事務局   2014年度年報目次

第45回京都教育センター教育研究集会基調報告

子どもと教育をめぐる情勢

                 京都教育センター運営委員会

 

全体情勢 憲法と教育改革

はじめに

 「日本ヨイ国、キヨイ国。世界に一ツノ神ノ国。日本ヨイ国、強イ国。世界ニカガヤクエライ国。」(国定教科書『ヨイコドモ・下』(「修身」1941年版)と教えるのが戦前の教育でした。そんな教育を取り戻そうとしているかに見える安倍「教育改革」がまかり通ろうとしています。

 戦後、教育基本法の原案を審議した教育刷新委員会の二代目委員長・南原繁氏の著作から戦後の新日本建設への熱い思いが伝わってきます(南原繁著『文化と国家』東京大学出版会)。

 教育基本法に謳われた「教育の目的」にある「人格の完成」という言葉はもともと「人間性の開発」でした。南原氏は修正に不満でした。「教育はあくまでも自らの魂をもった自主的自律的な人間個性の開発と完成でなければならぬ。実に自己実現こそ教育の理想である。私は単に狭い道徳的人格のことをいっているのではない。すべての偉大なものや、美なるものや、真なるものに向かって心を開かれた人間のことをいっているのである。」それが南原氏の考えでした。

 戦前の国民には熾烈な民族意識はあったが、一人ひとりが一個の独立した人間であるという意識は乏しかったのです。個人としての人間性の発展はなかったのです。個人は「国家的普遍」と「固有の国体観念」の枠にはめこまれて、とりわけ個人良心の権利と自己判断の自由が著しく拘束をうけていたのです。

 日本国民には西洋諸国が経験したルネサンスのような「人間の発見」「自我の目覚め」というものがなく、ヒューマニズムの成立がありませんでした。明治維新は、近代国家の形成に忙しく国家権力の確立と膨張に一生懸命で、一旦芽生えたはずの人間性と自己意識は成長を妨げられ、その結果封建的精神と制度が取り残されたのです。だからこそ、戦前の国民は少数権力者の虚偽の宣伝に乗せられ、欺かれてその指導に盲従したのでした。

 ここから導きだせる新生日本の何よりの課題は、日本国民の「個人」としての目覚めであり、自立でした。新憲法における第13条「すべて国民は個人として尊重される・・」という宣言は、新日本の建設の礎に当たるほどの大事なものだと考えられるのです。その理念を実現するに大いなる力を発揮しなければならないのは何か?教育と文化です。日本国民の個人としての目覚めと自立を成し遂げる教育と文化が重視されるべきなのです。

 新しい日本国憲法によって完全に保障された「個人の自由」が根を降ろし、国民が全体主義の束縛から解放されて、合理的な思考方法と自己の良心に基づく自己決定的な力を獲得するためには、何よりも国民の新しい教育によらなければならなかったのです。そうでなければ、進行しつつある民主的革命も、一時的表面的なものにとまり、再び保守反動の波に洗い流され、その後にくるものは以前よりもかえってみじめな状態であろうと南原氏は危惧していました。いま、まさにその南原氏の危惧が現実のものになろうとしています。

 その使命を担う教育者の最善の能力は、人間を抑圧するような統制のもとではなく、自由の雰囲気のなかに置かれたときにのみ、十分に発揮しえます。そこに教育者としての自律心や自発性が生まれ、文化の創造力である自由の精神が現れるのです。教育者が自己の使命を自覚し自ら責任と義務をもって互いに協力して、その任務に当たるようにしむける事が教育行政の眼目でなければなりません。

 およそ教育は単に一時代の社会を対象としてではなく、「人間」そのものを主体として考えるとき、はじめて本質的な意義をもちます。真の人間性を作ること、一人ひとりをその置かれた環境のなかで、それぞれの個性に応じて最善のものにまで形成し、それによって各人が自分で考え自分で意欲し行為する自由の人格たらしめることは、教育の不変の理念でなければならない。そう南原氏は考えていました。

 この意義を忘れて、いたずらに国家思想を注入し各々の個性を国民としての一つの型に鋳込もうとしたところに、旧き日本の教育の誤りがあったのです。人格の自由や尊厳を蹂躙して、ただ「民族の発展」の名の下に太平洋戦争も遂行されたのでした。

 「さらに現在同じ危険がないだろうか。現下の経済的社会的の苦難に直面して、人々は社会的組織と結合の力に人間の救済を期待する。ここに、個々人は再び自らの固有の存在と自由を犠牲にして、ひとえに巨大な組織の構成員として教育されるべきであるとの主張が生じるのである」戦後間のない頃に発した南原氏の言葉が烈しくよみがえってきます。

1、憲法をかえ、「戦争する国」へ

 安倍政権は、秘密保護法を制定して情報を国民から隠蔽する仕組みをつくり、国家安全保障会議を設置し国家安全保障戦略を策定し、そして集団的自衛権行使を容認する閣議決定を強行しました。まさに憲法解釈を変更し、日本をアメリカとともに海外で「戦争できる国」にしようとするものです。さらに安倍政権が押しすすめている原発再稼働、消費税増税、「成長戦略」として労働法制の改悪などは、貧困と格差を拡大し、国民の願いに背を向け矛盾を広げるものです。

2、安倍政権の教育政策の特徴

 安倍政権の「教育再生実行会議」は、これまで出した提言1「いじめの問題等への対応」で道徳の教科化、提言2「教育委員会制度などのあり方」で教育長の権限強化、提言3「これからの大学教育のあり方」で学長権限の強化、産業界の競争力強化に貢献する人材づくり、提言4・5「高等教育と大学教育との接続・大学入学者選抜のあり方」「今後の学制等のあり方」で6・3・3・4制を換え早期教育、飛び級制度など効率的にエリート養成教育をおこなう道筋をつくろうとしています。安倍政権の教育政策の特徴は、財界が求める世界で活躍する「グローバル人材」の育成と、「戦争する国づくり」のための人づくりといえます。

3、憲法の精神に基づく教育の創造を

 大飯原発運転差し止め請求事件で福井地裁は2014年5月「人格権は、人の生命の基礎とするものであるがゆえに、我が国の法制下においてはこれを超える価値を他に見いだすことはできない」と画期的な判決を下しました。何よりも子どもを人間として大切にし、憲法と子どもの権利条約に立脚した教育を学校と地域で、教職員、父母・府民が力を合わせて創り上げていくことが求められています。


当面する課題

1.現代の子どもをめぐる状況と問題・課題

―いじめ、不登校、体罰、虐待、暴力、子どもをめぐる事件―

 現代の子どもをめぐる状況で、「大津いじめ・自殺事件」「大阪桜宮高校体罰事件」から3年「いじめ防止対策推進法」実施から1年経ちました。これらを口実にして「教育委員会制度」改悪が強行されたことは大きな出来事でした。法律を厳しくしたり、数値競争をしても子どもの問題は簡単に解決したり、一気に減少するものではありません。いじめ、不登校、体罰、暴力、子どもをめぐる事件には 過度な競争、格差、子どもの貧困問題等、深い社会的背景があり、地域の協力・父母保護者と学校・教師の粘り強い取り組み抜きには変わってゆかないのです。

(1)「いじめ問題」と教育行政・学校・教師―「小学校いじめ最多」報道―

 2013年6月の「いじめ防止対策推進法」(9月施行)は「厳罰主義・道徳主義」の傾向を持っていましたが、全国の行政、学校で「基本方針」作りが進められています。学校現場では、いじめ問題重視の意識は高まりましたが、「報告文書」が増え、学校での集団論議・対応以上に教育委員会への報告が優先される傾向が起こっています。いじめ件数減らしや「数値化目標」競争は批判され改善傾向にありますが「いじめはどこの学校・学級にも起こる、大切なことは子ども親と教師・学校が共に粘り強く取り組むこと」と「子どもと学級の実態」をありのままに、共有することが大切です。2014年10月に「いじめ最多、低年齢化」と文科省の調査結果が各県別に発表されましたが、いじめの認定基準があいまいで数値だけで比較できません。

(2)減らない「不登校・登校拒否」、大切な「親の会」

 子どもの人数は年々減少していますが「不登校・登校拒否」の人数は減っていません。「横ばい状態」から「不登校小中六年ぶりに増加、12万人」と10月発表されました。それは行政の不登校対策が強化されている一方で、「学力テスト点数競争」「管理主義教育」が一層進んでいることの現われでもあります。不登校の調査も「出席」の基準が学校外の施設やフリースクールも出席扱いにするのかどうかが、地域によって違いがあり数字だけで「増えた、減った」と判断出来ない面もあります。

 「無理に登校させるのは良くない」と言う考えが父母・学校教師に広がっている影響もあります。一方、学校・教師の働きかけ全てを機械的に否定してしまう例や、逆に「不登校はなまけ、親の甘やかし」説も根強く残っています。「スクールカウンセラー」や「適応教室」に任せきりにすることも課題です。不登校の「親の会」と結んだ、学校現場の集団的な粘り強い取り組みが大切です。

(3)まだ残っている「体罰」、中学「部活問題」も課題

 大阪の「桜宮高校体罰自殺事件」以降学校内外で体罰問題は関心を呼びました。生徒指導における「体罰」には「ゼロトレランス」指導が背景にあり、「部活・クラブ活動」体罰には「勝利至上主義」と「大学スポーツ推薦入試競争」が背景にあります。体罰事件には厳しい批判が寄せられた反面、「体罰肯定論、根性論」も根強く残っています。また「部活と体罰」は「世界一の超過勤務量と発表された中学校教師勤務問題」解決と「部活指導のあり方」解決は重要な課題でもあります。

(4)増え続ける子どもの暴力、「問題行動」と「学・警連携」の危険―「低年齢化」と報道―

 「きしよい、きもい、がいじ、死ね、ぶっ殺す」等の暴言が、日常化している中で子どもの暴言・暴力、問題行動が増えています。中には「自殺しろ」まで言われた「名古屋転落死自殺事件」まで起きています。(大津いじめ事件でも自殺の練習をさせたのかどうか裁判中です)

 子どもの暴力が集団化し「恐喝・傷害事件」になった場合は警察との連携は仕方ないとしても、情報収集として中学校に日常的に警察が「指導」に入ったり、小学校に「いじめ」「万引き」指導で直接警察官が授業・学年指導したりするのは、行き過ぎで「教育の放棄」ではないかと批判されています。

(5)激増する「虐待」、背景に深刻化する親の経済状況、貧困格差

 見せかけの「景気上向き」とは逆に庶民の生活は苦しく、生活保護家庭数は最高になっています。虐待も年々増え続けています。生活におわれ子どもを育てる余裕を失った親が増えているのです。一人親家庭も増え続けています。幼い時の虐待、育児放棄の体験は就学後の教育を困難にしています。少年院で更正する子の6割は虐待経験があるといわれています。今日の「指導困難」と言われる子どもの背景には「虐待経験」があるのです。又「勝ち組」といわれる「経済的」に恵まれた子ども中にも、親のその地位を守りたい願いから子どもに精神的虐待とも言える過度な進学競走主義からの犠牲も増えています。

(6)深刻化する「子どもをめぐる事件」増加、子どもの豊かな成長と安全を守る課題

 神戸の「小1幼児殺害遺棄事件」や最近の幼児被害増加は小さい子どもを持つ親、国民に衝撃を与えています。「栃木県小学生殺害事件」「亀岡集団通学路事故」の時も指摘されていましたが、子どもの「通学安全」だけでなく「放課後の子どもの安全」が緊急の課題になっています。「学童保育」「保育園定員増」の要求は増え続けているのに「年齢制限」「待機児問題」で予算不足が問題になっています。「女性の社会進出」を政策宣伝しても「子どもの学童保育」「幼保園定数増」に予算を出さなくては矛盾しています。

 「佐世保高1同級生殺害事件」、最近の「北海道、祖母・母親殺害」は、どちらも「学力優秀」な子どもが起こした事件です。思春期の子どもの悩み、苦しみを把握することの困難さを示しています。虐待体験の子どもや「問題行動」を起こした子どもに寄り沿い、その苦悩に共感できる親と教師のしなやかさが課題になっています。

2.学力問題と教育課程をめぐる状況

(1)「教育改革」は誰のため?何のため?

 この30年余、子どもたちの変容や教師の指導力不足を口実にした「教育改革」の名において様々な施策がトップダウンで試みられてきました。しかし、少子化のもとでも減少を見ないいじめ・不登校問題に示されているように、何れも「綻びを繕う装いのもとでむしろ綻びを広げてきた」改革であったといえよう。学力問題も然りである。10年ごとに改訂される学習指導要領は、90年代までの「詰め込み教育」の反動で導入された2002年からの「ゆとり教育」も「PISAショック」などを背景にして、その検証を示さないままに2011年度から実施された現行指導要領では再び「学力重視」が叫ばれる状況にあります。子どもに実態を踏まえての教育論議を尽くさないままでの試行の結果である。「教育課程の編成権は学校にある」という原則も横に置かれ、授業の細部まで画一統制される流れは一層加速している実態にあります。

 また、全国でも京都でも広がる学校統廃合とリンクした小中一貫教育も、教育的な根拠に欠ける「切磋琢磨」論や「中1ギャップ」論を振りまきながらも肝心の一貫カリキュラムには学校教育法の壁によってほとんど手がつけられないままに推進されてきています。

 こうした「改革」は一体誰のため?何のため?の改革なのかと言わざるを得ません。

(2)「テスト栄えて授業滅ぶ」の学力競争の広がり

 学力問題をめぐる状況は依然として混迷を極めています。これに拍車をかけているのが文科省の全国学力テストをはじめとした競争テストの横行です。全国一斉以外にも京都府、京都市や市町村レベルの一斉テストも行われ、授業時間確保を謳いながらも「テスト栄えて授業滅ぶ」の感がある。教育基本法「改正」の翌年から教育振興基本計画の策定権を得た文科省が強行した「全国学力調査」は今年7回目を実施し、その結果公表をめぐって様々な議論を呼んでいます。民主党政権期にあっては財政問題も絡んで抽出としたが、昨年からは再び悉皆調査となり、家庭の経済状況などの調査も取り入れた。半世紀前の学力テストで混乱中止に追い込まれたことの教訓も横に置いて、文科省が発表する県別平均点全国ランキングが「ひとり歩き」して学校や子どもを点数競争に追い込んでいます。文科省は当初、府県別結果は公表するものの、市町村や学校単位の公表を抑制する立場にあったが、今では大阪や鳥取などの先導的公開を容認するに至っています。こうした公表によって県・市町村教委や学校では、点数アップのための非教育的な施策で子どもや教職員を追い込んでいます。過去問のトレーニングや探求型の共同学習を取り入れた「秋田モデル」の真似事など、上からの「叱咤激励」が子どもたちの学習意欲を逆に低下させ、人間的成長に見合った学力形成の大きな障害にもなりかねない実態にあります。更に中教審では、高校版全国学力テストともいうべき「高校基礎学力テスト」を高2以降に年複数回実施し、大学入試の選抜資料として活用することも考えています。また、文科省の「学習状況調査」でも明らかになったが、子どもの貧困率が17%に達し、親の経済格差が子どもの学力格差を生んでいるという問題があります。貧困層の子どもたちは学習塾への通塾が低く、自己肯定感も低いと言われる検証があり、OECD加盟国で5年連続最下位にある公財政教育支出をせめて平均並みに引き上げることが学力問題の解決には不可欠なことと言えます。混迷の背景にあるもう一つの要因は国際的学力競争の指標になっている国際学力調査「PISA」にあります。この調査の実施主体であるOECDのねらいは、人間の能力を資本と捉え教育という投資で増大させるというもので、与えられた枠組みで学ぶことを強いることで豊かな基礎学力が形成されるのか疑問です。

(3)道徳の教科化をめぐって

 10月21日に出された「中央教育審議会答申」では、安倍内閣の求める「道徳の教科化」を盛り込みました。現行道徳は教科外の活動で副読本を使用するものの評価はありません。「評価のないことが道徳教育軽視の一因になっている」などの理由で、2007年の中教審論議では「不適切」とされた評価が記述式とはいえ強引に導入され、2018年度の小学校からの実施を目論んでいます。道徳は、憲法に基づく基本的人権の尊重を中心にすえ、押しつけではなく子どもたち自身の頭で考えて培うものであり、与えられた価値観で子どもの内面を評価することは本来の道徳心を形骸化することになりかねません。国が検定する教科書ができるまでは、今すべての子ども達に配布している文科省作成の「私たちの道徳」を使わせようと、下村文科相は家に持ち帰っての積極的活用を促しています。「私たちの道徳」では、「してはならないことがある」「社会のきまりを守る」など、どの学年でも「規範意識を教える」ことが大きな柱になっています。その背景にはいじめ問題がありますが、いじめは「規範意識」を教え込めばなくなるものではありません。また、「国を愛し、伝統の継承と文化の創造を」(中学校)など改悪教育基本法で掲げた「愛国心」が盛り込まれていることは、戦前の特定教科としての「修身科」で教育勅語がその柱となった反省を置き去りにするものです。京都教育センターが発刊した「子どもたちにゆたかな人間性を」を用いて文科省「私たちの道徳」批判を強め、私たちの側の道徳実践を広めることが求められています。

(4)小学校英語は必要なのか

 9月末の文科省有識者会議では、「アジアトップクラスの英語力育成」を掲げて「小5から正式教科に」「3年前から始まった高学年での『外国語活動』を小3から前倒し」「大学入試にTOEFLなどの外部試験を活用」などの報告書をまとめ、中教審での議論に付しました。この背景には、財界の意を受けた「教育改革」の一つの柱として、仕事に英語が使える少数の「グローバル人材」の育成があり、無謀な英語教育政策を矢継ぎ早に打ち出しています。2011年度から導入された小学校5,6年生の「英語活動」では、子どもたちの興味関心に一定応える内容になっているものの多くの課題を呈しています。事前準備やALTとの連携、指導法の研究など担任への負担が大きく、専科教員がほとんど配置されていないこと、外国人講師の配置や教員研修が学校や自治体に委ねられていること、などです。また、2013年度から実施された高校での「オールイングリッシュ授業」が実状に合わない混乱を招いているにも拘わらず、中学校にも降ろそうとしています。小学校への英語導入に伴って、就学前の子どもたちにも安易に英語を取り入れ、心配する保護者が英語の習い事を早めることも広がっています。こうした「英語過熱」は、逆に早期からの英語嫌いを生み、一部のエリート育成の影で大半の子どもたちを切り捨てかねないことになることが懸念されています。また、どの子にも言語を学ぶ喜びを持たせるには、文法や語法、言葉のきまりなどを大切にした英語の基礎的な力をすべての子どもにつけること、日本語を大切にした自己表現力を高めることなどが指摘されています。

 11月20日、文科省は英語拡充や日本史必修化などを盛り込んだ新学習指導要領(2020年度実施)を中教審に諮問し、16年末までの答申を求めています。

3.教科書・歴史認識問題

(1)教科書検定

 安倍内閣のもと、教科書を通じた教育統制がさらに強められています。今年1月「教科書検定基準」が改定されました。内容は@記載すべき事柄を具体的に定める方式にする。A多数説(政府見解、最高裁判例、通説など)・少数説であることを明記させる。B数値(特に歴史的事項)については、その根拠を明記させる。C検定基準のみならず教育基本法、学校教育法、学習指導要領に照らして重大な欠陥がある場合は検定不合格とすることを明記する、以上の内容です。さらに検定審査要項を改定し、検定申請時の提出書類に新教育基本法の目標をどのように具体化したかをいちいち明示させることとし、これら提出書類をHP公開することとなりました。これらは教科書の記述を新教育基本法の「教育の目的」や学習指導要領の枠組みに押し込めるとともに、多数説・少数説の明記、数値の根拠の明記は南京大虐殺の被害者数などをめぐる論争を念頭に、近現代史叙述を狙い撃ちにしようとしたものです。背景に歴史修正主義的な意図がうかがえるとともに、検定申請時提出書類の公開は教科書会社に圧力をかけることにもなり、自由な教科書執筆・編集を萎縮させるものといえます。

 2015年度より使用される小学校教科書の検定結果が4月(例年は3月末)に公表されました。社会科では4社すべての教科書が5年・6年で竹島・尖閣諸島についてとりあげ、政府見解に則して記述するようになりました。しかも検定意見がついたことにより、隣国との対話による解決への言及が消える事例までありました。「アジア・太平洋戦争(太平洋戦争)」の記述が「太平洋戦争(アジア・太平洋戦争)」と修正されるなど、検定によって教科書記述の後退が見られます。なお今年1月、文科省は学習指導要領社会科『解説』を改訂し、領土問題と災害時の自衛隊を含む関係機関の役割について詳述しました。今春の検定結果はこれら基準・要項・解説の適用外ですが、すでに教科書会社が文科省の意向を忖度する傾向が出ていることが問題です。

(2)教科書採択

 4月、政府は教科書無償措置法を改定し、広域採択地区協議会の採択を優越させるとともに、単独市町村でも採択地区とできるようにしました。これは沖縄県八重山の竹富町教育委員会が、育鵬社の公民教科書を強引に採択した石垣市教育長とそれを後押しする自民党などの押しつけを排除し続けたことに対し、政府が法律の改定で対処しようとしたものです。しかし、竹富町は正当にも単独採択地区となることによって自らの採択結果を合法的に適用することに成功しました。しかし、右派勢力は首長の教育委員会への関与を強めた、来年4月から施行される新しい教育委員会制度をフルに活用しようとしています。新教科書無償措置法を受けて市町村を単独採択にすることにより、保守的な首長とその教育委員によって育鵬社などの教科書を政治的に採択させる戦術をあからさまにしています。京都では8月と11月に「頑張れ日本!全国行動委員会京都府本部」と「京都の教科書を良くする会」の共催で、藤岡信勝氏らを講師に府議市議を招いた講演会が開催されています。彼らは新教育委員会制度における首長主宰の総合教育会議の場と教育行政の大綱を通じて教科書採択に関与しようとする方針を打ち出していますが、新教育委員会制度においても教科書採択は教育委員会の専権事項とされており、首長や議会が関与することはできないことになっています。来年度の中学校教科書採択へ向けて、法律の趣旨を正しく運用するよう市民が保守勢力に反撃するとともに、教育委員会の監視が必要です。

 また「日の丸・君が代」強制の事実を記述した実教出版高校日本史Aに対する教科書採択妨害の動きは東京都、神奈川県、横浜市、大阪府などで引き続いているとともに埼玉県、新潟県などにも広がっています。しかし、高校の学校ごと採択を否定することに対して手続き的な疑義が都教委、文科省の官僚サイドから出始めています。

 そもそも教材の一つである教科書は現場の教員が生徒と学校・地域の実情を考慮して選ぶのがあるべき姿であり、教科書採択は教育の内的事項に関わるものです。教育委員会が採択を所掌すると法規定されているのもあくまで手続き上のことです。現場の声を尊重して学校採択を行う、あるいは広域採択においても然るべき教員を調査委員として教育的専門的な調査研究を踏まえて教科書を選ぶのが本来の採択のあり方です。教員はその職務として教科書の学校展示や教科書展示会の場などを利用し積極的に教科書採択に関与することが求められます。教員とともに父母、市民もまた子どもたちにどのような教科書を手渡したいか、教科書展示会に出かけ意見を教育委員に届けることが大切です。京都市内でも14年度の小学校教科書採択にあたって教科書展示会への教員・父母の参加を呼びかけ、意見を届ける活動を行いました。検定強化のなか、よりよい教科書づくりに苦闘する良心的な教科書会社・編集者・執筆者を激励することも大切です。

(3)歴史認識問題

 八月、朝日新聞はいわゆる従軍慰安婦に関する吉田清治氏の証言にもとづく記事を取り消しました。これを機に、朝日新聞が世界に誤解を蔓延させたとする朝日バッシングと、吉田証言が否定されれば「慰安婦」の強制連行も存在しなかったとする歴史修正主義が横行しています。しかし国際的な「慰安婦」関連勧告・決議や、強制連行及び女性の人権蹂躙の事実を認め謝罪した河野談話は朝日新聞の記事取り消しによって何ら変更されるものではありません。安倍内閣の下で河野談話作成過程の検証が行われましたが、河野談話が吉田証言に基づいたものではないことが明確にされ、政府は国会でもそう答弁せざるを得ませんでした。朝日バッシングをもとに日本の国際的「名誉回復」を唱えることは、河野談話を継承すると言明している内閣の方針とも明らかに矛盾します。政府、マスコミ、大学にも広がる非論理的な歴史修正主義を決して許すことはできません。京都では12月13日に「日本軍「慰安婦」否定攻撃とマスメディア問題を考える講演会」を開催し反撃しました。

 来年は戦後70年にあたるとともに中学校の教科書採択の年です。安倍内閣に村山談話・河野談話を否定するような声明を出させるわけにはいきません。そして子どもたちにより良い教科書を手渡すために、私たちの奮闘が求められます。

4.高校教育の実態と課題

 2013年、京都の公立高校普通科の類型制度は廃止され、コース制度の導入が進められました。また、京都市内・乙訓地域で通学圏を一本化し、総合選抜制度の廃止と前期・中期・後期の受験機会複数化を取り入れた入試制度への変更も行われました。2014年3月に新しい入試制度による初めての入試が実施さましたが、前期入試では受験生の6割近い7112名が不合格になりました。山城通学圏のある高校では「(前期選抜の合格発表が)まるでお通夜のようだった」という声を京都新聞が報じています。前期選抜は見直し、廃止することが必要です。

 「公立高校は変わる必要がある。私立に負けないよう特色を打ち出し、魅力をアピールしなければ」(府教委高校教育課。朝日新聞記事)と大学進学やクラブ活動の実績を競う学校間競争が煽られる一方で、学校間格差の固定化、生徒の選別化は一層進行しています。

 選抜と競争の教育が加速することで、生徒たちの発達や教育、学校文化の質に与える影響が懸念されます。こうした現状の中でも教職員の真摯な努力は続けられていますが、「高校教育の目的は何なのか」「学校とは本来どうあるべきなのか」という教育の本質を問う思いが多くの教職員の間で広がっています。高校教育制度の在り方、高校入試制度の在り方を含めて、現場の実態、取り組みを踏まえた議論が求められます。

 特別な支援を必要とする生徒たちの高校入学の増加に伴い、教育施設や教職員体制の整備はもとより、教育内容の吟味や卒業後の就労や進学に対する福祉行政や医療行政とも連携した取り組みの交流と研究が一層必要になっています。

 2015年度に京都市内に清明高校が開校されます。午前部と午後部の2部制の単位制高校で卒業単位は74単位と少なくしています。科目選択により3年卒業、4年卒業を選ぶことが出来ます。清明高校がどのような学校になっていくのか、現在の定時制通信制学校への影響を含め、注目されます。

 京都市内の定時制の縮小は、少人数の中でじっくり学ぶ生徒とたちの居場所を奪うことになり、課題を残しました。

 府北部地域での高校再編の動きも示唆されており、今後注視する必要があります。

 また、教育制度や教育内容とともに学校の在り方、学校運営や教職員の働き方についても十分な検証が求められます。

 地域にとっての学校の意味、教職員の意見が反映され、モチベーションが高まる民主的な学校運営、心身ともに余裕を持って生徒たちと向き合える労働環境など、高校教育をめぐっては多くの課題があります。今一度、こうした包括的な視点に立った高校教育の再吟味が必要になっています。

5.大学改革問題

(1)教授会自治の形骸化

 6月、学校教育法・国立大学法人法改正が短期間のうちに成立させられました(2015年4月施行)。これまでの学校教育法93条では教授会を学位授与、学生の身分に関する審査、教育課程の編成、教員の教育研究業績等の審査などの「重要な事項」の審議機関と明記してきましたが、今回の「改正」で学生の入学・卒業、学位授与及び学長が必要と認めた「特定事項」の諮問機関へと格下げされたのです。そもそも大学とは教授会メンバーが互いの教育研究業績を自ら審査し、資格を認められた者どうしの自治によって大学の教育・研究・行政を行ってきました。このことは大学自治の根幹であり、西洋中世以来の大学の歴史そのものです。今回の改定によって、教授会は人事権、教育課程編成権などを奪われることになり、これは歴史的な出来事といって過言ではありません。

(2)大学のトップダウン運営

 この改定によって学長の権限が強化されたうえ、総括副学長に予算、人事、組織改変などの権限が与えられ「大学改革」を行う学長を強力に補佐することとされました。組織再編など学部の整理再編、新設をやりやすくしようとするものです。教授会自治を後退させ、トップダウンの改革をやりやすくしようとするのが今回の「ガバナンス改革」です。今回の法改定は国立大学法人を対象としていますが、私立大学も無縁ではありません。私学の経営者・学長が生き残りや文科省追随のために教授会自治をないがしろにすることが危惧されます。現に京都の大手私大では理事者らのトップダウン経営に対して、学部長共同声明など全学構成員自治をかかげたたたかいが進行しています。

 また国立大学法人法の改定では学長選抜は学長選考会議が定める「基準」にあうかどうかで選抜され、その「基準」などは公開することが義務づけられました(国立大学法人法第12条)。現在、大学は自らの使命・任務(「ミッション」)を再定義するよう求められています。本来は大学自らが決めるのですが、実際は文教予算配分の選択と集中、成果主義的配分のなか、中期目標案策定権を文科省に握られているのが現状です。法改定によって大学の学長選抜は従来の民主的な選抜から、文科省や財界の「基準」にあうかどうかで選出される仕組みに変えられたといえます。

 こうしたなか、京都大学の総長選出をめぐって「意向投票廃止」「総長の国際公募」などが報じられましたが、京都大学では職組が中心となり学内世論の一致によって投票を実施し、山極寿一新総長を誕生させる成果を挙げました。国会審議でも「学問の自由」(憲法23条)と「大学の自治」の尊重、学長選考基準に文科省は関与しないこと、学長が教学事項を教授会に委任することは「法律上禁止されない」との答弁を確認しており、また衆参委員会では「学長が教授会の意見を聴くことが必要な事項を定める際には、教授会の意見を聴いて参酌するよう努める」との付帯決議も行われています。学内世論を基礎に大学の自治を実質的に守っていくことが求められます。

(3)背景に財界の要求

 国立大学法人法の改定によって大学の経営協議会の委員の「過半数」が学外委員とされました。大学を学外の声によって動かそうとするものです。教授会自治をないがしろにし、大学をトップダウンで改編しようとする動きの背景には安倍政権と財界の要求があります。教育再生実行会議第三次提言(13年5月)「これからの大学教育等の在り方について」は、「徹底した国際化を断行し、世界に伍して競う大学の教育環境をつくる」、「イノベーション創出のための教育・研究環境づくり」を掲げ、年俸制導入、「スーパーグローバル大学」の選定、国際大学ランキングへの数値目標、国立大学によるベンチャー企業への出資、理数教育強化などを並べています。これらは財界が求めるグローバル「人材の育成」と、産学一体となって新産業を創出するために大学の資源を活用できるよう大学全体を分化・差別化し、個々の大学を再編していこうとするものです。そのための「ガバナンス改革」というわけです。

 第三次提言では「学生を鍛え上げ社会に送り出す教育機能を強化」するとして、大学における厳格な成績評価や、教員養成大学・学部の組織編制の見直しも打ち出しています。その上、初等中等教育段階からグローバル化に対応した教育の充実、理数教育の強化を求めています。小学校の英語学習の拡充・低学年化、「スーパーグローバルハイスクール」「スーパーサイエンスハイスクール」など、大学改革を源として小・中・高校教育の質をも変えようとしています。

(4)国民全体のための大学を

 今、大学は文教予算が増やされないなか、その成果主義的な配分のもと研究費等を確保するために改革を競い合わせられているのが現状です。学生は世界でも異常な高学費のなかアルバイト漬けで勉学を強いられています。奨学金は有利子返済が一般的で、就職後に困難な返済を迫られることになります。「キャリア教育」のかけ声や就職活動の早期前倒し傾向は学生が落ち着いて勉学に励む環境を奪っています。

 大学の研究・教育を向上させていくための改革・改善はもちろん必要です。しかしそれは国際的な大学ランキングを過剰に意識したものでも、財界のためのものでもあってはなりません。大学の教育機能の強化、学生の「質保障」をいうなら、学費を無償にすることによってより勉学に打ち込めるようにし、理解が不十分な場合は留年したり社会に出てからもう一度大学で学べたりできるようにすれば、成績評価の厳格化や学力の保障を実現できることとなるでしょう。高等教育の成果は社会全体に還元されるべきものです。大学がどのような研究・教育を深めていくのかは、「学問の自由」に根ざし、全構成員の参加と大学の自治を根幹にすえて決定されるべきです。

6.震災・原発問題

 未曽有の東日本大震災から3年9カ月となりました。しかし、いまなお約24万人の被災者(福島県の被災者は半数強)が厳しい避難生活を強いられ、先の見えない苦しみのもとに置かれています。

 福島原発事故は、原発が抱える危険性と事故被害の深刻さを明らかにしました。東京電力福島第1原発は「収束」とは程遠い、事故の真っただ中にあります。とりわけ放射能汚染水の問題は、大量の放射能が外部に流出しかねない非常事態に陥っています。破壊された原子炉建屋などに1日300〜400トンもの地下水が流入して高濃度の放射能汚染水が増え続けています。

 避難指示区域は約1150q2。 香川県の面積の6割にあたいする広さです。(2014全国教研フォーラム)学校や友達を奪われ安心できる場を失った子どもたち、生業を奪われた住民たち、今後、いつになれば、元の生活に戻れるのか、まったく見通しがつかない現状です。

 安倍内閣は、原発を「重要なベースロード電源」として将来にわたって維持・推進し、「再稼働を進める」とした「エネルギー基本計画」を閣議決定しました(2014年4月)。原子力規制委員会が定めた「新基準」をテコに、川内原発(九州電力)を突破口に20基以上の原発の再稼働をねらっています。

 「新基準」は、福島原発事故の原因究明もないまま、再稼働を急ぐために「スケジュール先にありき」で決定したものです。重大事故(「炉心の著しい損傷」)への対策は部分的で、EUで義務づけているコアキャッチャ(溶融炉心を受け止めて冷やす装置)はなくてもよいとしています。活断層があっても表に出ていなければ、その真上に原発を建ててもよいなど、きわめてずさんなものです。火山対策も、火山学者が無理だと指摘しているのに、巨大噴火を予知できると強弁して、川内原発を「合格」させる始末です。電源が失われ燃料を冷やせなくなれば、1時間半で放射能が漏れだします。「万が一事故が起きた場合には、国は関係法令に基づき、責任をもって対処する」(「エネルギー基本計画」)としながら、避難対策は自治体任せです。アメリカでさえ住民の避難対策は稼働の前提とされています。

 また安倍首相は、国内の再稼働で日本の原発の「安全性」を装いながら、原発メーカーやゼネコン、経団連と連れ立って、トルコや中東、東欧諸国へ原発輸出の「トップセールス」に奔走しています。

 福井地裁が2014年5月21日関西電力に対し大飯原発3、4号機(福井県おおい町)の運転差し止めを命じる判決を言い渡しました。福島のような深刻な原発事故が再び起これば、周辺住民の人格権(個人の生命、身体、精神及び生活に関する利益)が極めて広く侵害されるので、その具体的危険性が万が一にも存在する場合、原発の運転を差し止めるべきだというのが判決の主旨です。その上で3、4号機に係る安全技術及び設備が地震等に対して「確たる根拠のない楽観的な見通しのもとで初めて成り立ちうる脆弱なものであると認めざるを得ない」という専門技術的判断を下しました。

 いま日本は、原発を再稼働させ原発依存社会を続けるのか、再稼働を許さず「原発ゼロの日本」にすすむのか、大きな分かれ道にあります。

(1)「安全神話」ではなく、事実と科学に基づく私たちの原発・放射線教育の推進を

 文科省は、平成26年度から使用の「新しい放射線副読本(小学生用、中学生・高校生用)」を作成し、配布を希望した全国の小・中・高等学校、特別支援学校等に配布することとしています。

 新放射線副読本の狙いはあくまで被ばくの被害を隠す、あるいは小さく見せることにある点に留意し、汚染による地域の壊滅的被害の実相、高線量被ばくや低線量被ばくの健康への影響、内部被ばくの危険性などをしっかり伝えることが不可欠です。とりわけ、新放射線副読本の記述に即して、問題点を浮き彫りにすることで、説得的で効果的な批判になります。

 最も大切なのは、原発災害の教訓を踏まえて、子どもたちに原発と放射性物質の本質的な危険性を事実に基づいて正しく伝え、未来に生きる主権者として社会のあり方そのものを考える学習を、あらゆる場で保障することです。

 そのために、原発・放射線教育を、自然科学的な内容だけにとどめることなく、エネルギー政策を含めて社会科学的な内容もきちんと扱い、総合的な課題を設定して、その内容を創造・構築する実践が重要です。

 上記のとりくみをすすめるためには、我々自身がしっかりと学び、副読本を批判的に扱える力量を身に着ける必要があります。ぜひ「原発・放射能」のことを正しく教えるテキスト『原発・放射能をどう教えるか』(編集京都教育センター、発行京都教職員組合)や『原発事故!その時どこへ?』(発行京都自治体問題研究所)を活用しましょう。そして、我々の学びと実践は、教育関係者にとどまらず、幅広くさまざまな人々と協力・共同することでより豊かに進み、広がっていくにちがいありません。

(2)子どもの安全と学校給食

 京都府は、平成24年度で「学校給食モニタリング事業」(府下19市町が参加した調査)を廃止しました。結果、独自に検査機械を購入している、京都市、亀岡市、南丹市、長岡京市、京田辺市の5市が検査を続けているだけです。府の責任で安心して食べられる学校給食を保障すべきです。府や市町村に対して、「学校給食の食材は安全」の調査を要求していくことが大切です。

7.地域と学校

(1)子ども不在、経済効率優先の学校統廃合推進

 安倍内閣の「教育再生実行会議」の第5次提言(2014年7月)は、「学校規模の適正化」として学校の統廃合を掲げました。また政府の財政制度審議会は、来年度予算編成の方針の中で、「児童生徒数が30年間で4割以上減少しているのに対し、学校数は小学校で16.6%、中学校で7.5%の減少にとどまっている」とし、「学校規模の適正化」は「ランニングコストの縮減につながる」と、教育予算削減の目的での学校統廃合を主張しました。

 この審議会に出された資料では、学校規模を「12学級以上18学級以下が適正」とし、「小学校4km以内、中学校6km以内」との従来の基準から、「一定規模の児童数を基本とした基準の見直しが必要」と述べるなど、遠距離の通学も容認して統廃合を進めようとしています。

 しかし、統廃合により子どもがバス通学を強いられている、府内の学校では、下校時のバスの時刻に学校の教育活動を合わせざるを得ない、という問題が起こっています。5小学校を1つに統合した、京都市東山区では、子どもが友だちの家に遊びに行くのにバスに乗っていかねばならず、バス停でうまく待ち合わせできず迷子になった、という例も報告されています。増田寛也氏などが主張する「自治体消滅論」に見られる、地方の切捨てを加速させようという動きの下で、学校統廃合は地域の破壊につながります。3小学校・1中学校を1つに統合しようという動きが出ている、京都市の京北地域では、「自然の豊かな地域で子育てをしようと移住してきたのに、学校がなくなればこの地域で子育てができなくなる」との不安の声が出ています。

 現在の全国の学校の中で、「適正規模」の学校は小中とも3割前後にすぎません。1学級40人として480人〜720人が「適正」というのは、経済効率のみによる発想です。WHO(世界保健機関)は「人間的教育のため学校規模100人以下」を勧めています。日本の1校当たりの平均児童生徒数332人に対して、フィンランドは101人、フランスは99人です。府内のある地教委幹部は「小規模校の子どもの方が学力が高い」と発言しています。「切磋琢磨ができない」といった小規模校への偏見は払拭されなければなりません。子どもたちがお互いによく知り合い、歩いて楽に通うことができ、一人ひとりが大切にされ、地域から愛される学校こそが、「子どもと地域の未来を拓く学校と言える」(三輪定宣氏)のではないでしょうか。

(2)拙速な「小中一貫校」の推進

 教育再生実行会議は、今年7月に小中一貫の「義務教育学校」の法制化を提起しました。学年の区切りやカリキュラムの弾力化、小中一貫教員免許の創設などを検討する、と述べています。つづいて11月には中教審の小中一貫教育特別分科会が「審議のまとめ」を発表しました。学年の区切りを自由に設定できる「小中一貫教育学校(仮称)」と、別々の小学校と中学校が統一したカリキュラムで学ぶ「小中一貫型小・中学校(仮称)」を制度化する、としています。

 「審議のまとめ」は、小中一貫教育のメリットとして、「中1ギャップ」の緩和に効果があり、「不登校、いじめ、暴力行為等の減少、中学校進学に不安を覚える生徒の減少」などの成果があった、とされています。また教職員の「指導方法の改善への意欲」「小・中学校間における授業観や評価観の差の縮小」なども成果として挙げています。一方で、小中一貫教育の特別なカリキュラムの学校から通常の学校へ転校した場合に「学習内容の欠落を生じる」との指摘もあり、「小学校高学年におけるリーダー性の育成が課題である」と認識している学校があることも、問題点として挙げられています。

 学年の区切りは、「6・3」のままの学校が72%、「4・3・2」が26%と報告されています。「審議のまとめ」は「6・3制」が導入された昭和20年代と比べて、身長・体重の伸びや、女子の初潮年齢が2年程度早まっていることを、学年の区切りを変える理由として挙げています。「4・3・2」の場合、4年生から5年生に上がるときに区切りを設けることになりますが、川地亜弥子さん(神戸大)は、「9・10歳の発達の節」は全員が同時に越えるわけではなく、「その時期に次の段階に進むことは子どもたちに負担が大きいのではないか」と指摘されています。「生理的早熟化」が言われる一方で、精神的な幼さを残している子どもが多いとも言われ、発達のアンバランスをきたしている子どもが増えている、と考えられます。

 これらの状況から見て、小中一貫教育を実施するとしても、学年の区切りをどこに設けるか、という点については、子どもの発達の観点からのていねいな検証が必要です。教育学的な裏づけがないままに、さまざまな学年の区切りを安易に導入することは、拙速と言わねばなりません。

(3)教育の機会均等の破壊は許されない

 京都市内における「小中一貫校」はほとんどすべて、学校の統廃合と一体に進められています。学校を1つにまとめることにより、教員数を減らし、老朽化した校舎の改築の経費を節減するという、文字通りの学校リストラを狙ったものです。「小中一貫校でエリート教育が受けられる」かのようなメリットのみが強調され、統廃合への父母・住民の抵抗感を薄めるために、「小中一貫」が利用されています。

 また学校の大人数化の問題も起こっており、中学生の部活動のために小学生が放課後に運動場で遊べない、などの弊害も生まれています。9年間一貫の独自のカリキュラムを設定できる、としていますが、全国一斉学力テストによる、学校間の点数競争が強いられている体制下では、学習内容をより下の学年に前倒しすることにつながり、子どもたちをいっそう追い込むことが心配されています。

 さらに文科省は、「公設民営学校」の実施対象として、「中高一貫校」を挙げており、進学や語学、スポーツに特化した「エリート校」の登場が懸念されます。「単線型の『6・3』制だった戦後の義務教育が大きく転換する」と書いている新聞報道もありますが、公立学校の中に「小中一貫校」「中高一貫校」「その他の普通の学校」が乱立・並存することになってしまいます。すでに公立の中高一貫校への進学コースを設けている学習塾も多く、経済的な余裕のある家庭の子どもが有利、どの学校を選ぶのかは自己責任、という受験競争を、公立学校が煽っているのが実態、と言えます。これは、教育の機会均等の原則を破壊し、公教育の平等性を根底から覆すものと言わねばなりません。

 子どもの「発達の危機」が指摘されている中で、義務教育全体のあり方をどう設計していくのかが、あくまで子ども本位に議論される必要があります。


 
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              2015年3月発行
京都教育センター