事務局   2011年度年報もくじ

第42回 京都教育センター研究集会

パネルトーク「福島の現状からいのちと教育を考える」

*この講演記録は、京都教育センター事務局の責任で編集し、見出しは編集者がつけました。
 
◇主旨

 3.11の大震災と原発事故は、多くの犠牲者と未曽有の大災害となりました。そしていまだ解決すべき課題は山積しています。私たち国民一人ひとりに、これまでの日本の社会構造そのものの在り方を根本的に見直し、政治のあり方、教育のあり方がどうあるべきなのかの問い直しを迫っています。

 3.11後、9か月を経た今、現地の学校と子どもたちの現状と、被災され京都に避難してこられた方々の実態をできるだけリアルに出し合いお互いに学びあいます。さらに原発をなくすとりくみや学校現場での教育実践などを交流し、今後私たちは何をすべきかを考えあいます。

◇お話される方の紹介 

○大貫昭子(おおぬきあきこ)さん

  福島県立高教組女性部長 福島県立原町高校勤務

  3.11当日は、福島第1原発から20k圏内にある福島県立小高工業高校に勤務。8月に原町高校に転勤し、現在は30k圏内の自校にもどる。サテライト校勤務の女性教職員からアンケートを取り、勤務改善にとりくむ。

○澤田季江(さわだとしえ)さん

  新日本婦人の会 京都府本部 事務局次長 小学校4年生と保育園年長(6)の母 母の実家が福島県相馬市にあり、

ボランティアで相馬市と石巻市へ。 京都の避難情報誌「ほっこり通信」編集部

コーディネーター

本田久美子(ほんだくみこ)さん

   京都教育センター事務局

   前全日本教職員組合副委員長 元京都市教組委員長


 
◇紹介とトークの主旨説明 

本田:お話される方は、福島県立高教組女性部長で、福島県立原町高校に勤務の大貫昭子さんです。原発20q圏内にある県立小高工業高校に勤務し、8月に原町高校に転勤されました。サテライト校の勤務で、現地の教職員は大変な状況にあって、女性教職員を中心にアンケートなどをとり、それぞれ福島県教委や国に対する申し入れをされました。

 京都の澤田季江さんは、新婦人の会京都府本部で事務局次長をされていらっしゃいます。お母さんの実家が福島県相馬市で、小学校の時には毎年夏にはそちらで過ごされたそうです。親戚の方が不幸な目に合われていて、ボランティアに何度か行かれました。京都では「ママ・パパの会」も一緒に取り組んでいらっしゃいます。

 今日のパネルトークは「福島の現状からいのちと教育を考える」というテーマで行います。3.11は私たち国民一人一人が何をすべきなのか問いかけられているのではないかと思います。私自身も何ができるのか、何をしたらいいのかということを問いかけながら生活している状態です。

 福島はどうなっているのか、学校や子ども達の様子はどうなのかということを学びあって、京都でどういうことができるのか、何をしていったらいいのかということをみなさんと一緒に考えることができたらと思います。

 
◇「子どもの未来に安全・安心を」〜福島はいま〜
 

大貫:紹介していただきましたが、私が3月11日当時勤めていたのは20q圏内の中の、20qのコンパスで引いたワクの小高工業高校に勤めていました。次に転勤した高校、点線30q「30q南相馬市」と書いてある原町高校に転勤しました。どちらも30q圏内ですが、今は原町高校に勤務しております。社会科の教員をしております。

福島県立高教組という組合があって私たちの支部は小さい支部で、その中で女性もそんなに数多くはないですが、女性部長をしております。

京都からたくさん来ていただいた

 3.11以降、京都に来たらお礼を言わなくちゃあと思っていました。どこが出発なのかわからないのですが、京都から人的支援が56月頃から毎週のように来られました。私がいた高校にも一週間交代くらいで人が入ってきまして「何でもいいから仕事を言いつけてください」と言っていただいたので、本当にお仕事を手伝っていただきました。私が勤務していた工業高校でも何にも実験実習できません。電気科の生徒210数名が京都の工業高校に実験実習に来させていただきました。

あと、うちわと扇子をたくさんいただきました。扇子には小学生の字が書いてありました。私がいた高校というのは、県内に5つのサテライト、出張校を作っているわけです。

 野球部があったんですが、1週間にいっぺん一番線量の高い二本松市というところに集まりましてそこで練習をする。その小高工業高校がベスト4まで進みました。夏の甲子園の県大会で。その時私たち応援に行ったんですが、京都から贈っていただいたその扇子やうちわをみんな手にして応援しました。いろんな意味でご支援いただきましてこの場でもお礼を申し上げたいと思います。


3.11、その時

 なかなかこういうことは分からないのかなあと思ったのは、3.11に大地震が発生した時、すでにこの日の夜、大熊町に茨城県から60台から70台のバスが到着して大熊町の町民や双葉町の町民を県外あるいは会津若松市に避難させているということなんです。大熊町というのは1号機から4号機まであります。町は依頼していないのにです。どこが依頼したかということです。もっと地元の人にとってショックだったのが、東電会社の家族や関連会社の社員は3.11の夕方には避難開始をしている。置いてきぼりにされているのです。まず東電社員が逃げているということです。もっとひどいのは浪江町。浪江町というのはすぐそこに原発の煙突が見えるんですが、浪江町には原発は建ってないんです。双葉町に5号機と6号機、大熊町には1号機から4号機、富岡町に第2原発の34号機、楢葉町に12号機。浪江町には建ってないんです。その浪江町には何の連絡もなかったそうです。情報収集のため浪江町の職員が隣の双葉町に行ったとき、街には人影がなかった。町の人は逃げてしまっていた。その時の落胆というか、くやしさというか、それを考えると涙が出るほどですが。福島県はその日から測定していますが、数値が発表されたのは63日です。私たち住人には何も知らされていません。この避難ということについてもなんですが、30q以内の市町村は、自分で行き場を決めているんです。あとで有名になった飯館村は、いろんなところから避難をたのまれて引き受けているんです。何日間も飯館村の人たちはおにぎりを作って、あったかい味噌汁を作って浪江町から来た人を、大熊町から来た人を温かく受け入れているんです。でもその後、自分たちもそこを去らなければならない状態になっています。

 私が今住んでいるところは「南相馬市一番」です。一時「緊急避難準備地域」。訳が分からないのですが、なにかあったらすぐに逃げられるようにしておきなさいっていう地域です。3.11そこに住んでおりまして、今もそこに住んでおります。幸い海の近くではなかったので家は残りましたので、そのことだけでも運が良かったと思っています。この20q圏内には原則、人は住んでいません。30q圏内でも住んでいないところがあります。実は福島市や郡山市、二本松市は、実際は放射線量は非常に高くなっています。

30q圏内の当時の生活ですが、脅しではないのですが、京都も日本海の方に原発があります。郵便は止まりますし、大型店は撤退しますし、引っ越し業者が入ってこないので、引っ越ししたくても引っ越しもできません。本当に何も入ってこないんです。今考えたら何を食べていたんだろうと思います。個人商店の店主が圏外まで行って物を調達して買ってきて売るとか、あとは支援物資がありました。全国から頂いた支援物資を小学校とか公民館で残っている市民に配る。そうして当時30q圏内の南相馬市の人間は生活していました。最初は私もマスクなんかもしていましたが、どうでもいいというかだんだんいい加減になってきました。車ではあまり移動しませんでした。本当はまずいんでしょうけども。というのもガソリンがないのでガソリンを使いたくなかったので、あの頃残っていた人間はみんなそうだと思います。ガソリンが半分なくなるとガソリンスタンドに並んでガソリンを入れる。ともかく空になることが恐ろしかった。この次「逃げろ」と言われた時おいてけぼりにされるのが怖かった。だからなるべくガソリンを使わないようにしていました。

公の機関には自衛隊の車両がずらっと並んでいまして、自衛隊の隊員が町の中をよくパトロールしていました。自衛隊好きではありませんが、やはりあの時町ですれ違うと「ごくろうさま」って声をかけました。本当に自衛隊の人も危険な目にあってご苦労されたんだと思います。

学校の様子

 今、私のいる原町高校は、次の日12日から遺体安置所になりまして第2体育館に遺体が安置されていた。自衛隊が同窓会館に交代で寝泊まりする。自衛隊の車両は津波が起こった現場に行く。帰ってくると除染する。ご遺体をプールの水で洗う。プールの水がなくなったので、学校の水道を使う。それが職員室から見えるという状況だったと聞きました。今はそういう跡形もありませんし、その安置所になった第2体育館で今私は部活動の指導もしていますので、一見何事もなかったようになっています。

 高等学校は、20q圏内には10校ありましたが、今すべて鍵がかけられて入ることはできません。そこにいた高校生が全部、全国全県に散りました。その子たちをどうやって受け入れるかということで、サテライト校っていうのを開きました。

 私も最初サテライト校って何なんだろう思いました。例えば高校は4地区です。県北、県中、会津、磐城、ここに4つの高校を開いたということです。当時私がいた小高工業高校は5つ学校を開いたわけです。そこに行くのはもともと小高工業高校の教員が行くのですごく混乱が起きるわけです。例えば私は地元にいて地元のサテライト校に行ったけれども、山形に避難した人が福島のサテライト校に勤務しろと言われるわけです。だから、新幹線で山形から郡山まで毎日通勤する人がいました。それを指示したのはもちろん県教委ですが、私たちがどういう状態でいるかということを全く考えなしに書類の上で計算して、数学何人社会何人ということをしたわけですから、いろんな矛盾が出てくるわけです。それをアンケートにとり、県教委交渉を行いました。

サテライトは今残すところ2つになりました。あとは自分の学校に戻りました。30q圏内の原町高校と相馬農業高校は自分の学校に戻りました。除染をして戻りました。でも生徒が全員戻ってきたわけではありません。それからほかの学校はプレハブを作って、一番最初は体育館を6つのボードに区切った教室です。男の子たちは時々壁の向こうからニョキって顔を出したりしました。1学期はやりました。今はないです。

 現在どうなっているかというと、サテライトの説明会のとき県教委は「自分がいる学校で3年間面倒を見る」って言ったんです。それで4月に始まったんですが、この9月には「サテライト校は来年から一つに集約する」っていうんです。これどういうことかというと小高工業高校の場合、5つの地区にサテライト校を開いたので今サテライト校5つに高校生がいます。これを今度一つにするっていうんです。全部原町区に一つにする。あと4つのサテライト校に行った高校生はどうしたらいいのかということですが、戻ってくればいいでしょうと。だけど親が戻って来れないから、その4つにいるわけでしょう。それはいろんな事情があるわけです。戻れる子ならもうとっくに戻ってるわけです。寮に入りなさいと。その寮は何かっていうと旅館です。旅館を用意するっていうんです。実は旅館っていうのは問題があって人がいっぱいなんです。原町、相馬、磐城はアパート、一軒家、旅館がいっぱいなんです。なぜかというと、家が流されてなおかつここで仕事をしなくちゃあいけない人がアパートや家を借りるわけです。それから磐城の方は原発関係者、労働者、あと磐城からジェイビレッジに入ってるんです。原発に入ってるんです。だからとっても空家なんてないです。やっとの思いで逃げたのに、戻って来いって言われても戻るところがないわけです。子ども達には寮を準備しますよって。教育者が親から子どもを引き離すっていうことを平気で言うってことが私は信じられません。

 この前も県教委と交渉しましたが、「舎監はどうするんだ?」って聞いたら、ハローワークで募集するっていうんです。365日、24時間です。お正月みんな帰るとは限らないんですから、「24時間ですよね」って言ったら、「そうですね」というものの、「ハローワークで募集する」ということを平気で言うような県教委なんです。だから今、子どもたちはどうしたらいいのかわからない。親もいったいどうしたらいいのかわからない。高校はそういう状態です。

 小・中学校が悲惨なのは、プレハブが建つのはまだいい方で、ユニットっていうのがあって、被災していない小学校の空いている校庭に立っているコンテナです。そこに30q圏内の小学生が毎日バスで通うわけです。トイレもないし、水洗い場がないし、雨が降ろうが雪が降ろうが子どもたちはそのコンテナから渡り廊下を渡ってトイレに行く。手を洗う。そういう状態の学校がまだあります。

 私たち教員は実は自宅から自分の勤務校に通っているのはわずかです。私たち自身も被災していますので全県にパーッと散っているわけです。私の家はたまたま流されなかったからここにいる。私が勤務している学校がここにあるから通えるけれども。7月まで勤務していた小高工業高校では、自分の家から通っているのはほんの数名です。あとはみんな福島から通っていて、山を越えて何十キロメートルから通っています。そういう先生方の方がほとんどです。そういう状態でも、子ども達には当たり前の今までと同じような教育をやりたいと思ってはいます。

 いろんな場面を想像して欲しいのですが、仮設住宅二部屋に家族が押し込められて、お父さんは職がない、お母さんはパートに行っている。冬になって、畳の部屋は一部屋、勉強するったって勉強机がないです。外では遊べないから、外に出しません。そういう中ですから食べ物だって地産地消。地産地消なんで私なんかあんまり気にしないですが、子どもに何食べさせていいのかわからない。ニュースでも、テレビでもやっていますが、次々と数値って変わりますから。そんな状況です。

多くの問題が山積

 まず国と原発は何の責任もとってないということです。国と東電、東電なんて自分で事故を起こしながらなんで補償金を自分で決めるんだと。私などは東電から来た100何ページにわたるという、あれまだ開けてもないんですけど。彼らが本気で謝る姿をまだ見ていません。

 もう一つ。これもマスコミがあまり報道しませんが、県知事、それから30q圏内の自治体の長、あの人たち原発を誘致していました。それが被害者の代表になっているんです。でも彼らは自己批判してないんです。だから戦争の時もそうだったのかもしれないんですが、今誰も悪い人はいない、だれも本気で謝らない。本当に私たちの救済がないんじゃないかというふうに私は感じています。

 それからマスコミの責任です。マスコミは私たちの苦しみっていうのを本当には伝えてないと思います。がんばる姿はいくらでも出すけども、私たちが訴える声はなるべくなら電波にのせたくない。1030日に全国集会がありました。すべての都道府県から参加して福島でありましたが1万人以上が集まりました。それを報道したのは赤旗と毎日新聞のみです。他の全国紙は全く報道していません。それはすごく意図的だと思います。そういうのを国民の目から隠して福島はもう復興してる、大丈夫だと。

 大熊町が除染モデル事業を始めましたっていうニュースがありました。大熊町の役場を電動ブラシとデッキブラシで洗ってて、お湯がいいか水がいいか。何バカなことをやっているんだと。除染っていうのはそんなものですまないんです。裏の山をかきわけて枯葉をゴミ袋に入れているんです。地元の人間が見たら笑っちゃいます。でも全国の人が見たら、ああやって除染をするんだと思うのかもしれない。そういうのをガンガン流せばこの前みたいな終息宣言なんかすれば、福島は落ち着いているって思うのかもしれないけれど、決してそうじゃないです。

 私の同級生の、家の前を通った時、「ワアー!」と思ったのですが、その家とてもきれいな家で、奥さんはガーデニングが好きで、木を植えて花を植えてとってもきれいにしていました。ある日友達夫婦は丸ごと全部引っこ抜いたんです。草を全部抜いて、花を全部抜いて丸裸にしたんです。だから家の前の庭がまっ茶色なんです。除染というのはそういうことだと思います。そこまでしないと。でも、一つの村一つの町、そんなことができるわけがないです。さももうこれで終わったかのようにやる政府と、それを何の批判もしないで毎日流すマスコミを私は許せない。非常に意図的だと思います。そういう意味で私が言いたかったのは、テレビで流されることだけが真実ではないということです。

 30q圏内には誰も作物を作っていませんから、田んぼが全部草ぼうぼうです。どういうことが起こるかというと、トンボがいないんです。20q圏は虫も鳴かない、鳥も鳴かない。田んぼに水を張らないということは、カエルもいなければ、トンボもいなければ、虫もいなければ、シーンとした世界なんです。私の同僚の自宅は、一時帰宅しても、もう住めません。地震で瓦が落ちた。そこから水が漏れて、屋根がはがれて床にはひびがあった。テレビで写すのは「早く帰りたいですよね」って写します。だから知らないと「帰れるかもしれない」と。あの家には帰れないです。すごい放射線量高いですから。

廃炉まで40年って言いましたね。簡単に言って40年、私はもう生きてないです。来年おばあちゃんになりますが、廃炉まで私の孫が40歳になるまでかかる。それがくやしくてくやしくて。こういうことを一人でも多くの人に知って欲しいと。福島は全然終わってないと。福島は汚染水が今どんどんたまっていますし、燃料棒はどこに行ったか分からないし、それがなんで終息宣言なのか。そういうふうに思っています。みなさん方にぜひ真実を、本当の姿をいろんな形で知らせたいです。最終的に私は原発はいらないと。こんな思いを日本のほかの誰かに絶対して欲しくありません。

 

本田:ありがとうございました。大変な状況で、まだお聞きしたいことがたくさんあると思いますが、またあとで質問していただきたいと思います。続きまして、澤田季江さんの方からお願いしたします。

 
◇福島に心つないで 京都の私たちに何ができるのか、自問自答の日々 

澤田:新婦人の府本部で仕事をしています。今回こういう形で私がお話をすることになって、私自身何が話せるんだろう、私が今伝えたいことは何だろうとずっと考えています。題名は『福島に心をつないで、京都の私たちに何ができるのか自問自答の日々』ですが、それが今の率直な気持ちです。

 3.11以後、ずっとそのことを考えています。福島といくばくかの縁があるものとして、また一人の母親として京都からずっと福島に支援したいと考え続けています。

 今年は自分の人生にとっても、あるいはこれまでしてきた運動からみても、ほんとに忘れられない意味のある大きな一年になりました。自分がしてきた運動のあり方とか考え直すような一年だったんですが、この今年の終わりにこういう機会を与えていただいたことに感謝をしています。

相馬への思い

 私の母の実家が相馬市で米や梨を作る農家をしています。自分の両親が自営業で共働きでしたので、小学校にあがってからは毎年夏休みになると、私たち姉妹4人は、福島の相馬に預けられて、夏休みが終わるまで一か月以上、いとこと一緒に遊んで過ごしました。

 3.11の地震・原発事故の後、私もテレビにくぎ付けになっていました。福島の磯部地区という海沿いのところですが、「磯部地区壊滅」っていうテロップが出て、実家に電話しても全然つながりません。あとでわかったんですが、一晩孤立をして5日間連絡が取れずにいました。翌日からは第一小学校の避難所で過ごして、一か月避難所にいて帰ってきました。ちょうどその頃が梨の花の剪定の一番大事な時期だったので、もう一日も早く帰りたいという思いで、一か月たって帰ってきた直後に、おじは脳梗塞で、今も病院に入院しています。

 そういうこともあって、私自身、すぐに相馬に飛んでいきたかったのですが、当時はまだ福島県だけはボランティアセンターも受け入れてなくて、岩手と宮城だけということで、相馬は宮城に近いし海は繋がっているし、宮城にボランティアに行かせてもらいました。『ひろば』で書かせていただきましたので、それも見ていただけたらと思います。

 石巻は自治体の中では一番亡くなった方が多く5000人近い方が亡くなっています。その海沿いの門脇小学校では、学校にいた3年生以上は誘導されて避難して山に登って全員無事だったのですが、ちょうど時間的に12年生が下校していて、下校した12年生が流されたと聞いて本当に愕然としました。

 それから、津波の水って真っ黒い水というのを現地で聞きましたが、ガレキの片づけをしていてその水を見ることができました。おばあちゃんの一人暮らしの家にボランティアで入りましたが、収納ケースがそのままの状態で残っていました。おばあちゃんは一人で畳上げもできませんし、片づけもできませんし、身寄りもないし、津波を受けた濡れたままの状態での家で2か月暮らしてはったところに片づけに行ったんですけども、収納ケースに真っ黒い水が残っているんです。これが津波の水。海の水じゃないんです。においっていうのは大事な要素だと思いますが、津波独特の黒い水のにおいがしていました。2か月おばあちゃんは呆けてたっていうか、意欲がなくなってたんですけども、家が片付いてきて地面が見えてくるとちょっと意欲がわいてきて「ありがとう」って言っていただいて、ほんとに来てよかったなあと思いました。

 石巻から仙台まで戻って、JRとバスを乗り継いで帰りに相馬に立ち寄って叔父のお見舞いも行けました。いとこも原釜という地域にいて、家も全部流されて1歳と3歳の子どもと今も仮設住宅に暮らしています。1歳と3歳ですから放射能の影響もあるし、「京都にもおいでよ」って言っているのですが、なかなか腰が重いです。

京都での取り組み

 新婦人に寄せられた義捐金は、全国で1億円を超える額が集まっています。京都では、京都に避難している子どもたちに届けようということで、図書券と京都ダイヤリーを用意して、行政区の会員さんたちがその地域に届けにあがった。そしたら、「ガソリンがある限り子どもだけ連れて着の身着のままで京都にたどり着いて、その晩娘二人と三人で泣いた」という話をされたんですけども。その子どもたちが、それが届いてうれしかったという話を聞くとほんとによかったなと思います。

 「子どもを放射能から守るママ・パパの会」で、いろんなお母さんと出会って思いも共有しています。「3.11で価値観が大きく変わって、大げさかもしれませんが生き方を見直すきっかけになったと思います」と言って新婦人にも入ってくださった方など、お母さん方が子どもを守りたいだけじゃなくて価値観が大きく変わってアクティブに行動しています。まず学校給食の食材のことで学校長に何回も足を運んで、教育委員会にも何回も足を運んで、産地表示されるようになった取り組みをされました。それを聞いて今度は保育園のママ・パパの会のお母さんたちが保育所もやって欲しい。保育所は公立はやっていますが、民間のところはそこまでしていなくて、取り扱っているそこの地域の地元の業者との関係がありますから一貫してないところがほとんどですが、何とかならないかという運動を今しているところです。ガレキの問題とか、次々と行動を広げていっています。

 彼女たちはスタートした時は、「政治と宗教おことわり」っていうスタンスだったんです。毎回の例会で政治と宗教おことわりだけど赤ちゃんを抱いたお母さんが50人ぐらい、ワーッとお互い知らない者同士集まってくる形の中で激論をする。その中でちょっと関心のあるテーマでお友達になったりするんですが。あるお母さんと親しくなって、その方はお子さんが1年生で、2歳の時に白血病を発病されて府立医大でずっと治療していて、「あと3年再発しなければ完治ですよ」っていうところまできていたんです。そのお母さんは原発とか考えたこともなかったのですが、自分自身が2歳の時白血病を発病してほんとにつらい思いをしてきたし、福島の子ども達に小児がんってつらいことだし、なってほしくないし、一人でも多く避難して欲しいってお話をされました。

 私は新婦人で地震の時以降避難される方に、「会員さんの家で、こんなお家がありますよ」って発信したんですが、始めはニーズがなかったんですが、そういうお家があるよっていうと、意気投合して福島の子ども達を京都に受け入れるって運動を一緒にしましょうってことで、『ほっこり通信』いう冊子を作りました。それまで知らなかったママたち4人でスタートして、今9人で編集をしています。そのうち3人が避難して来られているお母さんです。すごい反響があって5500冊と刷って、どんどんなくなります。

避難がいいのか、除染がいいのか・・・・

私は個人的に経済力の違いなく、すべての福島の小さい子どもを避難させてあげたいと思っていますが、でもやっぱり現地の人たち、うちのいとこもそうですけども、やっぱり腰が重いです。それはもちろん住み慣れた土地への愛着はあるしいろんなしがらみがあるし、家族と別れるのはなによりもつらいということがあってほんとにつらい。『ほっこり通信』の友人の中でも、放射能でまだ発病して亡くなったという人はいないけれども、避難したことによって家族がバラバラになったことを苦にして自殺した人、亡くなった方はいると。避難している方の中ではもう死者が出ているんじゃないかと。避難がいいのか、除染してでも福島で生き続けることがいいのか、いつもママたちの間で議論になって、ここが私も、悩ましくて一番つらいところです。福島の新婦人のママも、福島の現地のママたちも避難するのか、それともここで残って生きていく決意をするのか、そこが分断されていることが一番つらいっていいます。

 1030日の福島での「子どもたちを放射能から守ろう」の集会にいわき市から避難されているお母さんを誘って、カンパを集めて参加しました。4歳の娘さんを一緒に連れて行ったのですが、集会が終わってまた福島駅でおじいちゃん、おばあちゃんとお別れする時にその4歳の孫ちゃんがもう大泣きするわけです。「おじいちゃん!おじいちゃん!」って。おじいちゃんも、スーッと退いて泣いているんです。それを見たら福島に残って放射能の影響を受けるのもつらいけど、避難するのもほんとにバラバラになるのもつらいということも目の当たりにしました。そういうところが自問自答していることの一つです。

最後になりますが、私自身、核兵器をなくして放射能から子どもたちを守るってことを原点に、ずっといろんな取り組みをしてきたつもりです。核兵器をなくしてって取り組んできた自分が今、目の前で同時代に放射能に汚染されて、健康が蝕まれてるかもしれない子どもたちを前にして何もできないでいるのがもどかしくて、この一年間ずっと悶々としています。残っていいのか、全員避難させなければならないか、専門家の人たちがすべての英知を出し合って政策というか方向を出し合って欲しいと思ったりもします。「自問自答の日々」という題名にしましたが、3.11以降今に至っています。

 
◇質問と討論 

本田:澤田さんの方から京都の取り組みも含めて避難されている方と関わりながら、どう考えていったら良いのかという問題提起もありました。これから質問と討論の時間にしたいと思います。

質問@:高校の教員です。全国教研の「環境・公害」の分科会で福島の先生からレポート発表がありました。そこで聞いたのですが、先ほどの澤田さんの話とも関連するのですが、除染とか被曝の問題で保護者が学校に対し、「除染をどうしてくれるのか?」「除染した土地をどうするのか?」という質問をすると、保護者の中で「不安をあおることを言うな」というふうな批判があって、保護者が分断されるっていったことが起こったり、高校のサッカー部でサッカーをグランドでやる時に生徒が「被曝とか大丈夫ですか?」と言うと、顧問が「何いうてんにゃ」って言ったり、ということを聞いたんですが、今現在福島の学校で被曝とか除染をめぐって保護者の間でタブーみたいなのが生じていないのかどうか。

大貫:結局それは結論から言うと、県教委が方針を出せないからなんです。例えば除染にしても、まず最初に始めたのは地方の自治体です。郡山市が父兄のそういう要求で始めたんです。県がやりましょうと言ったわけでもなく、国がやりましょうっていったわけでもなく、郡山市だったか二本松市だったんですけども、県もしぶしぶ重い腰を上げたんです。県教委は小中高すべて、これからどうするっていうプランを示せないでいます。だから、突き上げられて、除染をすると。そういう状態で、例えばサテライトにしたって、小中にしたって「じゃあ来年どうするの?」「再来年どうするの?」、すべてのことに対して全く指針を私たちに示せないでいます。どうしても、学校によって対応が違うわけですから、父兄は不安になるし、決してタブー化してるというわけじゃなくて、むしろ指針を示さないが故によって混乱が起きているということは確かだと思います。

質問A:高校に勤めています。学校の教職員が避難所でどのような活動を実際にされたかということを聞かせてほしいです。学校が地域の避難場として使われることが非常に多かったんじゃないかと思いますが。事前にそこでどういうふうに動けばいいか、どうしたらいいか研修なりがあったわけでもないだろうと思うんですが。そういう中で実際に学校の教職員が自らも被災しながらも、どういうふうに組織的に動きを作っていかれたのか。私たち教員として、そういうことも考えて準備していかなくてはならないのかなって思ったりもしています。そのあたりのご経験とか周りの先生方の様子をなんかお聞かせいただけたらと思うのですが、いかがでしょうか。

大貫:地区によって違うと思いますが、県内で地震と津波と原発による影響のない中通りと会津の方は普通通り学校生活をやってましたので、変わらない生活だったと思います。30q圏内にある学校の教員は自分たちも被災者なので自分たちの生活でいっぱいいっぱい。ほとんど自分の家から避難しましたので、私も一週間ほど避難し、学校が始まったのが5月の上旬でしたので、それまでは行く学校がないわけだから。ほとんどの先生は自分の避難者としての生活でいっぱいだったと思います。私の場合だとすぐ戻ってきましたが、勤務する学校がないし近くの小学校にボランティアで通っていました。

それと相馬市など30q圏外なので、その学校は普通にやってるんだけども子どもたちは被災しているので、そこにいる先生方は自分たちが浜に行って後片付けをして、ボランティア活動を随分されていた先生方もいたという話もうかがっています。でも、学校そのものが4月いっぱい動かなかったので、個々人の判断に任せられたっていう感じです。

質問B:中学校で社会科の教師をしています。以前に大貫先生が女性教研のほうで報告されたプリントを見させてもらって、大変感銘を受け、終業式の日、今年あった事件の中で決して忘れてはいけないことで学級通信に一部掲載させていただいて、子どもたちに実態を見てもらおうと思って活用させてもらいました。よく報道でこんな大きな震災が起こったりしたのに、日本がすごく冷静だとか、落ち着いて行動してるとかいうことを世界中から称賛されるという報道がされたりして、私の親もかなり高齢なんですけどもそんな報道なんか見ると、「なんか日本人はおとなしいね。なんで日本人は怒らないの」そんな言い方をするのですが、心の中で私はそんな場面を報道してないのじゃないかと思ったりしてて、日常生活の中で、実際どうなのでしょうか。

 あと治安の問題で、一部では取り放題やとか、家に入られたとかそういう問題が指摘されたりするんですが、治安の乱れっていうのは実際どのぐらいなのでしょうか。

質問C:現場の先生方から聞くと福島の事故とか、津波のことの話がもうなかったかのように、あまり話題にされないという現実が聞こえてきます。お聞きしたいのは被災されている現地福島などでは、大津波のこともそうですが、原発の問題についてどんな学習活動、教育活動がなされているのか、またはされようとしているのかお聞きします。

大貫:怒らない、怒らない。残念ながらそれがあるかもしれません。マスコミに写されないってこともあります。どんなに怒っていても、仮設住宅に「はいどうぞ」って入って、「ああ、いやあ、うれしかったです」。こんなとこに入ってうれしいって人ばかりいないです。だけど、そういうふうに写されれば。これは福島でなくても日本全国同じなんじゃないかなって思いますが。

 あと治安ってことで言えば、20km圏内でいえば銀行のATMなどずいぶん荒らされてお金とか無くなったと。それから貴金属店なんか入ってガラス壊して取り放題なので。あと私の学校のある小高町なんかではしょっちゅう一時帰宅してたんですね。警戒がゆるい時は裏道を通って何ぼでも入れたので。幹線道路しか警察はいませんでした。その警察も全部県外の警察なんです。こっちは裏道を何ぼでも知っているので、小高町あたりは入るんですよね。入るたびに物がなくなっているって。一番すぐなくなるのは液晶テレビ。軽いし、高いし。あとは飯館村。今無人なので、夕方になるとパトカーが巡回します。飯館村はそれなりにいい意味で豊かな村だったので、パトカーが巡回しています。物がなくなるそうです。

 私が住んでいる原町も今までになかったことがあります。放火です。今まで放火ってなかったんです。ところが一週間おきぐらい四件続けて放火があったんです。それは人間の心の表れなんだろうなって、それだけ心が荒んでいるんだろうなって思います。

 あとは教育活動っていうことでは組合としては非常に弱い。数の少ない組合なんだけれども、東電交渉とか、県教委交渉とかやってともかくいろんなことを訴えていますし、あと教研集会などやっていますし、あと全国のいろんな人に「福島は何も変わっていないんだ」ということを訴えています。

 ただ学校現場ではなかなか難しくて、どういうふうにするかってことは明確な取り組みはまだないです。あと女性部として取り組んでいるのはこのことを何とか残そうということで、文集を作ろうということをやっています。あとは教育活動ってわけにはいかないのですが、福島をうったえる本もあって。私も『ひろば』に書かせてもらったのをそのまま載せています。

 今でもやっぱり読んでざわっとするのは、相馬の漁師さんの話は読んでも身の毛がよだつほど恐ろしいです。後ろから波が迫っているところを逃げていったという話。なんかやっぱり大変だったなって。今でも大変なんですけども、ぜひそういう本を読んでいただきたいと思います。福島の場合は進んでないんです。がれきを撤去してもまだ前が見えないっていうか、原発が何とかならない限り前が見えない、それでもやっていかなくちゃいけないので負けてられないなと思います。

本田:福島では教育活動はこれからだといったところでしたけれど、皆さんはいかがでしょうか。先ほど学級通信に載せて子どもたちと一緒に話したという報告もありましたが、教育活動をこんなふうにしようと思ってるとか、こんなふうにしてるとか、いかがですか。

発言@:取り組みの一つとして紹介させていただきます。地元長岡京市で九条の会もやっておりまして、先日川俣町から来ていただいて現場の状況をみんなで聞こうという集いをしました。現状を知るっていうことが一番大事やなあと言うことで、福島県川俣町がちょうど三分の一が計画的避難地域になったところから招きましてやりました。

もう一つは、見ていてほんとに腹立たしいのですが、自分たちも被害者の顔をして出てるということです。福島県が再生していくためには今のままではどうしようもない部分がたくさんあるわけだけれども、ぼくは国がもっと前面に出なければならないんじゃないか、つまりすべての災害の補償について国の機関でやって必要な経費を全部東電に払わせると。今のままでいくと、東電の職員がやってきて、それもあんな分厚い書類を渡すだけで、なんか申請せえという言い方でやっているんじゃなくて、行政をそういう窓口に立たせるべきじゃないのかなということを強く思います。今のままでいけば、それこそ40年住めない地域が出てくるわけで。それも含めてどういう国づくりをしていくのかということ、東電一社の問題ではないだろうという気がするんですけれども。この点に関してはどういうふうに考えられますか。

大貫:私もほんとその通りだと思います。例えば、私ら除染しなくちゃいけないんですか。私たち何もしてないですって。私たち何も汚してないし、なんで地元住民が除染しなくちゃいけないんですか。東電がきてやってくださいと。

これを言うとほんとにつらいんですが、何万人という人間のこれからの人生と夢と希望を全部ぶち壊したわけです。何ぼ補償金もらっても農民が米作れない。一千万もらったって、そっちがいいですか。牛飼いが牛飼えなくて一千万もらってそれで良しとしますか。全部奪ったわけですよね。それ誰も謝らないです。国と東電とそれに今まで甘い汁を吸ってた連中、それが悪いんです。悪い人間がなんとかしなさいと。それができない日本なんです。日本の政治って今それ出来ないんですよ。だからいろんなのを見ると、子どもだましの除染活動のテレビを見るにしても、ともかく一日も早く原発を再稼働したいんですよね。だからああいうことやってると。私たちには何にもならない。私たちの苦しみはこのままでは忘れ去られてしまう。このまま原発が日本中稼働していって、いろんな脅しがあって、外国に行っちゃうぞとか、日本の経済がだめになっちゃうぞとか、私たち何万人の夢も希望も全部踏みつけにされて忘れ去られてしまえば、これはこんなうまいことは無いわけで。

安全・安心といわれ続けてきた福島がこうだよと。多くの人が、私もそうだけど、まさかというのは本当にあるんだと。今でも、毎日寝られないんです。こたつに入ってずっと24時間テレビを見ています。もう想像できないんです。原発の事故っていうのがどういうものか全く想像できないんです。夜中に道を通る車の音を聞くと「あー、また誰か逃げていく」って思っちゃうんですね。このまま取り残されるんじゃないかという不安。放射線の恐怖っていうのはどういうのかわからないという不安。私もかなり被曝しているんだろうと思うんですが、あと3040年生きられるかしれないんですよね。だからそれほど怖くないんです。というふうに思っちゃうんです。

だからたくさんの人間の一生を壊した責任は誰にあるのか。本当に子どもを助けたい、子どもを避難させたいと思うのだったら、国が責任を持ってそうすればいいんです。子どもを全部避難させてください。ただし、親も一緒に。経済的に全部保障して。それができないから今いろんなところで苦しんでるわけです。残る人も出た人も苦しんでいます。それを個々人の問題にすり替えてるわけですよ。それをやるのは国ですよね。私たち好きでこんな生活選んだわけじゃないっていうことなので、国が責任を持ってやるべきなんでしょうけれども、それを求めていきたいとは思いますが、たぶん福島県の人は、私も含めて国のいうこと、県のいうこと、東電のいうことを信じていませんっていう人が多いんじゃないでしょうか。

発言A12月の初めに文化祭をやりました。東北の大震災、福島原発のことが中心の「生きていくっていうことはどういうこと、それを子どもたちにどう伝えていったらいいのか」というのがテーマになりました。居ても立っても居られない気持ちでたくさんの仲間が東北の特に福島の方へ支援に行っていますが、その報告をDVDにしました。それをみんなで観ました。

取り組みとしては、福島の子ども達が外でドングリ拾いとか松ぽっくりを拾えないということで、御所にドングリ拾いに行って送りました。それを送ったことで直接お手紙をいただきました。それから、とにかく寒いので被災者に贈ろうということで、膝掛モチーフと帽子を40何個編み、それを直接届けていろんな話を聞いてくることとかやりました。どうしても地域の子ども達に伝えたいということで、「これを使って授業さしてください」って、行かれた本人が学校の方とお話をして、いくつかの学校でとりくみました。東電に対しても責任をとらせたいと思いますし、今までの原発神話を広げてきた日本の政治のあり方を一人一人がもっと厳しくとらえて、いろいろ活動することが大事だと思います。小さくても取り組みを積み重ねて、地域につなげていく、学校とつながっていく、そういうのをもっと広げよう、そういう決意をして終わりました。

発言B:私は今年度で退職ですが、その年に3.11があって非常にショックキングでした。今まで原発について何も教えてこなかったという責任みたいなものをものすごく感じて、何が何でもしないといけないということで授業を組みました。

 たとえば文科省の方は例の副読本を出して、この事件があってからスッと引っ込めましたけども、すぐに次のバージョンを用意して、今度用意したものはほんとにひどい内容で、原発のゲの字もないわけで、水仙の話から始まって安全をさらに言っているというのが腹立たしいです。そういう意味合いで、教師は今年度中に何がなんでもたとえ少しでも授業していかなくてはいけないなと思っています。文科省の方は逆にすみやかに、安全神話を作ろうとしているわけですから、今年手を出さないと持っていかれるような危機感を持っています。

 片方で、関電では冬の節電までやっています。新聞社の全面広告、五社出しています。あれ二千万ですから五社で一回、一億使っています。そういうことをしている向こうは、さらに原発を強固なものにしたいと思っているんだろうなと。

 教師としてはちょっとずつみんながあちらこちらでやっていくことが重要なのではないかと思っています。この東日本大震災の福島原発の事故から高校生が何を学ぶのかということで何か取り組みをされていたらお聞きしたいです。原発とか放射能の教育で、教材化ということに関してどういうふうな点があるのかお聞きしたいと思います。

 ちなみに私は、理科の教師で京都の高校三年生の女子高校生が今年の夏、理科基礎という科目で、それの東京書籍の理科基礎の一番後ろに「原発、イエスかノーかディペイトしましょう」といった課題研究があったんです。その課題を夏休みの間に書いてきなさいと。途中からですが、紹介します。「被爆すると、白内障や皮膚損傷、血液失調、不妊などになることがある。さらに放射能がDNAを傷つけることから発がんのリスクが高まる。さらにその遺伝的影響が生じる可能性も高まる。そんなリスクも背負いながら原発に依存していくことを誰が思うか。これだけではない。福島原発周辺の農家でとれた農作物から基準値を含まれていることから出荷できずとか、汚染されたわらを食べた牛が内部被曝をしていたことがわかり出荷できず、そんなニュースを最近毎日のように見かける。直接的に被曝していなくても放射能の影響は罪のない人々に被害を与えているのだ。原発さえなければ。テレビのニュースでそんなふうに話している人がいた。原発によって人生をむちゃくちゃにされた。そのように考える人はもっとたくさんいるはずだ。原発は人を不幸にするものなのになぜ造られてしまったのか、そしていまだに脱原発に反対する人がいるのは何故か。全く理解できない。私は今まで何も知らなさすぎたのだと思う」と、書いている。「原発にイエスかノーか」22人の講座でしたが三年生に聞いたところ19人がノー、3人がイエス「仕方がない」、そういう結果でした。だから非常に健全だなあと思いましたので、ぜひ福島でもどういうふうに教材化されているのか、実体験にもとづいた教育実践があればまた教えていただきたいなと思います。

発言C:先生はたくさんの高校生と話をされてると思いますが、印象に残っている高校生の生の声があったら教えてほしいです。また記念誌を発行される時に高校生の声もぜひ載せていただきたいとお願いして終わります。

 
◇まとめの発言 

本田:トークしていただいた方に一言ずつまとめの発言をしていただきたいと思います。質問もありましたのでそのことも大貫さんお願いいたします。

大貫:小高工業にいる時に、子どもたちに聞いたんですよ。「あんた達、何も話さないね」って。普通に生活しているんです。ここでは普通に生活したいなっていう思いがあったんじゃないかな。ある生徒に「なんであんた達しゃべんないの?」って聞いたら、「だって先生、あいつの親が流されてんだよ。あいつの家は流されてるんだよ。ここでそんな話できないよ」って子どもが言うんですよ。むしろ原発を客観的に生徒からいろんなことを言えるのはまだここではできないのかなって思います。

 私が小高工業で教えた生徒の優秀な子はそこに入っているんです。そこで働いているんです。今年3月優秀な子、東電は優秀な子しかとらないんですから。近隣の高校を競い合わせるわけですから、優秀な子をとるのにね。東電というのは、保護者にとって誇りなんです。東電に私は進路指導やっているから入ると、そこに関連会社がずらっとあるわけです。だから一番が東電。もし東電を落ちても、二番手はあのゲートを入った関連会社に入ること。次三番手はその下請け。そういう地域に作り上げられてしまったんです。そういうところに行っている子どもたちがまだいる。私の教え子もそこにまだ入っているんです。

 まだまだ自分の本音を語るには、自分の気持ちの整理もつかないし、友達のこと考えると、「俺の友達のお父さんが東電に入ってるんだ」とか考えると、やっぱ高校生ではそんなに簡単にはいかないなあという思いがあります。ただ文集については匿名で原町高校のアンケートなんかには載せることにしています。「名前を出してもいい」という小高工業の生徒には名前を出して作文を書いてもらっています。

 この間の日曜日ですか、「高校生の平和ゼミナール」があって、原町高校の生徒会長が行っていろんな生徒と語り合ってきたそうですが、彼はすごく力をもらってきたようで、「こんなにまじめに日本のことを考えている高校生に会えたのがすごくうれしかった」と。最後に「なかなか捨てたもんじゃないぞ日本」というふうに思ったらしくて、それがすごくうれしいなって。若い子たちはストレートに出せる子もいるし、ストレートに出せない子もいるけれども、何とかがんばらなくっちゃという気持ちがそれぞれ持っているんだろうなって。そんなふうに自分たちも教育の場で力を与えることが少しでもできたらなっていうふうに思っています。

澤田:『ほっこり通信』で、京都に気軽に避難してきていいですよっていう、いろんな角度で情報を広げています。ここへ避難されているお母さんといろいろネットワークがありますが、支援する人と支援される人っていう関係ではダメなんだよねっていう話を今しているところです。先々週、二本松市から避難されている方が、おばあちゃんが亡くなって帰る。避難してからずっと帰っていない。その帰る時に、3歳と1歳の子どもを連れてお葬式に出るのか、おばあちゃんのお葬式に出させてやりたい。でも、せっかく避難してきているのに連れてっていいのか葛藤したんですけど、こちらでは私たちしか友達がいないので、一泊ぐらいうちに泊まったらいいよということで安心してうちの家でうちの子どもと遊びながら一泊して、お母さんだけ福島に帰ってきました。身寄りのない京都にやってきている人達とふつうにママ友になろうということで今やっています。だから支援者、被支援者じゃなくて、友達として京都で新しい関係を築いていこうとママ達としています。

本田:会場のみなさんもたくさん質問やご意見、討論に参加していただきましてありがとうございます。大貫さんの言葉がほんとに重かったです。国の責任、東電の責任そういう責任を問い詰めると同時にマスコミの責任も大きいと思います。私たち運動を積み重ねて今後解決に向けて力を合わせたいと思います。

 最近『バベルの塔』という映画を観ましたが、映画九条の会の方が中心になって作られました。これから御講演されます安斎先生と、小出先生、深尾先生も出られて、事実はどうなんかということをしっかりお話をされてる原発を告発する映画です。この映画もたくさんの人に観ていただける上映運動などもそれぞれの地域でしていただけたらなと思います。もう一つ私が観た映画『ミツバチの羽音と地球の回転』、山口県の祝島で原発に反対するそこの漁民の方々、もう30年も原発をそこに建てるのを反対し続けて今中止になっています。反対し続けていれば、今に情勢が変わるのではないか、そう思いながら運動して来たそうです。

今情勢が変わってきています。こういう時にみなさん力を合わせて運動をさらに続けていこうではありませんか。そのことを訴えましてパネルトークを終わらせていただきます。

 「京都教育センター年報(24号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(24号)」冊子をごらんください。

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