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第45回京都教育センター教育研究集会 第2分科会 教育実践の困難さと希望 −−子どもたちのつながりを育てる生活指導実践 内廣夫(生活指導研究会) |
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ここ数年発達問題研究会と合同開催としてきたが、それぞれ独自の開催となった。報告・討論に加われた参加者は、昨年とほぼ同じ人数であった。中学校教員の参加が少なく、関係機関の所属者や保護者の参加が得られなかったことを次年度の課題として改めて考えていきたい。さらに若い教員の参加が得られるように次年度に向けて取り組んでいきたい。 [基調報告内容]「生活指導研究会中間総括と生活指導実践の課題」 内廣夫(生活指導研究会事務局) 報告の概略を以下に掲載しておきたい。 【T】2013年度生活指導研究会で学んだ教訓 1.「決して排除しない」原則的な決意の再確認 ・課題をもつ子どもたちを包括的にとらえる視点の必要性 −ケアの側面と指導の側面を意識的に取り込みながら ・保護者との教育的な連携の視点の重要性 −「格差社会」「貧困化」の犠牲者としての共感に基づいて ・教師集団の協力と協働の視点の重要性 −カンファレンスから子ども観・教育指導方法の一致を ・「子どもは学びによって失敗を財産にかえる」という視点を 2.職場の合意形成への巧みな戦略の重要性 ・様々な機会を通じて議論を ・「押しつけ」にならない合意形成を ・「まちがい」は「まちがい」と指摘する意見表明を ・「緊張」と「不安」を共有し、指導の見通しを確認できる教師集団形成を 【U】2014年度京都教育センタ−生活指導研究会の取組概要 【V】教師の困難さの要因 1.多様な困難を抱えた子どもたちへの対応の難しさ 2.保護者の要求が切実で多様かつ即時的ものとなってきている。 3.困難な労働環境・仕事の多忙さ→自らの生命を削り蝕みながら 4.一方的で画一的な教育観や方法の強制、教育管理システムによる圧力と統制 【W】教師の現状は 1.自分のことで手が一杯となり同僚のことまで思いが至らなくなる。 2.同僚性や連帯が醸成されないまま息苦しさが生まれている。⇒{同調圧力} →本音が出せない。本音で語り合うことができにくい。 →安心できる居心地のよい協力的な人間関係が感じられない。 →学校職場の人間関係をもっぱら「職務遂行上の人間関係」に閉じ込めている。 3.教師をマンパワ−としてしかみない周囲の評価に傷つき悩む教員が増加している。 (新教師ギャップ/自己嫌悪感と自己無能力感) 4.管理体制と教員評価によって教師集団は分断し、その中で孤立していく教員が増加して いる。(教員カ−スト/上意下達の雰囲気)⇔仮面を装う自己防衛 5.「目標達成」のための生徒との関係性に閉塞し、生徒を多様でうごめく思考をくぐり抜ける存在とみることができなくなりやすい。 【X】楠論文と春日井論文が示唆する内容 楠凡之(くすのき・ひろゆき)北九州市立第大学 2015/03/08「『発達障害』と子育て・教育」(青空の会」教育講演会用レジュメ) 楠氏は「自立支援上の留意点」として以下の4点を上げている。 1.その子どもの"view"(意見・見方)と生きづらさへの共感的応答を 2.困った時に適切なかたちで他者にヘルプを出せる援助を 3.自分の気持ちや感情と折り合っていくプロセスへの援助を 4.他者や集団内のトラブルの丁寧な読みときを 春日井敏之(かすがい・としゆき)立命館大学 2014/11/24 「つながって生きる−子ども・青年の自己形成と支援を考える」 (【2014年度生活指導研究会活動のまとめ】を参照して下さい) 【Y】本研究集会生活指導分科会で学習したい内容 管理されている子どもたちがその抑圧された気分・感情・思い・意見を表現することすら略奪されているのではないか、それ故に自己破壊的な行動や逆に他者攻撃的な言動を示してしまうのではないか、と指摘する人もいる。私たちは子どもたちの自己破壊的な言動や逆に他者攻撃的な言動のなかに、言語化されていないその抑圧された気分・感情・思い・意見を読み取り、それを教師自身にも子どもにも理解できうる事項として言語化を試みる必要があるように考える。その言語化されたものが教師と子どもとが背負う課題として両者に確認された時に、信頼回復の一歩が始まり、自己肯定感の基礎的土壌が耕されていくのではないか。本部会でこの視点も含めて報告に学びたい。 【特別問題提起】「生活指導実践における希望とは」「希望は子どもたちから見えてくる」 高垣忠一郎<心理臨床家> 最初に高垣氏は、「奥行きをもってその子どもの本質を観る」こと、「世間相場と生命相場の両面から子どもをしっかりと見つめる」こと、これが子ども観てあると強調された。そして苦しんでいる子どもたちに耳を傾けるということは、自らの心に耳を傾けることであり、さらに自分の感情を的確に表す言葉によって自分が見えてくるのだから、自分との問答を通じて、その抑圧された内面を共有化できるつながりを教師は生み出せなければならないとする。すべての子どもたちが問うてくる唯一の専門家として教師は存在し、子どもの心・気持ちの代弁者として存在するのが教師である。高垣氏は、そのためには教師が生まれ変われる必要があり、自浄グル−プをどのように作っていくかが大切である、と提起した。 レジメを参考にしてまとめておきたい。 1.子どものたちの内面に耳を傾けられる大人に「生まれ変わる」こと 時代の最先端を生きるフロントランナ−である子ども自陣に語ってもらい、教えてもらいながら、一緒に考えることができる絶好な位置に教師はいる。教師が自らの指導に希望を見いだせるとすれば、そのことをしっかりと自覚することからでしかない。 @ 校拒否の子どもの親のカウンセリングから 自分と向き合うという癒しと辛さを潜り抜け、子どもとしっかり向き合える親に「生まれ変わる」。そうして初めて子どもの目に親や学校、世界(他人)がどう見えており、それらが子どもの心にどう感じられているのかということに耳を傾けることができるようになっていった。 A まれ変わるために「生みの苦しみ」 頭でわかっても、心がついてこない。人間が「生まれ変わる」ことは生半可な「生みの苦しみ」ではない。教師はどんな「生みの苦しみ」をしているのか。それを抜きにして子どもにしっかりと耳を傾ける仕事ができるのだろうか。 B 戦後に教育はほんとうに「生まれ変わった」のか? 脅かしによって子どもをコントロ−ルする体質を学校教育は(教師は)克服することができているのだろうか。それを克服することなしに教育実践のなかに「平和と民主主義」を真に実現することはできない、また教育実践の中に「平和と民主主義」を真に実現することなしに、子どもの心を開くことはできない。 2.「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感の育つ土壌となる集団づくり @生活指導実践の課題:子どもの内面を聴き取れる関係をつくること 課題をもつ当該の子どもに寄り添い、その子の内面に心を傾け、そこにある傷つきや不安さみしさ、辛さなどの感情を、その子が言語化し表現できるように援助することが大事な課題になる。そのためには、この先生にそれを話しても大丈夫という信頼関係を教師と子どもの間にまずつくらなければならない。 A聴き取れた内面の感情や気持ちを他の子どもたちと共有すること 集団の中に感情を共有した内面的なつながりが作られていくこと、そのことによってクラ巣集団が「他人とともにありながら、安心して自分自身でいられるような」集団になり、祖の集団に身を置き種々の活動に取り組むことを通して、「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感が心に根を生やし、育っていくことを援助することができる。これが、額校の生活指導実践に求められている共通の課題である。 B競争原理」ではなく、「共感原理」が生きているクラス集団を 「共感原理」が生きる関係を学校やクラスなかにつくること、その中に身を置くことによって子どもたちは自分を支配していた「競争原理」を相対化し、その支配から自らの心を少しずつ解放していくことができる。そういう集団の土壌に身を置くことによって、「自分が自分であって大丈夫」と自己肯定感も根を生やし、育っていくことが可能になる。「分が自分であって大丈夫」とは、「あるがまま」の自分を認め、受け入れ、自分と共に生きていけるようになるということ、自己肯定感の「肯定」は「わかったよ」という「共感」の「ヨシヨシ」であり、「何々しても大丈夫だよ」という「赦し」の「ヨシヨシ」です。 C おしめパンツ」のような教師に 不安や恐怖心を超えて、辛いこと、しんどいことという「排泄物」をもらしてもらうためには「漏らしても大丈夫」という安心感が必要、その安心を与えることができるような存在を「おしめパンツ」と表現している。このような存在が生命の働きを活性化させる意味でも大切である。 D 子どもたちの抱える困難さ・教師の抱える困難さ トラブルの場面での当事者の感情や気持ちの働きをよく聴き取り、それを解きほぐすことのできる「体質」や力を教師が自らのなかに育てる必要がある。そのためには教師自身が自分の傷つきや感情や気持ちを誰かに語り聴き取ってもらうという関係をつくる。同僚生や教師集団がそれを可能にするようなものに育っていく大事な課題がある。 3.希望は「いのち」−生まれ変わり、成長・変化することを支える「いのち」の働き− @「世間相場」のモノサシ(目)と「生命相場」のモノサシ(目)と二つの目で子どもをみる。 A3・11が教えてくれたこと→「金品よりいのち」 B人間もまた生きものである。 C生活指導実践の基本作法 子どもは(人間は)生きものであり自分で自分を直していく、教師や親はそれを手伝う存在。誰もが天から与えられているいのちの働き=自然治癒力・自己回復力、免疫力などを活性化するように手伝う。 E 己愛と自己肯定感 「自己愛」は自分の部分的な「性能」を評価し、それによって自分を肯定する。「自分が自分であって大丈夫」=「自分を愛する」ということは、丸ごとの自分の存在そのものを愛し、自分のダメなところもこれが自分だと引き受けて「自分と共に生きて」いくことである。「自己愛」に取りつかれた人間は部分でっもって治部を否定する。このような「自己愛」がこの社会で幅をきかせるようになっている。それは人間が人材化されてしまっているからである。いのちを人材(道具)が乗っ取り、人材として「使い物」にならなければ、その存在(いのち)そのものが否定される。いのちを元気にするのは「あるがまま」の存在を拒否せず、受け入れる愛であり、赦しである。それを教師や親が回復することを希望する。 示唆に富み、時には参加者たちを鼓舞しようとする気迫にあふれた問題提起だった。 報告@「ひとりの課題をクラスの課題に」中山智子<府内小学校> 昨年度は低学年担任としての実践報告をしていただいたが、今年度は高学年での実践報告である。担当した子どもたちは、低学年から突出した子どもがトラブルを起こすことが多かったらしく、すぐにキレて暴れ出す子どもがいる上に、全体として落ち着かないという雰囲気である。そのような雰囲気もあってか、教師が子どもを呼び捨てし暴言をはくことがある。かかる職場の雰囲気の中で、先生は子どもたちに「必ずくん・さんを付けます」と宣言しクラス作りを始める。この報告で中心となるA君が「爆発」を起こしたとき、「話し合いでみんなで解決していく」ことをクラスに丁寧に話し合いでの解決を目指す指導を展開する。「祝う会」の内容を決める時、ほとんどの班からサッカ−がでたが、以前サッカ−をした時Aくんは暴力をふるい、とめにはいったBくんをけったためにAくんとBくんがけんかになったことがあってBくんは泣きながら反対した。様々な意見が出る中でA君が「おれがけんかをして、暴力をふるってしまって...。だからサッカ−はやめたほうがいい」と言って泣き出した。結局暴力はふるわない、みんなで解決すると確認しサッス−をすることになった。その後も「Aくんはクラス遊びでまたキレてしまう。でもこの時は、みんながその場に集まり、Aくんを押さえる子、『やめろって』となだめる子、私を呼びに来る子となかなか”連携プレ−”ができた。そこをほめて、もう一度暴力禁止を確認して、祝う会はできた。..Aくんをみていると、あの話し合い以来、少しクラスの子の反応を気にしながら、乱暴な言動が出るのを押さえようとしているようでもある。..暴力・暴言は嫌だという雰囲気をクラスに作り出せてきたのは確かだ」と現在の到達点をまとめられた。 Aくんは、運送会社に勤める父親との二人暮らし。2年生の時に離婚。サッカ−のクラブチ−ムに所属していて上手な少年。言動は荒っぽいが人なつっこく、ユ−モアもある。スキンシップを無意識に求めてくる。前担任からは突然キレ出すとてがつけられないと聞いていた。先生は、・ちょっとした言葉でバカにされたと思い込む理解力の不足、・思いを伝えるには、あまりにも貧しい語彙力、・その裏にあるバカにされたくないという意識、・学力面で気付きだした他の子との実力差、・家庭環境、生育歴からくる寂しさと大事にされたい、自分を見てほしいという思い、甘え、とAくんが切れてしまう理由を推測している。 率直に言ってこの推測に違和感を抱いた参加者も多かった。それは子ども観と指導観に連結しているからに違いない。特に参加者から質問と意見が出た場面が報告の中にあった。それは「5月Aくんが爆発した」経緯である。 「きっかけは腕相撲。担任に負けてくやしかったのだろう。終わりの会で『以前私に勝った子が一人だけいたなぁ。ちょうど同じ名字やったわ。Aくんも筋トレしてまた挑戦してきぃ』と言った。クラスのみんなも笑ったのだが、それを、バカにされたと思ったのか、さよならのあいさつをした後で戻ってきて、『何、バカにしてくれんねん!』と、服を引っ張るわ、髪の毛はつかむわ、あげくに教卓をけってひっくり返そうとした。椅子にすわって仕事をしかけていたところで、突然の彼の爆発にびっくりしてしまった。『ばかにしたんじゃないホントのこと言っただけやん。なんでそんなにおこるん?でも気分を悪くしたんなら、それはあやまるわ。』爆発中のかれに、そんな言葉は届かない。『うるさい。おまえのせいでばかにされた。死ね。』(あぁ、やっぱりこの言葉が出ちゃうのか−)その後クラブがあって、教室を片付けに戻ると、床に散らばっていた画鋲や磁石はきれいに片付けられていた。先に戻ったAくんがしたらしい。..」(原文のまま) ・先生の意図が何であれある生徒との比較の上クラスみんなの嘲笑の的にしたことになるので はないか。Aくんがバカにされたと受け止めることは当然の結果である。 ・『ばかにしたんじゃないホントのこと言っただけやん。なんでそんなにおこるん?でも気分 を悪くしたんなら、それはあやまるわ。』という発言はさらにAくんのプライドを傷つけて いるのではないか。「ホントのこと」とはAくんにとっては何を意味するのか。 ・話しかけ・指導は子どもの現状に対して一定の効果をねらって有効なものでなければならな いが、先生の発言にはその見通しがなかったように思える。むしろ先生の発言・対応がAくんの 爆発を誘発したと言えるのではないか。 ・この場面から「その裏にあるバカにされたくないという意識」でAくんがキレるとみるの は誤りではないか。「甘え」させてやることの重要さをもっと受け入れるべきである。 等々の意見や質問がでた。この報告の中に先生の「とまどい」が描かれている。例えば「優しくすることは難しい」という文言がある。中山先生の「本音」が正直に語られている。しかし、本来指導は子ともたちの自主性を前提に成り立つものであり、ある目標(価値)にむかっていくように「その気にさせる」ものであって、だからこそその気にさせる説得や励ましを含んでいる。そのためにはひとりの人間として尊重されていると感じられるような温かい態度、つまり受容の姿勢が必要と言える。本報告に対する意見や質問は、この視点から教師の「指導」のあり方を吟味するものであった。 報告A「M子の苦悩、そして『笑顔』来る日を待ち続けて」恩庄澄<府内中学校> 最初に限られた紙数の中で、A4×10枚にも及ぶ本報告を紹介することは難しく、個人的にはさらに整理して多くの教師が学習できるようになることを切望している。その上で本報告の大きな特徴は以下の二点と言える。 1.本報告は、他の教育実践研究団体で発表した際に指摘された内容を丁寧に補っていってい るものであり、その都度深まりのあるものとなっている点で特徴がある。その意味で本報 告は既に何度かの集団的検討を踏まえたものである。 2.本報告の筆者は「京都南部M中学グル−プ」とあることから、発表者恩庄先生の個人的な実践記録ではなく、当該中学校の教師集団の総合的な実践記録である。恩庄先生がその中心になっていることは言うまでもないが、この実践記録をより深めていく作業が、即職場の教育現実と子どもの実態を踏まえた自主的な教師研修としての機能と個々の子どもに関するケ−ス・カンファレンスの機能の両面を有している。 小学校2年・6年と激しい学級崩壊を経験して本校に入学してきたM子は一学期後半より崩れていく。9月、10月は「学年崩壊に近い状態」で授業に入らず、指導できない状態となった。M子はトイレに入って出てこない、授業は大半寝るかトイレ、クラブでは上級生とトラブル続き、2年時も授業・教室にほとんど入れず、つっぱりグル−プに合流していく。本報告ではそのM子にたいする教師集団の取り組みが各時期、各場面で詳細に記録されている。特に母親や祖父からの聴き取りとともに小学校時代のM子の様子、中学校に入学してからの担任とM子との会話内容や養護教諭とM子との会話内容等が具体的に記録されている。それらの記録から学年としての意思統一が図られていることが読み取れる。ケ−ス会議開催も大きな転機と言える。10月になってM子の表情が穏やかになり、「高校へ行きたい」「新しいノ−ト買おう」「おじいちゃんが勉強みてくれはるねん」と言うまでに変化が見えてきた。M子は中間テストも少しは点が取れるまでになったし、授業でノ−トを書く変化も示した。 参加者から「教師集団はM子が抱えている課題はどこにあると見立てていますか」と質問があったように、この点が明確にされていないのが残念である。同時に担任の見立てがチ−ム・カンファレンスを通じてとのように変化したのか、しなかったのかについても疑問が残る。このレポ−トは今後も発表されていく可能性があると推察されるが故に、この疑問に教師集団として応えていただきたいと期待する。 |
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