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京都教育センター          2007.10.31

     
教科教育研究会・国語部会通信

         編集・発行 教科教育研究会国語部会       

              第 21 号


全国学力テスト」を考える U
        〜「結果」として、何が問題になるか〜



  前号で、この全国学力テストの「結果」(小・国)をどう分析・検討しなければならないかを項目としてあげた。今号では、それを基にして具体的な分析・検討を進めていきたい。

この「内容」で、「国語の力」は適正に測ることができるのか

 前号の二つの表を見て、これだけ国語教育としての内容と構造がアンバランスであり、妥当性を欠くものが正しく「国語の力」を測るものであるとは言えないことを指摘した。まず、これが分析検討の大前提となる。そのことへの批判的視点なしに、決して「結果」を云々することはできない。


@「言語」の問題は、ほんとうに「よくできた」と言えるのか

 この「結果」が発表されたときの新聞各紙、メディアの反応は、「『知識』は定着、『応用』が不十分」というものであった。しかし、「知識」とされているものの分析検討をしたものは全くなかった。

 たしかに、この「言語」についての問題の正答率は高い。しかし、国語教育としての検討には、その内容の吟味が必要である。

 言語の学習の体系は、「文字・表記」(かな・漢字・表記法など)「語彙」「文法」(品詞・構文)である。出題された問題では、漢字問題が7問、品詞問題が5問、そして構文問題が2問である。語彙の問題は0である。そして、品詞として「接続語」「指示語」の問題が出されているが、じつは指導要領・国語科の「言語事項」には、この二つしか具体的に提示されておらず、教科書には、これ以外の品詞教材は、ほとんど配列されていない。そして、構文問題は、「複合文」と「常体敬体」の問題であるが、「複合文」は「言語事項」には提示されていない。そして当然のことであるが教科書教材の発列はほとんどない。ということをおさえると、二つの品詞問題の正答率が、88.6〜99.1で5問中4問までが90以上という高いものであること、しかし構文問題は複合文問題が57.9という低正答率であることが理解でき、また、学習していないものは、いかに活動の場面では感覚的に使っていてもしっかりと身につかないものであることが解る。

 とすると、ここでの問題点は、これらの正答率ではなく、語彙・文法とも、あまりにも学習していないものが多く、教科書教材として配列されていないものが多いこと、いや、指導要領・国語科にも、国語教科書にも、言語についての学習に必要な体系・系統のなさではないだろうか。この視点なしに、よくできていた、よかったよかったとするのは、まったく本質を見ていないものだと言える。

 付け加えておくと、これから分析していく、論理的な文章の読みの力は、この言語の学習を基礎としている。だから、この問題点は、言語の学習だけのものでなく、国語の力全体のものであるということも指摘しておきたい。


A文学教育・作文教育でつける力は何も測れていない

 文学教育についての設問が1問のみ、作文教育は4問であることは、前号で示したとおりであるが、これでは、その学習でついた力は正しく測られるとは考えられない。

 問題は、なぜこのような設問となるのかであるが、その大きなものに、指導要領・国語科の言語観がある。文学教育について言えば、「読む」という領域に、論理的な文章も文学もひとくくりにされていて、区別されていない。ここに本質的な問題がある。

 説明文教材などの文章は、論理的な文章である。対して、文学教材は、もちろん文学的文章である。そして、論理的な文章は、「論理」として読むが、文学的な文章は、「形象」として読む。この読みの違いを単に「読む」として混同することは、それぞれの力をつけていくことに大きな障害となる。

 このテストの文学教育の問題では、作品の一節だけを取りだしたものではあるが、登場人物の心理をどう読んだかが問われている。正答率としては平均的なものだと思われるが、この1問でそれは断定すべきものではない。そして、付け加えるならば、この63.3という正答率は、「読書」が半強制的に朝学習や図書指導、冊数コンクールなどという形態でも取り組まれている状況から考えると、決して高いものではない。それは、現行指導要領・国語科が出される時に「伝達」された、「詳細な読みに偏る文学の指導に問題がある」とする「見解」がおろされたこと、そしてその後、「読む」ことよりも「活動」やゲームまがいの方法論ばかりが横行していることが、いかに本質的な誤りをもつものであったかの反省こそが必要だと思われる。  作文教育の問題については、あまりに技術的、それも断片的な問題であること、つまり「書く」ということをどのように考えているのかが問われるものとなっていると思われる。

 教科書教材では、子どもたちが自分の生活や体験、感動や想いを表現することができる教材が極端に少なくなっている。中・高学年ではほとんどないといっていい。そして、技術的技能的な学習が目立つ。本来、技術・技能は、表現することがあり、それを主体的にとりくむ中で身につく。それを切り離してそれだけを部分的に取り出して学習することではなかなか力として伸びていかない、それを証明したかのような結果であるのではないか。

 この中で、Bの2の三の「意見を書く」が他の問題の正答率が50台であるのに対し、75.4というものであることが目を引く。これが、どの範囲を正答としたのかは解らないが、主体的に書くことについはそれなりの姿勢をもっていることも感じられ、それを基礎とする実践の大切さを感じる。現行指導要領・国語科が出されたときに「伝達」された、「生活を書くことでは『書く力』は伸びない」とする「見解」がいかに間違っていたかを反省すべきである。


B「読解力」は体系的系統的に設問され、測れているのか

 このテストが実施される背景となった説明文教育でつけていく力、「読解力」を測るものとしての設問が最も多いのだが、この分野の正答率は、やはり大きな問題をもつものとなった。

 ただ、Aの2問は、80超の正答率である。問題文が比較的短く、8の一の順序を読むこと、9の一の要点もことがらの読みをふまえて要点を読みとることとなるので、それほど難解ではない。

 しかし、Bの5問は、正答率が40台後半から60台前半と、大きく落ちこむ。これを、「知識」(基礎)は力がついているが、「応用」は弱い、としていいのだろうか。 詳細に見ると、1の一は、問題設定は「話す・聞く」の「聞き、内容を整理する」となっているが、これは当然「読んで、内容をまとめる」こととなる。そして、三つのうち提示されている二つの他のひとつを読みとるのだが、会話文で書かれているだけに複雑である。2の一は、文章とグラフを両方読み、答えることとなる。ただ、表が地域別になっていることの理解が不十分ならば、3位を2位としてしまうということとなる。しかし、表を正しく読まねばならない必然性のある学習での正答率が同じものとなるのだろうか。これを単に読みの応用としていいのだろうか。さらに、2の二は、理由を示す文二つの書き出しであるが、一つしか正解できなかったのが40.3となっているという。正答の45.7と合わせると、86になるのは、これが問題文として最長のものであることや時間的な条件、テストの実施方法なども吟味が必要であると思われる。2の三の(1)も、「一つ目」と同じ書き方でという条件をつけての、書かれている複数のことがらの読みを、新聞の記事という形式を意識してまとめての答えが求められている。その複雑さが、かなり難解なものと感じられる。またさらに、4の一では、スーパーのチラシの内容をチェックし、どれが書かれていないか、間違っているか、書かれているかを判断し、表示からそれを変形した正解を出すゲーム的なものである。基本的には、ことがらの読みとりとなるが、子どもたちには、国語の問題としてはあまりに変わったものであることが戸惑いを感じたことが想像に難くない。


 このように見てくると、いかにB問題がA問題との質的差違をもつものかが明らかになる。つまり、基本からの連続的な難度ではなく、突発的とも言えるものになっている問題があること、生活場面・言語活動場面からの出題に拘りすぎて、問題の適正を欠くようなものになっている問題があること等、そのことが正答率を下げているという分析もできるのではないか。このような状況では、このテストの妥当性そのものに疑問があると言えるのではないだろうか。そして、本当に「国語の力」を測ることができると言えるのだろうか。


このテストは、「PISA型読解力」をめざしたものなのか

 文科省は、設問を生活場面・活動場面からすることが、「PISA型読解力」、あるいは「リテラシー」としての問題であると考えているようである。しかし、それは本質的に間違っている。リテラシーとは、学習の中で身につけた読み書きなどの力を主体的に使える力である。

 ここで最も大切なのは、主体的に理解し、表現する力であり、キー・ワードは「主体性」であると言っていい。

 たしかに、Bの3等は、例のPISA調査の「落書き」問題のように、二つのテキストを読むこととなっている。しかし、この問題は二つの感想の共通点を読むにとどまり、落書きについての自分の意見を求められることとは質的に違っている。形式的に類似しているが、本質的には自分の主体的な意見をもつことに集約されるものではない。やはり受動的なのである。

 これだけでなく、「会議」「新聞」「感想文」「宣伝チラシ」など、その形態が生活場面・活動場面であることだけで、「応用」、さらに「リテラシー」の問題とは言えない。

 教育研究者の中でも、今回の「全国学力テスト」で、文科省は国語科の方向を「読解リテラシー」へ舵を切ったと評する方もあるようだが、国語教育の構造と内容を歪曲し、この活動場面や活動方法ばかりにこだわることは、「伝え合う力」論から、すでに現場を覆うものとなっている。その延長上にこの「全国学力テスト」の内容と形式はあると思われる。言い換えれば、そのような国語科指導は子どもたちの「国語の力」を決して伸ばすものではないことが明らかになったと言えるのではないか。

  端的に言うと、「ことばの力」を確かに育て、伸ばすことなく、言語技術・技能ばかりを訓練しても、本質的な国語の力はつかない。この「全国学力テスト」は、それを明白にしたのではないだろうか。


言語観の検証と国語教育の課題

 このような分析・検討をふまえて、私たちが今、提起しなければならないことは何か。それは、言語の本質である「内言」と「外言」をふまえること、すなわち、外言の働きばかりに偏り、言語活動をすることで技術・技能がつくとし、活動場面を増やすだけの国語科指導の現状を本質的に変革し、「ことばの力」を伸ばすことで人間的な成長をめざす国語教育の構造と内容を確立するための提起をしっかりしていくことである。

 国語教育の構造を私たちは、言語の学習と説明文教育としてとりくむ言語教育、ことば・表現を形象として読み、豊かな文学体験を進める文学教育、生活に根ざして、体験・感動・主張を自己表現していくことをめざす作文教育の三分野を基本としてとらえている。それぞれの分野で、「論理としてのことばの力」「形象としてのことばの力」「生活としてのことばの力」を中心に伸ばすことで、「ことばの力」「国語の力」を確かにつけていく国語教育こそ、私たちのめざす国語教育である。

 現在、改訂指導要領・国語科が提示されようとしている。また、それをもととして新国語教科書の編集が進められている。そのなかで、どのような項目が示され、どのような教材が編成されるのか、相変わらず不安定に揺れる論議を見守らねばならない。そして、国語教育としての本質をおさえることを提起し続けなければならない。しかし、漏れてくるその経過は、これまた相変わらず、質的な(本質的な)論議を抜きにしての、量的な(授業数などの)増加をどうするか等という論議ばかりである。

 今、しなければならないのは、言語観そのものをふくめての本質的な論議であることを主張し続けなければならないのではないだろうか。

 
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