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「全国一斉学力テスト」小学国語・B問題を検討する 〜「国語の学力」とは何か〜 |
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国語部通信26号(前号)で、2008年「全国一斉学力テスト」・小学校A問題について分析し、それが「国語教育の『基礎・基本』の崩壊」を意味するものであることを指摘した。そこには、もはや国語教育としてのめざすべきものを明確にした内容も構造もない。そしてそれは、子どもたちの「ことばの力」をのばすことを通して人間的な成長をめざす教育実践としての意味をもたないものが、「PISA型国語力」として姿を現したと言える。 そしてさらにこれが「受験学力」として、これからの国語科指導の指標となっていくことは、想像に難くない。 「PISA調査」で露呈した課題は何か あの「PISA調査」で、日本の子どもたちの力に弱さがあると指摘されたのは、「主体的に読解していく力」と「自分を主体的に表現していく力」の弱さではなかったのか。 しかし、それはいつの間にか、「PIAS型」の問題に対応する「技能」、つまり「PISA型設問」に模して作成された問題を繰り返してこなしていくことで対応するという「技術」の「訓練」に矮小化されていっている。 問題にしなければならない第1は、「主体的に読解していく力」の弱さだが、これは、受身的ではなく主体的に読む姿勢をもって文章を「論理的に読む力」を育てていくことがこれまで弱さを持っていたことである。 そして第2に、「自分を主体的に表現する力」の弱さとは、主体的に読むことで、自分の意見をもち、それを論理的に表現することのできる力をつけてこなかったこと、もう少し広い視野で見ると、「自分を表現する」ことを「書くこと」はじめ、表現することの中心に置いてこなかった弱さである。 いうまでもなく、これは現場の教師たちの責任ではない。「主体的に読む」ことと「主体的に表現する」ことを規制し、技能・技術だけを指導していればいいとしてきた、学習指導要領・国語科の問題、つまり文科省・教育政策の問題である。この本質的問題を見ずに、またしても表面だけを取り繕うことをしていくことは、何の役にも立たない。役に立たないどころか、問題の本質を覆い隠し、子どもたちの力をさらに弱めていく、大きな誤りを重ねていくこととなる。 この「全国一斉学力テスト」は、直前に提示された「改訂学習指導要領・国語科」の内容を具体的に提示し、それを今後進んでいく国語教科書の編集、そしてそれに基づく国語科指導の枠組みとして提示したものとなるであろうことを、前号で指摘したが、それが「国語テスト」とは到底よべず、「国語クイズ」である程度のものであることを、もっと深刻に受け止める必要があるのではないだろうか。それは、「活用」として提示されたB問題を詳細に分析することで、さらに危機感が増す。 小学校国語「B問題」を検討する 国語のA問題が「基礎・基本」ではなく、B問題と同じく技能・技術に集約される問題であるであることを指摘したが、このB問題はその延長上にあるものだが、問題様式としてはさらにいたずらに複雑で、きわめて情報処理的である。 問題の概要は、
これらの「問題」で、「読む力」を問われているのは、内容全体として[2]、部分的なことがらとして[3][4]であるが、そこには「論理」も「形象」もない。つまり、自分の「主体的な読み」を問われることなく、書かれていることがらからどのように「情報の取り出し」をするのか、それを「解釈」するのかだけが問題となっている。 これは、文章の読み、それが文学であっても説明文論説文であっても、「情報の取り出し」「解釈」「評価・熟考」を、『読みの過程』として指導していくことが進められようとしていることが出てこようとしているが、それを具体的に提示したものと言えるだろう。この[2]の問題文には、文学作品が使われているが、そこには文学作品でなければならない理由は何もない。これは、これまでもそうであったように、文学的文章と論理的文章との違い・独自性はおさえられておらず、ただ「読む」ということを機械的にその技能として考えていることを意味している。さらに[3]は、前回の「宣伝チラシ」を読ませるほどの滑稽さは少し控えたのだろうが、それでも「図書館だより」などというものを提示するという「実用」の名に隠された技能・技術だけを意識したものとなっている。そしてさらに[4]では、例のごとく「二つの文を読み比べる」という形態をとったものだが、それはひとつ一つを読むことで済むもので、内容として構成をつかむだけのものである。また[1]では、「評価」は、読み手のものでなく、「記録」からその根拠を探すだけのものである。 また、「書く」という形態を問題に取り入れたものが目立つが、字数や引用、限定された言葉などの制限が多い。あくまで、「書く」という方法を技能的に取り入れているに過ぎない。 「PISA型国語力」は「国語の学力」ではない このような「設問」の形態、答えを出すための技法、これは、テストを受けた子どもたちにとって、かなり困難で戸惑うものであったのではないか。 [2]や[4]の問題など、二つの文章を並べているものの、それを読み比べることは必要ではない。ただ、「二つの文章を並べる」という「形態」をとっただけである。それは、子どもたちにとって、混乱するだけのものであろう。 おそらく、このB問題の「結果」は、前回以上に悪いものとなるのではないか。また、「無回答」が多いのでは、とも考えられる。そして、だから訓練が必要とばかりに、「教科書」も「指導方法」でも、このような問題を教材化し、訓練していく授業が展開されていくということになるのではないだろうか。 しかし、このようなおよそ「国語テスト」とは呼べず、「国語クイズ」でしかない問題に答えを出すことが「国語の学力」ではない。このようなものを呼ぶとしたら「PISA型国語力」というのだろうが、これでは「ことばの力」はつかない。 「PISA型国語力」を乗り越える国語教育を 私達が国語教育の構造として考えてきた、言語教育・説明文教育・文学教育の三分野で国語教育の構造をとらえ、そこでの「ことばの力」を、「論理」「形象」「生活」という独自性をおさえつつ考えていくことをより実践的にとりくんでいくことが、「PISA調査」で指摘された「課題」についてとりくみ、子どもたちに力をつけ、伸ばしていくことである。 それが追求していくことは、今後の国語教育をめぐる動きや状況をしっかりと見、それに対して意見・提起をきちんとしていくことが大切となる。 国語教育にかかわるさまざまな団体・組織、そして現場がどのように力を合わせてとりくみを進めていくのかが問われている。 (京都教育センター国語部会・事務局) |
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