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京都教育センター          2007.12.1

     
教科教育研究会・国語部会通信

         編集・発行 教科教育研究会国語部会       

              第 23 号


国語教育で、今論議をすべきことは
〜子どもたちの「ことばの力」をのばす教育として〜




京都教育センター国語部会公開研報告

  今年も国語公開研として、第4回「国語教育の危機、どうする!」集会を、11月25日(日)に開催した。町屋・古武で開かれていた民教連主催の写真展「5ぷらすOne」展の第二日目に並行してとりくんだ。

  日程や内容の決定、情宣などに時間的な余裕がなかったこともあって、参加者は、13名と少なかったが、さまざまな状況が重なり合う中で、「今、国語教育として何を論議しなければならないか」というテーマには、かなり迫ることができたものであったと言える。

 以下、その「提起」と「発言」、そして論議の概略の報告である。


何が提起されたか

 この集会は、これまで、言語教育・文学教育・作文教育の三分野について、その問題点・課題と実践の方向性をそれぞれ提起することが中心であったが、今年は、「全国一斉学力テスト」「改訂指導要領」、そして新教科書の編集が進められているという状況の中で、私たちにとって何を深めねばならないかを追求しようということを中心テーマで取り組んだ。そして、その中心提起を、三重大の橋本博孝氏に依頼した。  会は、野中一也センター代表(国語部会代表)のあいさつから始まった。

 橋本氏は、まず最初に奈良教育大附属小学校の子どもたちの作文で、子どもたちがどのような状況にあるのかを示し、あの「全国学力テスト」が残したものは、まず、ベネッセの評価が高くなったことであり、「序列化競争」への意識の高まりと圧力の強化であったと指摘した。そして、「全国学力テスト」の問題に示されたように、「PISA型読解力」「読解リテラシー」が強く提起されているが、その内容とそれが集約されるものをもっと見ていくことが必要であり、無批判に受け止めるべきではないと指摘された。また、その具体化として、文学教育においても「情報のとりだし」「解釈」「熟考・評価」が指導過程とされることまで起こっていることを示された。そして、このような状況の中で、次期改訂指導要領・国語科が、従来の二領域一事項に加えて、「言語文化と国語の特質に関する事項」が出てくること、それが国家主義的な流れの具体化だと指摘された。

 続いて得丸浩一氏は、「中教審審議のまとめ」を分析し、「改訂指導要領・国語科」の骨子として示されたものを具体的に挙げながら、「能力」が実生活での活用をめざし、「態度」が「我が国の言語文化を享受し継承・発展させる」ものとして組み立てられていることを提起した。

 これまでセンター国語部会で機会あるごとに検討し、分析し、提起してきた、文化審議会、教育課程部会、中教審などの審議過程や中間報告、まとめ等の経過から、それらが大きな流れとして現れてきていることを指摘した。

 さらに国語部会事務局の浅尾紘也は、「全国学力テスト」の国語(小)問題の「結果」を分析し、そこに見える問題点の最大のものが、国語教育の構造からみると非常にアンバランスなものであること、そしてそれが指導要領・国語科、さらには新教科書教材として具体化されていくという方向性をしっかりおさえること、それをおさえての実践が提起されねばならないのではないか、と提起した。(その内容の詳細は、国語部会通信・20号21号を参照)

 このように、国語教育をめぐる状況は、かなり根深く大きな問題を抱えていることが共通認識されていった。


論議の中で

 そのなかで、とくに論議を深め、実践的に検討しなければならないこととして、次の点が論点となっていった。

@ 「全国学力テスト」の内容としても具体的な提示があった文科省が言う「PISA型読解力」なるものをどのようにとらえていくか。さらに、OECD調査の「読解リテラシー」についてはどう考えていくのか。
A 国語指導がめざす「能力」として提示されているものが、国語教育としてどのように問題となると考えていくのか。
B 言葉として提起はされていたものの、具体的にはつかめなかった「国家主義的」な内容、教材が次第に明らかになってきていることをどう考えていくか。
C さらに、その方法論として広がってきている「音読」「暗唱」など、また現在技術的なものだけに偏って取り込まれている「アニマシオン」などの方法論をどう考えていくのか。
D 私たちが考える国語教育の構造と内容をどう提起していくのか。

 これらの点についての論議は、この集会の論議としても少し進められた。

 まず、「PISA型読解力」については、それが「全国学力テスト」のB問題として具体化されていることでも解るように、本来の「読解リテラシー」とは似て非なるものであることが多く指摘された。これをテーマとして11月に開催された京都はぐるま研究会秋季研(福知山)での討議でも、かなり明らかにされたことが京都はぐるま研事務局長の審良氏からも発言された。

 しかしながら、OECDの調査のめざしている「読解リテラシー」にしても、経済活動を進めるための能力としてのものであり、そのまま国語教育のめざすものとして考えていいのかどうかについては、異論も出された。ただ、そこでのキー・ワードとなっている「主体性」については、単に受動的な「読み書き能力」ということではなく、それを主体的に使う姿勢を基としていることについての評価をしていくことの積極評価も出されている。

 また、「全国学力テスト」に出てきている「活用」問題が、きわめて技能的技術的なものであり、それを「能力」としていることについての検討はしっかり取り組まねばならないのではないかということが論議された。

 さらに、改訂指導要領・国語科に「言語文化」という事項が付け加わったことについて、これまでもそれが「言語技術」「言語生活」「言語文化」の領域構成になるのではないか、ということも指摘されたことがあったが、そのような方向性をもっての改訂であることをおさえての具体的な分析・検討を進めていくことが大切であることが出された。

 またさらに、「国家主義的」な方向性を色濃く持つ「古典・古文」の重視、「音読・暗唱」の重視がどのように具体化されるのかの検討が早急に進められねばならないことが出された。

  また、あの「新学力観」や「生きる力」という語が何を意味し、どうしていくことをめざしていくのかをつかみかねていたのが、教科書が大きく変わり、それによって技術主義活動主義教材が多くを占めるようになったことを思い返せば、現時点での状況がかなり大きな問題と課題を持つものであることも、意見として出された。

 総論的には、「生きる力」という語は引き継がれ、「学力」をどうとらえるか、それを伸ばすことをめざした実践をどう進めるかなどは、またもや曖昧にされ、漠としたものとして、明確にとらえることのできないものとなっている。この基本的な論議も深めねばならないことではないだろうか。

 こうした論議を通して、この研究会でめざした、これからさらに論議していかねばならないこと、具体的に、12月のセンター冬季研の国語分科会が何をテーマとしていかねばならないかがかなりはっきりしてきたと言える。

  しかしながら、論議の中では、「このような『空中戦』(理論的な論議?)は意味がない」「よく解からない」という意見も出された。しかし、「空中戦」でなく「地上戦」(具体実践?)ばかりでは攻撃・狙撃はますます厳しくなり、「もう、やめたい」という教師がさらに増えてしまうということにならないだろうか。時間はかかっても、難しく学ばなければならないことが多くなっても、もっと、確信の持てる方向性をみんなで創っていくことが大切ではないだろうか。

 また、「『学力』『学力』などと騒ぎ立てることは、結局は塾通いの子どもを増やすだけではないか」という意見も出た。しかし、その論議なしでは、「生きる力」「読解力」「国語力」などという曖昧模糊とした言葉が独り歩きすることで、もっと子どもたちを追いつめていくこととなり、出口のない序列と競争がさらに進むのではないだろうか。


これからの私たちのとりくみは

  これからさらに、改訂指導要領・国語科がはっきり出されていくこととなる。そして、それに拠って国語教科書の編集が進み、この論議を通して明らかになったものが、さらに具体的なものになっていくのは想像に難くない。

  その意味では、問題のひとつひとつはまだまだ論議しなければならないことばかりだが、それをめざしての論議としては、充実したものであったと考える。

 私たちは、それに対して、教師個人がなんとかやっているというものではなく、さまざまな意見を出し合ってより確かなものを創り上げることをめざしたいと考えている。これからも、問題意識をもつ多くの方々の参加と、そこでの論議を期待している。

 (センター国語部会事務局)

  
 
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