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国語教育の学力を考える(4) 「学力テスト」国語問題に見る、国語教育の構造の解体 〜 これでいいのか、国語教育 〜 京都教育センター・教科研究会国語部会 浅 尾 紘 也 | ||
前号では、国語教育としての「基礎・基本」が崩壊してきている状況を分析してきた。しかしながら、国語教育にとっての本質的問題は、それにとどまらない。 A問題とB問題の変化、つまりテスト全体の「活用」問題化は、これまでの国語教育の変質を考えていくと、本質的な問題をもつことが考えられる。 もともと指導要領・国語科は、そのスタートから言語の働きを「内言」としての働き=言語による認識・思考等の重視を捨象し、「外言」としての働き=「伝達」機能に偏っての内容となり、そしてそれは必然的に、国語科指導が技能主義技術主義の指導に偏ることとなった。それは、前回の指導要領改訂で、あの「総合的な学習の時間」の下請けのような「活動」主体の指導となり、「言語技術教育」として、「活動」の技能・技術ばかりが問題にされる状況が強まった。そこでは、「人形劇」「ぺーブサート」「紙芝居」「発表会」「ディベート」「新聞作り」「説明書作り」「白書作り」「カセットブック作り」・・・等々、多くの活動が時間をさいて進められることとなった。 そして、今回の改訂学習指導要領・国語科では、「言語活動の場面」がこまごまと指定され、「説明」「案内」「紹介」「報告」「記録」「メモ」「司会」「引用」「助言」「推薦」・・・等々が低学年から数多く提示されることとなっている。これらの「言語活動」が、「活用」問題として具体化されているのが、この「学力テスト」の国語問題だと言える。 具体的には、 国語A 2 ポスター 5 スピーチ 6 発表 7 報告・メモ 8 紹介 国語B 1 インタビュー 2 紹介・メモ3 新聞・メモ・話し合い・案内状 4 メモ というように、問題が活動場面として設定されて出題されている。これは、改訂学習指導要領・国語科で提示されたものを具体的に示す意図が強く現れているといえる。そこでは、論理的な文章としての論理性や文学的な文章としての形象性はなく、個別の情報処理や操作などに限定されることとなり、一般化としては極めて狭くなることとなる。 もうひとつ、今回のテストで顕著に現れているのが、解答に際しての条件指定であろう。 国語A 7 書き方を提示したものに合わせる 国語B 1 一 四十字以内で書く 二 四十字以内で書く 2 一 文中の言葉を使って書く 二 本文中の言葉を使い、「〜こと」で終わるように書く 三 二つの言葉を入れ、四十字以上、八十字以内で書く 3 二 八十字以上、百字以内で書く これらの条件をつけることで、その解答は技能的技術的なことが優先されてしまうこととなる。とくに、「○○字以内」という制限は、問題を見る限り、必然的なものとは思えない。それをあえてするのは、技能偏重であることの現れだろう。 さらに、これらの問題に対応していくには、その技能・技術を訓練することに重点をおかねばならないことになる。本来の国語教育は、「ことばの力」をのばす言語教育・説明文教育・文学教育・作文教育の実践を通して、それをつけていくことで、さまざまな場面や目的に応じての応用力対応力が問われていくのだが、本質的な「ことばの力」をのばすことをおろそかにして技能・技術ばかりを訓練していくことでは、本当の「国語の学力」はつかない。 さらに論を進めると、「PISA調査」の結果が明らかにしたことは、「読解リテラシー」において、問題を主体的に「熟考・評価」することと、それをもとに主体的に考えて「自由記述」することに課題があるというものであった。それは端的に言うと、『主体的に読む』ことと『主体的に表現する』ことであると言える。これを考えると、「読解力」として問題にすべきは、問題をどう主体的にとらえるかということである。問題を受身的に読み、それを操作する技能・技術に偏って問うことでは、課題に正しく対しているとは言えない。 これまで述べてきた「基礎・基本」の崩壊、「活用」の名の下での設問の歪みにみられるように、これまでの国語学習とはかなり違った問題に対した子どもたちにとって、このテストは難しいものであったようである。それは、「無答率」で端的に表れている。 前回の○七学力テストでは、B問題で、10%を超える無答率の問題(10.3%〜17.4%)が四問あったが、今回の○八学力テストでは、A問題にもそれが七問、B問題では八問と、大幅に増えている。 それは、現場の声と合わせて考えると、時間に収まらない問題量であったことと、問題の意味がなかなか読みとれないものや、どのように答えればいいのかが解らなかったものが多くあったことによるものが主要な原因であったのだろう。 抽出された人数でのものならいざ知らず、全国すべての子どもたちを対象にしてのものだから、このような状況を生み出すものであった「学力テスト」の妥当性は問題となる。当然、その「結果」も、子どもたちの「国語の学力」を把握するには多くの問題を持つことを考えねばならない。 それを、「なんというざまだ」等と言い、その責任があたかも現場教師や教育関係者にあるかのように言う問題の本質を見ない(見ようとしない)動きや、なにがなんでも「学力を上げる」(「点数」をあげる)という権力的アジテーションは、これまで指摘してきた国語教育の崩壊への流れをより加速していくものとなることとして、わたしたちはしっかりと対していかねばならないのではないか。 この「学力テスト」の活用問題は、明らかに「PISA型国語力」を絶対化して、国語科指導を進めていくことを意図している。この「PISA型」なるものの欺瞞性を的確に指摘していくことが必要である。現在の「結果」公開をめぐっての論議の中では、その「結果」の妥当性は問題とならないだけでなく、それが絶対視されている。 そして、「点数」をあげるには、「活用」の技能・技術を訓練していくこと以外に方法はないということになるだろう。これが、国語教育の解体であり、崩壊の道である。 その国語教育が解体させられていく状況に対して、わたしたちは国語教育の内容と構造をどう考え、どう実践していくかをさらに深く論議し、提起していくことが大切ではないだろうか。 |
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国語教育の危機について、京都教育センター研究集会・国語分科会で深い論議を 京都教育センター教育研究会・国語部会事務局 |
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これまで、「国語部会通信」29.30.31.32号で、「国語教育の学力を考える」として、いくつかのことを提起してきました。これらは、国語部会事務局としても十分に集団論議ができなかったため、個人名での提起をしています。 さらに、この通信の4ページに案内していますように、1月25日には、京都教育センター研究集会の国語分科会がもたれ、さらにいくつかの視点からの提起があります。 ここでは、国語教育の問題について、府下各地やさまざまな学校現場の現状もおさえながら、深く集団討議をし、わたしたちの国語教育の実践課題を考えていくことをめざしています。 ぜひ、多くの方々の参加と、現場の状況をおさえた論議で、国語分科会を充実したものにしていただきたいと思います。 職場・地域・サークルの仲間たちにも声をかけ、ぜひ参加して下さい。
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