事務局   2011年度年報もくじ

京都教育センター 教育講演会  2011年10月10日 教育文化センター202号室

「不登校・ひきこもりに相談者としてどう向き合うか−−その背景と支援を考える−−」(講演要旨)

           高垣忠一郎(立命館大学)

*この講演記録は、京都教育センター事務局の責任で編集し、見出しは編集者がつけました。
 
1.ゼミの学生の言葉から

@ゼミ生B子さん

 就職活動をとおして、はじめて真剣に自分の人生を向き合った。それまでの選択はつぎつぎと選択を迫られて、失敗しないように世間的なストーリーに乗った、無難な選択だった。そのストーリーで成功すること、合格することがいつの間にか、目的になっていた。就職活動は、自分の生き方を見つけ出していくことなのに、「それなりの会社に内定をもらうこと」が目的になっていた。

 なぜ、そうなったか?親=世間のまなざし、評価にとらわれていた。就活に失敗して、自分の生き方まで、世間に合わせようとしていたことに気づいた。(世間のルールに合わせることは必要だろうが)。自分の心の声を押し殺して生きている。ほんとうに自分の心が喜ぶ生き方、「ほんとうにやりたいこと」を置き去りにして生きてきた。失敗は自分としっかり向き合い、自分の生き方を考えるよい機会になった。

  自分の心の声に耳を傾け、ほんとうにやりたいことを活かして生きていくためには・・

 「世間」に合わせた選択で失敗し、挫折した場合、どうなるか?それを自分の生き方を考えるよい機会にできればよい。自分の心に耳を傾け、自分が何をしたいのかを考え、それを生かして生きていくことを選択できればよい。もちろん現実の制約があるから、それと折り合いを付けながらである。そういうことを相談しながら、問いを共有しながら、一緒に考える関係を誰かと持つことができれば、失敗を生かしていくことができる。だが、それができないと、挫折したじ分に自信を失い、「ダメな奴」という自己否定のサイクルに陥り、引きこもっていくことになるだろう。

@ゼミ生Cくん

 一方的に答をあたえるのではなく、「一緒に考える」こと。一つの問題、問いを共有して一緒に考える。マイケル・サンデルの授業の感動はそういうことを若者たちが求めていることを示唆している。「対話型の授業」で一緒に考えてゆく。一緒に答を求めてゆく。そういう作法。それは世間の空気を読みながら、それに合わせて意見を言う。期待される意見をいうのとは全く違う。

 今の親=世間は、子どもの向き合うときも、マニュアル=正解を頼りに子どもと向き合っているのでないか。そうではなく、同じ問いを共有し、同じ目線で考えてゆく、そこに共感が生まれる。子どもに向き合うのに、万人に通用する出来合の答、知識や技術などないし、そういうものはいらないはずだ。答は一緒に見つけ出していくしかない。 

2.若者たちのとらわれているもの

@親への気遣い過剰→親の期待に応えて、親を喜ばせ、安心させてやりたい。(親を失望させること、迷惑をかけることをとても恐れる)そして、その親の期待は、世間の価値観をそのまま体現していることが多い。現在の世間の価値観は偏差値で測られる。その価値観でせめて「ふつう」であってほしい、「人並み」であって欲しい、「世間並み」であって欲しい。「ふつう」「人並み」「世間並み」であれば、親は安心する。親を安心させるために、自分のほんとうにやりたいことを押し殺して生きる。そうしているうちに、自分の本心(ほんとうにやりたいこと)を見失う。

 それで走っていけているうちは、まだ覆われた矛盾は露呈しない。だが、期待された物語がどこかで挫折する。そうしたときに、矛盾が露呈する。それを修復して、新たな物語をつくって歩み始めることができればいい。だが、それができないと、ひきこもりになる。 その価値観一本で走ってきた自分を肯定できない。「ダメな自分」になり、そんな自分を人目にさらすことが怖くなる。 

自分の傷つきやつらさをありのままにさらけ出して、親に見せることができない。人生を生きることは、「ふつう」「人並み」としての頑張りをいつまでも続けなければならないこと。大人になることは終わりなき頑張りを強いられること。まさに降りることのできない「高速道路」を走らされる。今日の競争社会の暴力性。(「勝ち組」にならなければ、見捨てられるぞ!という脅しが支配する社会)

 そういうこと高速道路を走りつづけてきたことの疲れ、傷つき、走りつづけることへの恐怖が「ひきこもり」をもたらす。適当にドライブインに入って、休憩をとりながら走ることができる人間は、まだ救われる。

@親=世間の期待に応えて、自分の本心を抑圧して走りつづけてくる。本心(ありのままの感情)を見捨てて生きてきて、そのレールを走ることにつまづき、挫折した。ありのままの心で生きていない空虚感とまともに向き合うことになる。では何をしたらいいか?本心に立ち返って、新しい自分の物語を紡ぎ始めることができる人間はよい。

 そのためには、自分を物語る必要がある。自分の本心とふれあう必要がある。それを手伝ってくれる人が必要になる。彼の本心に耳を傾け、それを共有してくれる人が必要になる。自分の本心に立ち返り、新たな自分の生きる目標を立てることができ、あらたな人生の物語を綴るという方向ではなく、親=世間の期待に応える物語に固執し、世間的な他者に正当化されないと生きていけない習性がぬぐい難く染みこんでいたりして、自分の本心で自分の生き方を正当化されないとするならば、世間的な他者から自己正当化できる評価をもらえる生き方にこだわり、とらわれ、ニッチもサッチも行かないことになる。ひきこもりの長期化。

@どうやって生きていけばいいのか?生きることの意味は何か?そういう根底にある問いを共有して欲しい。ひきこもりというのは何よりも<問い>なんです(上山)

「一体その苦しみは何を訴えているのか?}という問いを立て、それを一緒に考える。同時代を生きる人間同士として、問いを共有して、一緒に考える。そのことこそが、大人に求められている。現代の生きることをめぐる根底的な問題、問いを一緒に共有して考えてくれるような、そういう言葉、コミュニケーションを求めている。

「どうにもなんだかとってつけたような、規格品のコトバを話しているようにしか聞こえない」(上山)


3.自己否定の思いにとらわれる子ども・青年のこころ

(1)自分の否定し、嫌う子ども・若者たち(例)

・3年間中学でいじめられつづけながら、腹痛に耐えて休まずに通い続けた若者がいる。高校に進学した途端に彼は不登校に陥った若者の例。

  自分から「臭い」を発していると確信して、学校に行けなくなった高校生。「臭い」を周囲にま

き散らし、他人に迷惑をかける自分を受け容れられず、学校に行けない。自分が他人に受け容れられるに値しない「迷惑な」存在であるという、自己への深い不信感、「負い目」と、他人への不信感がそこに表明されている。 彼ほど病理が深くなくても、自分は他人に愛され、受け容れられるに値する存在なのか、他人は自分を愛し、受け容れてくれる存在なのかという自己不信や「負い目」と、他者不信の間で苦しんでいる子どもは少なくない。

・小5の男子:「お母さんは自分のこと好き?」とよく聞く。「僕は自分のこと嫌いなんや」と言う。学校行けないときによくそういうことを言う。

・中1の女子:「自分を出すと嫌われてしまう。これまで自分を出さないように、明るく振る舞ってきた。自分を出すと私は誰にでも嫌われてしまう」と言い、髪の毛を洗わないと、人前に出られない。

・小4の女子:通知票をもらう一ヶ月も前から、「がんばろう」があったらどうしようと心配する。母親が「大丈夫、あってもまた頑張ったらいい」と言ってやっても、「私は大丈夫」と思えないと不安がる。彼女は小3のとき「お母さんは誰がいちばん好き?」と盛んに母親に尋ねた。

(2)生命の働きにダメージを与える自己否定の思いにとらわれた心

  私が30年余りの間、そんな子どもや若者たちと向き合って悪戦苦闘してきたのが彼らの内側に壁のように立ちふさがるこの「自己否定の心」である。

 彼らを調子の悪くなった車を修理するかのように扱う人も少なくない。私の心得る心理臨床の使命は、彼ら自身が自分で自分を元気にしていくのを手伝うことである。そのためには彼ら自身の内にあるはずの生命の働き(自己回復力)に依拠しなければならない。それが活性化するように援助する。それが援助の要諦である。その自己回復力にダメージを与えるもの、それが自己否定の心である。その自己否定の心から彼らが自分自身を解放することを手伝いたいと四苦八苦してきた私の実践のなかで生まれたのが、私のいう「自分が自分であって大丈夫」と存在レベルで自分を肯定する自己肯定感である。

 不登校やひきこもりの若者たちは、親や世の中の期待に応えらない自分など「消えてしまいたい」「消えた方がいい」と自己の存在そのものを否定する気持にとらわれている。そんな彼らが心底元気になっていくには「自分のよいところを評価して」得られるような「自己肯定感」ではない。「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感は「よいところなど見つからずダメなところばかりだけど、そんな自分でもここに生きて存在してもいいのだ」という、自己の存在そのものを赦し、承認する自己肯定感である。

(3)京都府学連の定期大会議案書から

 さて近年、私は若者たち自身から、そういう自己肯定感のことを話してくれと求められることが多くなった。最近では京都府学連の定期大会で話をする機会があった。そのときにもらった決議案の「情勢」のなかに、今日の学生の「生きづらさ」として、たとえば「ひどく他人を意識しながら競争してきた」「いつも明るく元気な人間にみえていなければならないと肩肘張っている」「人と比べてしまい、『自分はダメだ』と劣等感を抱え込んで落ちこんだりする」などが紹介されている。

 そして、何よりも私が注目した点は「ただ、それらのしんどさや悩みはなかなか声に出して言えません(略)本当の自分を押し殺して、いつも楽しいようにふるまったり、面倒くさがられないように相手に迷惑をかけないように過敏に空気を読みながら過ごしています」と続いていることである。

(4)しんどさ・辛さを誰にもいえないのは何故か?

  先の自治会連合の学生たちの「しんどさを声に出して言えない」のはなぜか?彼ら自身の文章には「私たちにとってこれらは、弱音に思われ『もっと努力したら?』と突き返されたり、楽しい場を重くしてまわりに迷惑をかけてしまったり、過度な心配をされて恥ずかしかったりと、相談する前よりもしんどくなってしまった経験があるからです」と述べられている。

 とてもよくわかる。私のカウンセリング論の授業に参加した400人の学生に「人に悩みを相談するときに不安があるか?」と問うたところ、98%の学生が「ある」と答え、その理由として、「真剣に聞いてくれるか」「ダメな奴だとバカにされるのでないか」「迷惑じゃないか」「引かれるのでないか」「他人に話されるのでないか」・・・とさまざまなことがあげられていた。

  貧困・格差を生み出す社会構造からくる親の生活の不安定さを背景にして子どもの貧困が盛んに問題にされているが、そのうえに彼らの精神的・心理的不安に拍車をかけている最たるものが自分の辛さやしんどさを受け止めてくれる人のいない孤立感である。

 問題はそういう相手がいないというだけではない。彼ら自身のなかに自分を表現することに対する恐れや絶望感がある。「ダメな奴」と責め、嫌い、否定する自分を人前に出すことには勇気がいる。子どもや若者たちの人間関係には、明るい=○、暗い=×という雰囲気が支配している。だから、辛さやしんどさという暗いものは人前に出せない。常に明るい自分をつくっていなければならない。カウンセリングルームでさえ、にこやかに辛いことを話す若者たちは少なくない。

(5)「自分と共に、他人と共に生きることのできない」子ども・若者たち

 私がここで指摘したい問題は、若者たちが自分を嫌い否定する傾向をもつ一方で、周囲の大人や友人に自らの悩みやつらさを表現することに不安や恐れを感じているという二つの「苦しみ」である。

 「自分」という存在は一生つきあい続けなければならないいちばん身近な存在。その自分をまるごと嫌い、拒否している。自分自身を受け容れられず、自分と共に生きることを拒否している。彼らは「ダメな自分と共に生きる」ことができない。

  と同時に  自分を「ダメな奴」と嫌い否定する彼らは、その「ダメな自分」を人前に出すことを恐れる。おまけに自分の「つらさ」や「しんどさ」を人前に出すことは相手に迷惑をかけることだと思いこんでいる。だから迷惑をかけることを恐れて一層自分のことを人に話せなくなっている。「迷惑かけるな!」の大合唱がそれに拍車をかけている。 つまり、彼らは自分自身を受け容れ自分と共に生きることからも、他人と共に生きることからも隔てられているのである。彼らに何より必要なのは「他人と共にありながら、安心して自分自身であることができる」ような赦しと共感の人間関係のなかに身を置くことである。それが彼らの「居場所」になる。そういう「居場所」に身を置くことによって、「自分が自分であって大丈夫」という自己肯定感が心に根を生やし、育ち始める。 

4.自分と共に、他人と共に生きられないのはなにゆえか−なぜ自己否定の思いをもつか

(1)「正露丸のんどき」「バッファリンのみ」「医者行ってこい」

 「ポンポン痛い」「頭が痛い」→「正露丸があるやろ、それ飲み」「バッファリン飲んどき」「医者行ってこい」→子どもはどう感じるか?「痛みをくっつけた僕は迷惑なんやな」と私なら感じる。 「学校行けない」「社会に出て行けない」(やっかいごと)をくっつけた俺・私だったら迷惑なんやな。→「迷惑かけるダメな俺なんだ」という自己否定の思い

 「ダメなところをくっつけたあんたでも、いいんだよ」「そんなあんたを拒否しないで、そばにいるよ」というメッセージ。それが欲しい。そうすれば、とりあえず、「私が(だめなところをくっつけた)私であって大丈夫だ」と安心できる。その安心感が彼の存在を支える。でも、それがもらえない。

(2)「世間」内言語

 世間では、その中にいる人間を縛る「言い回し」や「きまり文句」をよく使う。たとえば、「お巡りさんにしょっぴかれるよ」「みんなに笑われるよ」「みてご覧、〜チャンはあんなにがんばっているよ」などと、自分がどう思うかではなく、他人や集団からどう思われるかを「殺し文句」に使ったり、他者との比較を行う。あるいは「それでは世間がだまっていない」「私はいいけど、みんなが迷惑するよ」などと自分の責任を回避した「言い回し」を使う。さらには、「死ぬ気になれば何でもできる」「努力が足らん」「やる気がたりん」「根性がない」などと、独善的・断定的な価値観を押しつける「きまり文句」を言ったり、「そんなことは考えなくてもよい」「言われたとおりにすればいいのだ」と疑問を一方的に封じ込める言い方をする。

 こうした、世間でよく使われる「言い回し」や「きまり文句」が、おとなの口によって、子どもや若者たちの脳裏に刷り込まれ、内なる脅しのように彼らを縛り、その価値観に合わない自分を否定する思いにとらわれる元凶になっていることを見落としてはならない。

(3)自己否定の思いに追い込む(精神論的)「きまり文句」の例(M子)

  「悲劇のヒロインぶるな」ということば

 *しんどさを訴えてわかって欲しいが、訴えてもわかってもらえるどころか「悲劇のヒロインぶるな」と言われ、余計につらくなる。

*最も基盤には人間が人材として扱われ、役にたつ機能(働き)を持っていないと、丸ごと否定されるような。部分によって全否定されるシステム。「よい子じゃないと見捨てるぞ」という脅しの支配する競争システムなど、今日の社会のあり方が、背景にある。

@「きまり文句」の呪縛を破った「ちびまるこちゃん」

 A「きまり文句」を打ち破る声を大きく!仲間を増やせ!

 B知らない間に、自動的に「明るく」演じている。

 

5.自己否定の思いから若者の心を解放するカウンセリングの一例

@自分が嫌いなBくん

@音楽を通じてB君の心とつながる

動き出したB君を支える自己肯定感の芽生え

@自分の「痛み」「つらさ」に「よしよし」できる力を− 傷ついて『痛み』を抱えたときに、それに耐えられないのはなぜか?

  君はブログのなかに、こう書いている。

カウンセリングを受けて少しずつ自分のことを好きになっていくのが、少しずつわかります。でも、自分を認めたからといって、何もわかってない人にダメな自分のことを話して、結果傷つく。これって自分を好きになることとは少し違うような気がします。逆にこれは自分を嫌いになるステップのよう思います。じゃあ、どうすればいいか。理想を言えば、全ての人が全ての人を認めることができるようになればいい。でも、それは無理です。(略)今ボクが大切にしているボクのことを、嫌いな人間なんかに話したくないと思ってしまうんですね。(略)せめて自分だけは、過去の自分も現在の自分も好きでいないといけないと思います。もし将来ボクがなにかできる人間にでもなって、その時の自分に何か言えるなら、『今苦しんでいるボクのことを捨てないでくれ』と言いたいです


6.自己否定の思いから子ども青年の心を解放するために

(1)「人に迷惑をかけるな」の大合唱を超えて

  「迷惑をかけるな」が彼らの心をきつく縛っている。「自立自助、自己責任」の掛け声のもと、声高に「迷惑をかけるな」がまかり通っているだけではない。親が「しつけ」としてよく言うことばは「人に迷惑をかけないように」ということだ。その意味や趣旨はわからないわけではない。だが、いまの子どもたちにそれを押しつけるには慎重さが必要である。いまの子どもや青年たちには「人間関係を取り結ぶ力が欠けている」「コミュニケーション能力が貧しい」と子どもや青年の弱点を評論家のように言い募る大人が多いなかでは、とくに指摘しておきたいことがある。

 相手に迷惑をかけることを恐れて自分の辛いことやしんどいことを表現できないで、どうして深い人間関係をつくっていけるか。深い人間関係をつくろうとしても、「迷惑じゃないか」という恐れが立ちふさがる。そういう状況を大人や社会がつくりだしておいて、そのことを棚上げして「いまの子どもや若者たちの人間関係は浅い、人間関係をつくる力が育ってない」などと、評論するのは筋違いである。

  私が子どもや若者たちに伝えたいメッセージは、「迷惑をかけるな」ではない。人が生きるには何ほどかの迷惑を周囲にかけている。迷惑をかけずに生きることなどできない相談だ。それをお互いに赦しあって生きている。だから、「迷惑かけてごめんなさい、赦してくれてありがとう」という気持ちで生きたらいいよと、私は伝えたい。今の社会には脅しの「評価」ばかりがまかり通り、「赦し」が失われている。ゼロトレランスなどということばが流行る、不寛容な社会だ。「赦し」の欠如が「生きづらさ」をつくっている面があることは間違いない。

(2)世間的な「言い回し」「きまり文句」をやめる

(3)「ふつう」「人並み」という「観念」にとらわれない

  ある強迫性障害をもち、ひきこもりがちな青年は、「いい人」「あたりまえのこと」「周囲からみても問題がない」という観念的な基準(「型」)にとらわれている。つまり一般的にいえば「普通」という観念的な基準(型)にはまってない自分を「ダメだ」と思っている。「型」にはまっていると、自分を保てると思っている。「そこにはまっていることが、見栄えがいいというか、それでないと不安」だという。

 安心を求め、型にはまることを求める。でも自分が型にはまれていない。そういう自分をダメだと否定する。安心できない。型にはまってないと見栄えがよくない。見栄えがよくない自分はダメだ。安心できないと思いこんでいる。 彼の頭蓋骨のなかの「○○したら、死ぬぞ」という強迫観念(脅迫)は、「ふつう」「人並み」でない自分は「ダメな奴」という脅しとまったく同じである。「ふつう」「ひと並み」でない奴は「人間」でないかのように、自分を否定し、卑下する思考(観念)はまさに強迫観念と同じである。

 「ふつう」というのは、どこにあるのかわからない。フィクションである。観念にすぎない。どこにも実体として存在しない。にもかかわらず、「かたまり」として想定され、そのかたまりのなかに入っていなければならないと思う。そして入ろう入ろうと強迫的に努力する。「ふつう」を強調する風潮には、その中に入らなければ許さないという雰囲気がある。空気がある。そして、「ふつう」という実在しないかたまりのなかにとけ込もうとする子どもや若者たちが出てきた。よく考えれば、「人並みの生活」などという暮らしも「ふつうの子ども」などという子どももどこにも見あたらない。人はそれぞれにどこか違う。その違い(交替不能でかけがえがない部分)を認める勇気をもとう。

(4)認知の歪みの修正(カウンセリング論の授業から)

@学生の思いこみ例

・いつも誰かに認められなければ自分の価値はないと思いこんでいる

私はいつも誰かに認められなければ自分の価値はない、また誰かよりも上位の立場に立っていたいという思いがある。この想いは講義や友人の指摘などから間違った考え方と認識している。しかし、それを変えることができないでいる。私は多くの集団のなかにいると、人の目線がとても気になり、一人の時間になるとすごくホッとする。・・私は自分自身の中身が常に不安定であるために、人から指摘された自分の特性は全て真に受けて、他人の言葉に一喜一憂してしまう。これはまさに先生の言っていた、『承認中毒』なのだと思う。人から褒められたり認められリすることで私は私を認めることができる。そのため、私は自分というものが他人を通して形成され、自分自身が本当はどのようなものなのかがわからない。本当の私は誰にも受け容れてもらえないのではないかという考えがあり、意識して行動するうちに常に誰かから認められるような人間を振る舞っている。そうして嘘の自分を何年も維持していくうちに、本当の自分がわからなくなってしまった。しかし、何よりも私は本当の自分が見えなくなっていることを重大な問題だと思っていない。このことが大きな認知の歪みであると思う。私はいまなお、誰からも好かれて認められる人間を振る舞うことから卒業できない。もしこの自分の殻を脱ぎ捨てたらどうなるのだろうか。何もない空っぽの人間になって他人から笑われるのではないだろうか。そう思うと恐くて、いつまで経っても殻を脱げない。」

・私が自分を好きになれないわけ=明るくて、元気で、誰にでも優しい「よい子」でいられないから=そんな自分でないと周りから愛してもらえないと思いこんでいる

私は自分を好きになれない。なぜなら少しでも、明るくて、元気で、誰にでも優しい『よい子』の自分でいることができなければ、自分を受け容れることができないからだ。きっと周りの人にそういう風に自分を見てもらいたいのだろう。また、私は特別何か魅力的な部分があるわけではないので、そんな自分でいなければ周りに愛してもらえないと思ってしまう。でも、大抵そんな自分でいることができないので、どうしても好きになることができない。だから、少しでも他人に冷たい態度をとられると、『嫌われた』と思ってしまう。そして、どうしよう・・とパニックに陥ってしまう。

 もちろん、これも頭ではこんな私でも長所はあるはずだし、ありのままの私でも好きになってくれる人は必ずいる、と考えることはできる。しかし、どうしても『よい子』な自分でいなければ、誰も相手にしてくれないのではないかと、恐く思ってしまう。そして「よい子」な自分で入れるときに、周りにかまってもらえることができると安心する。」

A認知の歪み

 人が何事に出会ったとき、それが何であるかを判断したり解釈したりする。この判断や解釈が否定的にゆがめられてしまうことが少なくない。それを「認知の歪み」と呼び、それが否定的な気持ちをもたらす原因になっていることが意外に多いものである。しかし、多くの人はそのことに気づいていない。「認知の歪み」に背景には、しばしば「不合理な信念」「思い込み」が存在する。自分自身に対して「〜すべき」「〜しなければならない」という考えをもち、ある種の命令を自分に対してしている。

 

<認知の歪みの10種類(デビッド・バーンズ)>

1)物事を白か黒かで考える。少しでもミスがあると、完全な失敗だと思う。(全てか無か思考)オールオアナッシングの考え方のこと。「二分法思考」ともいいます。

2)たった一つのよくない出来事があると、世の中すべてこれだと考える。(一般化のしすぎ)

3)たった一つのよくないことにこだわって、そればかりくよくよ考え、現実を見る目が暗くなってしまう。ちょうど、たった一滴のインクがコップ全体の水を黒くしてしまうように。(心のフィルター)

4)なぜかよい出来事を無視してしまうので、日々の生活がすべてマイナスのものになってしまう。(マイナス化思考)

5)根拠もないのに悲観的な結論を出してしまう。(結論の飛躍)

@心の読み過ぎ:ある人があなたに悪く反応したと早合点してしまう。

A先読みの誤り:事態は確実に悪くなると決めつける。

6)自分の失敗を過大に考え、長所を過小評価する。逆に他人の成功を過大に評価し、他人の欠点を見過ごす。(双眼鏡のトリック・拡大解釈と過小評価)

7)自分の憂鬱な感情は現実をリアルに反映している、と考える。「こう感じるのだから、これは本当のことだ」(感情的決めつけ)

8)何かやろうとするときに「?すべき」「?すべきでない」と考える。あたかもそうしないと罰でも受けるように感じ、罪の意識をもちやすい。(すべき思考)

9)たとえば、ミスを犯したときにどうミスを犯したのかを考える代わりに、自分にレッテルを貼ってしまう。「自分は落伍者だ!」。他人が自分の神経を逆なでしたときには、「あのろくでなし!」というふうに相手にレッテルを貼る。(レッテル貼り)

10)何かよくないことが起こったときに、自分に責任がないような場合にも、自分のせいにしてしまう。(個人化)

 (5)人生に行きづまったときに語る必要がある

 なにかに行きづまったときは、自分を語ってください。そこでは、聴き手に対して自分を語ることによる自分自身の物語の書き換えが行われることになるのです。物語の書き換えとは、これまで生きてきた物語が挫折するような現実に出くわしたときに、その現実をうまく編みこみ、新たな文脈で意味づけることができるような、新しい自分の物語をつくっていくことです。そういう物語に書き換えていくことが、行きづまったときの課題になります。その必要のために、誰かに語りたくなるわけです。その要求に応えて、相手の話に耳を傾けながら、自己物語の書き換えを手伝うことも大事なことです。

  

・ある登校拒否の高校生のことば

自分の中の見たくないもの、ちょっとカッコ悪いもの、人に言いたくないもの、そういうものを話せたのが大きかった。

<話すことによってどうなった?

話すことによって、そういう問題がどうでもよくなった。こだわりなくなった。

<じゃあここでやってきたことは、あなたにとってそれなりに意味があった>

はい。

自分の恥ずかしく思って、隠しておきたい部分をはき出せたときに、どうでもよくなる。

  多くの人が、人前に見せている部分は「偽りの自分」で人に見せないで隠している部分こそが「ほんとうの自分」だと思いこんでいる。そしてその隠している部分には、人に見せたくない自分の恥ずかしい部分、醜く情けない部分が多くを占めている。だから、そういう恥ずかしく、醜い部分こそが「ほんとうの自分」だと思いこんでいる人が少なくない。

 ところがその恥ずかしい、隠しておきたい部分を人に話して見せることによって、その重要性が失われるのである。隠さないといけないほどの重要な事柄でなくなるのである。つまり、話すことによって、惨めで恥ずかしい自分へのとらわれから自分を解き「放す」ことができる。とらわれていたものを「離して」見ることができるようになる。

 

わたしのゼミの卒業生のある女子学生は、卒業研究の論文にこう書いている。「自分の弱くて汚い部分をたくさん書くことができてよかった。勇気の必要なことだったが、書いてしまえば、案外大丈夫な自分、『べつに格好悪くてもいいか』と思える自分がいることに気づいた。『自分が自分であって大丈夫』という自己肯定感をもつということは、こういう感覚なのだろうと思った。これからも、自分の弱くて、汚い感情に『よし、よし』と言えるようになるまで、行ったり戻ったりしながら、少しずつ成長していきたいと思う。

*自分の弱くて、汚い感情を、ウンチやオシッコだとすれば、それでおしめを汚したりぬらしたりしても、「よし、よし」と赦す。「大丈夫だよ、よし、よし」と。生命というものは、変化し、成長し、再生するものだ。その生命の働きを活性化するのが、自己肯定感。弱くて、汚い感情を「よい」と評価するのではない。「よし、よし」と受けとめ赦すのだ。それが、自己否定の思いにとらわれた心を解き放すためにとても必要なことである。

 

7.相談者として向き合う作法

@安心できる居場所と自分が主体になれる出番を与える

@相談できる場を安心できる場に

@太陽ではなくお月様に(ギラギラ明るく・熱く向き合わない)

@相手が明るく元気であることを期待しない。

@相談することが相手が主体になれる出番に

@そのためには、相手を操作し、動かそうとしない。私が何とかしてやると思わない。

@寄りそうこと、憂いに寄りそう人がいて、優しさが実現する。大事なのは励ますことでも、評価ではない。

@赦しの「よし、よし」

@相手が主体。相手が自分を語るのを手伝う。

@相手は自分を語りながら、誰かと一緒に考えるということに慣れていないことを配慮して向き合う。

@説得、助言、よりもまず聴くこと。

 「京都教育センター年報(24号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(24号)」冊子をごらんください。

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