう分科会。エンカウンターとは出会いを意味する。人と出会う、自分と出会う、時々に出会った響きあいの中で成り立つ。ひとりひとりが主人公。伝えたい、話したいと思ったことを自由に発言してほしい。ただしルールはありこの分科会で聞いたことは今日限り、他にもらすことのないように守秘義務を守ってほしい。

2、 自己紹介など

・昨日の全体集会で年齢調査があった、20〜30代は2〜3人、60代が多かった、同年代の80代は3〜4人だった。80代になると物忘れ多くなるので毎日日記をつけている。朝に昨日のことを思い出して書いている。ボケ防止にはものを書くことと歩くことがいいらしい、じっとせずに毎日1時間くらい歩いている。

・画家展に行った。若々しくひかれるみかんの絵があった。なぜ魅かれるのか考えるとそのみかんを見ている人の気持ちはが絵に現れている気がした。理論ではない感性、自分が育ててきた内面のものを表現する、知識を増やすのではなく、内から湧き出るものを育てる、そのことはカウンセリングと通じるものがある気がした。

・乳がんの手術を1ヶ月前。せっかくがんになったのだから、人間性や人生観が変わるかなと思っていたがそうでもない。今はがんになってよかったと夫と話している。夫は今日も洗濯をしてくれて「もう慣れたものだ」と話している。買い物も「慣れたもの」としてくれるようになった。また、いろいろな人に支えられていることを実感した。バラバラな家族だったががんになって解り合えたこともある。1番元気の出た見舞いである9ヶ月の孫をつれて来てくれた息子は、高校時代に登校拒否だった・・・考えてみるとうれしいことよかったことが、がんになっていっぱいあった。

・仕事がきびしくなってきた。青年支援を1人でしている。中間就労が何件か続できている。その他の支援もなんとか。青年が続いていることが励みになっているが徐々にしんどくなってきている。

・1年くらい前から体調崩れて1年ぶりにこのような場にきた。身体に痛みがでてくると人間不安になる。“〜ができなくなるのでは”“このまま自分はどうなるのだろう”と考えて不安な1年だった。それと同時に、共に人と関わること、話すことがどれだけエネルギーになるかを感じた1年でもあった。家で痛みを感じるとマイナスの感じ方になる。同じ痛みでも話しをするとプラスの感じ方になる。
 こんなにしんどいのに一人暮らしの息子が食事をするために帰ってくる。なんで私が食事の準備をしなければならないのかと思っていたが、それが生きがいになっていたかもしれない。感じ方によってマイナスにも、プラスにもなると感じた1年だった。

・こういう場所にくるといろいろな感じ方、考え方があることがわかる。いろいろと違うことがおもしろいと思う。そのなかにはいろいろな気付きもある。人は様々。つきあいもうまくいったり、ちゃんと止めてもらえなかったり・・いろいろある。

・ここ数年家庭に引っ込んでいる。気楽に好き勝手にいられることは気持ちが楽と実感している。時々グループに出たり食事に行ったりすると気持ちがホコホコして帰ってくる。今やっと本当の意味でのエンカウンターの良さがわかってきたのかもしれない。

・職場で誤解をされて責任をとわれた。でもその人はそう思ったのだろうなあと思い、謝るしかなかった。結局誤解のままで、まちがった子どもは謝る機会をなくしてしまった。それでよかったのかと思うことがある。

・全面的に責任を負うのはおかしいのではないかという思いが残ったのではないか。

・思いを違う人に自分の思いを伝えること難しい。伝えられたかったことはいつまでも心に残ってしまう。

・お互い感情的にならずに話しあえたらよかったのではと思うが、それがむつかしいのだと思う。

・昼から鶴田浩二を見ながら飲んでいる。底まで落ちた風景が心に響き、涙が出てくる。

・それを見て、何かを感じるのではないか。したくてもできなかったこと、やりのこしたこと、あるのでは?・

・休日になったら尼崎のドヤ街に行く友人がいる。そこに行くと人間らしさにホッとするという。世間にない優しさがあるようだ。決まりきった社会にはない、落としてきた人間性があるのではないか。人間は両面があってバランスがとれるのだと思う。

・誰の心の中にも枠からはみだしたいという思いある。社会や世間の枠から出てカッコつけずに正直に話したいという思いある。カウンセリング受けるとここでなら何でも話せると思える。理論の問題ではない。自分の不消化な部分を出して、これもまあいいかと思えたらそれが自己受容。それが人に向かうと人もまあいいかと思えるのだと思う。

・人の話を聴く、自分の声を聴く、もうひとつ自然の声を聴くこともが大事だと思う。

・高倉健が自分の心の中には人を殺したいというような強い欲情がある、役者にならなかったら刑務所に入っていたかもしれないと話していた。それを聴いて健さんも同じ人間だと思えてホッとしている人がいるのではないか。

・健さんのように行動、発言すること大事。なんらかの行動が大事。

・日本人はいかりの感情を表現するのが苦手。おまかせ主義の民主主義になっている。

・少しずつ変化している所もある。ネットで自分の肌で感じた二ュ―スを取り入れたり、発信したりすることができるようになった。

・自分の中の疑問をキャッチすることがむつかしいが、自分で疑問を感じて調べることが生きた知識になると思う。

・「助けて」「もうしんどい」とはなかなか言えない。

・無意識のうちにより評価されやすい自分を作っている。

・わからないことや弱いことがダメと自分で決めている。“弱い部分がある”のであって、全面的に弱いわけではない。弱さを隠していたのでは信頼関係は生まれない。

・弱い者、できない者は社会でバカにされていること多い。この社会の中でなかなか出すことできない。その思いが身体に出る人もいる。信頼関係が生まれないというのではないのではないか。ガードして当然、当たり前だと思う。

・ネットも政治も傾いて、弱い者を攻撃している、ヘイトスピーチを言ってもいいという雰囲気がある。

・歴史を正確に学ぶ必要がある。カウンセリングとは真実を知ること。世論や社会の動きとは無関係ではない。

・教育の力はすさまじい。教育で神風が吹くと信じて疑わなかった時代がある。

・本音が言える職場にしょうじゃないかという動きはないのか。軍隊にみたいな職場ばかりなのか。教育の場はどうなんだろうか。


U、午後のワークショップ

・ 昼休憩に駅伝を見た。後ろの選手を見て拍手して応援したくなった。見ることによって一体感を感じた。応援している他の人の気持ちもわかったり自己発見したりすることも多かった。その場にいないとわからないことある。

・ ぼくも思わず拍手してしまった。まわりの人も同様に拍手していた。人間は弱い人を見たら助けたい、応援したいという思いがあるのではないか。

・ 巨人・大鵬・卵焼きのように強いから好きという人もいる。

・ 強いから人気出る風潮はある。きっと同一化しているのだと思う。自分が勝ったように思えるのだろう。自分の弱さを表現するのは難しい。表現したとしても脚色して適当な弱さにしていかないと、どん底の落ちても、同情をかわないような形にしたい。

・ 同情はいやだなあ。同情は上から目線のだから、嫌なんだと思う。

・ 見せたくない面は人によって違う。割合、簡単に見せられる面もある。

・ 動物的な欲望、食欲、性欲などは品が悪くてカッコ悪いと思われるので、見せたくないのではないか。

・ 動物的な欲望でいえば、勝たないとだめというものが本能的にあるのではないか。

・ 弱みを見せないのは本能的なものがあるのかもしれない。乳がんになっていろいろな人に話をしたが同情されるのはいやな感じがした。「大変でしょ」と言われると自分でそこまで思ってないので“私のことをわかってくれた”という感じがしない。私自身はさめた感じ。解ってくれた、励まされたという感じしない。深く入り込んで助けてあげようという意図が見えてしまうと嘘っぽい感じもした。

・ どんな風に関わってもらいたかったのか。

・ 人のことを心配で心配で・・・という気持ちはなんか違う感じ。それぞれの所でそれぞれの思いでやっていっていかはったらいいのではないか。どんな対応、状況でもそれがその人なんだからと思う。私の場合は病名を聞いた時も開き直りがはやかった。人によって受け止め方が違う。私の場合はどうしょうという時期がなかった。

・ 人はその人が表現するところをそのままもらわないと仕方ない。

・ どんな状況であってもあるがままの自分でいられるかがそれまでの人生観によると思う。健康でないとだめではなく、健康も病気もある、いろんな人を受け入れる、いろんな自分を受け入れる。予期せぬことをどう受け入れるかが問われている。

・ 私は彼女が健康な人と思っていたので、病気、がんと聞いてショックだった。なんで?と思った。けれど、まわりに同じようにがんの人がいたのでイメージができた。心配しながらも彼女の気持ちがわかる気がした。

・ 自身はショックをうけなかったとのことだが、周りにショックを受けたり動揺したりする人がいると聞いて、その人に気持ちも受け止めてほしい気がする。“あっさり”という自分の気持ちだけでなく、まわりの気持ちも大事にしてほしい気がする。人間はもっと複雑な思いの中にいるのではないか。

・ “私は力になるよ”と押しつけられるのは“いらないよ”という感じ。

・ 弱い自分を隠したい自分もあっていい。弱い自分を認めようと頭でわかるものではなくて感覚としてわかっていることが必要ではないか。

・ 気づくことは大切、自分の隠していたことを話して受け入れられることは、ある意味しんどいことではあるけれど、幸せなこと。人間関係を重荷に思うことある。家に人がきてもらうこと気が重い、「友達だもん」と言われると重荷になる。ひとりでいたいんだ、関係性を持ちたくないという所ある。友達になったら“〜しなくてはいけない”のではという義務感を感じてしまう。醜い自分が見えてしまう、知っている人に、込み入ったことまで知られるのは嫌という自分ある。自分の母もそうだった。人に対して心を開いてない部分ある。できれば付き合えたらいいなと思うがそんな自分に慣れている。

・ なんだか今の話しを聞いて親しみを感じた。実体が見えた感じがする。率直に感じを話してもらって、うれしい。

・ ぼくも人と関わるのに神経を使う。さっと逃げてしまう所ある。

・ 亡くなった母がぼくに憑依したのかもしれない。母が亡くなっても寂しくない。一緒にいるような気がする。食べ物の好みや咳、気にする所も似てきている。母がぼくを励まそうとしてくれている気がする。

・ 深い欲求不満が学びの原動力かもしれない。しんどいけれど、しんどいからこそ通常の枠を超えていける。そこから生み出されるものに価値あるものある。

・ 職場の会議後に新年会の提案があった、私にだけ、わざわざ「予約してもいいんですよね」と確認されて、カチンときた。出席するつもりだったが、行かないと返事した。帰りに「元気だしてね」と言われてまたカチンときた。日がたっても怒りおさまらずに、当人ではなく上司に手紙を書いた。それで少し落ち着いた。

・ 人間関係は難しいとつくづく感じる。自分自身が豊かになっていくことが必要かなあ。


V、感想から

・ とても充実した1日になったと思います。午前も午後も興味深い話ができ深い内容でした。ひとりひとりの思いの大切さ、人間性の豊さを体験できてよかったです。一人一人を大切にできる人間として今後も努力していきたいと考えています。

・ 自分のことに関わって、いろいろな話しを聴いてそれぞれの思いを出してくださって嬉しかったです。自分が何気なく無意識に発言したことに対して、真剣な受け止めをして返してくださって、自分の思いを整理できたような気がします。ゆっくりしたテンポで次第に自由に思いを出せる雰囲気だったように思います。

・ 政治・情勢・歴史の話から、人間関係のむつかしさ、自己表現、自己を知ることの大切さまで本当にいろいろな話ができました。カウンセリングを経験された方が多かったためか深い話ができたのではと思います。

・ 少人数のせいもあるのか人間について深い所で考える時間でした。私も自由勝手に思うこと言って、言い過ぎではないかと反省しています。まるごと自分を肯定して、あるがままに生きていきたいものですね。

・ 専門家の人数が多く、話が難しく私にとっては気持ちが満たされない会でした。これは私の意識の低さからくるものかもわかりません。

・ 今日はいろいろ興味の持てる話題で賑わったと思う。私自身もよくしゃべったし出席した意味があった。

・ 今日は人数が少なくまとまった話ができたように思います。

・ 今回はいろんな話を聴かせて頂いて、笑いも多くあり一味ちがった楽しいエンカウンターでした。人間関係はいろいろあるけれど、それぞれに適当な距離感が必要と感じた。

・ 今日は社会的な問題や政治にかかわる話なども出され内容豊かなワークになったと思います。初めて参加された方もよく話され、最後の方は自身の人間関係を作るしんどさや負担感についても語られ、みんながいろいろと関われて良かったと思います。

 
 「京都教育センター年報(27号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(27号)」冊子をごらんください。

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              2015年3月発行
京都教育センター