トップ 教科教育
京都教育センター          2008.9.13

     
教科教育研究会・国語部会通信

         編集・発行 教科教育研究会国語部会(会員用:部内資料)       

              第 29 号


国語教育の学力を考える(1)
読解リテラシー」、「PISA型読解力」そして「PISA型国語力」・「PISA型学力
 〜〜 私たちがめざす国語教育は 〜〜

       京都教育センター・教科研究会国語部会 浅 尾 紘 也


 私たちは、改訂指導要領・国語科が「全国一斉学力テスト」と連動して、「PISA型国語力」を絶対化し、国語科の技能主義技術主義を「活用型」「実用型」の名のもとに、言語操作の技能に集約させていく方向性を強く持ったものであることを指摘し、さらにそれが、「愛国心注入教科」として愛国心教育を進める内容を持ち込むことと繋がっているという、まさに国語教育の崩壊を進めるものであることを、これまでの「国語部通信」で明らかにしてきた。

 それは、今年の夏、京都で開催された「教育の集い2008」=全国教研の国語教育分科会でも論議となった。しかし、有り体に言えば、私たちにとっての「国語の学力」についての論議は、十分なものではなく、それが共通認識・共通理解されてのものとは、残念ながらなってはいない。今、私たちには、「国語の学力」とは何かということをさらに論議し、それをおしよせている状況を打ち破る視点として、国語教育の理論と実践を考えていくことが課題となっている。この「国語部通信」でも、その論議がより深まり、共通認識と共通理解が深まり、状況を打ち破るエネルギーとなっていくことをめざして、今後もさまざまな「提起」をしていきたい。

  まず、テーマとなると考えねばならないことは、表題とした「読解リテラシー」「PISA型読解力」、そして「PISA型国語力」「PISA型学力」等のそれぞれの語が、どのような経過と内容をもって使われているのか、使っているのかの整理と、それを通して「国語の学力」を考えていくことではないだろうか。それは、単なることば・表記を統一していくためではなく、国語教育としての方向性をもつ語が曖昧に使われ、整理されずに使われることで、論議が噛み合わなかったり、私たちがめざすべき方向性がまとまらなかったりすることを危惧するからである。私たちがおさえていくべき経過と内容、方向性とは何か、論議を深めたい。


「読解リテラシー」の提起したもの  

 言うまでもなく、この「読解リテラシー」は、0ECDのPISA調査がその内容としたもののひとつである。この「読解リテラシー」の「結果」が、大きな問題を提起した。簡単に言うと、この「読解リテラシー」は、「情報の取り出し」「解釈」「熟考・評価」の項目で測られる。そして、2000年、2003年のその「結果」で、とりわけ「解釈」「熟考・評価」の項目、そして形式においては「自由記述」での日本の子どもたちの低正答率・無回答率が問題となっていく。

 それを文科省は、「テキストの表現の仕方に着目する問題」(ex贈り物問3「解釈」「自由記述」正答率42.7%無回答29.6%)「テキストを評価しながら読むことを必要とする問題」(exインフルエンザ問2「熟考・評価」44.1%「自由記述」41.9%)「テキストに基づいて自分の考えや理由を述べる問題」(exプラン・インターナショナル問2「熟考・評価」10.9%「自由記述」39.8%)「テキストから読み取ったことを再構成する問題」(exアマンダと公爵夫人問3「解釈」63.9%「求答」17.3%)「科学的な文章を読んだり図やグラフをみて答える問題」(ex新ルール問2「解釈」24.4%「自由記述」47.7%)等に弱さが顕著であるとと「総括」した。

 しかし問題は、この「弱さ」を本質的にどうとらえるか、それが何によっているのかを考えることである。文科省は、あくまでも「このような問題形式に慣れていないこと」に課題を押し込め、それにどう対応していくかという観点からの対応策から一歩も出ることはなく、それ以後の「取り繕い」をしていること、さらには改訂学習指導要領・国語科の内容までもそれを全面的に取り入れたものとした。

 私たちは、この「読解リテラシー」という提起について、それが一定、論理的な文章や科学的な資料について、「主体的な読む」こと、それについて「主体的に表現する」ことについての視点を持っていることについては、これまでの学習指導要領・国語科での、受身的受動的で、書かれたことをそのまま読み取ることのみが問題とされる姿勢との違いとして、「読解力」として本質的なものをおさえたものとして考えている。

 ただ、この「読解リテラシー」が、0ECDという経済機構の「経済活動を進める人材としての力」を評価しようとしていること、その視点からの問題設定であり、私たちが考える「論理としてのことばの力」としての読解力のすべてをおさえたものとして考えているのではない。だからこそ、この「読解リテラシー」の問題に対応することだけに腐心することが二重の誤りを犯すものとなること、「ことばの力」として、「論理としてのことばの力」だけでなく、文学教育での「形象としてのことばの力」、作文教育での「生活としてのことばの力」とともに、子どもたちの人間的な成長をめざすことばの力を、国語教育を豊かに進めていくことでつけ、伸ばしていくことをめざしたいと考えている。


「読解リテラシー」から「PISA型読解力」への変質

 このような中で、「読解リテラシー」が、その視点を意図的に歪められ、文科省のいう「PISA型」というなんとも得体の知れないものになり、その果てに、「PISA型読解力」という、「読解リテラシー」とは本質的に違うものに変質させられ、さらに改訂学習指導要領・国語科がでは「PISA型国語力」あるいは「PISA型学力」ともいうべき、極めて技能的技と技術的、言語操作的なものになっていった経過とその内容は、厳しく問題にしなければならない。

 明らかに「PISA型」とは、その形態に重きをおいたものである。文科省がこの語を使い始めたのは、「読解リテラシー」が「主体的に読む」ことと「主体的に表現する」ことを基礎において、読み取ることを本質としたということを意図的に避けるためであった。「読解リテラシー」は、「学力」の方向性と内容を意味する概念であった。それを、意図的に避け、歪めなければならなかったのはなぜなのか、それをきちんと追求すべきである。

 もともと「学力」に「○○型」などというものはない。あるとすれば、「受験型学力」のように、その一部分を取り出したものを意味するときに使われるのである。この「PISA型」は、まさにそうした意図と経過によって作為的に作り出されてきた語であり、それを使うことによって、本質をねじまげようとする意図をもつものである。


「PISA型読解力」から「PISA型国語力」・「PISA型学力」へ

 さらに問題は、このように意図的に「PISA型読解力」という語を使う中で、それを「PISA型国語力」あるいは「PISA型学力」として、あたかも国語科指導でつけるべき「学力」であるかのように示してきたのが、「全国一斉学力テスト」と、改訂指導要領・国語科だということである。

 たしかに、現在この「PISA型国語力」あるいは「PISA型学力」という語は、文科相自身によって使われているものではない。しかし、「全国一斉学力テスト」の「活用型」問題、そして改訂学習指導要領・国語科の「言語活動」例を細かく示しての内容提示は、明らかに「PISA型」を強く意識してのものである。したがって、私たちは、その批判的視点を明らかにしていくためにも、これらの動きの基本となっているものを、「PISA型国語力」「PISA型学力」としてとらえて、それを批判していくこと、実践的に乗り越えていくことではないだろうか。

 この「PISA型国語力」「PISA型学力」があたかも「国語の学力」であるかのように示されてきたのには、いくつの背景がある。

 そのひとつは、もともと指導要領・国語科がもっていた、言語技術主義・技能主義偏重の言語観・国語観の帰結としての意味である。現行の指導要領・国語科が、「言語技術教育」としての色彩を強くしてきたが、それと「PISA型」が結びついての言語活動主義が形を現してきたというものである。これは、国語科指導がますます偏狭な技術指導の偏り、国語教育の空洞化を進め、その崩壊すら予感させるものとなっている。

 もうひとつは、もともと学校教育がすべての子ども達の人間的成長をめざしていくものではなく、「上位三割のエリートと下位七割の柔軟活用型の養成」でいいとする「二つの国民」と「二つの教育内容」を用意するという「設計図」が具現化したものであるということではないか。08「全国一斉学力テスト」の国語問題に現れた「基礎・基本」も崩壊し、すべてが「活用型」となったことは、非常に大きな問題点をもつ。さらに、その「訓練」「反復・繰り返し」ばかりが強調されることで、国語教育は完全に崩壊していくのではないか。

 さらにそれは、今回の改訂学習指導要領・国語科がもつ大きな問題点としての、「愛国心注入教科」を国語科が担うという、もうひとつの本質的な問題に直結する。

 つまり、技術・技能の訓練・反復繰り返しばかりが強められる中で、「内容」としては「言語文化」という名のもとで愛国心の刷り込みが着々と進められるという構図が見えてくる。今回の改訂学習指導要領・国語科で、「言語事項」が「伝統的な言語文化と国語の特質に関する事項」とされたのは、その意味では端的にそのことを表しているといえる。


「国語の学力」についての深い論議を

 私たちの「国語の学力」についての論議が必ずしも十分なものではなく、むしろそのような論議を進めることが国語教育実践にとっては無意味で形式的なことだとする風潮は、残念ながら強くあった。

 しかし、急激に現れてきた「国語の学力」を意識的に歪め、それをテコに国語教育の崩壊を進めていこうとする動きの中で、私たちがとりくまなければならない課題の一つとして、「学力をどうとらえるか」「国語の学力をどう考えるか」が、今出てきている。 また、それは国語教育で「ことばの力」をどうとらえ、国語教育実践としてどう進めていくのかということでもある。

 この「国語部通信」でも、その論議を進め、深めていきたい。

 今回の提起についても、多くの方からの意見・批判・提起を期待したい。

 
トップ 教科教育