事務局   2011年度年報もくじ

第42回 京都教育センター研究集会

講演記録「原発・放射能問題と真理・真実」

               講師  安斎 育郎 先生

*この講演記録は、京都教育センター事務局の責任で編集し、見出しは編集者がつけました。
 

◇理性的に怖がる

 あわただしい日を過ごしていまして、昨夜韓国から帰ってきたばかりですが今日もこの後がありまして5時過ぎにはここを出なけりゃなりません。90分程度、レジュメに沿ってお話したいと思います。

 今、我々の目の前では歴史に残る重大な事態が進行しているが、放射能の専門家の立場から見ると極度に怖がりすぎている面もあって、「過度に恐れず、事態をあなどらず、理性的に怖がる」試練さらされているに相違ない。福島の反原発の集会で使われた言葉がそのまま出てきたんですが「福島に生まれただけで結婚が出来ないとか子供が産めない」ということは絶対にありません。福島はそんなに危ないのかという不安を広げかねないのでもっと励ました方がいいと思います。一ヶ月ほど前に大江健三郎さんたちと「ノーモア被爆者記憶遺産を継承する会」を立ち上げ、大江さんと私と被爆者3人が記者会見をしました。その被爆者のお一人は今94歳、軍医として広島で被爆した方で、放射能について厳しい人だけれども「私も被爆者でここまで生きてこれたのは健康管理をしっかりやってきたからで、福島でも健康管理をしっかりやって下さい」と言われたが、被爆当事者の発言として説得力がありました。

 これからガンや白血病が出るかも知れないといわれているが、初期に発見すれば対応の仕方があり直せるので健康管理をしっかりとすることが大切でがっかりしないで、社会全体で取り組んでいくことが必要です。

 
「怖がる」というのは感性のなせる技なので「理性的に怖がる」というのは一つの試練ですが、今福島と聞いただけで身震いがする、産物が売れないような事態がある中で福島の米を買って普及することも大事な励ましだと思っています。

 時間が短いので大急ぎの話になります。私は東京生まれだが大空襲の数ヶ月前に福島に疎開して5年間過ごしていました。今福島で起こっていることは我がふるさとで起こっていることなので、親戚もたくさんいて人ごとではないという気持ちです。


◇原発開発と核軍備競争の深い結びつき

 東大の工学部原子力工学科の第一期生で、この国の原発開発の技術者要請の任務を持つ部署にいたんですが卒業して5年ぐらいで失望して、1970年代から原発反対の立場で福島原発周辺の人々ともいっしょになって、1973年から原発反対の運動を取り組んできた。従って、その結果としてアカデミックハライスメント、差別的な扱いを受けてきましたが原発を推進して作ってきたのではない事は明らかだが、事故を防げなかったのは申し訳ない気持ちで内心忸怩たる思いがある。

 今回の問題が放射能問題に矮小化されている気もしているので、政治、経済や社会、文化の側面から何故こんな事が引き起こされたのか、この国のあり方に関わる事として主権者としての我々が今後こんな事を招かないためのエネルギー政策を選び取っていく上でも戦後日本のエネルギー政策の展開をアメリカとの関係でしっかり見据えておく必要がある。戦前にあっての「国体」は(最近の学生は国民体育大会のこと?)天皇中心の国の体制で戦後は憲法が国体の中心だけれども、憲法にも左右されないもう一つの「国体」が「日米同盟」という枠組みで、しばしば憲法で保障された権利でさえもその前では潰え去っていくことを体験したので、原発問題もアメリカとの関係できちんと見据えておかなければなりません。

 日本人が核被害を体験したのは今回が初めてではなく広島・長崎が初めてであったのです。なぜ広島・長崎に原爆が落とされたのかを振り返っておくことは有効なことです。第二次世界大戦で核兵器が使われたわけですが、それは1939年9月1日に始まり1941年の12月8日、日本がアメリカやイギリスを相手に宣戦して太平洋一帯で核が使われる世界大戦になった。43年に連合国側はこの大戦をどう終わらせるか相談していたがドイツや日本を敗北に導く手だては1945年の2月の「ヤルタ会談」でレールが敷かれ、アメリカと当時のソ連で参戦の密約が交わされた。ナチスドイツはやがて陥落するだろうが日本の関東軍をどう壊滅させるかについては、3ヶ月後の8月8日にソ連は宣戦布告することになる。アメリカは日本を敗北に導くために「ポツダム会談」の前に、7月16日人類最初の核実験を成功させた。その翌日に会談した。その後、ソ連からアメリカ側に「日本の天皇から戦争をやめたいから、ソ連に仲介の労を執って欲しい」との要請が来ていると伝えられた。そしてアメリカはソ連のイニシアで終戦にならないように、早く日本に対して原爆を使うべきとの考えに至った。7月の後半、どこに落とすかと言うことになって、最初はここ京都が第一目標、2番目が広島、そして小倉、新潟が目標になった。京都盆地の真ん中にある梅小路の回転線路の鉄塔がわかりやすい落下目標とされ、9000b上空から落下させ地上600bで爆発する想定だった。しかし、京都はかつて都があり天皇崇拝の国民感情を逆撫でするとの理由ではずされ、新潟は街並みが小さく遠方過ぎることで外され、結局8月2日の段階で広島、小倉、長崎が選ばれた。天候が許す限り早いほうがよいということになって8月6日の朝予定通り広島に原爆が投下された。その一発の爆弾で20万人のいのちを奪った。それによりアメリカ主導の終戦ということでソ連が焦り、8月8日、夜中の11時にソ連は宣戦布告して満州から日本に攻めてきた。日ソ中立条約を破棄して攻めてきた。それで、今度はアメリカが焦って翌朝にプルトニウム爆弾を積んだB29が小倉上空に飛んだが、隣接の八幡が空襲火災で視界が悪く、第三目標の長崎に投下した。その結果今日までに二つの原爆で30万人の死につながった。このように原爆があわただしく使われてきたのは、戦後の世界支配を目論む核軍備競争の始まりとなっていったのです。この広島・長崎の惨状を世界に知られないために、アメリカは原爆報道を厳しく統制禁止し、世界の人々はこの原爆の惨状を知らないままに終戦を迎えた。

 その後、原爆・水爆の開発実験が、アメリカとソ連で競争して進んだ。そして、1954年の1500万トン(大戦中に使った5倍)の規模の原爆でない水爆実験がビキニ環礁で強行された。世界を支配するための核軍備競争は、ソ連のイニシアチブで始まり、遅れをとったアメリカは民間での核開発を禁じていたのを緩和して、原子力潜水艦に搭載した原爆を陸上に運んで原子力の活用に踏み出した。その後、原子力を利用した発電の開発が進み、衝撃の「WASH740報告」では原発事故の被害想定を試算した。損害額が3兆円を超える(国家予算の2倍規模)ことでは、民間が手を出さないと言うことでアメリカは「プライス・アンダーソン法」を制定して、事故に際して国家がその補償をすることを決め、アメリカの原発開発政策を転換させた。


◇日本の原子力開発のはじまり

 日本でも同じような経緯を経て1961年に「原子力損害賠償法」を作り、東海村にイギリスから輸入した原発を1998年頃まで使っていた。しかし、その後の今ある54基の原発は(日本独自で開発した高速増殖炉「もんじゅ」「ふげん」を除けば)60年代からすべてアメリカ式の実用型原発です。日本に持ち込んだのは、アメリカの大学に招かれて洗脳された当時の改進党代議士であった中曽根康弘氏です。中曽根氏はアメリカで原発を吹き込まれて日本に帰ってきた。当時の日本の研究者は慎重な議論をしたが、それにいらだち、ビキニ実験被害の2ヶ月後にウラン235を意味する2億3500万円の「原子炉築造予算」をつくった。そしてアメリカ型の原発を推進し、その宣伝を担ったのが読売新聞社主の正力松太郎氏で、当時の原爆実験反対の世論を封殺するかのように原発の平和利用を紙上で吹聴・宣伝した。

 原子力は破壊だけでなくエネルギー源として平和的に利用できるんだというふれこみで「原子力平和利用博覧会」を全国各地で開催し、数十万人の観客を動員したわけです。その一つが1959年、東京で開かれた国際見本市でアメリカの原子炉を展示し、それを見て関心を持った研究者の一人に安斎育郎という人物がいて、翌年に東京大学に入ったわけです。2年間は教養学科ですが、理科T類で3年からは「応用物理工学科」に行こうと決めていたんです。ところが63年度から15人の定員で「原子力工学科」の一期生の募集があり、私は見本市で感化されたこともあり放射能の先端的な研究も出来るというのでその方にすすみました。最初から原発に反対と言うよりその担い手たらんとして歩んでいきました。非常に真面目に勉強する学生だったので、今も大学ノートが5冊残っていますが、家に帰ってからもグラフをコピーして四隅をきちんと揃えて貼り付けたものでした。15人の一期生のうち私ともう一人(神学系統)以外はみんな原子力開発の方で研究していった。私は、原子力がモノになるには放射能の管理が出来るかどうかという問題意識があって、ネズミに大量の放射能を浴びせてその死体を解剖して脾臓がどう変化しているのかを観察しました。放射能をコントロールできるかを研究するために放射性防護学を専攻し、「原子炉施設の災害防止に関する研究」というテーマで「日本公衆衛生学会」誌に2回に分けて掲載されました。

 「原子力村」には入村したが、その中心ではなく村のはずれに身を置いていました。卒業後は大学院の修士課程で「ウランの研究」をやり、ウランなど核燃料の生産にあたる人の尿の中にどれだけのウランが検出されるかの研究をしていました。大学に入った年は60年安保で私は、研究室に行きながら国会周辺にもよく行き、あの「日米安保条約」が強行可決され、以降日本の100箇所を超えるところにアメリカに軍事基地が置かれるようになりました。

 1964年8月の「トンキン湾事件」をきっかっけにしてアメリカは、自作自演の偽りの情報でベトナム戦争に参入し、約30兆円の軍費を使い、100万を超えるベトナム人を殺害し、枯れ葉剤などで計り知れない精神障害と環境破壊をもたらしました。枯れ葉剤の開発に関わった人は追求もされましたが、当時は池田勇人の「所得倍増計画」で工場が増え、大気汚染や労働災害、薬害問題が頻発しました。その時に私は、博士課程に進み「日本科学者会議」という科学者の社会的責任を問う組織が出来、東大で会員になりましたが、原子力開発に関わった他の一期生は推進する立場にいたので、私はすぐに常任幹事に推挙され、「原子力問題研究委員会」の委員長を拝命しました。国に対して申し入れや公開討論を求めたりすると、工学の勉強でだけは把握できない政治・経済・学術・文化など幅広い見識が求まられ、原発立地の住民の講演に呼ばれていくと今度は住民に鍛えられました。北海道の岩内にいけばホタテの養殖はどうなるのか、メロンは大丈夫かなど専門外の質問も浴びせられ、知らないことは知らないと答えるのが筋ですが現地の人は東大の助手をしていて知らないのかと落胆するので、専門外のことも必死で勉強しました。その集大成が1972年12月に開かれた「日本学術会議」(日本最高の科学者の公的代表機関で20万人の科学者が直接投票して代表を選出する)が原発問題のシンポを開いた時に弱冠32歳の安斎に基調報告が依頼された。普通は50歳代以降のその筋の権威者が行うんですが、おそれを知らない私は、国家と電力資本に喧嘩をふっかけたわけです。その時の全文が最近発刊した「かもがわ出版」の「どうする福島原発」に再録されています。安全面だけでなく、軍事面の危険性がないかなど6つの点検基準を提示し、この国の原発政策は「落第である」と烙印を押した上で、今度のような事故が起こって、原子炉系統を冷却するための緊急炉心冷却機能が全滅した場合にどんなことが起こりうるかという実証性がないと言うことも指摘しておきました。今日までその指摘を軽視してきたわけですね。


◇東大でのアカハラに屈服せず信念を貫く

 73年の国会の「科学技術振興対策特別委員会」に10人の学者の中に、日本共産党議 員の瀬崎さんの推薦を受けて入った私は、反対の立場で論陣を張り、そこでも国の原発政策を厳しく批判したわけです。東大の助手ですから身分は国家公務員であるにもかかわらず、その国の最高機関の場で国家政策を批判するわけですから、反国家的な国家公務員と見なされるわけです。反原発のイデオロギーとして人に知られるようになり、大学でアカデミックハライスメントを受けるに至るわけですね。

 73年6月には福島原発2号機の設置許可に関する初めての住民参加の公聴会が開かれたわけですが、これはそれまでは公聴会もなく、我々が要求して初めて持たれました。住民は、学者はどうせ理屈っぽいことで誤魔化すので住民の代理人として安斎育郎を質問者に仕立てよと求めたわけです。この頃の公聴会は九電の「やらせメール」のようなかわいいモノじゃなく、茶番そのもので圧倒的多数の推進派の意見陳述が会場を占める推進市民の傍聴で展開されるわけです。福島県双葉郡の婦人会の代表が「原発、放射能は恐れるに足りず」と演説をしたわけですが、その年の高校野球で優勝した広島商業高校は75年間草木も生えないと言われたところで県代表の双葉高校を10対0で破るという快進撃を遂げたことで、原発など恐れるに足りずと国防婦人会のような発言をしました。

 その頃からアカハラで研究費も来なくなって研究発表も行えず一日中誰も口をきかない状態でした。僕の隣の席には東京電力のD君というスパイが配置されて、安斎が何をやろうとしているのかを偵察する係になっていました。辞めるときに彼は白状したんですが、今日みたいな講演に潜り込んで録音テープをその日のうちに主任教授に届け、新潟で講演して翌日に大学に帰ると呼びつけられ罵声を浴びせられるわけです。僕は間違ったことを言ったわけではなく、教授の信念に合わせる必要はないと抗弁しましたが、1979年3月28日のスリーマイル原発事故が起こるまでは厳しく対処されました。

 この事故について、当時の新聞は最大規模の崩落を報道し、それ以降彼は「僕と君は将来良き論敵でありたい」と言い出しましたが、結局1986年の3月31日まで17年間、助手のママで据え置かれたわけです。それに耐えられたのは自分の信念に加えて、「科学者会議」の知人・友人たちが外ではたくさんいて気持ちが通じ合える事が出来たからです。

 隠れて学会でも発表していたわけですが、お金が来ないので紙と鉛筆で理論的だけれども、とてつもない珍奇な研究をしていたので若手の研究者に人気があって、学会選挙では絶えず上位で当選していました。得票で専務理事兼事務局長という3番目のポストが与えられ、私をいじめていた指導教授はひらの席にいるという現象がありました。その学会の帰り道に東京電力関係の方に料理屋に誘われ、「悪いけど家族共々3年間ほど、金は全部出すからアメリカに留学してくれないか」と言われたんです。にべもなく断りましたが、世間に言いふらす可能性もあり、勇気がいったと思いますが安斎は優しい人なのでそんな事はしませんでした。安斎が講演した後にその影響を打ち消すために現地に何千万円もばらまくくらいなら安斎を外国に追い出した方がよほど安あがりと判断したのでしょう。学会の若手が寄ってきたというのが私の科学者としてのプライドを支えたんだと思います。もう一人私の配偶者が支えてきてくれたことも大きいです。

 同期の14人の多くは今、原発推進の重要な任務を帯びており、科学技術庁の事務次官とか原子力委員長代理とかに就き、中には忸怩たる思いで悩んでい
る方もいることはいますが、私自身も50年近く原子力開発の分野で関わってきた一人として深く反省をしているところです。


◇田中角栄内閣の「電源開発促進税法」

 やっかいなことにそれに加えてこの国は、1973年、田中角栄内閣の時に「電源開発促進税」ができて、1000キロワット時ごと電気を使うたびに今は375円の税金を納めることになった。年間3500億円ぐらいになり、それを財源として原発を引き受けてくれる自治体にご褒美として支給されているのです。福島県も年間約100億円の交付を受け、地方自治体を原発誘致に導くしかけができたわけです。しかし、憲法の考えに沿って、住民自身が原発を誘致する意志を示さなければならないので、双葉町には「明るい双葉町をつくる会」と言うのが組織されています。有力者や東電の関係者が中心になり、あの家は組織に入っているか否かが分かってくるようになり、地域の文化も分断され、お祭りや神輿が担げないというような影響も出てくるわけです。

 電力生産はアメリカ依存に変えさせられていき、もともと「日本発送電株式会社」1社で担っていた電力会社を、アメリカの指示で9つの地域ごとに配電する「配電会社」に分割した。その表向きの理由は「財閥解体」という独占を許さず、再軍備させないという民主的な考えだが、9つの地域ごとに発電と送電を分割してしまったわけです。そうなると、関西では大都市があり電力需要が水力発電だけでは追いつかなくなり、火力発電が求められ、最初は石炭が使われたが炭鉱の閉鎖で石油に変わっていくわけです。石炭は年間7千万トンは埋蔵していると言われたのにどんどん潰されて1千万トン以下になってしまい、今や水浸しになり中国やオーストラリアから輸入している実状です。アメリカが国際石油支配を続ける中で、60年代水力と火力は拮抗し、そして70年代の第一次石油ショック以来原発依存に傾き、ついに54基の原発を持つに至ったわけです。アメリカの対日エネルギー戦略と忠実に受け入れた日本政府が電力資本と結びついて、事故が起こったら全部政府が面倒見るからと、タッグマッチを組んで原発開発を進めてきたのです。

 冒頭にお話ししたように、この国は憲法と日米同盟によって成り立っているわけですが、アメリカは有能な戦略国家で、日本をエネルギーと食糧で支配してきた。食糧自給率は40%ぐらいですがTPPにより10数%に下落し、魚・貝・米の主食を肉に変えていき、牛を飼うえさとなるトウモロコシを今も大量に日本に運んできています。アメリカの化粧品を使わせて美人コンテストで日本人を優勝させる、イチローなど有能な選手をアメリカに連れてきて高い受信料を払わせて日本に中継するなど、アメリカは自国の利益と軍事力には極めて長けた国なんです。「国民総動員原発促進翼賛体制」が作られたと言うことです。


◇「原子力村」の形成と批判の封じ込め

 この体制は8つの要因から成り立っています。1はアメリカの対日エネルギー政策、2はそれを忠実に受け入れた日本政府、3はその政府とタッグを組んだ電力資本、4は原発を安全だとする官僚機構、5はその安全ストリーを描く御用学者、6はそれを誘導するマスコミ、7は受け入れる地方自治体、8はそれになびく住民組織。この8つの要因がこの国の原発を推進し「原子力村」を構成していったわけです。この流れに批判する人々を徹底的に弾圧するか、村はずれに置くか、「村八分」として追い出してしまうのです。「村八分」というのはまだ完全に追い出されたわけではなくて十分のうちの二分、葬式と火事の手伝いはやらせるわけだが、安斎育郎は今、火事の手伝いもさせてくれないから「村九分」状態だ。この巨大な八角形の内部構造がこの国の有り様そのものであり、ここに根源があるわけで、放射能問題を切り口にしながらもその事に止まらずこの国のあり方にまで掘り下げて考えるようにしていかないと、多分今度の3月11日ぐらいになると事故が一段落して「のど元過ぎれば」になってしまいかねません。

 「隠すな」「嘘つくな」「故意に過小評価するな」という3原則は、3月11日の夕方に最初電話による取材が共同通信からあって「何か言いたいことは?」と聞かれ、そう答えたのです。40年間、原発反対運動に関わってきて国と電力会社がそうしてきたことを一番よく知っているので、そうなると国民が最も迷惑を受けるのでそのことを真っ先に言ったんですが、今もみなさん方がこのことを伝え続けてほしいと思っています。


◇放射線の確定的影響と確率的影響

 放射線問題では確定的影響と確率的影響が心配され、確定的影響は決まった限界線量(しきい値)を超えて一度に大量に浴びると誰でも確定的に起こる急性の放射線障害で死に至る場合もある。1000ミリシーベルト浴びると嘔吐や下痢などの神経症状があらわれ、4000ミリシーベルトでは約半数が一ヶ月以内に死ぬ、7000ミリシーベルト浴びると全員が一ヶ月以内に死ぬ。広島や長崎ではこういう死に方をした人が多くいたわけですが、幸い福島ではこうしたケースは出ていないし今、起こっている事故を納められればこうした事態はなくてすむかも知れない。しかし、今宙ぶらりんの状態で安斎育郎が最も心配するのは「余震」です。マグニチュード9の地震が起こり(阪神大震災の350倍)、その余震は最大マイナス一のM8(阪神より大きい)が起こる危険性が残されている。本震でガタがきて辛うじて再開した冷却システムがまたダメになって、38時間電力が途絶えてまた溶けて流れて放射能が出てくることが考えられ、油断しちゃいけないので「隠すな」「嘘つくな」「過小評価するな」の声は上げ続けなければなりません。

 誤解がありそうなので言いますが、放射能は水をぶっかけると冷えると思っている人がいるんですが(表面は冷えるが)、水をかけようが湯、薬品をかけようが放射能という性質は全く影響を受けない、中にある放射性物質は何千年、何万年も放射線を出し続けるわけで、セシウム137は半分になるのに30年、1/10になるのに約100年。プルトニウム239なら半減するのに24,400年、ウラン235なら7億1千万年、ウラン238なら45億年要します。今すぐに止めたとしても10万年規模で放射性廃棄物を安全に市民生活から隔離していかなければならないという宿題を既に抱え込んでしまっているわけです。水をかけるのは、溶けて流れた物質を金属状態に保つためにやっているのですが、すでに厚さ16センチの圧力壁を突き破り、その下にある厚さ65センチの格納容器にのめり込んでいると思われ、マグマ状態にあると言われています。そこへ余震が起こり、上から大量の水が流れ込むと水蒸気が発生し、死に至る事故になりかねません。チェルノブイリでは31人が急性の確定的影響で亡くなったが、福島では電力会社や関連企業、付近の住民の中にもそう
した人は出ていない。

 もう一つ誤解がありそうなので言っとくと、「赤旗」とかで著名な方が反原発の立場で、瀬戸内寂聴さんや女優の野際陽子さんが気になるコメントを出していました。「放射能を無害化する技術もない日本で」と言う表現で、記者が勝手に書いたのかも知れないが、そのような技術は期待こそすれあり得ないことです。原子核は中性子と陽子が何個で構成されているかが決め手になるわけで、水かけようが微生物を反応させようが原子の外側での反応に過ぎないので放射能を無害化することは原理的に出来ないんですね。だから減るのを待つばかり。

 この場合、75%の電力を原発に頼っているフランスの廃棄物処分事情がNHK特集で放映されていて、技術者がインタビューの中で言っています。放射性廃棄物を鉱山の跡地などに埋めているのだが、20万年後が問題だと。20万年後の人類が興味を持ってここを掘ったりしないようにしないといけない。そのためにどうしたらいいかというと、モニュメントを作ったらそれに敬意を表して掘らないのではないか。いや、なんでこんな山奥にモニュメントがあるんだろうと逆に興味を持って掘ってしまうかもしれない、だったら結局何もしない方がいいんじゃないか、なんてとても馬鹿な議論をしているんですね。20万年前というとネアンデルタール人がいた時代です。

 今から20万年後に誰が住んでいるかなんてわからない。我々が議論するのは30年後くらいまでにしておいたほうがいい。今から1000年前は平安時代、清少納言は放射能なんて知らなかった。これから1000年経ったら、1000年前の平成という時代にすき好んで住んでいた人類が、電気電力の恩恵に浴するために原発なんていうものに依存して、何の価値も生み出さなくなった高レベルの、とてつもない放射能を残してあとはよろしく、と言ってたことを覚えていてくれるのかもわからない。原発は、このように事故を起こしたらたいへんなことになるが、事故を起こさなくても、核燃料の中で核分裂反応をおこしてエネルギーを出していて、放射性物質が貯めこまれていく過程にあるわけで、のちのちそれは再処理工場に回してとてつもない燃え残りのウランや新たにできたプルトニウムなどを低レベル廃棄物と高レベル廃棄物とに分離して、高レベル廃棄物はビー玉みたいなガラス状に溶かして鋼鉄製のボンベに入れて地下2000メートル〜3000メートルで何万年も管理しなければならない。鋼鉄でも地上の水その他に晒されて腐食していくので何万年も安全なものを作るのはたいへんです。5000年規模で考えるとピラミッドのような形ですが、あの10倍くらい安定したものを作らないといけない。だから、原発は事故を起こしてもだめで、起こさなくてもだめだから、安斎郁郎は原子力工学科第1期生でありながら、この国の原発は計画的に廃絶する以外にはないとかねて言い続けているのですが、それが国民的合意になりうるかどうか。見守っているところであります。

 それでやっかいなことに○○○の横にある○○を今皆心配していて、一度にドバッと大量に浴びるのではないが、ちょっとずつ毎日だらだら浴びるという状況が起こっていて、そうするとがんになる確率が増えるかもしれない。ご承知かと思いますが、それを安斎郁郎は、「がん当たりくじ型影響」と言ってるわけです。がんが景品で当たる宝くじを買うようなものだと。宝くじとの違いは何か、同じところは何かって言うと、今、年末ジャンボ宝くじを売っているんですかね。時々京都駅を通ると、「今日は大安吉日」なんて売っていますが、いつ買おうが同じなんだけど、大安に買うとめでたいって当たりそうな気がするので買っていますが・・・あれとどこが違うのかというと、宝くじは1枚買うより100枚買った方が100倍当たり易いのと同じで、当選のがん当たりくじも1ミリシーベルト浴びるより100ミリシーベルト浴びた方が100倍ぐらいがんになり易い、それは同じ。ところが決定的な違いは当選発表日が決まっているかどうかという問題なんですね。

 宝くじは決まっていて、年末ジャンボ宝くじなら年末にくるくる回る円盤に矢を突き立てて当選番号を決める儀式をやる、そのとたんにテレビとかインターネットで発表されると、自分が買った番号と比べて違っていれば残念だけど、違っていると確認できてゴミ箱に捨てることができるけれども、当選のがん当たりくじは、だいたい生涯有効の宝くじで、しかも当選発表は商品発送をもってかえさせていただきますというタイプのものだから、買った本人も忘れた頃に20年くらいたってから、「あなたが20年前にお買い上げのがん当たりくじが、この度めでたく肺がんに当選しましたのでお送りします」といってがんがいきなり送られてくるんですね。誰も買いたくないのだけれど、電力会社が何億枚とばら撒いてしまったので、近所に住んでいた人は数十枚から数百枚と強制的に買わされ、そこから60キロ(まさにここから若狭の原発と同じくらいの距離)も離れた福島市(人口二十何万の大都会)でも一人何枚かずつ強制的に買わされ、しかも今もなお野山にがん当たりくじが降り積もっているという状況が起こっているわけです。なんとかしないといけない。

 3番に書いてあるように、今のところは外部被爆が心配なのでなんとかしなければならない。福島市のすべての学校は表面を削ったわけだが、削ったモノを産廃場なんかに持ち込めないので、横に深さ2〜3bの穴を掘ってその上に金属を、高くつくので
車のスクラップ等を置きビニールで覆い「立ち入り禁止」にしていますが、街に近い里山とか花見の山などは多くの人が訪れるので10年かかろうが何年かかろうが優先的に削っていかないとガンの当たりくじを買わされかねない。

 天から降った放射能は洗い落とせばいいが、放射性廃棄物をどこに捨てるか、地方に分散しようとしていて東京が50万トン引き受けると言っていますが、専門家から見ればダメな方法で、危険なモノは分散するより集中管理した方が別の方法での処理が可能になったときに有効です。一番いいのは、事故を起こした原発周辺は残念ながら今後200年〜500年間使えないから、津波の防護壁を二重にしてその間に廃棄物を閉じこめて、屋上を太陽光発電にするのが良いと思います。

 そして、福島でも言いましたが、外側の城壁から更に1キロの土地は年間何百ミリシーベルトの比較的低い被爆線量を安定的に出す地域なので、そこで生物を飼ってどういう遺伝的被害が出るかを調べるのにもってこいの実験場とすればいい。その結果を海外にも出して土地の利用の研究を進め、更に外側の城壁も二重にしてその間には放射能のない自動車のスクラップなどを埋めて、その上に太陽光発電を設置すればよい。その外側の仙台側にもいわき側にも1000基ほどの大綱発電を設置して原発から自然エネルギーへの転換の象徴として生まれ変わらさせればよい。原発の溶け落ちた燃料をとり出すのに多分20年程度は要するわけだが、中の様子が見られないというのが原発事故の最大の特徴であり、見に行くと命を落としかねません。中にあるドロドロの不安定な形のモノを取り出す
技術も今はないので、開発して取り出すことが出来ればチェルノブイノのように石棺にして埋めてしまうのは50年以上先のことと思われます。福島は一冬を超えれば何とかなるというような生やさしいモノではないと認識しなければならないが、マイナスから活用できる形に転換できるように、例えば津波で流された信用金庫などの地元企業を再建するために特別の社債を認めて全国的に協力して、企業を再建して地元の雇用を確保するなどのして地域を再生していく。

 内部被爆については、食物をきちんと管理していかなくてはなりませんが、今のところ食物が原因で大量の内部被爆が広がっていることにはなっていません。日本の食卓は総じて安全で、NHKの「あさいち」番組で全国7家族、一週間分の食事を封入して放射能をはかったら非常に低かった。首都大学の先生が測ったんですが、測定が間違っていて本当はセシウム134も137ももっと少ないことが判明して12月15日の「あさいち」に私も出て、修正放送したんです。京大の先生も福島のスーパーで売られている物を取り寄せて測ったら汚染は多少しているが被爆線量はものすごく低くて1キロあたり500ベクレルという政府基準以下の7〜8ベクレルという安心できるデーターでした。天然のカリウム41は知らない間に1日50ベクレル摂取しているわけですが、セシウムは人工的なものだから口にはしたくないけれど過度に恐れる状況では幸いにしてないと思われます。しかし、政府は安全の基準値を低く抑えようとすることがあるので、放射能はこわいという声は上げ続けなければなりません。

 そして5番は、政策点検のための議論を旺盛にということですが、1で言いましたように国民総動員的な原発推進翼賛体制の歴史的経過をきちんと知っていただく、よく講演なんかでは放射能について喋ることを期待されるが、それだけではダメでこの国のあり方について一人一人が責任を持つことの重要さも理解いただきたいと思います。

 もう10分ほどで時間ですが、2頁の3番、「今後どうするか」と言うことですが、代替えエネルギーについては、今までは水力・火力・原子力が中心で他のエネルギーを活用することについは刺激が少なかった。今は、原発を止め別の物にしていく思いが世界中を駆けめぐりこの日本でも急に開発にいそしんでいるように見えます。先日も新幹線に乗っていたら、オンキヨーというオーディオ専門のメーカーが代替エネルギー業界に参入するということで宣伝していましたが、オーデイオ装置に使うのは小型のモーターなんですが、住宅のそばを流れる小川の落差を用いての発電には小型のモーターが有効だと言うことでしょう。企業は商売になると思ったら、関心を集めることが出来ます。一ヶ月ほど前にドイツでハイブリッド発電が開発された。風力や太陽光発電は天気に左右されるという弱点があるわけで、太陽のでない夜や風の吹かないときは電気が出来ない。電気は生産と消費が一体となった特別商品で、ドイツでは逆に考えて電気を貯めておく技術を開発し、電気で水を電気分解して水素と酸素にわけ、水素をタンクに貯めて水素を燃料として電気を起こす。このような水素の形で電気を貯めるハイブリッド発電がこれから一般化すると言われている。こうした原発以外の方法を開発するとなれば色々なノウハウが科学技術の発達した日本では出てくる。大事なことは「脱原発」という指針をきちんと持って予算の配分も新規エネルギー開発に向けていくべきです。ここから60キロメートルのところにある高速増殖炉「もんじゅ」は「ふげん」の新型転換炉ですが、中性子を使って消費されるプルトニウムよりもたくさんのプルトニウム作ることが出来る。

 ウラン238を燃料として熱に当てるとウラン239になり“イノベーター崩壊”を起こし核分裂によって2〜3個の中性子を作り、二つの中性子から新たなプルトニウムが生まれ、プルトニウム1個が2個に増殖していく仕組みです。この方法は難しい技術もいるし危険極まりないので他国ではあきらめた代物ですが日本だけが未だにやっています。私は「ふげん」とか「もんじゅ」という菩薩の名前を付けたときから「仏教をバカにしている」と反対してきました。

 案の定、1995年に「もんじゅ」は重大な事故を起こしました。高速ですから水で冷やしていて間尺に合わず冷却剤として液体金属ナトリウムを用いるんですがナトリウムが漏れて4〜5年止めていました。金属ナトリウムは水と反応すると爆弾並みの爆発を起こすんです。そして去年再稼働したら今度は炉心に3トンの落下物がありまた使えなくなった。2兆4000億円も投資した「もんじゅ」が今「お釈迦」になっているというのは有名な話ですね。2兆4000億円もあるのなら、代替エネルギーの施策に使っていれば今もっと楽だったのに、その時々の日本の政策が中途半端なものだったのがいけないのです。夏と冬は電力消費量が増えるが、春と秋はいっぱい余っている。

 原発は重要の最多の時に停電に備えて開発されていますが、作年の夏の高校野球決勝戦が朝の9時半から開催され大きな問題はなかったわけで、国民は目的を明確にすれば協力します。年間で一定標準化していけば、原発が要らないのはもちろん、今8割の原発は停止していますが、みんなそんなに困っていそうにないし、神戸のルミナリエもやってるし、困っているのは「電気が不足する」と宣伝した電力会社が信用されなくなったぐらいで、関西電力も4割を原発に依存していると言われていますが、もう1基止めることになっており、関西の人も原発がなくてもやっていけるように思うようになるのはある意味、とても大事なことです。原発は一基つくるのに5000億円、54基で開発費を含め数十兆円のお金をつぎ込んできたのでここであきらめてなるものかと、ベトナムに輸出をしたりして、ここに来てものすごい「巻き返し」が強くなってきているのは要注意です。また、電力貯蔵技術の開発も進んできており、磁気エネルギー貯蔵法と回転するはずみ車による力学的貯蔵法がありますが、これらも高速回転しており大地震が起これば、放射能の心配はありませんが持ちこたえられるのか研究を進めていき、貯蔵法が進化すれば原発は名実共に不要になります。

 私は昨日まで朝鮮戦争での米軍による人民虐殺の記念イベントに参加するため韓国にいましたが、韓国も日本以上に原発依存度が高く現在20基以上動いており、更に14基作る計画が進んでいます。日本も韓国も電力を消費しすぎです。私は自動販売機も要らないし、ビルの前に立つだけでドアが開いたり、手を差し伸べると勝手に水が出てくるのも必要ないと思っています。人間はある欲求を持ったとき、自らの必要な労働により欲求を満たすのが自然です。こうしたことは、一人一人の心がけや責任に委ねるのでなく、生産・流通・消費・廃棄などの社会的なあり方そのものを変えていく、必要な法的措置も国会で決めなければならないし、しっかりした議員を選んでいく我々の責任も重要です。

 3番は、原発を続けるか止めるかにしても、「国家100年の計」が必要です。11月21日、韓国釜山での集会基調報告でそのことを言ったら「もっと早まらないのか」と言った人がいましたが、一旦原発に身を染めてしまった以上はそんなに生やさしくない。今原発を止めれば、2〜3年後に原発から解放されるような生やさしいことではないことを原発を使ってきただけに「百年の計」が求められるんです。

 時間の関係で焦って早口になってしまい、わかりにくかったかもしれませんが以上で私の話を終わります。どうもありがとうございました。

 「京都教育センター年報(24号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(24号)」冊子をごらんください。

事務局   2011年度年報もくじ
              2012年3月
京都教育センター