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京都教育センター          2008.5.3

     
教科教育研究会・国語部会通信

         編集・発行 教科教育研究会国語部会(会員用:部内資料)       

              第 26 号


今年の「全国一斉学力テスト」は、どのような意味をもつのか

〜 「PISA型国語力」は、 「国語の学力」と言えるのか 〜



08「全国一斉学力テスト」は、どのような意図をもつか

 昨年度につづき、今年度も多くの反対を押し切って「全国一斉学力テスト」は実施された。

 昨年度の「結果」は、その実施の前にすでに決まっていたとも言われるほどのものであり、その実施は、子どもたちにとっても現場教師にとっても何の意味も持たないものであったのだが、文科省にとっては十分にその意図するものを得たのではないかと思われる。そして今年度もそれが引き続き実施されたことの意味を、私達はもっとしっかりと把握し、批判していくことが必要だと考えなければならないのではないだろうか。

 それは、どのようなことなのか、それを考えていきたい。

 昨年度も、私たちは、この「全国一斉学力テスト」がもっとも批判されねばならないのは、その「内容」であることを指摘してきた。それは、強行実施の問題、生み出されるであろう競争主義体制の問題、また現場への規制と統制の強化などの問題とともに、もっとも本質的な「学力」をどうとらえるかということ、何を教育実践としてめざしていくかという、教育の根幹の問題がそこから出てくると考えるからである。

 それは、「改訂指導要領」で示された、国語教育の変質の姿と重ね合わせてみると、それがいかに大きな問題としてとらえねばならないものであるのかを認識できるのではないか。

 今回の国語問題は、あの改訂指導要領を背景として設定されていることは、言うまでもない。その改訂指導要領・国語科についての分析は、前号で三つの視点から進めたが、端的に言うと、「能力」と「態度」、つまり「PISA型国語力」と「愛国心注入教科」がその中心となる。そして、今回の「全国一斉学力テスト」は、その「PISA型国語力」をより具体的に提示した ものとなっている。

 端的に言うと、今回の国語問題は、「国語の学力」とは、「PISA型読解力」として文科省が本来 の「読解リテラシー」を意図的に曲解し、その形式・様態だけを模したものを「国語力」としてすり 替えた、いわば「PISA型国語力」を示したものとしてとらえるべきではないだろうか。


国語としての「基本」の崩壊

 このテストの問題が掲載された新聞紙上では、有識者の意見として、「国語A問題にも、B問題 が散見される」などのコメントを載せたが、それは散見されるというようなものではなく、まったく姿 を消したという方が正確である。  ここには、国語教育として、どのような学習が「基本」となるのかという見識は全くない。

 大きく[1]から[9]までの問題があるが、

[1]の「漢字の読み・書きを除いては、「基本」としての 学習内容の提示はほとんどない。
[2]は、同音異義語として、「会場」と「開場」の違いを問う問題。そして「帰る」の漢字を書く問題。
[3]文章の、「ので」という接続語が一つの文に重複して使われていることを書き直す必要のある ものとして指摘する問題。
[4]「走行する」という漢語と「走る」という和語の使われ方の範囲について問う問題。
[5]話した内容の順序を考えてカードを並べ替える問題。
[6]意見発表の原稿について、数字を強調する形に書き換えたことを読みとる問題。
[7]資料(グラフ)から分かることを、提示されているものをパターン化して書く問題。
[8]学校を「紹介」する文章の内容を小見出しとして書く問題。
[9]文中に述べられている表現について、他の文中の言葉を抜き出す問題と、文章の要旨を四択で問う問題。

と続くのだが、ここには「国語学習の基礎・基本」はない。

 国語教育としてその分野を構成する「言語の学習」「説明文教育」「文学教育」「作文教育」の内 容はない、ということが指摘されねばならない。

 例えば、[2]と[4]については、基本的には「同音異義語」と「語意」の問題であり、その意味で は言語の学習を基礎にするものではあるが、これを学習するための言語教材はすべての教科書 には配列されていない。例えば、「同音異義語」は京都でつかわれている東書・光村・大書の三社 の中では光村だけに配列されていて他にはない。だから、この問題は「経験的に」考えるか、「感 覚的に」答えを出すしかない。そんなものは「基礎」でも何でもない。

 それは[3]にしても同じである。これなどは、例えばJリーガー等のインタビューでは、「〜だし」 「〜ので」などということばで延々と続くものが多いことや、いわゆる「JK言葉」などを耳にすること が多い子どもたちにとっては、それが間違っているという「理由」は、理解しがたいのではないか とも思えるのである。

 さらに[6]については、「表記法」として正しいものであるのかどうか、議論になるだろう。こんな書 き換えをする「教材」が国語教科書にあるのだろうか。少なくとも、表記法としては教える根拠のない ものであり、「読み上げ原稿のために」という特殊なものだと考えざるを得ない。それが、「基本」となるのだろうか。

 理解しがたいのが、問題文として「論理的文章」がほとんど姿を消したことである。 問題の[7][8][9]は、無理をすれば「読み」の問題とすることも出来なくはないが、[7]はグラフの読みというより、パターン化された記述の問題であるし、[8]は「要旨」というレベルのものではなく、「ことがら」を読めば答えられるものである。ただ、[9]は、まがりなりにも「ことがら」と「論の中心」を問うものとなっているが。

 再度言うと、この「問題A」には、「基礎・基本」はない。 つまり、漢字を除いて、どのような学習をすることでこのように問題に対応する力をつけていくのか、全くはっきりしない。これは、「国語テスト」ではなく、もはや「国語クイズ」である。


「PISA型国語力」は「国語の学力」になりうるのか

  前回と同じく「国語B」は、「活用」の問題とされる。

 そこには、これまた前回と同じく「インタビュー」「紹介」「メモ」「図書館だより」「話し合い」「案内状」「組み立て表」などの、「活動」場面が設定され、それをどう処理するか、どのように対応するか、また「PISA型読解力」を絶対化してそれに対応する「指導」=「学習」としての「情報の取り出し」「解釈」「熟考・評価」を形式的に模した問いが設定されている。

 ここには、前回の「全国一斉学力テスト」の分析を通して指摘したと同様、「ことばの力」についての見識も、国語教育についての構造と内容をおさえた教科理論もない。

 私達は、PISA調査で提起された「読解リテラシー」について、OECDが経済活動を進めるための力として、「リテラシー」としてその力を測ることを目的にとりくんでいることについては、教育活動としての視点から見ることを忘れてはならないことをおさえつつも、「読解リテラシー」は、「主体的に理解すること」と「主体的に表現すること」を内容として持っていることについては、機械的な「読解力」、論理性を追求しない受身的な読解に対して、それを克服する視点をもつものとして考えてきた。

 しかし、それはあの「読解力向上プログラム」から始まり、 「PISA型読解力」と言い換えられて、結局その形態、形式、そして訓練、技能でそれに対応しようとするものに堕落させられた。そして、それは「PISA型読解力」でなく「PISA型国語力」とも言えるものとして出てきていると考えていかねばならないのではないだろうか。


「全国一斉学力テスト」と「改訂学習指導要領・国語科」

 なぜ、この「全国一斉学力テスト」に示されたものが、「PISA型国語力」としてとらえなければならないのか、それは、この「国語部通信」25号で提起したように、改訂指導要領が、それを端的に示したものであったからである。

 そして、今回の「学力テスト」が、さらにそれを具体化し、今後のさらなる具体化の道筋を示したと考えるからである。

 前号で提起したように、改訂指導要領・国語科は、「言語活動」をもその領域内容に示し、より具体的に示すものとなった。そして、その具体的な項目がどのようなものであるのかを、この「学力テスト」で示したのである。

 改訂指導要領・国語科(小学校)では、指導のための場面や活動として、出されているものを羅列すると、
      説明・報告・応答・話し合い・紹介・観察・記録・手紙・メモ・音読・抜き書き・発表
      感想・演技・司会・提案・調査・物語作り・・詩・学級新聞・依頼状・案内状・礼状
      引用・要約・図鑑辞典利用・助言・討論・推薦・短歌・俳句・随筆・編集・朗読
      比べ読み・記事

 など じつに多くのものが提示されている。そして、それは技能・技術、処理能力としての提示である。

 注意すべきは、これらの具体的なものが、この「全国一斉学力テスト」に、数多く提示されていることではないか。

 それは、言い換えれば指導要領・国語科が、国語の学力=「国語力」を「PISA型国語力」とし、これまでの国語教育の構造と内容を大きく変えていくことを示したものではないだろうか。

 これまで、私達も、「国語の学力」について、「ことばの力」をキー・ワードとして、どのようにそれを考えていくのかについて、十分な討議をしてきたとは言えない状況にある。それは、国語教育については多くの分野があり、自主的な研究活動を進める組織も、そのどれかに重点をおき、国語教育を総合的に考えていく視点に弱さがあったのではないだろうか。もっとひらたく言えば、どのような「攻撃」や「規制」がきても、自分の問題意識のある実践はなんとかやれるだろう、これまでもやってきたという楽観的(それは、敗北主義的でもあるのだが)で情緒的なものがあり、論理的に理論と実践を考えていくことについての弱さではなかったか。


国語教育の「崩壊」をゆるさないために

 このような、いわば「国語教育の空洞化」を通り越して、「国語教育の崩壊」の状況が進むことに対して、私達はどのように抗していくことが求められるのだろうか。それは、
@国語教育の構造と内容について、きちんと提起し続けていくこと
A「国語の学力」をどうとらえ、どのように考えていくかを実践の視点から論議していくこと とともに、今後の国語教育の実践にかかわること、例えば、「移行」や「試行」などの名目のもとに、「副読本」や「資料」、「副教材」などが出されたり、とりくまれたりすること、「伝達講習」や「学習会」などで何が・どのように提起され強調されていくか、また、「教育課程」がどう作成されていくか、またさらに国語教科書の編集・教材化がどう進められていくかなどを、具体的・詳細に見ていくことである。そして、地域によっての独自なものも多いことはこれまでの例から解ることから、どのような地域で、どのような動きがあるのか等も、しっかりと集約していくことも大切だろう。

 今、私達の自主的民主的国語教育研究活動の成果をしっかりとふまえて、さまざまな意見や理論の違いを論議しつつ、総力をあげてとりくみを進めていくことではないだろうか。

 まさに、私達の主体的なとりくみと力量が試されている。

 京都教育センター教科研究会国語部会は、これからもこの視点を明確に持って活動を具体化していきたいと考えている。

                          (国語部会事務局)
 
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