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京都教育センター          2010.8.19

     
教科教育研究会・国語部会通信

         編集・発行 教科教育研究会国語部会(会員用:部内資料)       

              第 43 号


改訂指導要領のもとで作られた小学校新教科書を分析する

                       京都教育センター国語部会 事務局長 浅尾紘也

 日本の教育を大きく変質させようと企てられた、改悪教育基本法のもとでの学習指導要領にもとづく小学校新教科書の検定が終わり、それぞれの地域での採択が終わろうとしている。

 この状況の中で、教科書分析は、単に国語教材がどうなっているかという視点だけでなく、教育・学校教育がどのように変質していこうとしているのか、という視点からもその分析と批判をしていかねばならないと思われる。

 2010年・和歌山で開催される全国教研国語分科会に提起される、日本出版労働組合連合会(出版労連)の報告書の副題には、「大転換期を迎える出版と教科書」とある。この視点について、私たちに同様に考えている。それは、私たちも、改悪教育基本法−改訂学習指導要領−新教科書という流れの中の国語教育が、大きな変質を企てられ、その空洞化から崩壊への意図的な流れが現実のものとなっていることを、これまでずっと指摘し続け、提起し続けてき、それは、まさに国語教育が「大転換期」に対峙していることをしっかりととらえねばならないのではないか、と考えているからである。

 出版労連の報告書は、教育をめぐる状況を広く捉えての提起であるが、それを国語教育に絞って考えても、その「大転換期」ととらえる視点は、これからの国語教育を見、考えていくことにとって、きわめて大切である。

 なかなか姿を現さなかった新教科書は、「ページ数・内容の増加」(国語教科書では、25.5%増)、大判化・上下合本などの、外見上の変化ともともなって、採択間近の時期にやっとその姿を見せた。

 ただ、現時点では、「全国一斉学力テスト」問題で提示された「活用型」教材=言語処理能力のスキル・訓練を中心とした教材がどのように配置されてくるのか、「愛国心養成」教材がどれだけ入ってくるのか、という点については、予想されたほどではない、という評価が一般的なものである。しかし、そのように考えてほんとうにいいのだろうか。  新教科書の教材を分野別に概括すると次のようになる。


言語教材

 言語の学習としての体系的系統的な学習のための言語教材は、前回の学習指導要領の改訂を受けての教科書から、壊滅状態となっている。今回も、それは全く変わらない。この分野での学習は、一方では「言語事項の重視」という空念仏が唱えられていることを隠れ蓑にして、その実は、ゲーム化や遊び化の一途を辿り、国語教育の基礎基本の学習としての役割をまったく果たさないものになってしまっている。


説明文教材

 あのPISA問題で露呈した、「論理的な読解力」と「主体的な表現力」の低下の問題を、言語訓練としての「活用」重視にすり替え、「読まない説明文教育」から一歩も抜け出させなかったこの分野の教材は、かなりの教材が残り、「テーマ」として「流行」を追うことが目につくものの、大きな変化はないように見える。

 しかしながら、この分野での言語技術教育の影響はもともと大きく、「主体的に読む」ことができないほどの貧しい「論理性」に狭められてきた説明文教材は、あまり変化がないからといって、その実践が「論理的な読解力」を伸ばしていくことのできる実践の保障とはならない。


文学教育

 文学教材もあまり変化がなく、これまでの教材がかなり残っている。しかし、「詳細の読みに偏る文学の指導」攻撃で、文学を文学として読むことで、ことばを「形象として読む」こと、「形象としてのことばの力」を伸ばしていくことをめざす文学教育実践がまったく保障されてはいない。むしろ、文学教材を使っての言語処理能力訓練に堕すること、つまり「読むこと」として、説明文教育と文学教育ともに形骸化されることについて、さらに注意深く見ていかなければならないだろう。

 また、「伝統と文化の重視」としていくつか配列されている「古典教材」や「暗唱教材」などは、文学教育としての位置をもたないものであることを批判していくことが必要である。


作文教育

 作文教材は、前回の学習指導要領による教科書で、「自分を表現する」ことの意味を否定され、書き方訓練のための教材しか残っていないのが現状である。新教科書では、若干教材数は増えているが、これまでの教科書教材の「活動のために」「書くこと」から、「情報の言語処理能力」訓練のために「書くこと」への変化がはっきりと見て取れる。

*この詳細については、日本散文の会機関誌「作文と教育」2010年9月号の拙稿「新教科書『書くこと』教材はどう変わったのか」を参照。

 このように、以前の教科書からの変化はそれほど大きくはなく、私たちのめざす実践がまだまだ進めていくことができるように思えるのだが、ほんとうにそうなのかは、もっと深く分析していく必要があると思われる。

 今回の改訂で、教科書は、@「愛国心教材」の重点的な配置、A「活用型」教材として、言語処理能力の訓練のための教材への偏りが、ふたつの大きな視点としてあげられていた。現実には、それは、きわめて慎重に具体化されている。しかし、問題はこの国語科の変化とともに、教育全体が「大転換」をしていく動きが進められていることとあわせて見ていくこと、考えていくことが必要ではないか。

 そのひとつが、前回の学習指導要領の「徹底」が、「授業改善」などという名目で、それぞれの分野で個別に、そして強力に進められてきたことに現れている、教育内容への統制、教育方法までもの管理である。

 とりわけ、「詳細な読みに偏る文学の授業」批判としての文学教育攻撃、「生活を書くことでは書く力はのびない」とする、生活綴方・作文教育攻撃であり、それは「読まない説明文教育」「読まない文学教育」、そして「書かない作文教育」への道を辿ることとなった。

 一方、「教育特区」や「小中一貫」「中高一貫」などとして、学校体制の基本が崩されていくことが、じつは教育内容を大きく歪め、偏ったものにしていくこととなったことに現れている問題をもう一度とらえなおさねばならないなどの課題整理であろう。

 例えば、「小学校での英語教育の強化」は、大手企業の「『社内公用語』を英語にする」ことの急増などの、経済活動優先の、もっと端的に言えば、「安上がりの社員研修」にしていくための教育の経済活動への従属という観点での教育体制・教育内容・教育方法の変質としてとらえなおしていくこと、高校での「キャリア教育」という名の下に、やはり「社員研修」まがいのものが持ち込まれてきていることなど、さまざまな視点からその本質を見直していくことも必要となってきている。

 この「活用型」学力といわれる、情報の言語処理能力の訓練・スキルに偏る内容は、わたしたちが繰り返し指摘してきたように、「全国一斉学力テスト」国語問題で具体化され、それがあたかも「国語の学力」であるかのように示されてきたものである。それが新教科書の教材としてどれだけ配列されるかが問題であったのだが、教材化だけでなく、その過去問題・類似問題が授業の中にどれだけ取り込まれるのかも、危惧される。そしてそれがインターネットで教育産業が作成した問題が大量にばらまかれ、現場がそれを利用するということが地域によっては進んできている。このようなかたちでの国語科指導の変質も問題となる。

 また、こうした動きや企み、具体的な状況は、地域や学校などで個別に違った形態・内容で出てきていることにも注意が必要ではある。そして、それは、「3%のエリートの養成と、97%の活用型人材の育成」という「教育要求」に集約されるものであることが、その本質となる。

 今回の小学校新教科書の変化を、このような視点でとらえて、それに対してどのように実践を進めていくことが大切なのかを考えていくことが、いま、求められている。

 それを国語教育の分野でみていくと、次のようになるのではないか。



言語教育

 言語についての教育、言語の学習として、「表記」「語い」「文法(品詞・構文)」の領域の体系的・系統的な学習のために、自主編成によるとりたて指導を進めていくことがどうしても必要ではないか。そのための理論的実践的な提起として、児言研の「たのしい文法の授業」(小学校低学年編・中学年編・高学年編)が刊行され、京都でも京都国語教育実践研究所で、それぞれの領域の実践プリントが提起されている。 これらを実践的に検証し、さらにその内容を豊かなものにしていくことか必要ではないか。


説明文教育

 活動や言語処理能力の訓練のために読むということから脱却し、「論理的に読む」ことをどれだけ追究していくかが、実践的に問われている。そこでは、@内容を論理的に読みとることとともに、A子どもたちの主体的な読みをどう引き出していくか、が考えられていくこと、B論理的な文章を読む力をつけていくための実践的な視点をもっていくことが、統一されて実践されていくことが大切ではないか。


文学教育

 文学を文学として読むことこそ、ことばを形象としての読むこと、主体的な文学体験をめざし、「形象としてのことばの力」をつけていくこと、ことばによって創造された世界を想像力によって再構築し、自分の世界を広げていくことであることをおさえ、豊かに読んでいくことをめざす文学の授業にとりくんでいくことが大切ではないか。


作文教育

 まったく姿を消した、子どもたちの主体的な生活・体験・感動・主張にもとづいて書くことを、書くとの中心におくことを意識し、文章表記指導だけをめざす指導に陥ることに注意しつつ、指導の視点を変えていく努力をすること、さらに、子どもたちが「自分を表現する」ことを大切にすることのできる実践として、「児童詩の教育」「日記指導」などの実践に、国語教育の枠を超えてとりくんでいくこと、そしてそれを「文集づくり」実践の多様なかたちとして、「一枚文集」「学級文集」だけでなく、「学年文集」「学校文集」「地域文集」などとしても広げていく努力が必要なのではないか。

 今回の小学校新教科書は、その内容にだけ視点を置いて分析・検討していくのではなく、さらに広い視点からの検討・批判が必要であるものとなっている。  今後、さまざまな分析・検討・批判が展開されていくことを期待したい。

 
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