事務局 2010年度年報もくじ

【設立50周年 第41回京都教育センター研究集会全体会】

      --記念鼎談--

「戦後教育を検証し、今日の教育課題を語る」


堀尾輝久さん(民主教育研究所前代表)     
野中一也さん(京都教育センター代表)     
                  コーディネーター 築山 崇さん(京都府立大学)

 本記録は、ルビノ堀川(加茂の間)を会場に、2010年12月25日に行われた「設立50周年記念 第41回京都教育センター研究集会(全体集会)」での記念鼎談をセンター事務局の責任で編集したものです。見出し等は編集者がつけました。

西條(総合司会) 本日は堀尾先生をお招きして記念鼎談をするという運びになっております。三人の方をご紹介致します。「戦後教育を検証し、今日の教育課題と展望を語る」という題で記念鼎談をしていただくんですけれども、元日本教育学会長、前民主教育研究所代表の堀尾輝久先生をお招きしております。そして、京都教育センター代表、そして関西教科研代表の野中一也さんであります。司会をしていただきますのは、京都府立大学の教授で京都教育センターの研究委員長の築山崇さんです。では、築山先生、どうぞよろしくお願い致します。


「戦後教育を検証し、今日の教育課題と展望を語る」をテーマに

築山 それではさっそく始めていきたいと思いますが、本日、「鼎談」となっておりますけれども、鼎談というのは3人が語るという意味だそうですが、私はなるべく進行に徹して、今日はお二人のお話をたっぷりと聞いていただけるようにしたいと思っております。この鼎談のタイトルが、「戦後教育を検証し、今日の教育課題と展望を語る」という非常に大きなテーマで、65年間という長い歴史の流れをふまえて、今、私たちが立っている地点といいますか、日本の教育の中でどういう所に我々が立っているのか、そして今立っている所から、我々がどうこれからの教育の行方を展望するのかという、そういうイメージでこの企画をさせていただきました。言うまでもないことですが、センター創立50周年ということで、非常に大きな節目にもあたりますので、日本の教育の大きな歴史の流れの中に、教育センターの取り組みを位置づけながら、今日、しっかりお互いに学んでいけたらと思っていますので、どうぞよろしくお願い致します。

 65年という長い流れなんですけれども、一応、本日は、この大きな流れを3つの時期と言いますか、3つの柱で、お二人にお話をお願いしております。1と2なんですが、1945年から’85年まで。’85年というのは実は臨時教育審議会の答申が出始める年なんですけれども、堀尾先生がお書きになっておられますが、いわゆる新自由主義的な思想に立った教育改革の事実上の出発点といいますか、区切りになっていますのが、’85年です。時間的には真ん中ではないんですけれども、そこを一つの転換点として位置づけて、それに至る40年間と、そこから今日に至る25年間という形で大きく分けて、戦後教育から教育権論の深化まで、子どもの権利条約は’89年国連採択ですけれども、’80年代に中学生や高校生の中で校則と子どもの権利などをめぐって、非常に議論のあったところです。堀尾先生は、ご存じのように教育権に関わって造詣の深い先生でもおられますので、そういったことも少し頭に置きながら、この’85年という区切りにさせていただいております。

 それから、二番目の臨教審から2006年12月22日の教育基本法の「改正」と言いますか、改悪を経て今日があるわけなんですけれども、特にこの25年間、臨教審以後の日本の文科省や財界等が進めてきた、いわゆる構造改革、教育改革をどう我々として捉えて、そしてそれに代わる、3番目に書いていますけれども、それに代わるもう一つの教育、単純な対抗ということではなくて、そうではない、全く別の独自の理念に立った創造的な教育、実践、あるいは教育学理論というものをつくっていくということで、3番目の「展望」というところを考えております。  およそ、そんな2つの軸といいますか、3つの柱で、お二人交互にお話いただきながら進めて行きたいと思います。それでは早速ですが、まず堀尾先生の方から1945年から臨教審に至るこの戦後の教育改革から’71年の中教審を経て’80年代に関わってお話をしていただけたらと思います。先生は1945年という年を「座標軸としての1945年」というふうにもお書きになられておられますが、そのあたりについてのお話もあるかと思います。堀尾先生、よろしくお願い致します。


戦後を新しい戦前にしてはならない

堀尾 堀尾です。今日はお招きいただきまして、本当にありがとうございます。京都の教育センター50周年、私はこの4月まで民主教育研究所(民研)の代表を18年勤めてまいりました。旧民研というのが日教組時代にありましたけれども、私は新民研が発足以来の代表を勤めました。同時に旧民研でも、ちょうどこの教育センターが発足した60年代頃は、旧民研の研究委員としても、大学院生でしたけれども、参加しておりまして、そういう意味では教師の教育研究運動には若い頃から関心を寄せていたわけです。これは野中さんと私とだいたい同年代ですし、同じ思いで関わってきたと思います。同時に私は教育科学研究会のメンバーでもありまして、これも若い頃から参加していまして、副委員長もやって、で副委員長時代に新民研ができて、その代表になったということであります。

 私は教育研究にとって、本当に子ども・青年たちがどうなっているのか、生き様がどうなっているのか、そしてそれに教育がどう関わるのか、これを助ける仕組みはどうあるべきか、そういう問題に関心を持って教育研究を一貫して続けてきたという思いがあります。その中で、研究の関心もいくつかに分かれ、たとえば教育権論的な、私は子どもの権利論を中心に教育権を考えてきたわけですけれども、同時に、その教育権を支えるものとして、子ども・青年の発達という事実、それからその関係性というか法則性というか、こういうものをきちんと押さえないと、子どもの権利、発達の権利と言ってもむなしいではないかという思いがあって、子どもや青年の発達研究にもずいぶん打ち込んできたという、そういう思いがあります。同時にその教育を広く国際的な視点で見なければならないという思いもあります。私たちの世代というのは、実はそういう世代であったわけです。今日のテーマが「戦後教育」というふうになっていますけれども、私たちは、野中さんも一緒ですけれども、戦前・戦中の教育を受け、そして戦後の改革を青年期としてまさに体験したという、そういう世代でもありますので、戦後教育という言葉自体が非常に重い意味を持っているわけですし、同時にこの戦後を新しい戦前にしてはならないという思いも深く、青年期から心に刻んできたと思います。

 やや自己紹介的なことを申しましたが、今申しましたのは、私が戦後教育をどう総括するかという視点と深く関わっているわけで、ここにいらっしゃる皆さん、若い方も年配の方も、それぞれのこの時代を生きた、生き様と関わって、自分たちの教育は何だったのかという問いを持っていると思うのです。それが私は非常に大事なことだと思うんですが、その際、私共の世代というのはまさに、戦前、戦中教育を受け、そして戦後教育を体験したという、そういう世代なんです。

戦後教育の検証

 この「戦後教育の検証」と言いますけれども、実は戦前・戦後教育をそんなに区別していいのかという議論も、教育史、あるいは教育学の中にはある。戦前・戦中・戦後をのっぺらぼうにつないで、時期区分をむしろ天皇制、教育勅語からいきなり60年代の教育に飛ぶような時代区分論なども、実は研究者の中にありまして、私たちの世代の時代感覚、歴史感覚、それと教育に向き合う感覚というのはずれてきているということも確かなんです。ですから、そういう意味で言うと、私はずっと戦後教育にこだわってきたわけですし、そのこだわり方というのが、自分の個人史がひとつあるわけですけれども、同時にその個人史が日本の近代から現代への大きな転換と重なっている。まさに帝国憲法、教育勅語体制から新しい憲法、教育基本法体制に大きく変わった、そう言ったことの意味は何だったのかということを、自分たちの個人史を通して体験した、そこに生きた歴史もある。大きく、客観的な戦前、戦後の歴史の捉え方ではなくて、自分たちの生きた、その歴史は何だったのかという問いを合わせて、私たちの世代は考える、そういう意味では若い世代にはそういうことがわからない訳ですから、私の世代が、逆にそういうことを含んだ歴史認識をきちんと提起しながら、若い人達にも伝えて行きたいし、同時に批判もしていただきたいという思いがあるのです。

1945年8月15日は世界史的に見ても、実は大きな流れの一コマである

 そして、その場合に、憲法・教育基本法体制と言いましたけれども、世界史的に見た場合に、この1945年8月15日、日本の敗戦、日本の戦後の新しい動きというものがあるんだけれども、それは世界史的に見ても、実は大きな流れの一コマである。その大きな流れというのは何かというと、やはり第二次大戦が全体戦争として戦われ、前線も銃後もない、それから無差別爆撃がけしからんと言うけれども、第二次大戦というのは、無差別爆撃が当然のこととして考えられた時代なんです。そしてその戦争が終わり、新しい平和をつくらなければならない。しかも、あの戦争が、核兵器、広島、長崎で終わったという、それを体験した私たちですけれども、同時にこの「核」の時代に入ったのは日本だけではなくて、世界が核の怖さを同時に体験した。その体験を経験に広げていく、そういう感覚を共有していたわけですし、その中で国連が生まれ、ユネスコが生まれ、あるいは世界人権宣言が生まれ、そして子どもの権利宣言が出てくるという、大きな流れの中で戦後改革というものがあるんだという、そのへんのことを私は「地球時代への入口」というふうに言っているんですけれども、そういう大きな枠組みと言いますか、思考の中で戦後改革というものを考える必要があるだろうと思っています。延々としゃべるつもりはないのですが、みなさんが考えておられることを前提にして、多少とも少し違ったこと、こういう視点もあるんだということでお聞き下さればいいと思っているんです。国際的、世界的、そして地球時代という視点から捉えるということはあまり言われていないように思うのですが、私は戦後改革をそういう視点から見直す必要があるという強い思いを持っています。

憲法9条のアイデアは、幣原首相が言い出した

 それから、もう一つ、これもあまり言われていないことを申しますと、特に憲法の理念、人権・平和、特に憲法9条の成立過程について、これは占領下でマッカーサーに押しつけられたという議論が、けっこう今もあるんですけれども、私はその憲法9条のアイデアというのは、1946年1月24日、マッカーサーと幣原首相の二人が会談した時に、幣原が最初に言い出したんだという、これは私は歴史的事実として確信を持っていいと思います。ずっと私は70年代の初めからそのことにこだわって、そういう議論をしているんですけれども、だんだんと幣原イニシアティブ説が広まってきているように思います。データは私はけっこう持っているんですけれども、いまは時間がありませんが、憲法9条のアイデアは、押しつけではなくて、幣原が言い出した。なぜ幣原が言い出したか、これは幣原研究をしなければいけないし、同時にその国際的な背景である、戦争というものを違法とする思想運動が1920年代から続けられ、そしてそれが不戦条約になるわけですけれども、その戦争を違法とする思想運動の中には、実は、ジョン・デューイもいたのです。ここには教育関係の方も多いと思いますが、デューイがそういう活動をしていたということもあまり知られていないのは残念なんですけれども、そして、そういう戦争を違法なものにする思想運動があり、そして不戦条約ができる。そういう大きな流れが、実は憲法9条の第1項につながっている。そして、第2項の「武器を持たない」というのは、日本の戦争体験、そして核の時代に入る、そして幣原はその時、天皇制と軍隊とを全く切り離す必要があるし、この時代、軍隊はもういらないという、彼はそのことによって天皇制を擁護しようとしたんですけれども、こういうものを含めて、あの45年から始まる新しい時代の動きというものを、やはり大きく捉えなければいけないし、日本の平和思想の伝統もあるわけですし、そういうものにもつながりながらの9条であるという、そういうものもぜひ、あまり言われていないので申し上げたわけです。

新しい憲法の理念には「子どもを軸に」ということが本来ある

 と同時に、じゃあその時代に、新しい憲法の理念が、そして教育基本法の精神ということを考えると、やはり「子どもを軸に」ということが本来あるんですよね。だけども、なかなかそう言う思想、子ども観が深まって行かなかったということも事実なわけで、私は憲法や教育基本法を、そういう時代の中で新しい理念が提示された、まだ実現していない理念、そういう意味ではユートピアだと思うんです。で、「未完のプロジェクト」というふうに私は呼んでいるんですけれども、憲法もそうですし、教育基本法もそうなわけです。その精神を、本当に現実の中に根付かせる、それは思想としても深められるし、実践を通して豊かに発展もしていく、そういう問題として憲法や教育基本法というのはあったんだと思うんです。それが「憲法を改正しよう」「教育基本法を改正しよう」という流れの中で、実は、改正論批判を通してより深く、自覚的になっていく。その自覚的になっていく歴史的な時期と言えば1950年代の末から60年代にかけての大きな転換点。私はこれを「国家の復権」というふうに呼んでいるんですけれども、教育の中立性の二法や、教員の勤評・管理問題、学習指導要領の改訂、そういう問題を通して、日の丸君が代問題もそこに出てくるわけですし、そして「期待される人間像」が出てくるという、そういう時代、これを「国家の復権」というふうに呼ぶんですけれども、そういう時代を通して、そういう問題を通して、教育基本法の意味、あるいは憲法の意味というものを深く自覚し直すという、そういうことにもなる。そしてベトナム戦争がある、その前に朝鮮戦争があるわけですけれども、そういうきな臭い動きの中で、日本がどう巻き込まれるのか、巻き込まれないようにするかという、そういうせめぎ合いの中で、やはり9条の理念も深められるし、そして子どもを中心にした教育の在り方、そのための理念と枠組みを書いている教育基本法の意味も「再発見」されのです。

国家の復権、高度成長政策ということで、教育と社会を再編する

 ただ状況はそういうふうに、政策的には国家の復権、さらに高度成長政策ということで能力主義的な視点で、教育と社会を再編するという、その経済審議会の答申が1963年に出るのですけれども、その答申を受けて中教審が改革に取り組む。まさに経済に従属する教育の構造というものが、60年代の始めに出てくる。しかしその前提には国家の復権という問題があるという、こういう構造になっていく。ただその場合には、まだ競争も高度成長ですから、言うなれば「開かれた競争」であることには間違いないんです。しかし私などはその時代を生きていますから、60年代から始まる能力主義に対する批判を、どうするかということで真剣に取り組んで、能力主義批判の論文などもけっこう書いてきました。そして全国一斉学力テストもそういう中で位置づけながら批判してきたということがあるわけです。競争の問題で言えば、久冨さんが「開かれた競争から閉じた競争へ」という仕方で、さらにていねいに80年代以降の競争の質の転換という低成長期の競争の意味を書いていますけれども、大きくそれを貫くものとして、競争と序列主義の教育が始まる60年代以降の問題というものはきちんと捉えておく必要があると思っています。そういう時代に、教育権論と言いますか、子どもの権利を軸にした国民の教育権というものが深められていくということになります。


築山 非常に時間を気にして頂きながら、しかも戦後30〜40年の長い期間について簡潔に話していただいたんですけれども、野中先生にお話しして頂く前に、一点だけお伺いしておきたいのですが、いわゆる1945年という年を、狭い意味で、日本の敗戦という意味だけを捉えるのではなくて、世界史的な大きな流れの中、転換点の中に45年という年を置いて考えるという、こういう視点から戦後改革を見直す必要があるとおっしゃられて、「未完のプロジェクト」と表現されたんですけれども、この見直しの必要というのは、狭い意味で終戦の焼土の中から日本が経済復興したという、そういう議論ではなくて、世界史的な大きな流れの中に置いたらどう見えてくるのか、そういう見直しをすべきだという。そういうことでよろしいんでしょうか?(堀尾先生 応答)ありがとうございました。最後におっしゃいましたけれども、経済に教育が従属していくというあたりは、この後の展開の中で、また大事な論点になってくるかと思いますが、そのあたりは後ほど続きでお願いしたいと思います。

 そうしましたら、ここで一旦、野中先生の方にお話をお伺いしたいと思います。みなさんのお手元に、今回の集会の冊子、黄色い表紙のものがございますけれども、その1ページ目にこの鼎談の概要があり、その後に堀尾先生の長野での講演記録と、それから今からお話しいただく野中先生のメモがございますので、そちらの方もごらんいただきながらお聞きいただければと思います。


個の中に普遍的なものがある

野中 今、堀尾さんが世界史的な視点から現実を捉えていく大事さを指摘されたんですけれども、私はそういう視点を足元からどう作り上げていくのかということが大事ではないかと思っております。そのためには個別の問題と言いますか、個の中に普遍的なものがあるという、そういう視点が大事ではないかと思っています。京都教育センターと京教組で1973年に「できない子はいない」というパンフレットを出しまして、この中に、たとえば小学校3年生の子の詩があります。「ぼくの毎日 テスト 点 テスト 点 ぼくの毎日は それだけだ」という詩があります。現代の問題をこの子は普遍的な課題として設定をしているというふうに私は思うんです。先ほど「木に学べ」というお話しをしましたけれども、そういう個の中に非常に大事なものがいっぱいあると、そういう視点で京都の問題にこだわりながらお話しをさせていただきたいと思います。

『民族の哲学』をめぐって

 堀尾さんが1945年が非常に重要な位置として位置づけておられて、私もその通りだと思います。私の個人的なことで恐縮ですが、大学院修士時代の指導教官が、西田哲学右派の高坂正顕さんで、彼が1945年をどう受けとめていたのかというのは、私の非常に大事なテーマなんです。昭和17年に彼は『民族の哲学』という書物を書いているんですが、岩波書店から出たとき、当時の学生は岩波書店の前に何百人も列をなして買ったと言われています。そして、この『民族の哲学』という書物を持って、特攻隊で死んでいっている人もいるわけです。そういう青年の内面の奥の奥に、本当に大事なものがいっぱいあるんじゃないかと思い、そこをきちんと受けとめていくことが大事じゃないかと思っています。その高坂正顕氏が『民族の哲学』の中で様々なことを言っているわけですけれども、「人間というのは心の中に神性と獣性の二つがある。そして弱い存在である。卑怯な存在である。だから戦争に行って、生きるか死ぬかのその瞬間において、人間は獣性をなくして神性になって行く。だから第二次世界大戦に突入して行きなさい」と言って、この本を胸に学生達は死んでいったわけです。京大の北側に古本屋がいっぱいありまして、私は『民族の哲学』の書物を古本で買いました。赤い線がいっぱい引いてあるんですね。おそらく遺族の方が古本屋に売ったんではないかと思いますけれども、じゃあ、高坂氏が、戦後それをどう受けとめたのか。誤魔化していますね。私は、日本人のある意味、支配層の隠蔽体質がここに典型的に現れていると思っています。向き合わないで避けていく。高坂さんに「民族の哲学を書かれておりますけれども、今はどう思いますか」と聞きました。その時は無言でしたが、他の人に「私は変わってない」と。だからこそ1966年に彼は中教審に行って、1951年の天野貞祐『国民実践要領』と同じ精神構造の「期待される人間像」をまとめました。バックに松下幸之助がおりました。今で言えば京都座会があります。そして、その京都座会の提言を、今や民主党政権が中心になって実行している。前原さんなんかはその典型だと思いますけれども、いわゆる松下政経塾出身者が実行している構造になっています。

 そういう流れで1945年を見なければならない。1945年の問題を堀尾さんからいっぱい学んでいます。

敗戦の貧しい体制の中で、新しい学制がスタート

 「敗戦」の現実から戦後はスタートを切って行きます。敗戦の貧しい体制の中で、新しい学制がスタートを切って行きます。ボロ校舎や焼け焦げた土地の上に学校をつくって、新しい教育をやっていきます。その中で、未来に夢をもって、父母といっしょにやったのが旭丘中学です。この旭丘中学が1953年の暮れ、それから1954年に国会で取り上げられ問題化します。その時に旭丘の教育にいちゃもんをつけたのは父母なんですね。支配権力は、必ずそういうやり方をする。味方の中に敵をつくるようなやり方です。そして「校長先生、行儀の悪い子はいませんか」「学力はどうなっていますか」「偏向教育をやっている先生はいませんか」という質問を学校にするわけです。同時に、それは国会で山口県教組の「日記」事件と同時に取り上げられて、旭丘に大弾圧をかけ、三人の先生が解雇され、そして生徒をバスで産業会館に連れて行きました。権力は子どもをどうつかむか、つまり、力で子どもを「すくって」行って、自らのイデオロギーを注入しようとしました。そういう中で、旭丘の教育に対する評価がいろいろあります。たとえば、中野好夫さんという方がおられますが、シェイクスピアを研究された東大の英文科教授です。彼は旭丘中学については批判的なんですね。しかし、それに対して首を切られた3人の1人、北小路先生は、「旭丘の実践は途中なんですよ。今、スタートを切ったんですよ。未熟なところをどう大事にしていこうかとしている、そういう所を見て欲しい」と提起しているんです。私はやはり実践というのは未熟な、未完成な、だからこそ完成をめざして努力をするんだろうと思います。

 批判的な意見がある中で、勝田守一さんは「旭丘は国民教育だ」と、このように評価をしています。その国民というのは地域に住んでいる住民です。住んでいる人、それが国民なんです。その国民教育をやったのが旭丘なんだと。未熟だけれども、そこからいっぱい学ぶものがあるんじゃないかと思います。

 あれだけの大弾圧を加えられましたから、全国的に恐怖感が広がりました。同時に一方ではレッドパージなんかもあるわけです。そういう中で全国的にも、京都の中でもそうですけれども、良心的な教師は「学級の中には権力は入れない。だからこそ学級を大事にしよう」という「学級王国」、あるいは学級で新しい革命を起こすんだという「学級革命」というような考え方が出てまいります。

父母といっしょに教育を守ろう

 そういう中で、京都はそうではないんじゃないか。父母といっしょに教育を守ろうと考えます。旭丘の裁判では、最初の一審では勝ちますけれども、最高裁で負けました。一番大事なことは父母といっしょに教育をつくろうと考えました。単なる実践だけではダメで、研究者ともいっしょになってやろうじゃないかという動きがありました。それが京都教育センターで、1960年、先ほど委員長からもお話しがありましたけれども、細野武男代表を迎えまして、京都教育センターが発足をいたします。それで1960年から細野さんが「国民教育について」「再び国民教育について」「三たび国民の教育について」講演をしました。そして「教育には普遍的原則が大事である」と主張しました。それが全面発達、科学的認識、集団主義という、3つの原則を提起致しました。

 細野さんから、ぼくはいろんなことを学びました。細野さんは戦前、治安維持法で監獄に放り込まれています。松本高等学校の時はエンゲルスの『自然弁証法』を読んで、放校処分を受けています。その後東大へ進み、卒業しますが、彼は就職がなくて、そして石橋湛山氏に救われて、東洋経済新報社に行って、それで会社四季報研究などをしたといわれています。そして、戦後になって誰か民主的な人が立命に欲しいということで、立命に行ったという、そういうエピソードの持ち主です。しかし、そんな彼が、ひょうひょうとしているんですね。「人生、なるようにしかならんよ」という悠然とした世界観をもっていたように思います。私は。ドロドロした内面の奥に、揺れにくい、カントの「永遠平和論」のような恒久平和の世界を自分の心の中に見い出していくことが大切であり、それが人類の良心とつながっていくことが大事じゃないかと思っています。

「道はただ一つ、この道を行く 春」

 政治的には、1950年に、京都市、それから京都府で革新首長を生みだしました。京都市の場合は高山義三という人が市長です。彼は精神的に弱いのでしょうか、すぐにひっくり返るんですね。僕もしょっちゅう揺れていますが、二次会に行って酒を飲んで、「ああ、カントの世界はすばらしいな」と思ったりして、今日までこうして長生きしています。しかし、蜷川さんはお酒を飲まないんですね。お酒は飲まないんですけれども、ロマンティックなんですよ。『峠のむこうに春がある』(民衆社)という本を京都教育センターで編集しました。何回か蜷川さんにお会いしたんですけれども、すごいロマンティックなんですよ。「峠のむこうに春がある」でしょ、もう皆さんご存じでしょう。それから「十五の春は泣かせない」「知事は樽みこし」、僕はそれをもじって「管理職は樽みこしであれ」ということを言い続けているんです。みなさんの職場の中の管理職、皆さんが担いで「樽みこし」になっている民主的な校長はいらっしゃいますか?蜷川知事の時には、いっぱいいたんですよ。もう一度、つくりたいですね。「樽みこし」、それから「学校はみなさんがつくる所なんですよ」と、与謝の海養護学校をつくる時に言いました。「どんな学校をつくりたいんですか。あなたたちどう考えているんですか」。子どもの発達に合わせた学校をつくろうやないか、トイレの高さはどうしようかと、いろんなことが出てくる訳ですけれども、そういうように私たち自身が民主的な力量をつけていって、そして「こんな学校をつくりたい」「こんな地域をつくりたい」「こんな社会をつくりたい」ということが、蜷川さんの願いだったと思います。そして蜷川さんは「道はただ一つ、この道を行く 春」という。この句は「道はただ一つ」なんですね。今は権力の道は曲がっていっています。「憲法の道ひとつ、この道でこそ春がくる」と、彼は言っております。

 もう一度、私は、同じような革新自治体ではないけれども、もっと現代的な希望と展望を、どのようにもっていくのかということが第一期の問題として提起させていただきたいと思います。


京都教育センターの提起「三つの原則」

築山 ありがとうございました。さきほど堀尾先生が、1950年代の後半から60年代にかけての時期を「国家の復権」というように、大きな転換を指摘されたわけなんですが、ちょうどその時期に教育センターが設立をされているということで、そういう時代状況、社会状況の中での三つの原則ということになるかと思うんですが、一点だけ、この機会に野中先生にお聞きしておきたいと思うんですけれども、科学的認識と集団主義と全面発達ということなんですが、私の創造性があまりない発想でいくと、その全面発達の中に科学的認識というのは含まれるんではないかなと思うんですけれども、教科書的に考えれば、認識と人間の情意の面があって、それらを統一して、人格ということで全面発達を考えるということになると思うのですが、でもたぶんそうではなくて、当時の時代・社会状況の中で、科学的認識であれ、全面発達であれ、集団主義であれ、何かそこに込められたその時期の固有の意味合いみたいなものがあるのではないかと思うのですが、その点何かコメントがあれば簡単にお願いしたいと思います。

野中 その三つの視点がどういう構造になって進むかという問題なんですね。細野さんから、よく酔っぱらいながら、細かい話をよく聞いたんですけれども、考えたイメージは藤原富造さんだって言うんです。教文部長もやられた方です。酒飲んで、バイクで走っても大丈夫な時代です。まさにブルトーザーのように走るんですね。小学校の教師が全面発達をして、次が中学校、次が高校、大学が全面発達で一番だらしない。君もそうだけれども、俺もそうだ、とかそんな話をしながら言ったのは、「人間は本来集団的存在なので、集団主義」それから「方向は、全面的、調和的ではなくて全面的に行く」で、「ウソの話がいっぱいあります。本当のことを理解するのが科学的認識だ」と。だから構造的に言えば、「集団的存在で、科学的認識で方向性をもって行くと全面的に発達をするんだ」と、そういう構造になるのではないか。「難しいことは藤原富造さんに聞けよ」とか言っていました。今の問いの答えになったのかどうかはわかりませんが、僕はなんとなくそれでわかったような感じになっています。

築山 ありがとうございました。だいぶ生きた言葉として理解できたように思います。そうしましたら、また堀尾先生にお願いしたいんですけれども、先ほどの話の終わりの方で、60年代のいわゆる高度経済成長期に能力主義的な思想が全面展開されるということについて、ただ全体のパイが大きくなっていく時期でもあって、ある意味「開かれた競争」だったということなんですけれども、それがオイルショック後の経済の停滞で、大リストラという形で80年代に入っていくわけなんですが、当然競争も「開かれた競争」から、いわゆる「生き残り、サバイバル競争」に移っていくということになるんですけれども、そのあたり、若干60年代に戻りつつ、今度は2番目の柱ということで、臨教審から今日に至る80年代、90年代、そのあたりの話を続けていただければと思います。よろしくお願い致します。


「第三の教育改革」

堀尾 大きく政策史的な視点でということでしょうね。70年代のはじめ、中教審の答申が出るんですけれども、これはその冒頭には「期待される人間像」がついているということで、60年代、70年代、そういう意味ではつながっているんですが、同時に多様化政策のきざしでもあったわけです。そして、それに重ねて「第三の教育改革」という言葉が71年の中教審答申で使われるわけです。その「第三の改革」というのは何なのか。これは第一の改革は明治の改革、第二の改革が戦後改革、それを改革するのが第三の改革という仕方で、実は70年代のはじめに中教審、そして文部省は打ち出していた経緯があるんです。だけども、それに対する批判は強烈にあるわけですし、運動も進んでいましたし、ちょうど同じ時期に、梅根悟先生が中心になって梅根委員会というふうに言われましたけれども、日教組がバックアップして教育制度検討委員会、これが非常に大きな改革構想を出すんです。私自身もその中の専門委員、そして事務局担当として関与し、「教育における正義の原則」を打ち出したり、保育に関しても「保育の思想」で、幼児教育、保育全体を考え直すという、そういうものを含んだ、それから青年期に関しては中高一貫の改革構想というものを、実は民間の側が出しているんです。これはつまみぐい的にエリート高校をつくるという中学と高校をつなぐと言うのとは全然違う改革構想であったわけです。

 そういうことを含んで、民間の側は70年代の初めは、けっこう元気でしたから、中教審が「第三の改革」と言ったって、結局それは実現しないわけです。それで「第三の改革」はその後もくり返し、言うなれば80年代での臨教審でも使われるし、そしてその行き着く先が2006年の教育基本法「改正」まで行き着くわけです。日本の教育基本法の「改正」というのは、まさに「第三の改革」の一つの帰結でもあったと思うんです。残念なことですけれども。ですけれども、そういう発想はずっと60年代から続いてきているということと、それからそれに重ねて、経済と国家の関係がどうなるかということになるんですけれども、私は「国家の復権」、それから「教育の経済への従属」という二つの点で60年代から動き出すというふうに言ったんです。その国家の問題と経済の問題。「国家の復権」という場合には古い官僚制の復活を含めてあるわけで、「官僚国家の復権」と言ってもいいのですが、そのあとの経済に教育が従属するというのが、言うなれば経済が国家を支配すると言いますか、その経済というのは財界ですから財界中心の国家の復権というふうに、その後の動きはなっていく、そして教育はその経済に、つまりは財界国家に従属することになっていったと思います。

 そのへんの捉え方というのは、研究者仲間でもいろいろあるわけで、いわゆる新自由主義的な動きというものが、いつから始まるのか、そしてそれは国家の関係がどうなっているのかという問題としてもあるわけですけれども、新国家主義、あるいは新保守主義プラス新自由主義という言い方が、現象的にはわかりやすいんですけれども、この新自由主義というのは、実は国家という問題を論理的にはその内部に位置づけているという、そういう問題があるわけです。国家からの自由というのは、それは福祉や教育に金を出さない、国は関与しないよというのは、国家は知りませんよというふうに見えて、大きな枠組み自体、これは国防問題を含めて国家が前提にある。アメリカの新自由主義というのはまさにそうなんですけれども、それが支配的になってくるのが80年代の半ば以降から現在においてというふうになると思うんですね。

新しいイデオロギーが構築されてきている

 ですから、言葉遣いはそれぞれ何を問題にするかで、新国家主義と言ったり、新保守主義と言ったり、あるいは新自由主義と言ったりするんですけれども、大きな一つのまとまりとして、新自由主義という新しいイデオロギーが構築されてきていることには間違いがないわけで、この中で、いうなれば教育基本法「改正」までいく。教育基本法「改正」は、法律を変えたというだけじゃなくて、現場の教育的な関係性を大きく変えるということにもなるわけですし、「学校選択の自由」などは、父母の教育要求、そして選択の自由が位置づけられていて、それは国家が支配する教育から解放されているように思われる面も現象的にはあるんだけれども、実はそれは全然違うのです。教育の中心になるのは子ども・青年の人間的な成長、発達、いわば全面発達と言ってもいいかと思いますけれども、それを目指す教育なのかどうかということが問題なのであって、そうではないあてがいぶちの教育、これは経済の論理が働いている、教育における市場の論理と言ってもいいかと思いますが、しかも教育内容は学習指導要領と教科書検定でがっちりにぎっている。そういうコンテクトの中で選ぶ自由がありますというだけの話であって、本当に子ども・青年が人間的に成長する、豊かな人間性を発揮する、そういう教育を創造する自由が確保されるということと全然違うということなんです。

 我々が求めてきた身体と精神を含めて、人間が豊かに発達するためには、自由な雰囲気がなければならない。そしてそのためには父母の学校への参加、そして教師の教材研究、教育実践の自由を含んだ「教育の自由」が保障されないと、子ども達の発達は、結局ゆがんだものになると私たちは考えてきました。枠組みとしてはむしろ国家は「金は出さないけれども、教育内容に関しては教科書統制を強化する」等々、あるいは副教材の問題や、心のノートという問題。これは検定も受けない、こういう仕方で学校の教育内容、教育実践に介入していく。それは決して本来の「教育の自由」などではない。そういう問題になるわけです。

対立点のキーワードは「教育の自由化」論と本来的な意味での「教育の自由」

 ですから、そこでの対立点のキーワードは「教育の自由化」論と、本来的な意味での「教育の自由」。それのもう一つ先には、いわば教育の主体は何なのかという問題があります。「教育の主体」という言い方の前提には、実は「学ぶ主体」というのがあるわけです。私たちの発想自体にも「教育から学習へ」という「学び」へという、そういう転換が実はあるわけです。  学習権の問題というのは、これも60年代の教科書裁判の中で、私も実は教科書裁判で法廷に立って、子どもの権利、そして発達と学習の権利の視点から、教科書統制はおかしいんだという証言をしたんですけれども、その頃から「学習権」という言葉が使われ始め、そして杉本判決にはそれが出てきている。そして76年の最高裁判決にも、子どもの学習権という言葉が採択されるということで、ようやく法的な言葉にもなっていくんですけれども、教育の前提には学びがあるはずだと。学びの権利にふさわしい教育を求める権利があり、もしそれにふさわしくない教育、あてがいぶちに与えられる教育があれば、それを拒否する権利も、学習の権利にはあるんだという、これも学習権の思想なのです。ですから、その学習権にふさわしい教育を求める、その教育を保障する、実現するためには教師の研究と実践の自由が保障されなければならないし、さらに父母の学校への参加、要求、そういうものがきちんとシステムとしても保障されなければならない。そしてそのために必要な財政要求と、それを受けとめる行政のシステムがなければならない。こういう内容をもって国民の教育権論が展開されるわけです。

 だから、国民の教育権論というのは、何か教師の独善を許すようなものだという批判があるんですけれども、それは全くおかしいんで、子どもを軸に、父母の参加、そして教師は子どもの発達と権利に応える、父母の要求に応える、そのための教師の研究と実践の自由が必要なのであり、そういうものを保障する行政の在り方はどうなのかということで、47年教育基本法では10条がそのことをきちんと保障していたということになるんです。行政は何もやってはいけないというのではなくて、豊かな教育を保障するために、当然、教育の内側から要求を出す、財政的な要求も出す。それに対して行政は応えなければいけないという、これが国民の教育権なんであって、行政を無視したのが、国民の教育権ではないということです。そういう議論が、60年代から70年代を通して、ずっと発展してくるのです。

 そしてまた国際的にもユネスコの「学習権宣言」というのが85年に出るんですが、そういう意味で言えば日本の学習権の思想と、法的な論理の構築はかなり先行してあるわけです。私は子どもの権利、そして学習権をずっと主張してきた人間としてはたいへん嬉しくもあるんですが、今や民主党の教育基本法「改正」案の中にも学習権というものが出てきていて、学習権という言葉はある意味みんなに認知されただけに、今度はその中身をどう考えるのかという問題があります。かつては学習権は法律的な用語ではない。それを主張している者がいるようだけれども、それは眉にツバつけて聞けというふうに文部省の役人は言っていた時代があるんです。そして、僕なんかはその頃から「学習権の堀尾」ということでにらまれているわけですけれども、今や全然違ってきていて、みんなが学習権と言って、何だかよくわからなくなってきている面もある。人権だって同じことです。みんな人権を大事だという。否定する人はいない、国民主権ということを否定する人はいない。だけど、それをどう深く考えるかということで、実はまさに闘いがあるということにもなっているわけです。そういう流れを意識する必要があると思うんです。

教育基本法「改正」問題では、大きな動き、うねり、まとまりが新しくできた

 そして、教師との関係で言うと、71年中教審「第三の教育改革」以降、70年代の末から、いわゆる新自由主義的な「教育の自由化」論というのが、行財政改革論の一環として出てくるわけですけれども、それが臨教審にさらにずっと流れてきて、99年の「教育改革国民会議」、そして中教審、教育基本法「改正」までなっていく。その中で教師に対する統制の在り方も変わっていく。勤務評定が50年代の末から起こるわけですけれども、その50年代から60年代にかけての勤務評定に対する闘いも、すさまじいものが全国的に広がりました。これは部分的には阻止もしたし、学テの問題で最高裁判決では、この勤務評定の問題をどう考えるかについても示唆を含んだものになっています。学テの判決としては最高裁では負けたことになるんですが、あの判決の論理というのは実におもしろいんで、かなりの部分が使える、そういうことでもあるんです。

 実は、教育基本法「改正」の時にも、私自身国会でも証言をしましたけれども、その時も76年の最高裁学テ判決を、文科省もそれを使うんだけれども、実は全然いいかげんで、大事な部分を読んでなかったということが、文部大臣の発言からわかりましたね。この文部大臣は京都から出ている方ですよね、伊吹さんが国会である意味では珍答弁をすることになるんですけれども、そういうことを含んで、大きな政策の展開と、これに対する対抗的な原点、思想や運動も、私はけっこう根付いてきているし、教育基本法「改正」問題では、結局「改正」はされたけれども、本当に大きな反対の動き、うねり、そしてまとまりが新しくできたんだと思っています。

我々がやろうと考えていることにはもっと自信を持っていい

 その場合の中心的なものは何なのかと言えば、例えば京都ではどうだったのかは、野中さんがたぶん言って下さると思いますけれども。その際、私たちは状況がしんどい、先ほどの教師の精神疾患も増えているという話、意欲的な若者が教師になりたくないと思うような状況が広がっていることは、本当に切ない思いがします。日本の状況だけを見ていると、本当に出口がない、しかも私は東京にいますけれども、さきほど「日本の夜明けは京都から」という言葉が紹介されましたが、石原知事などは「日本の教育改革は東京から」と言って、本当にメチャクチャなことをやっているので、たいへん東京の教師はしんどい思いをしているんですが、しかしそれだけではなくて、ここでも国際的な視点が大事なんですけれども、たとえば全教は、いわゆる「指導力不足の教師」の問題、その在り方、その評価をめぐって、非常におかしいということで、ILO、ユネスコにアレゲーションという手続きで、提訴と言いますか、「申し立て」をするわけです。ILO、ユネスコはそれを受けとめて、きちんと日本に調査団を送る。政府にも会い、組合にも来る。組合も2つの組合、両方にも会う。地方にも行く。そして、そういうことを総合して、日本の教育というのは実におかしい。教師に対する政策が実に歪んでいるという報告書を出してくれているわけです。

 だから、国際的に見れば、いかにもおかしいんだという、そういう意味で我々がやろうと考えていることにはもっと自信を持っていいし、国際的に見れば、むしろこちらに利があるんだというふうに考えることができるわけです。もう一つ付け加えますと、子どもの権利の問題も、子どもの権利条約を日本政府が批准したのは94年ですけれども、その後3年、そして5年ごとに報告書を出しているわけです。それは政府報告と、もう一つの報告、これは市民NGO団体、全教や地域で言えば地域の組合なんかも参加していますけれども、そういう市民からの報告書も出し、ジュネーブの子どもの権利委員会に提出する。子どもの権利委員会は、政府報告と、市民団体の「もう一つの報告」を精査しながら、政府に勧告を出す。もう3回目が出ているわけです。その3回を通していずれも日本の教育というのは、過度な競争主義で非常に歪んでいるということ、あるいは、今度第3回の報告では、貧困問題についてもかなり立ち入った分析をし、そして「子どもの貧困」という提示をし、子どもの貧困というのは単に経済的な貧困だけではなくて、「関係性の貧困」、親子の関係、教師と子どもの関係の貧困、これが学校でのいじめや自殺にもつながる、いじめ自殺にも追い込むような、そういう心理的なストレスをつくっているという。「子どもの貧困」を「関係性の貧困」という表現で所見を述べ勧告をしているのです。私たちが現状を見て、報告書にもそれに近いことを書いてジュネーブに持って行ったわけで、私も3回ともジュネーブにいっているのですが、日本の教育がいびつだというのは、何か少数の人間がいびつだと言ってるのではなくて、本当に国際的に見てもおかしいんだという、そういう日本政府への勧告を使いながら、地域でいえば教育委員会とも交渉するとか、あるいは父母との話し合いの中でも、本当におかしいのは、教師が悪いのではなく、教師も追い込まれている、子どもも追い込まれている、実は父母の子どもや人間の見方もゆがめさせられているんだという、そういう問題を広い視点から見定めていくという、そういう大きな流れもあるんだということを、ぜひ共有していきたいなと思っています。


「生涯学習」と「生涯学習権」

築山 一つお伺いしたいのは、さきほど学習権の話が出たのですが、私は生涯学習あるいは社会教育に関係しているものですから、「学習権宣言」はいつも学生達に授業の場で、「歴史を綴る主体に」という話をしているのですが、それに関係して85年は臨教審の一次答申が出る年なんですが、その臨教審の二次答申の中で、いわゆる生涯学習が出てきますね。いわゆる学校教育中心から生涯学習体系への移行なんだということで、かなり詳細、具体的に示される。その「生涯学習体系への移行」というスローガン、方向性が、さきほど先生がおっしゃられた新しいイデオロギーとしての、まあ新自由主義と言っていいのか、新たな競争主義というのか、そういうものとどのようにからんできているのか。あるいは日本の生涯学習論の、「出方」というのは変な表現ですけれども、どう見るかということについて。先生がおっしゃったように国際的な大きな流れから見れば、自由と生存をかけた権利と生涯学習であるし、生涯にわたって学ぶ権利を保障されるべきだという考えが大事ですが、そういう意味で言えば、生涯学習それそのものは肯定的にとらえて積極的に展開されるべき中身なのかなと思うのですが、日本的な現れ方という点でやはり注意しておかなければならない点があるのかどうか。その点に関して若干お願いできますでしょうか。

堀尾 生涯学習という言葉も、実はその前は生涯教育という言葉だったんです。で生涯教育ではないだろう、生涯学習権という言い方で私たちは主張してきたんだけれども、その臨教審の中では生涯学習という言葉が使われた。しかし、生涯学習権という言葉は使われてないでしょ。その同じ年にユネスコでは生涯学習権宣言が出されているわけですけれども。そのこところは「学習」といいながら、やはり統制的な枠組みの中に考えようとしている。そして為政者から見ると、別に学校教育、義務教育だけを統制すればいいという話ではないわけでしょ。学校と労働の問題、それから社会教育全体の問題をどう考えるか。実は戦後の改革期に学校は教育基本法中心に大きく変わると、「かくなる上は、古い価値を温存できるのは社会教育の場面だ」そういう発言が戦後すぐに出てきているわけです。

 しかし、そういう動きで戦後の社会教育があったかというと、決してそうではなくて、社会教育も国民主権を実現するために自分たち自身が自己学習をするという、そういう権利が保障されなければならないという、憲法の権利から言えば当然なわけですから、社会教育をまさに生涯学習権の行使という仕方で運動はつくってきたと思うんですけれども、古い為政者的は発想からすると、学校は新教育でともかくどうにもならないから、社会教育を統制しようという、こういう発想があった。しかし、それは政策的には主流にはならないですよ。

「国民教育」をめぐって

 社会教育というのは、そういう意味では非常に微妙なんです。私自身、実はドクター論文で扱ったテーマで、いうなればレイト・モダンと言いますが、1870年代以降の教育の大きな構造転換が各国で起こるわけですが、イギリスでもフランスでも、ドイツでも。その場合に一つは義務教育をまさにコンパルソリー(強制)としての教育を制度的に実現させる、それからもう一つは社会教育の活動を大きく枠づけるという、それと中等教育・高等教育のシステムを、庶民からも有能であれば上昇できるラダーシステム(先細りの階段式)に変えるという、この3つが19世紀の各国の、それぞれが帝国主義段階に入っていっての改革の動きになっているわけです。その全体が国民教育。私はですから、いわゆる国民の教育権論はずっと主張したけれど、国民教育論というのは、主張していないのです。というのは私は国民教育の歴史的な批判をやったわけですし、戦前も国民教育と言われていたその批判を通してでなければ、国民の教育権論にふさわしい国民教育というのは出てこないという思いもあったものですから、いきなり国民教育論ということにはやや抵抗を感じていたのです。僕らの上の世代の先生達は、一旦手垢に汚れた国民教育だけれども、それを憲法や教育基本法の精神にもとづいて作り直すという仕方で国民教育という言葉を、戦後は使ったことも知っていますので、そういう筋では私も共感はしているわけですけれども、前提に、歴史的な国民教育というのは何だったかということをきちんと理解しておく必要があるという思いは強いし、今でも、基本の所は変わらないわけで、創造する課題として、どう提起すればいいかという問題は残っていると思います。今後の先の問題でして、つまり地球時代にふさわしい教育の課題というものを、どう提起すればいいかという問題です。

地球時代にふさわしい教育の課題

 僕はいきなり地球時代イコール地球市民とは言ってないんです。やはりネイションの重要性というものをきちんと位置づけた上で、それをさらに世界に開いていくということが大事なんで、そのネイションを抜きにした国際政治も教育もありえないというふうに思います。それはやはり責任の問題があるからと思っています、ネイションとしての責任の問題。これはアジアに対する戦争責任の問題も含んでそうなんですが、同時に国際的な感覚としても、いきなり「地球時代だから地球市民でいい」ということではない、それぞれの国が主権を持ち、文化を持っている。それが本当に交流しながら、新しい地球時代の感覚を身につけることができるかという、そういう問いをしなければならないんで、それに対して、いわゆるグローバリゼーションというのは、まさにネイションの問題を外して、資本の論理で、だから国境がないのはまさにグローバリゼーションでしょ。国境を破壊しているわけですよね。それでいいのか、という問題があるわけだから、私はグローバリゼーション、つまり新自由主義とグローバリズムというのはワンセットですけれども、私たちが何を提起するのかと言うと、新しい意味でのインター・ナショナリズム、それが非常に大事なんだと思っています。新しいインター・ナショナリズムを、国民教育という表現ではちょっと言えそうにないし、どういう言葉を与えればいいのかということでは、僕自身、まだ迷っているし、それこそみんなでつくっていっていいコンセプトでもあるんじゃないかと思っています。

築山 もう展望というところにまで話がいっていたかと思いますが、一旦、戻ってと言いますか、野中先生の方からお話しをいただきます。京都の場合は、蜷川民主府政の28年間ですね、そのあたりのお話になってくるかと思うんですけれども、お聞きしたいと思います。


蜷川民主府政の28年

野中 さきほどちょっとお話し致しましたけれども、蜷川民主府政ができて72年に京教組は「すべての子どもに学力を保障しよう」という方針を発表しました。基礎的な学力、その背景には国民的共通教養論というものがあったかと思いますが、それをすべての子どもに保障しようというものです。そのために、高校に差別をつけない高校三原則を守り、育てるという立場に立っていました。けれども、残念なことに78年に「落城」しました。その「落城」以後、また違った形で大弾圧を受けてくるわけです。やはり典型的には「落城」した後、京都府庁から「憲法を暮らしのなかに生かそう」という垂れ幕が降ろされたことです。その時に、私たちの心の中には、蜷川さんが「ポケット憲法」というものを持っていました。それで子ども達のポケットの中にもこういうものが入っていて、難しいけれども全文勉強しようと。ここに持っているのは京都府のものですけれども、私は宇治に住んでいますが、宇治でも宇治市役所が出しているものがあります。京都府民が、みんなで日常的に学習しましょうと、それが共通教養になるのだというのが教職員の確信になっていっただろうと思うんです。だからこそ権力は恐かったんだろうと思うんです。だから大弾圧をやってまいります。高校三原則つぶし。これも「高校学校懇談会」というものをつくって、答申を出してもらって、それに沿って潰していく。直接やるのではなくて、自分たちに都合のよいような人を集めてやるという方法です。これは国家のやり方もだいたいそういうものです。そして教材に規制を与えていくし、組合の教研に妨害をかけてくるし、学校は貸さないと。そして管理運営規則でがんじがらめに締め上げていく。職員会議は校長の諮問機関にする。そういう形で教育の自由が奪われていく。

カッコ付きの「新しい学力観」

 私は、カッコ付きの「新しい学力観」というのが、この時期の大きな特徴だったと思います。今日、資料として持ってきたんですが、これは1989年の毎日新聞です。「児童に道徳度テスト 舞鶴の小学校 偏差値まで出す」という記事です。到達度ですべての子どもに基礎的な学力を保障しようとすると、マスコミは「京都はみんなオール3にするのか」と批判して序列をつけたがりました。こうした風潮と連動して教育観の転換、「新しい学力」観というのが出てまいります。そうして、舞鶴の神崎小学校の問題が起こってきます。こんなのがあるんですよ。「さとし君はお父さんと港に船を見にいきました。日本の船や外国の船がたくさん泊まっていました。お父さんが『日本の国は船を造ることでは世界一なんだよ』と話をしてくれました。お父さんの話を聞いて、さとし君はどう思ったでしょうか? @世界一は船だけかなあ。 Aあの船はどこへ行くのかなあ。 B日本人はえらいなあ。」で、だいたいこれを聞きますと、内容的にはさきほど私は京都学派の右派の批判を言いましたけれども、基本的な構造というのは京都学派の右傾的な部分だと思うんですね。天野貞祐が『国民実践要領』、昭和26年に出しているわけですね。「行動は個人の自由、家庭、開かれた家庭になりたい。社会で奉仕をする。社会もまた開かれていきたい。」どこに開いていくのかというと「国家である」。そして国家が開かれてどこへ行くかというと、行くところがないんですね。あとは「日本の独自な姿は、天皇をいただいてきたところにある」ということで終わるわけです。この『国民実践要領』の人間構造の特徴というのは、この後に高坂正顕が1966年に「期待される人間像」、これは文部省なんですね。これも大量に出します。だから各地で、例えば、「期待される富山県民像」とか、いろんなのが出てきます。  なかなか心を縛ることは難しいです。『心のノート』の話も出ましたけれども、心をどう縛るのかと、そんなの縛ることはできっこないんですけれども、しかしそれを必死でやるというのが新保守主義だと言っていいだろうと思います。従って、その「新しい学力観」を全国に先がけて、業者と癒着をして、京都で導入をしてくるわけですね。そして典型的なのは、小学校・中学校でゲス・フー・テストというのがやられて行きます。ご存じでしょうか。「ゲス」というのは推測するですね、フーというのは「誰」で、テストは試験です。こういうのを配るわけです。モデルはここに書いてありまして、「先生のいうことをよく聞くのは誰でしょう、3人書きなさい」「先生の言わないことをする子は誰でしょう、3人書きなさい」それを統計にする表に名前をずっと書いて、それでリストをつくる。そして1番から40人の子の区別をつけて、パーセント配分をしていく。これに大学の研究者が協力してつくっていくという。そういう構造は、舞鶴では「図書文化」が協力します。このようにして心を縛っていく教育観の転換、さきほど生涯教育の話で「新しいイデオロギー」の話がでましたけれども、私はやはり「新しい学力観」というのが、新しいイデオロギーだろうと思っているんです。子ども達を、測定できない部分を評価をして、序列を付けるという、そういうシステムが「新しい学力観」です。つまり、到達度評価ですべての子どもに学力を保障しようという、そういう教育観を真っ向から否定していきます。最初から、評価基準がないままに、子ども・教師・学校が外部評価にさらされて、「序列」をつけられるという教育システムです。そういう意味では、私はやはり普遍的な共通教養という価値と個人とを分離して「個性」を強調するといのが「新しい学力観」ではないかと思います。個人をバラバラにしてお互いに競争させる学力観であるといえるでしょう。

 バラバラな個人を「日本的まとまり」にするために、「日の丸・君が代」、教育基本法の改悪という形で上からの愛国心を押しつけようとしていきました。

 子どもを普遍的なものから切断して、個人をバラバラにしていって、序列をつけていくというシステムが進んでいったのではないかと思います。そして京都の場合は、関西と言った方がよいかとも思いますけれども、それに解放同盟と解放教育がまた「共生」という言葉を使うわけです。さきほど国民教育という概念のお話しがありましたけれども、解同が「共生」という言葉を使いますから、我々が「共生」という言葉を使いますと、いっしょになっちゃうんですね。解同というのは前近代主義なんですけれども、行政は解同の、そういうものを導入しながら行政をやっている。動かしてきたと言えます。そういう中で、京都の教職員の方々は非常に苦しめられてきました。教育長なんかが、校長に「あんたの骨は拾ってやるから、俺についてこい」という、こういう露骨な言葉を平気で言う精神構造の持ち主が、管理職になっていきます。「樽みこし」で担げるはずがないですね。そういうバラバラにさせられる中で、攻撃がかけられてきました。

「落城」以後も、さまざまな部分で、しなやかな実践が行われている

 会場の後で『風雨強けれど 光り輝く』という本を売っていますけれども、「落城」以後、さまざまな部分で、しなやかな実践が行われているわけです。つまり、どんなに弾圧を加えても、人間の心の良心までは縛られない。そういうことを僕は本の中で書きました。本の宣伝も兼ねますが、ぼくはこの本の中の「はじめに」で、「峠のむこうに春がある」これは蜷川さんのものです。そのあと「骨を拾ってやるから、ついてこい」という時代、その中でしなやかに生きる我々の精神、「峠のむこうがまた峠でも、春を求めて歩みつづける」。これが僕は、しなやかな教育実践ではないかなと思います。

 いろいろな教育実践についての話をしたいなと思います。私たちが出している季刊雑誌『ひろば』にのっている詩から紹介しましょう。「子どもに聞け」と、先ほども言いましたが、涙が出てくるくらいに子どもの声っていいですよ。「おかあさんってよんでいい おかあさん おかあさんってよんでいい おかあさんってよびたくなる 先生もおかあさんって言うときある まみ 何もようしないのに おかあさんってゆいたくなるときある だっておかあさんって いいなまえだもん だから言いたくなるの」本当に素直な声です。こういう素直な声を引っ張り出せる力量を、京都のあるいは全国の民主的な先生方は、引っ張り出しているわけです。ここに共通の国民的共通教養が、僕は育っていると思っているわけです。

 そして、今のは学校の先生方ですが、そのほか、先日「ひこばえ」という所に行ってまいりました。「フォーラムひこばえ」、「ひこばえ」というのは、切り株から芽が出てくる、それを「ひこばえ」という言葉で表現します。そして30年後の地域・福祉の社会はどうなっているかということを展望して、学童保育で市の認可を受けながら、そしてその間、赤ちゃんも来てくれるし、老人も来てくれる。そういう中で語り合ってつながり、文字通り自主的に地域の人たちが集まって、地域の展望をつくりあげています。そこでまた先生方がドッキングをしていくという、まさに僕は、どんなに弾圧をされても、心の良心までは縛られないでがんばっている、そういうしなやかさが教師や父母・地域住民の中で育っている。だからどうぞ弾圧して下さいとは言いませんけれど、必ず弾圧は破綻をすると言うことを、自らの教育実践で示しつつあるのではないかと思います。こんな中から展望を探っていくことが大事じゃないかと思います。


「もう一つの教育」

築山 ありがとうございました。ここまでお二人の先生から、それぞれ1945年から2010年までの65年間の歴史を振り返りつつ、そこから我々が学ぶべき、あるいは確かめておくべき事実や思想、考え方といったものを見てくることができたかと思います。まだまだたくさん、いろいろな事実もあるわけなんですけれども。ここから、いよいよ「もう一つの教育」という柱の方に話を進めて行きたいと思いますが、「もう一つの」という言い方は、実は国際社会フォーラムという国際的な、アメリカ一国覇権主義などに対抗しながら、民主的な社会をつくっていこうとする国際的な、非常にゆるやかな、ある意味ちょっとラジカルで、思想的にどうかなと思う面もなくはないんですけれども、ただ我々が今の時代で直面している「未来」というのは、一つではないんだという意味での「もうひとつ」です。今見えている、たとえば今日、冒頭の挨拶で代表の方から「精神疾患で苦しんでいる教師が5500人もいる」という話がありましたけれども、今の社会状況が厳しいというか、先の見えないしんどさがあるわけですけれども、その先になかなか明るい未来、あるいは希望、期待を持って展望することができにくいんですけれども、しかし、今の延長で見えている世界とは違うもう一つの社会、もう一つの世界というものがあるんだということを、それをつくっていこうということを言いたいわけです。あえて今日この言葉を使ったのは、そういう意味合いがあるんです。そういった意味合いも含めて、これからの話に行きたいと思うんですが、若干、時間に余裕がございますので、ここで会場のみなさんから、2〜3、堀尾先生、野中先生に、この機会にぜひおたずねしておきたい事ですとか、あるいは今までのお話の中で、もう少しこのあたりについて、お話しをということがございましたら、お一人30秒ぐらいで、2〜3人ぐらいと思うんですけれども、いかがでしょうか。

会場参加者 京大で生活指導をしている○○と申します。1点、お聞きしたいんですけれども、近代教育の構造を考える上で、3つ僕は考える必要があると思っていて、教育と国家と経済。この関連性を考えることが必要だと僕は思っているんです。それは戦前の野村芳兵衛というのを研究していて、そういうふうに思い立ったんですけれども、堀尾先生のお話を聞いていて、教育と国家との関係について言えば、インターナショナリズムという言葉に象徴されるような関係性があるということはわかるんですけれども、経済と特に教育との関連はどうあるべきなのか、そういう所についてお聞かせ願えたらと思います。

会場参加者 定年2年目で、今実家で銭湯のボイラーマンをやっている○○という者ですが、舞鶴で38年、小学校の教師をしました。全力で走ってきて、定年になってから、ふっと足を止めてみて気がついたことを、後10年、20年、何のために生きるんかなというふうに思う中で、90才でも現役で医者でがんばっている人をみた時に、「あ、健康で生きることが一番大事だな」というふうに思っています。そこで自分が教育を受けてきた時に、生きるために教育を受けたかな、勉強をしたかな、やはりテストのためだけに自分は勉強をしてきたと今思っていますし、教育実践でも、いっしょうけんめい、良い教育、民主教育を、京教組、舞教組、それから教育センターの方針に基づいてやってきましたけれど、実践もテストのためだったなと思っています。やはり憲法・教育基本法、それが本当の全面発達の教育を保障しているなと改めて今思っています。文部省が46年に出した「新教育の指針」というのが、それを書いているなというふうに思っています。以上です。

築山 ありがとうございました。そうしましたら、今の質問のお答えというよりは、今の質問を含めて、次の「これからの教育の展望を語る」という所でお話しをいただきたいと思います。今度は順序を入れ替えまして、野中先生からお話しをいただいて、最後に堀尾先生から総括的なことも含めて、お話しをお願いしたいと思います。

野中 今、学生の方からの質問にかかわって、戦後の教育を考える場合に、財界の要求に教育は基本的に屈していると、従属していると言えるだろうと思います。だから、戦後の高校教育をとってみても、一応全国的には三原則でスタートしますが、あとバラバラにさせられて行きますね。特徴的には、1968年(昭和38)に経済審議会で木川田一隆という東京電力の社長が会長ですが、彼が中心になって「経済発展における人的能力開発の課題と対策」という答申を出します。あの中で、エリートを3%〜5%頂点にして、それから簡単に言えば序列をつけていきなさいという、それが経済発展につながっていくというものです。それにほぼ文部省は従って、中央教育審議会で議論をしていって、「後期中等教育の多様化」という答申を出します。多様化してバラバラにしていくから、国民のまとまりが必要となり、「期待される人間像」という考え方が鮮明にでてきます。基本的に財界に奉仕するという性格があるだろうと思います。だからこそ経済の民主化ということが、非常に大事になる課題です。経済的な土台の上に、上部構造というのをマルクス、エンゲルスが提起しているんですが、私個人はマルクスからいっぱい学んでいる訳なんですが、やはり民主的な経済をどうつくっていくのかということが非常に大事な人類的今日的テーマじゃないかなと思います。しかし、教育は教育の相対的独立性があります。それを追求していくのが、教育の本来の在り方じゃないかと思います。それを私は「真実」という言い方をしている訳です。事実の中に、本当に人類の良心的な流れをどう把握しながら、それとコミットしていけるような人間というのを、どうみんなで考えていくのかが大事ではないのかと思っています。

 それから、もう一人の、舞鶴の方の発言にかかわって思うことは、体力が大事だというふうに思いますね。その通りだと思います。舞鶴の女の先生が「私の信条」というのを書いておられて、「まず健康、丈夫な体」その次に「人間に惚れることが大事だ」と。またすごいことを言っているんですね。「人間に惚れなさい」と。私も嫁さんに惚れたけれども、そういう惚れ方というのは大事ですね。それから「子どものありのままの姿を考える」とも言っています。先生方は、さまざまな考え方をおもちだろうと思いますが、さまざまに評価システムにさらされながら、今日ここに来て、「体が大事だ」とおっしゃって、改めて私は共感しました。内心の充実感をもって、「がんばりましょう」と言いたいです。

 そんな感想を持ちながら、「もう一つの教育」「新しい教育をつくりあげていく」というテーマについて話してみます。


改めて日本社会で「地域」というものをどのように考えるのか

 私はやはり古典的なテーマですけれども、今日における地域に根ざす教育、あるいは地域に根ざす思想、と言ってもいいのではないかと思うんです。改めて日本社会で「地域」というものを、どのように考えるのか。明治以降、「立身出世」。福沢諭吉なんかは典型的だろうと思います。『学問のすすめ』とか、若いときは感動して勉強しました。今は、私は問題が山積していると、批判的対象の人物として見ていかないといけないだろうと思います。「立身出世」で、地域から出かけていく。そのことによって幸せが得られるという、こういう思想構造というのは、一貫して流れていると思います。だから僕は、それはそれとして認めながら、できるだけそこに歯止めをかけていって、「いのち・人権・平和」という「地域」をもう一度考えていくことが大事だろうと思います。権力が言っているのは、立身出世を含めて地域からカッコ付きの「自由」、自由主義と言ってもいいかと思いますけれども、カッコ付きの「自由」で出て行って、中央集権を支えていく人材養成の教育構造が、作り上げられてきているのではないか。だからこそ、今、もう一度地域というものを、現代の地点で考えて見ることが大事なのではないだろうか、と思っているわけです。

 権力は、中央に対して「地方」という言い方を致しますけれども、私たちの立場で地域と言うことをもう一度、考え直してみたい。一つは、やはり地域は、「いのち」の再生産をする、そういう所だろうというふうに位置づけたいと思います。一回限りの、限りない大事な「いのち」が、地域で他の「死」を糧にして生まれているわけです。そのことをもう一度大事にしたい。  いわゆるカッコ付きの「標準化」させられていく暮らしのなかで、本当に一回限りの「いのち」をそこで大事にされているのか、されていない。だからこそ、一回限りの「いのち」を地域でどのように保障していくような地域政策、あるいは地域展望、福祉づくり、地域の福祉づくりをどうしていくのかということを考えることが大事じゃないかと思います。

 さきほど、西岡常一さんの話をしましたけれど、「大事なことは木に聞け」というんですね。法隆寺は千年の建物ですが、学者はあそこに「鉄を使え」と言ったんですね。彼はそれに対して、「いや、木に聞くことが大事なんですよ」と。そうしたら建築学者、一流の学者たちが、「お前、俺の言うことを、国家の言うことを聞かんのか」と圧力をかけたんです。それに対して、西岡さんは「法隆寺に聞きたい。私は法隆寺の木に学びたい」と言ったんです。ここが大事じゃないでしょうか。地域というものは、そういう豊かなエネルギーをもっている。だから一見、切った木が、死んだかのような印象をもつけれども、そうではない、生きているんだよという、この発想を、僕は西岡さんから学んでいるわけです。

 現在はだいたい病院に行って、お産をするかも知れませんけれど、もう少し広く考えて、やっぱり地域で育てられて、地域で遊んで、ぶつかりあって、いっぱいそこからエネルギーをもらっているんじゃないかと思います。しかし現実の地域は効率を中心にしてバラバラにさせられて、矛盾がいっぱいあります。


矛盾がいっぱいあるなかでも文化が育っている

 そして、矛盾がいっぱいあるなかで文化が育っています。京都には地蔵盆というのがあるわけです。これもすごいですよ。神谷さんという写真家の方が、京都の地蔵盆を撮っていただいて、『ひろば』162号に書いていただいています。本当に地域の人たちの、子どもへの願いというのは、どういう願いなのか。地域にいっぱいお地蔵さんがありますけれど、地蔵さんを真ん中にして、そしてテントを張って、子どもにおやつをあげて、昔の話をして、いっしょに遊びながら、子どもに夢を語って、そんな中で子どもが元気をもらっている。京都だけじゃないと思いますけれど、関西独自と言っても良いんじゃないでしょうか。地蔵盆をうんと大事にしたい。そして、「通行止め」の看板を立てるわけですね。そこではもう交通はストップという。そういう夏の8月の、今は22〜3日頃になっているのかな。大事な行事だろうと思います。そういう地蔵盆みたいな伝統的な文化の中で、子どもの精神が育っている。内面に普遍的価値が芽ばえ、育っていき、現代的課題にも主体的に向き合っていく力が育っていくものと思います。

もう一度、地域の無限の宝を学んでいく

 そして、都会だけじゃなくて、地方、あるいは山村に行けば、山村の自然な美しさも学ぶことがいっぱいできるだろうと思います。そういう意味で地域に学ぶ、地域から離れる動きがあるけれども、それに場合によっては乗りながら、考え方として、思想的視点としてもう一度、地域の無限の宝を学んでいくということを原点にしていっていただきたい。

 二つめは、地域をどのようにつくっていくのか。教育には「構想力」ということが大事じゃないでしょうか。どういう将来の夢を描いていくのか。私はいま宇治におりますけれど、女房がアルツハイマーになっているわけです。それまでは、私の家で一人なんです。「いる」という感じね。おそらくいろんな方がそうだと思いますけれども、地域にただ存在しているだけにしか過ぎない。つながりが切断されている。ところが、いま僕は女房に感謝しているのは、デイケアーに行ったりしていろんなことを学んで、ものすごく精神的に充実しているんです。つながりがいっぱいできるんです。改めてそこで今のデイケアーのサービスの間違い、あるいはサービスではダメですね。改めて、うちのアルツハイマーの女房がどういう要求を持って、その要求がどういうようにもって生きるのか。歌を歌ったり、カルタを取ったりして、そこで改めて75才になるんだけれども、輝いて生きている姿が見えるわけです。改めてすごいなと思います。今まで50年、女房といっしょなんですけれども、あんなに生き生きした姿を、あんまり見たことがないのです。今、改めて女房に惚れ直しているんです。さきほど、生涯教育の話がありましたが、改めて生きていることのすばらしさ、女房から学ぶことがいっぱいあるんです。

 そういう意味で地域づくり、今、女房は「いる」だけですけれども、そこから「つながり」をつけていって、そしてそのつながりが、ひとつの「暮らし」が成立できる、女房が安心してデイケアーに行くんじゃなくて、自由に散歩できて、助け合って行きましょうという、そういう地域になったらすごくいいなと思います。そこで私は、あちこちに言いに廻っています。隣の奥さんに「よろしくね」と言ったら、ニコニコして応えてくれました。こちらから心を開いていくと相手が開いてくれるという、そんな関係で、地域に庶民として、暮らしが成立できる地域をどのように構想していくのかと、そのことを土台にして教育の課題として先生が応えていくという、そういうことが大事ではないかなと思います。そういう意味では構想力を持って、地域政策をつくっていくということがすごく大事ではないかと思います。

 教育課題として、地域に教材がごろごろころがってあるという視点をもって、「いのち、人権、平和」の教育課程をつくることが大切だと思います。

子どもに合わせた学校

 二つめに、子どもの尊厳をベースにする学校づくり、子どもに合わせた学校。学校に合わせた教育ではない。これは与謝の海養護学校の設立理念の中にも出てくるわけですけれども、子どもにあった教育は民主的な地域づくりにつながり、それをどうつくるのかということも大事じゃないかと思います。

 今、民主党は「地域主権改革」と言って、偽物の改革をやっています。「地域主権」なんて言っているわけです。文字通り、言葉に騙されてはならない。そこには本当に地域住民が主権をもって生きるという、そういう地域をつくりながら、それを保障する行政をつくっていく。それが現代における「憲法を暮らしのなかに生かす」という、そういう未来像が描ける。それを共通課題にして、今日からがんばろうというふうに考えると、元気が出てくるのではないでしょうか。それがもう一つの教育課題ということで、提起にしたいと思います。


憲法や教育基本法の精神に立ち返って、それを深めて、豊かにするということが基本

築山 ありがとうございました。続きまして、堀尾先生よろしくお願いします。

堀尾 どういうふうに話をしたらいいかですが、私たちの教育改革という意味で使うとすれば、もちろん現在の我々がどういう構想を持ち、提起するかということが、改めて課題になってくるかということは間違いないのですが、ある意味ずっと「もう一つの教育」を主張し続けてきたという思いが私にはあるわけです。さきほども言いましたけれども、私自身の60年代の教科書問題への取り組み、そして裁判闘争もやり、それから70年代には教育改革構想を制度検討委員会から出す。それから教育学会のレベルでも80年代に太田尭会長を中心にして改革構想を出す。さらに90年代の末には、「日本の教育改革を共に考える会」がつくられ、私はそのいづれにも参加していまして、私の意識としては70年代、80年代の制度検討委員会の精神をある意味引き継ぎながら、発展させるという、本当にみんなで新しい時代にふさわしい教育の構想を提起してきたわけです。そして教育基本法が変えられたとこで、どうしていくかという問題になっているのだと思います。

 新自由主義、あるいは新国家主義、あるいは経済の教育支配という形で、政策分析、批判をやる。それに対して対抗的な原理は何なのかということで考えて行けば、それは私は基本的には憲法や教育基本法の精神に立ち返って、それを深めて、豊かにするということが基本になるだろうと思います。

本来的な意味での「教育の自由」をどう確立するのか

 さきほどの話しにちょっと補足をした方がいいと思っていますのは、新自由主義とグローバリゼーションというものに対して、私たちは本来的な意味での「教育の自由」をどう確立するのか、そしてグローバリゼーションに対してはインター・ナショナリズムを対示するということを言いましたが、もう一つ、新自由主義的な動きの中で教育への市場主義の導入、マーケット主義が教育の中にも入ってきている。そう言う問題は、教育の公共性の解体ということでもあるわけです。国は財政的にも非常に貧困な教育・福祉の政策を採り、そして「市場経済の原理に任せる」と言って、そのことによって本来の福祉や教育の持っている公共的なものが解体されていっている。それに「新しい公共性」といった言葉をつけたりすることがあって、そこでも私たちは惑わされることもありますが、本当に「公共性」というのをどう考えるのか、人権としての教育を軸にした新しい公共性を私たちはつくり出すという、「新しい」と言いましたけれど、実は憲法や教育基本法が本来的に持っていた公共性というのは、人権論に立った、民衆的な公共性と言えると思うんです。国がしきりに言っていたのは、国権論的な公共性なんで、それへの批判を含み、ある意味では解体的な形で新自由主義で出ているという、つまり、その3つの公共性をめぐっての対立的な構造があるわけで、私たちは人権論的、民衆的、あるいは住民自治的と言ってもいいかと思いますが、そういう公共性を、教育の問題として、捉え直し、作り直して、実現するという、それは「もう一つの教育」を考える場合の一つの基本の筋になっていいだろうというふうに思っているんです。

 わかりやすく言えば、「一人一人のものであると同時にみんなのもの」、「コモンアンドパブリック」、そういうものを、本当に足元からつくっていくという、これが私たちの求める教育の軸になるだろうし、子ども青年の人間的な成長・発達、まさに「子どもに合わせて」という表現も、野中さん使われましたけれども、ともかく教育の軸は学び発達する子ども・青年であるということ、そこを外してはならないというのが、原点だろうと思っています。そして、その成長・発達を、親も地域も教師も皆で支え励ましていくこと、教育という働きかけはそういう意味で公共的なものなのです。

地域の問題と地球時代

 地域の問題が出されましたし、私は「地球時代」と言っているわけだけれども、地域の問題と地球時代というのは、いかにも距離があるじゃんか、堀尾は何言ってんだというような受けとめ方もされる場合もあるんですよね。「世界市民論を言ってるのか」みたいな誤解も含めて。私は実は地域の問題と地球時代とがどうつながっていくのかということを、非常に強い問題意識としても思っていまして、実は実践的にも私、今、少し時間的にも余裕ができているということもあって、私の住んでいる東京の調布市の住民運動に関わっているんですね。一つは森と道路の問題。環境を守るという、これは国分寺崩線を突っ切る道路計画が動き始めて、これは私の住居の地域の問題なんですけれども、森を守る、そして今、道路が本当に必要なのか、で市とも交渉し、1万4000の署名を集め、市との交渉も6回やって、市長に現場に来てもらって、そして継続的にやっているのです。地方行政の法律が変わって、その中で住民自治という原理、そして「住民参加」というふうに言っているけれども、本当にどこまで考えているのかというのが、行政の実態としてあるわけで、そういう問題には日常的に怒りを感じたり、希望を繋いだりしながら取り組んでいる問題が一つあるんです。

 それからもう一つは、地域の教育を考える会。ここではそれこそ学校選択の問題、中学が潰されるかも知れないという問題などを含めて、父母と先生と、なんとか一緒に議論を重ねようと。そういう所には先生がなかなか出てこないんですね。それで、父母だけの会、父母と言うよりも、母親だけの会になっていることが多いのですが、それじゃまずいじゃないかということで、先生にも呼びかけたりしながら、考える会を続けています。

 それから、もう一つ地域の憲法問題。これは調布憲法ひろばというのがあるんですけれども、そこは毎月1回ずつ学習会をしながら、これは9条の会にもつながっているわけですが、そういう活動もやっているわけですね。

 今、9条の会と言いましたから、もう一つだけ、「教育子育て9条の会」が出来たのです。私、呼びかけ人の一人で、その全国的な集会は東京と大阪と、この前仙台でやったばかりなんですが、ついでに宣伝しておきますと、呼びかけ人がこういうブックレット(「いのち、学び、そして9条」)をつくって、それぞれの思いを書いているんですけれども、こういうものもこれからの、たとえば京都でもそういう動きが当然あっていいわけですし、いわゆる憲法9条という、それだけではなくて、9条の問題は本当に子どもの問題、子どもの生活、育ちの問題として考えた場合には、私は「平和の文化」というものが本当に大事だと思っているんですけれども、そういう視点を含んで、「子育て9条」と言えば、それこそ親の出番であり、教師の出番であるわけなんです。地域の出番なんです。こういう運動も広がっていけばいい。これはもう一つの教育を支える大きな基盤にもなるだろうというふうにも思っているんです。

 それからさっき子どもの権利条約のことを言いましたけれども、実は『子どもの権利ノート』というのを、子どもセンターが出しています。この中に第三次のジュネーブの勧告もすでに載せています。それから教育基本法も、47年基本法と06基本法もこの中に入っていまして、非常に便利なもので、こんなものも学習の参考の一つに使っていただければいいと思います。こういうものを含んで、「もう一つの教育」の目指すもの、それは憲法・教育基本法の精神、そして子どもの権利条約の精神をどう生かすのかという一つの筋、これは国際的な視野を持って、我々は確信を持つことができる。

教育基本法は憲法の精神とは親和的なものなんだということの確認はできている

 で、教育基本法に関してはどうかということもたぶん問題だと思うんですね。つまり47基本法を復活させようというふうな運動が、運動課題になるかということも含めてですね。とりあえず私は憲法と子どもの権利条約があれば、かなりやれるという思いがあるんですけれども、同時に教育基本法もですね、「どこまで使えるか」という仕方で、本気に取り組む必要がある。というのは、行政はあれを使って統制しようとしていますから。あの教育基本法の改正の過程では、私も国会で改正反対の意見を陳述したんですけれども、同時にいろんな批判を通して、憲法の精神は、それはそれとして大事にするんだということが、国会レベルでの「改正論」でも言わざるを得なかったというこがあるんです。つまり改正の中では、47年基本法は、「憲法の精神に則り」とあり、そして「憲法の精神の実現は教育の力にまつ」この文章は、カットされたんですけれども、しかし全体として教育基本法は憲法の精神とは親和的なものなんだということの確認は国会審議でもできているのです。ですから、憲法の精神に即して改正教育基本法をどう解釈できるのかという形で詰めて行けば、どこかで矛盾は出てくるわけです。「ここは憲法の視点からすればおかしいじゃないか」という闘い方はあるわけで、私はそういう意味では基本法問題は、改正基本法も含めて、我々がどういうふうに見据えていくかというのは、ある意味では非常に現実的な、特に先生方からの関心からしてもですね、「基本法が変わったからもうダメなんだ」というふうに絶望するのではなくて、闘い方があるんじゃないかという思いを持って、これはそういう視点で、民研『平和・共生の文化を求めて』、これは民研を辞めたときに研究所でつくってくれたものなんですが、この中にけっこう基本法改正の反対論と、国会での証言なんかも含めて、それからその後、じゃあどう取り組むかということも含めて入っていますので、批判的に検討して下さればいいと思うんです。基本法が変わったからもうダメだというのではなくて、我々の拠り所としは、もちろん憲法と子どもの権利条約という一つの大きな支えがあるわけですし、それから国際的な勧告、これもさっきも言いましたけれども、ILO、ユネスコの教員の地位に関する勧告、そしてそれを受けてのシアート報告、それから子どもの権利に関しては、ジュネーブの子どもの権利委員会の「所見と勧告」、そういうものは大いに使える、そういうものがこれからの教育を支えていくものになるだろう。で、その中身に関して言えば、野中さんがさっき言われたことは、私、全く同感なんで、そういう教育実践をどういうふうに実現していくか、その場合に我々を支えてくれるものとして視野を広げれば、いろいろあるじゃないかということです。

地球時代の新段階と教育課題

 たまたま今日のレジメの中に「地球時代の新段階と教育課題」という、これは今年の一月に長野でやった民研主催の全国教育研究交流集会の私の講演、問題提起が入っているんです。この集会自体が、地域の問題と地球時代とをどうつなぐのかということで、私の問題提起の後、それこそ長野の地域に根ざす教育の運動があるわけで、そこの人たちがシンポジウムをやり、そして全体として地域の問題と地球時代とがどうつながるかということを、少なくとも共通の問題意識にしようじゃないかと、簡単にはつながらないかも知れないけれども、実はつながる問題はたくさんあるんで、地域だから、地域だからということで、地球に眼を閉じて地域問題をやっているように思っても、それでは地域の問題が本当には見えてこないという、それは日本の農業問題だって漁業問題だって本当にそうですよ。環境問題だってそうなわけで、足場は地域だけれども、その問題は大きく地球時代につながっているんだという、そういう発想を持てば、若干ゆとりもできるし、つながりも、いろんな人がそういうことを考えているんだということで励まし合うということにもなるだろうと、そういう思いで長野での講演はしたんです。

 私の民研の代表として最後の問題提起だったので、あえてこういう大きなテーマで講演をしたんですが、この中で地球時代というものを、私は1945年から考えているんですけれども、それ以後、大戦後60数年の時代区分をしなければいけないという問題があるんですね、今日も教育を通しての時代区分だったわけですけれども、地球時代という視点から見ても。長野では3つの段階といいましたが、実は4つとした方がいいんですね。

 どういうことかと言うと、第1期は、45年、そしてその前から国連憲章をつくり、国連中心の新しい国際秩序をつくろうという動きで、さらに世界人権宣言も生まれる。この短いけれども理念の時代があるわけでしょ。その国連を支えたもの、そして新しく平和をどうつくるか、そういう発想が、豊かな理念があって展開された時期、それが第1期。日本で言えば憲法・教育基本法の時期ということになるわけですけれども、国際的にもそういう大きな、地球時代にふさわしい人権や平和や環境問題も含めて、実はそういう問題意識があり、そしてもう二度と戦争を起こしてはいけないという地球時代に入ったという共通の認識、否定的な認識、「このまま行けばダメになる」という、そういう否定的な認識を媒介にして新しい理念が提示された、それが第1期。  しかし、現実的にはそれは2つの米ソ対立の冷戦体制の中に入っていくわけです。そしてそれが第2期ということになる。そして第3期が、ベルリンの壁、ソビエトの崩壊、その後が新しくグローバリゼーション、アメリカ一極の支配。そして湾岸戦争を経て9.11問題というふうになっていく。これが第3期なんですよね。そして、その第4期として私は「今、新しい潮目が見えてきているんではないか」ということで、オバマ政権の誕生、新しい民主党政権の誕生という、そういうものに私たちが期待をした、その筋に新しい潮の流れが見えているという。ところが、新しい潮の目がまた見えなくなっちゃっているわけですけれどもね。第4期と言いながら、本当に第4期があるのかということになっているんです。

 だけれども、そういう思いで、のっぺらぼうに1945年から地球時代に入りましたよと言っているんじゃなくて、ようやく第1期の理念の時代があったけれども、冷戦体制、そしてアメリカ一極支配を経て、しかし今や多極化していることは間違いありませんから、一極支配ではないわけです。そういう時代になって、新しい潮の目をつくらなければいけない。その新しい潮の目をつくる仕事と、教育改革の仕事というのは、当然私はリンクしていると思うし、その場合に、そういう大きな課題を教育の問題として、つまり子どもや青年の新しい教育の中身の問題としてどうつくっていくかという、そういう構想が必要なんじゃないかと、そこに言うなれば、「もう一つの教育」の中身があるんじゃないかというふうにも考えています。

 実は、ここに分厚い本を持ってきたんですが、大学の教師というのは、何かしゃべるためにはいろんなものを持っていかなければ落付かないという習性が身についていて、ちょっとおかしいんですけれども、『教育を拓く』という本、これはけっこう新しい理念をどういうふうに豊かにしていくのか、どういう展望を持つかという、そして教育改革の2つの系譜というふうに書いた私の本ですけれども、こんな本なども参考にしていただければいいと思います。

新しい教育の軸は、子どもや青年の願いというものをきちんと受け止めるということ

 そして、やはり新しい教育の軸は、子どもや青年の願いというものをきちんと受け止めるということだと思います。耳を澄ませば子ども達は本当に願いを持っているし、表現もしているのです。実はこの23日に、東京で高校生の「平和の集い」というのがあったんですね。これは高校生の平和ゼミと連動した動きなんですけれども、会場が割りに近い所でしたので、ふらりと参加して、子ども達の表現、考えていることを聞いたんだけれども、ともかく若者達は捨てたもんじゃないよという思いを強く持っているんです、大変な時代だということと同時に。そして子ども達の願いが実に豊かだっていう気もするんです。

 子ども達の詩を紹介しながら締めくくっているんですけれども、地球時代的な感覚というのは、子ども達が持っていると思っています。

 たまたま大阪で、子どもの権利条約を期にワークショップがあって、子どもたちが自分たちの願いを出し合いながら、詩を集団でつくっている。それが、池辺晋一郎さんが組曲にしたものがあるのですが、これは長い詩なんですが、そのさわりの部分をちょっと紹介しますと、 「僕たちは探している/果てしない銀河宇宙の/小さくて大きなこの星に/生まれてきて良かった/生きていていいと感じるために/僕たちが僕たちであるために/僕たちは探している」。その後は「追いかけないで」という第1章で「勉強と闘うわたし/追いつけ蹴飛ばせ怠けるな/母さん時間に追いまくられて/若さも美貌も遠い過去/父さん仕事に追い回されて/満員電車で立ったまま眠る」。こんな部分もあるんですけれどもね。それで「違っていいんだ」と、そして「違っていいんだと言わなくていい世界がいい」とも書いているんですね。本当に僕たちの希望、願いというものを綴っていて、国や宗教や歴史を超えて、みんなで本当に仲良く友だちでありたい。一人一人が主人公になる社会、そういう世界が私たちの願いだというふうに書かれていて、最後は「僕たちは探し続ける/果てしない銀河宇宙の/小さくて大きなこの星で/僕たちの僕たちらしさが/たくさんの命とつながって/共に生きている道を/僕たちは探し続ける」。というので終わっているんですけれども、こういう子ども達の願い、これを地域の課題と結びつけながら、どういうふうに考えて行くかという課題でもあると思うのですね。

 宇宙時代、地球時代ということで夢を描くということだけでは、やはり足元が根っこのないものになるわけで、私も地域での活動をそれなりにやる中で本当に学ぶことが多い。地域には実にすばらしい方がたくさんいるということも、参加してようやく感じることができたし、それこそ忘年会をやっても非常に楽しい。森をつくろうだけではなくて、森で歌おうということなども実はやったりしているんですけれども、そういうことが、実はすぐそばにある小学校の環境を守るということなどとも結びついていまして、PTAの人たちも関心を寄せてきている。私たちはだから環境問題を、そういう仕方で、子ども達の未来とつながる仕方で考えようともしているし、「もう一つの教育」という意味で言うと、いうなれば足、もとの生活と環境の問題、地球環境の問題を含んだ平和な時代をどう切り開くかという、そういう課題。子ども達もけっこう反応するんじゃないかと、私は思っています。それは一昨日の高校生の広場に参加しての感想でもあります。


築山 最後に地域、あるいは公共性というキーワードも語られ、何よりも足元の地域から世界を見ていくというお話もあったかと思うんですけれども、今日、1945年から65年間、教育の歴史の中に、実はたくさんの豊かな水脈があり、我々が学ぶべき事があるんだということを確かめさせていただいた、そんなお話しの中身でもあったかなと思います。堀尾先生は、今夜のレセプションへもご参加いただきますので、この続きは、この後みなさんとのお話しの中でお願いしたいと思います。

 それと、レジメに書いておりますが、堀尾先生の著書の中で、今日販売の方にあるのは、『地球時代の教養と学力』と『人間と教育の対話集』の二冊だと思うんですけれども、参考文献で書きました『日本の教育』(1994年)、『教育を拓く』(2005年)、少しかっちり勉強したいなと思われる方は、こちらの方を私はお勧めしたいと思います。  それではつたない進行でしたけれども、本当にお二人の先生から、時に熱く、示唆に富んだお話しをいただきました。改めてお二人の先生に感謝の拍手をして終わりたいと思います。どうもありがとうございました。(大きな拍手)。

 「京都教育センター年報(23号)」の内容について、当ホームページに掲載されているものはその概要を編集したものであり、必ずしも年報の全文を正確に掲載しているものではありません。文責はセンター事務局にあります。詳しい内容につきましては、「京都教育センター年報(23号)」冊子をごらんください。
事務局 2010年度年報もくじ

              2011年3月
京都教育センター