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京都教育センター          2010.3.12

     
教科教育研究会・国語部会通信

         編集・発行 教科教育研究会国語部会(会員用:部内資料)       

              第 41 号


2009年度国語部会活動総括、そして来年度の展望は

国語部会が提起し続けてきたことは何か

 国語教育の危機が叫ばれはじめて、久しい。そして、その深刻さは、ますます厳しいものとなってきている。その状況をしっかりととらえ、国語教育の理論と実践をたしかなものにしていくことをめざして、国語部会の活動を進めてきた。しかしながら、その活動は、「国語部会通信」の発行と、京都教育センター研究集会での国語分科会の担当を中心としたものであり、その広がりと深まりについては充分なものとは言えなかった。

 だが、提起してきたものは、今、国語教育が直面していることを的確にとらえたものであったと考えている。その「提起」を再掲することで、活動総括としたい。

 通信36号(4/25発行)では、09年度の全国一斉学力テストについて、これまでの検討をふまえて、次のように指摘した。


@ 「知識」と提示されたものは、まったく貧しいものであることの再確認

 07テストは、「漢字」、「文法」として「接続語」と「指示語」、「文構成」が示されたが、これは学習指導要領・国語科の「言語事項」に示されたものに限定されている。したがって、問題となるのは、それ以外の「表記・文字」「文法(品詞・構文)」「語い」の問題がないことである。つまり、学習指導要領・国語科の「言語教育」の極めて貧しい内容は何も問題にされずに、その「結果」がよしとされたことを問題にしなければならないのである。

 08テストは、それが「漢字」のみとなり、07テストでの指摘が重要なものであったことを立証したものとなった。さらに09テストは、「漢字」以外に「ローマ字」が入ったが、極めて簡単な問題である。それは、07テストでの指摘を覆すものではない。


A 国語教育の「基礎・基本」が、「言語処理能力」に矮小化されていく

 @で指摘したことは、そのまま国語教育における「基礎・基本」の崩壊につながる。国語教育の基礎・基本となるのは、言語の体系や系統、法則について学び、それを「ことばの力」の土台としていくことしかない。それが、「葉書の表書き」や「報告文の構成」「メモの取り方」などという、「技能・技術」としても瑣末な「言語処理」に矮小化されては、『基礎・基本の崩壊』と指摘せざるを得ない。07年テストで懸念をもち、08年テストで明らかになったものは、09年テストでさらにはっきりしたものとなったと言っていい。


B「活用」とは、場面設定を卑近な生活次元に下ろし、その言語処理に狭めたもの

 この傾向について、一部は「実用化」という評価をしたが、これらが本当に「実用」としての内容なり方法をおさえていると言えるだろうか。どこかに会議で、「プレゼンテーションができない」「報告・連絡・相談などの力が不足」などという、国語教育がまるで経済活動を進める機械の歯車としての人材や能力をつけるためのものであるかのように考えての、それらの具体化をしたとしか考えられないものになっていることは、この三回のテスト問題内容が示しているが、その視点からみれば、それへの批判はもっとも重要であると考えられる。


C国語教育の解体は確実に進んでいることに危機感をもつべきではないか

 それは、当然、これまで私たちが積み上げてきた「言語の学習」「説明文教育」「文学教育」「作文教育」という国語教育の構造と内容をおさえての、子どもたちに「ことばの力」をつけ、人間的成長=人格形成をめざす国語教育の否定であるととらえるべきではないか。


D「PISA型学力」としても破綻したもの

 08年テストでは、国語問題の内容と構成が、改訂学習指導要領・国語科で示されたものと相まって、その「絶対化」と「偏重」が示されたが、09テストでは、それすらが形骸化・形式化し、PISA調査が明らかにした日本の子どもたちの「主体的に理解」することと「主体的に表現」することをまったくスポイルし、その形式だけを無理矢理問題形式にあてはめようとしたものであることが明白となった。これには、さすがに「形式化が過ぎ、これで国語の学力が測れるのか」という批判が、識者と言われる人達からも出始めている。

 これは、さらにこの全国一斉学力テストの「調査結果」が公表され、さらに次のような状況が明らかになってきたことで、それがより具体化してきたことが示されたことを、通信37号で指摘した。

 その「結果」をもって、「点数を上げろ!」という「脅迫」はさらに強まってきている。

 その低正答率の内容を見ると、B問題でそうであるように、まさに「言語処理能力」の瑣末な技術的技能的な問題である。その「点数」をあげるとなると、その瑣末な技術的技能的な訓練をしていくことしかない。本来は、国語教育の内容と構造をしっかりとおさえた実践を進めていくことで、それを応用し、活用していく力をつけていくのであるが、あまりにも瑣末で断片的な技術的技能的な問題は、それでは遠回りになりすぎるということになってしまうだろう。

 これは、「学力」が意図的に歪められてとらえられ、矮小化されていくことが、本質をおさえ学力をつけていく教育実践を、子どもからも教師からも遠ざけてしまうこととなってしまうという状況を生み出してしまうと言えるのである。

 さらにこのことを強く感じさせるのは、「点数をあげろ!」と「脅迫」されている地域では、いわゆる「過去問」といわれる、この「全国一斉学力テスト」の問題の類似問題が、インターネットを通じて簡単に入手できるようになっていること、その問題数が膨大なものであり、それをかなり多くの学校で使うとりくみがされていることすら、研究会で報告されている。

 そうであれば、それは「国語」学習つまり国語の授業時間にとりくまれるのであろうから、国語教育は、かなり技術的技能的問題の訓練に費やされるのだろう。つまり、国語教育は、すでにその「解体」ともいうべき状況はすでに進んでいると思える。

 こうした状況は、全国的に広がっていくことが予想される。それは、学習指導要領・国語科の改訂によって具体化されていることを見ることが出来るが、それにくわえて、今回の「全国一斉学力テスト」の「調査結果」の公表の文書に、とりわけ正答率の低かった問題、無答率の高かった問題の「分析」の末尾に、「授業のアイデア例」が添付され、具体的な指導法や内容が記されているページがあることからも、より具体的なとりくみが進められていくことが分かる。

〜具体的な「授業アイデア例」については、37号・38号参照〜

 また、それがもつ意味を、通信38号で、次のように指摘している。

 このように見てくると、これは改訂学習指導要領国語科の「言語活動」を具体的な「活動場面」として提示されたものを想起する。改訂指導要領・国語科(小学校)では、指導のための場面や活動として、出されているものを羅列すると、

説明・報告・応答・話し合い・紹介・観察・記録・手紙・メモ・音読・抜き書き・発表・感想・演技・司会・提案・調査・物語作り・・詩・学級新聞・依頼状・案内状・礼状・引用・要約・図鑑辞典利用・助言・討論・推薦・短歌・俳句・随筆・編集・朗読・比べ読み・記事

  などである。つまり、改訂学習指導要領・国語科で示された内容が、より具体的に「全国一斉学力テスト」で示され、それがさらに「アイデア例」で提示されたということになる。さらに、A問題の「アイデア例」は、その言語活動をすることそのものが提示されているようだが、B問題のそれは、明らかに改訂学習指導要領・国語科で提示された、「次のような言語活動を通して」と「内容」の中に提示された個々の「活動」を意識してのものとなっていることは、これまでの「活動主義」から一歩進めて、国語科指導の内容そのものを規定・規制するものになるであろうことを見落としてはならないと思われる。つまり、私たちが考えてきた、「言語の学習」を国語教育の基礎・基本とすることが、「活動にとりくむ」ことに変えられ、さらに「言語教育・説明文教育」「文学教育」「作文教育」として国語教育の構造と内容をおさえてきたものが、「活動における言語処理能力」に矮小化されていくことがここに示されたのではないか、ととらえることが必要となってくるのではないか。国語部会では、国語教育の危機の状況がこのようなものであることを提起し続けてきた。それは、今後、さらに具体的に進められていく状況にある。改訂学習指導要領のさまざまな試行や移行、さらには伝達講習やおしつけ研修が進められ、具体的な教材が示される国語教科書の編集・検討・採択が進み、わたしたちが提起してきたさまざまな問題点がより具体的に姿を現し、それが現場段階で強く出てくると考えられる。さらには、「全国一斉学力テスト」が3割抽出になることで、その影響が弱まるのではないか、と思われたのだが、実際には、「希望」で100%実施となるところが、秋田・石川・和歌山・山口・高知・福岡・佐賀・長崎・大分・宮崎・鹿児島の11県にのぼり、参加率が90%を越す地域が21府県となり、50%を下回る都府県はわずか5県しかなく、その「影響」はやはり深刻であり、それはこれからの国語教育に大きな問題であることがはっきりした。しかしながら、現場でさまざまな問題点が顕現化するのは、その地域・学校での状況に合わせて、多様なかたちが見られることが多い。国語部会として、それらを個々の問題として見過ごすことなく、国語教育がどのように変質させられようとしているのかを確かにとらえるために、さまざまに集約し、検討し、論議し、提起していくことをめざしていきたい。


京都の国語教育・三分野説にもとづく国語教育実践を

    わたしたちは、このような状況を打ち破り、たしかな国語教育実践をめざしていくためには、これまでの教研活動・自主的教育研究活動のなかで積み上げられ、たしかめられてきた、国語教育・三分野説にもとづく国語教育実践であると考えている。今年度の京都教育センター研究集会での国語分科会でも、国語教育をめぐる問題をふかめることとともに、国語教育三分野の「言語教育」「文学教育」「作文教育」についての実践的な討議を進めていくことをめざし、「文学教育」についての報告と論議をとりくんだ。(詳細については、センター年報参照) 来年度の国語部会の活動は、さらに実践的な討議を深めていくことが大きな課題であると考えられる。

 しかしながら、「京都の国語教育・三分野説」は、その成果が充分にふまえられているとは言い難い状況にある。もちろん、これまでの「成果」「積み上げ」が絶対視されることが必要なのではなく、現在の状況の中で、そこでの課題をふまえることや新しい視点からの理論構築が大切であるということは言うまでもないのだか、それは、これまでの成果と積み上げをしっかりと共通理解し、ふまえていくことが大切なのである。

 現場でのたしかな実践が否定され、攻撃される中で、これまでの成果や積み上げを活かしていくことができず、教師としての誇りとよろこびを感じることができないことや、実践の楽しさが見つけられないことが広がり、子どもたちとともに教師達も疲労感はピークに達しているというのが事実ではないだろうか。

 それに対して、「京都の国語教育・三分野説」があきらかにしている『人格形成をめざす国語教育=「ことばの力」をのばすことで子どもたちの人間的な成長・発達をめざす国語教育』の実践を、国語教育の内容と構造をたしかにとらえていくことで、誰もが自信をもってとりくめる国語教育実践をどう進めていくかを、理論的にも実践的にも論議を深め、提起していくことが国語部会としての課題であることをおさえたい。

 さらに、京都教育センター教科教育研究会・国語部会が、これからどのように活動していくか、どのようにその活動をすすめていくことが、現場の教師達の力となり、たしかで豊かな国語教育実践を広げ、国語教育の「空洞化」、「崩壊」を食い止めていくことになるのか、さまざまに論議をしていきたいと考える。国語部会の活動に参加している多くの方々からも、ぜひ意見や提案、要求を出していただきたいと考えている。


 
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