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京都教育センター          2008.9.30

     
教科教育研究会・国語部会通信

         編集・発行 教科教育研究会国語部会(会員用:部内資料)       

              第 30 号


国語教育の学力を考える(2)
問題にすべきは、学力の「内容」
 〜 「内容」を抜きにした「学力」論議の危険性をもっと問題にすべきではないか 〜

       京都教育センター・教科研究会国語部会 浅 尾 紘 也


  あの「PISAショック」から続く「学力論議」の展開は、「全国一斉学力テスト」による能力主義的教育体制・学校体制への強い傾斜とともに、その「学力」を極めて狭い「人材養成」という視点からの技能・技術・処理操作に偏重したものに押し込めようとする流れになっている。そしてそれは、明確に意図的な動きである。

 私たちにとって、「学力」についての論議の基本は、その「内容」についての検討である。そこから何をどのようにしていくのか、そのために何が必要なのか、何を変え、何にとりくんでいくことが大切なのかが討議され、とりくまれ、実践されていくことをめざさなければならない。

 しかしながら、「管理」と「競争」を意図した「全国一斉学力テスト」の実施、そして改訂学習指導要領、それと機を一つにしたさまざまな動きは、その基本を意識的に避けながら進められている。残念ながら、私たちの「学力論議」も、これまで十分にとりくまれてきたとは到底言えないが、この大きな流れの中で、それを避けずに真摯にやっていく必要があるのではないだろうか。

 言葉は魔術を持っている。「全国一斉学力テスト」という名称つけば、それは「全国」的にとりくまれ、「一斉」に「学力」を正しく測定するもので、それにはペーパー「テスト」という適切な形態がとられているのだ、と勘違いさせる力を持ってしまう。

 確かに、「全国一斉」に実施することが強制されたものではある。しかし、そのことによって、「学力」が的確に測定できるものであるのかは、その「内容」によるものであり、なんら保障されたものではない。だとすると、その「内容」が「学力テスト」として適切なものであるかどうか、厳しく分析・検討されねばならない。しかし、それは、ほとんどされずに、それが「全国一斉」に「学力」を測定できる「テスト」であり、その「結果」は絶対的に正しいものであるるかのように、独り歩きし始める。

 今、問題となっているテスト結果(点数)の「公表」問題が、その最たるものではないか。いずれそれを問題にしたり、意図する動きがあるのだろうと予想されていたものの、どのようなかたちでそれが出てくるのだろうかと見ていたのだが、「権力」をもつ者が声高に主張するという、いわば最悪の状況となったと言える。個人的な考えで過激にものを言い、それに対する者がまるで「悪」のように主張するという、いわば全体主義的手法での動きは、よけい本質を見えにくくする。

 その流れの中で、まだ一つの自治体だけではあるが、「宣戦布告」がされたのは興味深いことではある。そしてそれが、「教育で点数だけに焦点を合わせる馬鹿なことはできない。」「教育の本質の論議が失われている。アホな大騒ぎにつきあってはいられない。点数だけで評価できないのは自明の理。学校が塾になりかねない。」という「持論」(朝日新聞より)によってされたのは、本質的な論議のためには、正しい観点を示したものだと言えるからである。

 この提起には、いくつかの視点があると考えねばならないと思われる。

 まず、「学校が塾になりかねない」という指摘は、この「全国一斉学力テスト」の強制実施から出てきた最も大きな動きである、「進学塾」という教育産業の「繁栄」を鋭く突いている。

 すでに、あの「夜スペ」のように、「学校」と「塾(教育産業)」の結びつき、共同、癒着は、確実に進められている。もともと「全国一斉学力テスト」そのものが、大手の教育産業に依存してのものであったのだが、それ以後の両者の結びつき、共同、癒着の大きな基盤となった。そして、「夜スペ」も結局は「受験」を目標としたものであることが明らかになっている。

 ここには、学力の「内容」についての検討はない。

 さらに、「点数だけで評価できないのは自明の理。」という視点は、学校教育にとって、本質的なものである。

 これは、教育の「結果」は、「点数で測れる」ものと「点数では測れない」ものがあり、それをどう考えていくかが大きな問題となる。そして、「テスト」という形式でそれを測定しようとするのなら、「測れるもの」での問題に「測れないもの」を繋げていく視点をどう貫いていくか、ということが問題となるのである。それなしには、その「結果」は、ほとんど価値のないものになる。

 あの「全国一斉学力テスト」は、教科学習としての「国語」と「算数・数学」に限定されている。それに即して言えば、その問題に「教科としての論理」が貫かれ、この教科構造を正しくおさえて、「測定できる」部分の問題が、「測定できない」ものへと繋がっていくことが考えられるものとなり、のそれが子どもたち「力」として考えられるかどうか、それを論じなければ、「結果」の正当性も、ましてや「公表」の必然性も、それに対しての教育行政としての「施策」も論じられないのである。  だからこそ、「全国一斉学力テスト」の問題内容の分析・検討が必要なのである。ここでは、「国語問題」にしぼって検討したい。

 では、あの「全国一斉学力テスト」の「国語問題」は、教科の論理をおさえた、国語教育の構造と内容をたしかにふまえた、子どもたちの「ことばの力」を測ることのできるものであったのだろうか。

 これについては、この「国語部会通信」でも提起してきたように、それを否定しなければならないものである。つまり、   

@ 国語教育としての構造と内容をたしかにおさえたものではなく、それに対しての見識をもっておらず、強く偏ったものである。   
A 本質的な「ことばの力」につながる問題設定とは到底考えられず、表面的な技能・技術、言 語処理能力ばかりが強調されたものとなっている。   
B したがって、国語教育での「ことばの力」を見すえた学習のつみあげによる「結果」、その力を測定するものとはなっていない。

と言える。

 これでは、この「全国一斉学力テスト」を実施したことの意味はもちろん、その「結果」が「測定できる」ものを正当に測定したものとも言えない。

 先日辞任した欠陥閣僚が、この「全国一斉学力テスト」実施時の文科相であったが、このテストの実施理由が「日教組の強いところは学力が低い」ということの「証明」のためにしたと発言したが、たしかにその程度の「理由」で実施されたものであることを、問わず語りに「証言」したことに納得してしまう。

 だとすると、その程度のテストの「結果」の「公表」にこだわる馬鹿馬鹿しさに、それを強く主張する方は、何と答えるのだろうか。そして、雪崩をうったように「公表」の意向を示した自治体の首長はこれをどう聞いたのだろうか。

 さらに問題なのは、この「全国一斉学力テスト」の「問題」として示されたものが、改訂学習指導要領・国語科の「内容」として、全体を通して提示されていることである。つまり、この「内容」は、ただ国語教育とはほど遠いお粗末なものであるだけでなく、それがこれからの国語科指導の内容とされるということも明白になってきているととらえねばならないのである。

 教科教育研究会・国語部会では、国語教育の構造を、言語教育(説明文教育をふくむ)・文学教育・作文教育としておさえ、そこでの「ことばの力」をおさえて国語教育実践を進めていくことを提起している。つまり、「論理としてのことばの力」「形象としてのことばの力」「生活としてのことばの力」が子どもたちにどのようにつき、どう伸びているのか、それが子どもたちの人間的な成長・発達をどう進めているのかを「測定」することでなく、言語技能や処理だけに偏っての設問は、国語教育としてのテストとして意味を持たないと考えている。

 この「全国一斉学力テスト」の「問題内容」について、もっと多くの分析・検討がなされ、「学力テスト」の妥当性が批判されねば、意図的に内容を問題にせず、権力的に教育の変質をねらう動きは止められないのではないか。

 大きな問題は、やはり「学力論議」の多くは、その「内容」をほとんど問題にせずにおこされ、その動きが大きくなり、結果として、意図された結論に導かれていくことである。  これに対して、私たちは、「内容」を問題にし、それを通して教育とはなにか、教育実践とはなにか、そして、子どもたちをどう育てていくことが大切なのかを提起していくことではないだろうか。

 教科教育としての国語教育では、子どもたちの「ことばの力」を伸ばし、人間的な成長・発達を支える国語教育の構造と内容をどう考え、どのような国語教育実践を進めていくのか、それを私たちの教育研究活動として進めていくことを、これからもめざしたい。

 
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